我の限界が底をついた時、主を見よ

詩篇73篇は神が正しい人に祝福されて悪者を審判するという旧約の明瞭な思想を見せてくれる。誰もが解りやすいことだが問題は目の前の現実はそうではないことにある。

神に近くにあることが幸いである。

華麗な世間のすべては私にぴったりと合う。でも聖なるというのは無理に合わせようとしても合わないし、言葉自体がすでに負担になる。‘神に近くにある’のが良いのは知ってるけど代価を払うのが怖くて避けたいのが私たちの現実である。

お寺に行ったら心が安らぎます.

お寺に行った時に心が安らぐあなたの気分のために仏教を選びましたね。‘感じ’。それにあなたの運命を任してもよろしいですか?‘感じ’それは信じても丈夫なものですか?

神の栄光を拝見する唯一な道

ダマスコに行く道で復活されたイエスに出会ってから倒れたパウロが叫んだ。
“信心の秘められた眞理は確かに偉大です。”(テモテへの手紙一3:16)

存在的な罪人の最後の絶望

“ わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。”(ローマの信徒への手紙7:24)

ぶどうの木である主につながっているだけで。。。

“わたしはまことのぶどうの 木、わたしの父は農夫である。。。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに實を結ぶ。。。

人を変化させる唯一の道

結局、世間を変えようとしたら人を変化させなければならない。人を変化させる道があるだろうか?!存在的にアダムの呪いを受けた罪人を変える唯一な道は生きておられる神の御言葉にある。他の道はない。

理解できない神をどうやって信じますか?

誰もが嬉しい知らせ、即ち、福音を聞くことを望んでいる。福音を渇望する魂のために多様な信仰の告白をからし種宣教会で製作された伝道誌で書き抜き、紹介する。<編集者> ある老人が湖で釣りをしていました。ところがじっとしてみたらこの老人は魚を釣っては大きいのは湖に逃がして小さいのだけとって器に入れるのでした。 見ていた人がそれを不思議思って聞いたら、老人は当然らしく答えました。“うちのフライパンは大きさが20㎝しかないから”。この老人の基準は20㎝です。それより大きかったら魚を入れないという結論のためにどんな料理方法も役に立たないのです。 これがこの老人だけの話でしょうか?あなたが持っている20㎝のフライパンのために今まで神に会えなかったことを解りますか?あなたの経験や知識で神が理解できないことは当たり前です。その方は神であって、当然、あなたの20㎝のフライパンに入れない方です。“もしかして25㎝、30㎝のフライパンに変えたらその方を入れるのではないか?”と思わないでください。あなたのどんな努力でも神を入れることはできません。 ところが、その方を知る一つの方法があります。今すぐ‛あなた‘という自我と考えの枠であるあなたのフライパンを壊すことです。そして神の御胸に走って行くのです。 では、問題はあなたの力ではフライパンを壊せないことです。あまりにも硬いこともありますが、必ず必要な物みたいで壊したくないのも事実です。ですからあなたはイエスにあなたのフライパンを持って行って差し上げて自ら壊すこともできないし、素直に壊したくもなかったと告白するのです。そしたらそのプライパンをイエスが壊してくださいます。 じゃ、神の御胸に走って行けます。そして、神の心臓を感じてください。その方がこの世をそして、あなたをどんなに愛しておられるかに悟ったら神とのお付き合いが始まります。[福音祈祷新聞]

“危機は御言葉に命をかけない人がいない現実である”

全知全能であり、栄光に輝く神の御言葉は神の人を完全にさせて、神のすべての良い事を行う能力を整えられるのに完全であり、十分である。(テモテへの第二の手紙 3:15~16) 神をなくされた人生が成功的で後悔のない生を生きるために命綱のように握る指針として下さった律法の核心は単純で申し分なく確実である。(申6:4~9) 真理が生になるように 有一なエホバ神を心を尽くして、精神を尽くして愛することと命じられた。この命令は神を愛する人が取るべきの順従の基準である。まず、御言葉を心に刻みなさいと言われた。心に実際になるように命をかけて順従しなさいという意味なのだ。そして、一番愛する子供に手まめに教えようと命じられた。これが、親が子供に与えられる一番良いもの、親の役割の核心であろ。 “家に座っているときも”神の御言葉は家庭生活の完全な指針である。神の御言葉はただ礼拝の時だけ必要なのではなくて、正しい親の役割、子供の役割のために必要なすべてに秩序と原理が全部御言葉の中に入っているのだ。“道を歩く時も”だけではなく神の御言葉は社会生活の原理になるのだ。神の民は‘寝ている時も起きている時も’(申命記6:7)生のすべての瞬間になまかじりに習った罪人の知識と思想と価値観とシステムではなく、御言葉によって神の民らしく生きて行くべきである。世間は奪って、踏みにじって、征服しろって言うのではないか?!しかし、神の御言葉は仕えて、低くなって、あげる事が価値があるというのではないか?このように神の御言葉に従って神の民らしく生きる者は、たとえ地を踏んで生きているけど天に属した者であるのだ。 “これをしるしとして自分の手に結び、覺えとして額に付けて”神の民の知識と行動、人格と人生と使役は“御言葉通り”であるべきだ。聖書の思想と原理が生き方と使役ににじみ出なければならない。世間の人々になれた人格とは違わなければならない。“ あなたの家の戶口の柱にも門にも書き記しなさい。”イエスを信じる家庭は誰が見ても解るように神の御言葉の原理で武装して、徹底的に教えるべきであるのだ。 この地の知識と方法と哲学に従って生きるのに若干の助けになるように聖書の知識を押し詰めることを言うのではない。一週間に一回聞いた説教で満足をして、生き方は自由にして賢く生きろということではより違う。神の民、神の子供であれば神の御言葉がその人格と人生になるように教える事を言うのだ。 今は世間は面と向かって神を逆らっている。末期的な症状を見せるこの危機の時に、一時改革された教会までまた人本主義、世俗主義、知性主義、多元主義などの世間の風潮に膝を折っている。発達された印刷術のお陰で聖書は沢山持っているが、心から御言葉を奪われてしまった。その心に神の御言葉が刻んである人、御言葉に命をかける人すらいなかったら、それこそ真の危機ではないだろうか。<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。 LOGミッション代表)

一度しかない人生、後悔なく生きる有一な道

完全な創造主である神が人に御言葉を下さった!神の御言葉は人間の虚しい論説とは違う。天下のどんなプレゼントにも比べられないほど素晴らしくて衝撃的なことである。‘御言葉で’見える世界を創造された神は、存在と人の人生の一番中心を占めている、見えない人の魂まで新しくさせるのだ! イスラエル民族は見える世界が全部であると知って、生きて、滅びた。谷に満ちてある枯れた骨のようにとりこになったイスラエル、その中から召された預言者エぜキエル、彼にエホバ神の完璧な御言葉が臨んだ。“人の子よ、これらの骨は生き返る事ができるか?”(エぜキエル37:3) 魂を生き返らせ 華麗な聖殿と礼拝の形式は整えているが、ひねこびた乾いた死体のように、腐って捻くれた魂で生きて滅びたイスラエル。生命力と言うのはまったくなかった、枯れた骨のようなイスラエルが生き返る有一な道はただ一つ、エホバ神の御言葉を聞く事だけだった。エぜキエルが神に命じられたように預言したら、なんと枯れた骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。そして生気が入ったら聖なる軍隊になった。これが神の御言葉の能力であるのだ! 悪口とか世間の呪いは解るけど、生きておられる神の真理は一言も解らない人の魂を生き返る道は唯一つ神の御言葉しかないのだ。世の中のどんな知識でも、哲学でもできない。“はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 ”(ヨハネの福音書5:24) ただ神の御言葉だけが死んだ魂を生き返らせるのだ。 いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができない。(テモテへの手紙二 3:7)。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない。 (ヨブ記28:13)。エホバの証拠は確実であって愚鈍な人を真理の認識に導く。真理にとらわれた人より賢明な人はいない。すごく華麗な聖殿は持っているが、めちゃくちゃになってしまった中世時代、あまりにも確実で、明瞭であって、強力であった御言葉に捕らわれた一人の人、ツウィングリ(Zwingli)を通じて神は宗教改革を引き起こされた。 エホバの教えは正しくて心を喜ばせる。人の心ほど悪に染まっていて腐敗しているのはない。誰も人の心を知ることはできない。しかし神の御言葉は人の心を正確に診察されて、手術されて、回復される(ヘブライ人への手紙4:12~13)。神の御言葉の前では隠しきれないのだ。だから人の心を喜ばせるのだ。 わきまえのない者を賢くする エホバの戒めは純潔で目を明るくする。目が混濁したらまともに見る事ができない。複雑な心は神の御言葉の光の前に立てられない。自己の欲に染みられた心は、言い訳をして、装っても光になっている御言葉の前で曝け出されるのだ。エホバの戒めは自己の欲を剥ぎ取って、事理をわきまえさせる。 エホバを畏れる道は清潔で永遠に到る。決して変わらない真理であるから永遠に到るのだ。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。 (イザヤ書40:8) まだ、エホバの法は真実であるからひたすら義である。 知識を追求する時代、どこに行けばいいのか、どう生きればいいのか?!こんな混沌な世間の真ん中で、一度しかない人生、後悔なく生きていく道は一つ、神の御言葉だけなのだ!<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOG ミッション代表)

創造主である神の完璧さを見上げよう

私たちが住んでいる地球は、神が創造された宇宙の中でも一番特別である。傲慢な知性を持っている人間は創造主の存在を否認しようとして身もだえしてわめきをちらしている。創造主である神を排するために‘地球は偶然にできた’とためらわずに言って、これを証明するために宇宙を探りながら苦労しているが、地球と同じ星はどこにもないのだ。 宇宙のどこの星にも地球の空のような大気圏は存在しない。生命を産んで、時によって生命を花咲かす生きている地はどこの星にも見つけられない。海はどんなに神秘であるのか!球のような地球の2/3を海水で覆ってあるがこぼれずにあって、境を越えない。 昼と夜が交差して、春夏秋冬の四つの時がすばらしく循環している。また、季節によってすべての生態系が反応されて、季節の独特な特性が秩序と調和を成り立っている。詩篇の記者はこの美しい創造の神秘をこのように歌った。 “天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくてもその響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。 (詩篇19:1-4) 美しい創造の神秘 創造された時から今まで、一度決められたままに、昼と夜は一定して交差していて、季節は間違いなく循環している。一度決められたその秩序は、どこにもマニュアル一つ、言葉一つ聞こえない。伝ってくれる人も居ない。それにもかかわらず、日は日に伝ってくれる御言葉、夜が夜に知らせてくれる知識が地に通じる。宇宙万物が一寸の誤差もなく、神の創造方式と秩序に脱しない。本当に不思議な創造の摂理であり、賛美をしなくてはならないのだ! 太陽はその中に光と生気を持ったまま初夜の部屋から出る新郎のように、道を喜んで走り出した壮士のように、創造された以来そのエネルギーが少しも劣ってないまま、天の端から端まで運行している。それだけではなく、創造された太陽をどんなに正確な位置に置かれたか知っているのか?太陽が地球から少しでも遠くなったり、近くなっても私たちは生存できないのだ。 こんなに不思議な創造の御恵みを受けられた私たちは本当に特別な存在なことに間違いない。じれったい混沌のなかで、絶望しながら気の毒がっているのか?目を上げて天地を造られた創造主である神の完璧さを見上げよう!愛おしい新婦を迎えた新郎のように溢れる喜びと満足でご自分の新婦を愛で面倒見るイエスキリストは完璧な創造主であり、救い主であるのだ!<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師. LOGミッション代表)

危機の時、創造主、神を崇めよ!

神の栄光、神の御言葉(1) 世間を見て、この世の中に生きている人を見ていたらどこにも希望が見えない。世間は悪が意のようにうまく行って不意が憚って、騒がしくてめちゃくちゃである。人を見たら手で空を覆うように‘目に見えなきゃ神も居ない’といい、空に向かってつばを吐くような事も障りなくする。根本を否定して、真理をからかう。こんな事を躊躇しない人間の不正と腐敗、乱暴、嘘と淫乱、反人倫的犯罪、同性愛、教会の堕落など。今までの時間の中でこの中の何一つも避ける事ができなかった。このすべての世事は飽きるほど見て、聞いて、ため息をするしかない歴史的な実際であった。 しかし、世の中に居る自分を見たらより小さく、無力で、重たい荷物を抱えているように疲れている。巨大な挑戦の前に立って果てしない気持ちを消せられない。ひとりむしのように騒がしい世間に巻かれないで、気を失って人の家の火事見物をしているように呆然として、するべき事も忘れて立っていてはいけない。少なくても神の民らしく、聖徒らしく気を引き締めて私たちがするべきのことを見つけなければならないのだ。 じゃ、世間と自分に留まっている視線を回して、目を上げて空を見上げるべきである。“目を上げて私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか”(詩篇121:1) 息が詰まるほどの危機と難しい状況に置かれた詩篇記者が事件に溺れずに、状況に押されずに、自分の魂を呼び起こしながら話す言葉である。彼が叫ぶ。“私の助けは来る、天地を造られた主のもとから”(詩篇121:2) この地で起きているすべての事が神の主権の下にあると叫ぶ信仰の宣言なのだ。 “目を上げ、誰が天の万像を創造したかを見よ”(イザヤ書40:26)事件に巻き込まれていたら状況を分析する余裕と広い視野を持つことができない。だから‘目を上げ’と言われる。分別できずに、あきれるほどの絶望の前にいるご自分の民に向かって状況分析を要求せずに、むしろ‘目を上げ、誰が天の万像を創造したかを見よ’と言われる。 “それらを 數えて引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の强さ、激しい勢いから逃れうるものはない。”(イザヤ40:26b)神の目に覆われた事件は一つもない。 “ヤコブよ、 なぜ 言うのか 。イスラエルよ、なぜ 斷言するのか。わたしの 道は主に隱されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。”(イザヤ40:27) いくらちいさい人の事情であっても生きておられる主は覚えられて、立ちいれられて、助けられる。 私たちは極めて制限的で部分的なことだけを知っている。だから正しく知るためには‘目を上げて’天の万像を創造された神を見上げる事から始まるべきのであるのだ。 <続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表)

今すぐ主を求めよう!

契約更新(6) 最後に世間に勝つのは信仰である。私たちが頑張って努力する瞬間は失敗するしかないが、自分が無能であると結論を出して、自分に希望がない事実に直面する瞬間に初めて主を心から呼ぶ事になるのだ。私たちの存在自体が揺れる状況の中でも自分を見ないでひたすら主の内に居られる平和を信仰で捕まるのだ。主が行けといわれたら行って、止まれと言われたら止まって、大丈夫と言われたら私たちの状況と関係なく大丈夫であるのだ。 目を上げて最後まで主を仰ぎ見よう。信仰の有一な根拠は私たちにインマヌエルになってくださったイエスキリストである。その主を仰ぎ見るこそ平和と勝利と栄光がある。純粋にイエスキリストを取ろう!福音を取ろう!そして単純な順従を主にささげよう!神は私たちのすべての領域について語ってくださって、同時にすべてを主管する方である。このように主を仰ぎ見る人、お召しについていく人を通じて世間は変化する。 そして神の前で余地なく、思い残すことなく順従しよう。主に順従すること以外の何かをしようとするな。主が‘しろ’と言われたら主が‘私を通じて’なさる事を信じて信仰で進んで行く。これから私たちの弱さをもっと経験するだろう。しかし、そんな弱さを何回も経験してからこそ、自分の可能性がないことを受け止めて。絶対信仰のところに進んでいく事になる。 “今まで生きてきたのは、主の大きい御恵みのためである”時間の経過につれて経験が多くなるほど正しい道に行った理由はひたすら主の御恵みだと言う言葉しか残らないだろう。私たちが計画した人生という道の中でほんの小さい問題も解決できない私たちを見たらすべては結局主の御恵みのためではないか。‘主が捕まってくださるのだろう’と言う漠然とした信仰すら真実な主の御恵みはこのすべての事を成し遂げられた。やはりエベンエセル、インマヌエルの主であるのだ。 だから恐れたり、怖がらない。心配したり、悩んだりしない。主が永遠に私たちと共に居られる。私は主を忘れる時があるが、主は決して私を忘れない。福音に会う可能性が0%である人生で主に会った奇跡が起きたとしたら、これからは人生のすべての瞬間ごとに主の奇跡を経験する事になるだろう。 私たちの人生はひたすら主の御恵みのために生きるこそ意味がある。必ずこの福音が私たちを勝利させる。自分の自己の誘惑と病んだ自己に対する視線だけを引き取ろう。信仰で順従して、御言葉に順従してみよう。主の内で一つになった連合軍がこの歩みを歩んでいくべきである。 しかし絶対忘れてはいけない事がある。信仰の生活は一人でやっていくのではない。一つの身に召された者が天の価値で主の国がこの地に臨むことを共に信仰の目で見上げるのだ。‘私を食べてあなたは生きろ’と言う信仰で生きる者が今の時代にもいる事を私たちを通じて現して見よう。イエスの生命で完全に順従して自分を捧げるこの生き方を見たら主はどんなに喜ばれるだろう。 条件のない連合と仕えで、ただ自分に狂って生きる世間の価値に勝って、時には弱くて間違えた選択をした事も全能な神が善に成し遂げられる事を再び信仰で掴もう。 今結論を出そう!私たちが失敗する理由は何だろう。自分から可能性を探すためなのだ。もともと絶望しかできない者に何の希望を探すのだろう。もともと可能性がなく、資格もない者が自分でないのか。だから今すぐ!主を求めよう!<終わり> キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師. LOGミッション代表)

福音のために許された敗者復活戦

契約更新 (5) 主は神の国を建たせるために主の御体になる有機的共同体である教会を許してくださった。特に、初代教会は、ダビデに神が共に居られてますます栄えたように神の純潔な軍隊のようだった。建物とか神学校、偉い組織もなくて世間に噛まれても、逃げられた場所ごとに福音が伝えられて、異邦人が主に帰って来た。世間の観点から見れば完全に滅びたように見えるが建物、資金、組織など何にも縛られてない初代教会の生命はどこにも染みて主の生気で充満させた。 信仰で享受できる救いの勝利。 主は’ひとえに信仰‘と言う真理を行為救いと権力、建物の殻に包まれたカトリックの中にいたルーサーを通じて再発見させられた。また、主は、私たちにも同じ原理を使用されてひとえに信仰、絶対信仰のところに導いてくださるのだろう。きっと、私たちの時代にその日の栄光を見せてくださるんだろう! その栄光である福音を知りながらも問題と、悩みの前で活気をなくした、まるで、水に溺れていくべテロの姿が私たちにも現れている。福音を知っているが今なおこのように反応する私たちの姿は変な事だろう。しかし、御恵みの福音のために私たちには敗者復活戦がゆるされるのだ。昨日の失敗、数多い倒れにも必ず勝利する人生に私たちを導いてくださるのだ。徹底的に主の主権と能力で私たちを招待してくださった。 その主を絶対信頼する信仰でないと何も享受できないのだ。 真理の前にさらけ出された結論をつかんで主に出て行くのだ。しかし気の毒に救いは御恵みで受けるのを知りながら、受けた救いを享受する勝利の生活は御恵みで享受できることを見落として戦々恐々としたりする。自分の最善を尽くす所に戻る人々がどんなに多いのだろうか。救われるのは自分の最善、熱心、血統、良い行いなど何ににしても不可能な事である。 完全な神の御恵みだけで救われるように、イエスが神の子である事を信じるものではないと勝利する者はいない(ヨハネの第一の手紙5:4~5)絶対信仰を持って、ひとえに御恵みで受けた真理を通じて生きて行くすべての事に対してひたすら信仰で勝利を享受できることなのだ。 勝てるしかないイエスの生命 ‘世に打ち勝つ!‘と言う事は信仰のために世に打ち勝つと言う意味である。これが神の御心であるからだ。 ヨハネの黙示録に登場された教会は各々危機に預かっていた。恵みの時代である今もサタンは絶えなく教会を攻撃している。教会は世間の影響を受けるしかない。エフェソ教会のように真理を守っているが愛をなくしたり、ある瞬間怠惰になったラオディギア教会の姿が現れたりする。 サタンの権座の下で揺れて、淫乱に落ちこぼれたり、イゼベルの攻撃と挑戦に立っている当時の教会と今の教会達に主はこう言われている。“勝利を得る者には!!” 私たちが当面しているすべての脅威と挑戦を主も存じて居られる。しかし、弱いために負けるとは言われていない。イエスキリストの勝てるしかない生命を下さったからだ。私たちの力で勝てるのではないのだ。“私イエスがこうだから、あなたも勝利せよ!私があなたの頭だからあなたは勝利せよ!” すべての状況で主の御身体になった教会は知恵と能力の源であるひたすらイエスの名前を呼べば勝てるしかないことを胸にきざめよ! <続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師. LOGミッション代表)

私たちはイエスキリストに値するものだ

ダビデの王国が建つすべての過程は完璧に神の契約の成就である。資格のないダビデを呼んで王にさせた理由は、その事を成就させる方が神であって、また、そのお呼びに召された者として反応する資格がひたすら信仰だけであることに悟らせるためであった。神の時代を生きる私たちの招きもやはり完全に御恵みであるのだ。 資格も実力もない私たちを選ばれた民、王の系統を引く祭司、神の美しい徳を宣布する存在として呼ばれて懲らしめを受けない完全な神の子供にされることと約束された。これは、私たちの何にも成し遂げられない事であるのを確かに悟るべきである。 私たちは神に召された時からすでに100%不適格者だった。100%確実なのがあるとしたら私たちは確かに地獄の子であることだろう。神に完全に反逆罪人である私たちは神の充満を享受することは夢見る事すらできなかった。 私たちを愛されて、その血で私たちを罪から解放される事は完全に神の招きを根拠とする。(ヨハネの黙示録1:5~6)私たちがうけるにふさわしい呪いと審判と滅亡を息子の血の値を払って購った。一方的な御恵みで私たちを罪から解放されてくださった。 私たちの聖別も私に根拠があるのではない。主の完全な尊い血にある。私たちが御座の前に堂々と行けるのも私の弱い状態ではなく主の御働きのためであるのだ。私たちの功績になってくださったイエスの名前のために神は私たちを拒む事ができない。そんなわけで私たちの能力と関係なくイエスの名前で祈るのである。その名前で祈祷すればすでに受けてもらった事に信じられるのである。これが私たちが持っている確信であるのだ。(ヨハネの第一の手紙5:14~15) だから私たちはすでに勝利した者である!幸せ者である!私たちの勝利がキリストの十字架と復活で保証されてあるからだ。状況が絶望であっても主を見ればよい。主がダビデを助けられたように、無能な私たちを助けられる神を見るべきである。主の聖なる国の為に主が私たちを助けられる約束の御言葉を見るべきである。(コリント人への第一の手紙1:24~29) サウルの王国の変わりに建てられたダビデの王国は肉体によって主に従う者の水準では愚かに見えたかも知らない。しかし、だから、神の全能が明らかになった。 私たちが落胆する理由はなんだろう?私がどんな状況に置かれてもがっかりする必要はない。主は強くて、神の国は永遠である。その国に属された私たちはどんな事に対しても失望する必要がない。 御恵みの招きを受けた者たちよ!その国の復興と宣教完成の為に私たちを使われると言われた時、私の可能性、偉さ、愚かさなど何も見ないで、私たちを創造された主だけを見よう!十字架の福音に出会ってインマヌエルの祝福を受けた者の アイデンティティはひたすら‘イエスキリストの値’である。主が私の知恵と義、聖別、救いを完成された。この事実を信じれば必ず享受できる。 <続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師. LOGミッション代表)

神は無能なダビデを助けられた。

契約更新 (3) ダビデの王国は神が夢見られた神の国を可視的に現した王国であった。しかし、これは不可能の中で現れた奇跡だった。ダビデの可能性ではなく、ただ神の御心によってなったことだからである。 神は資格のないダビデを召した。牧童を王に、罪人を義人に、敵を息子にされるこのすべての事はひたすら神の絶対主権的なみ恵みである。この召しを従う時に必要なのが‘希望するすべもない時に望みを抱く信仰’である。 ひたすら神の絶対主権的なみ恵み 子供の目に親が全能者であるように、ダビデには神がそのようであった。彼は全能な神を信じる信仰でゴリアトに勝った。この事はダビデをダビデにする事件になった。 イスラエルの中の誰も自分の可能性でゴリアトに立ち向かえる人はいなかった。世間を象徴するゴリアトの前に立った神の国の代表、ダビデはただ生ける神だけに注目して、ゴリアトに向かって走って行った。 彼は羊を飼う野原で獅子と熊を追い返しながら自分の能力になった神をすでに知っていた。彼に神は知識的に知る神ではなかった。 だから自分の可能性を期待しないで、生ける神をすっかり信頼して走っていく事ができた。彼は神を神だと知って信じていた。 自分の絶望が結論ではなくて、希望するすべもない時に神を望む信仰を神は喜ばれる。知識的だけで神を知るのは決して聖書が話す信仰ではない。 聖書はダビデを神の御心に適う者だと言う。彼は存在的な罪人であったが、主が自分の牧師であり、父であることを信仰で捕まったからである。神学的な知識を持っていながら決定的な瞬間には自分の計算を結論としなかった。彼は倒れた時すら倒れた自分ではなく、すべてを綺麗にさせる神を結論にした。 神を結論にせよ 神はそんな無能なダビデを助けられた。ダビデの王国は彼と一緒にいた勇士たちの助けで可能な事であった。これは神の助ける手で建てられる王国であることを見せる事である。(歴代下11:10) 数多い死の峠と失敗、そして、致命的な罪に陥ったダビデは神様の助ける手によって可能な人生であった。 主はその御手を‘人’を通じて示される。主の時に主の人を立てられて神の国が成り立つ事を見せられる。 ダビデの敵であるサウルの息子ヨナタンがダビデの一番仲の良い友たちになった。ミカル、祭司、アドラムの同士たち、決して、ひとつになれない、役に立たない人たちがダビデの王国の開国の功臣になった。 ひたすら主の御恵みのためであることのほかに何の説明が要るだろうか?<続く> キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。 LOGミッション代表)