神の栄光、神の御言葉(1)
世間を見て、この世の中に生きている人を見ていたらどこにも希望が見えない。世間は悪が意のようにうまく行って不意が憚って、騒がしくてめちゃくちゃである。人を見たら手で空を覆うように‘目に見えなきゃ神も居ない’といい、空に向かってつばを吐くような事も障りなくする。根本を否定して、真理をからかう。こんな事を躊躇しない人間の不正と腐敗、乱暴、嘘と淫乱、反人倫的犯罪、同性愛、教会の堕落など。今までの時間の中でこの中の何一つも避ける事ができなかった。このすべての世事は飽きるほど見て、聞いて、ため息をするしかない歴史的な実際であった。
しかし、世の中に居る自分を見たらより小さく、無力で、重たい荷物を抱えているように疲れている。巨大な挑戦の前に立って果てしない気持ちを消せられない。ひとりむしのように騒がしい世間に巻かれないで、気を失って人の家の火事見物をしているように呆然として、するべき事も忘れて立っていてはいけない。少なくても神の民らしく、聖徒らしく気を引き締めて私たちがするべきのことを見つけなければならないのだ。
じゃ、世間と自分に留まっている視線を回して、目を上げて空を見上げるべきである。“目を上げて私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか”(詩篇121:1) 息が詰まるほどの危機と難しい状況に置かれた詩篇記者が事件に溺れずに、状況に押されずに、自分の魂を呼び起こしながら話す言葉である。彼が叫ぶ。“私の助けは来る、天地を造られた主のもとから”(詩篇121:2) この地で起きているすべての事が神の主権の下にあると叫ぶ信仰の宣言なのだ。
“目を上げ、誰が天の万像を創造したかを見よ”(イザヤ書40:26)事件に巻き込まれていたら状況を分析する余裕と広い視野を持つことができない。だから‘目を上げ’と言われる。分別できずに、あきれるほどの絶望の前にいるご自分の民に向かって状況分析を要求せずに、むしろ‘目を上げ、誰が天の万像を創造したかを見よ’と言われる。
“それらを 數えて引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の强さ、激しい勢いから逃れうるものはない。”(イザヤ40:26b)神の目に覆われた事件は一つもない。 “ヤコブよ、 なぜ 言うのか 。イスラエルよ、なぜ 斷言するのか。わたしの 道は主に隱されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。”(イザヤ40:27) いくらちいさい人の事情であっても生きておられる主は覚えられて、立ちいれられて、助けられる。
私たちは極めて制限的で部分的なことだけを知っている。だから正しく知るためには‘目を上げて’天の万像を創造された神を見上げる事から始まるべきのであるのだ。 <続く>
[福音祈祷新聞]
キムヨンイ宣教師
(巡回宣教師。LOGミッション代表)