ブドウ園を培いながら主のブドウ木の例えを黙想しながら
“わたしはまことのぶどうの 木、わたしの父は農夫である。。。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに實を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネの福音書15:1,5)
私は一時期フドウ園を培っていた。そのおかげで主のブドウ木の例えの意味が分かりやすかった。
果樹に花が咲いて実を結ぶ方式にはふつう二つがある。一つはすでに昨年伸びた枝にある花芽から花が咲いて実を結ぶ方式である。もう一つは葉芽から新しい枝が出てきて、その枝から花芽が生じてまた花が咲いて実を結ぶ方式である。
なし、リンゴ、桃が前の方式で、ブドウ木、柿木の場合が後の方式で実を結ぶ。また、柿木の場合は枝が短く育つので枝を切り落とさなくても実を結ぶのに障害にならないけど、ブドウの木は違う。
ぶどう木の枝はつるで伸びていくので最初の年は丈夫だが、次の年になったらその伸びた枝の目から新しい枝が続けて出てきたら絡み合わせて充実に実を結べられなくなる。
だから農夫は一つの枝から一番近くにある目だけを残して全部切り落として集めてから焚物にするか破砕いてしまう。即ち、沢山実を結ぶために枝に一つか二つの目だけを残してきれいに整理するのである。
“わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。”(ヨハネの福音書15:2)
主は私たちに豊かに実を結ばせるために私たちをその御言葉できれいにしてくださった。そして、もはやブドウ木であるイエスに繋がっているだけで主が実らせる豊かな実を結ぶことができる。
私が十字架で主とともに死んで主とともに生きたら、もはや私が主の内に、主が私の内に居られるのである。そしたらブドウ木に繋がっている枝のように実を結ぶしかないし、その実のために農夫である神は栄光をお受けになるのだろう。
主が下さる御言葉に従順するだけで十分である福音が実際になった生を決断してみる。
チョンへゴン長老|書き手は今農園を培いながら神の真理を悟る喜びの時間を過ごしている。
[GNPNEWS]