現実、状況、可能性を、聖書では信仰と言わない。

契約更新(2) 病んだ自分の王国に閉じ込められている私たちに、神様は神様の国を建てることを望まれる。その事がベツレヘム少年ダビデに起こった。彼には可能性など準備できたのが何もなかった。主の通路というにはからしの種のようにひ弱かった。それに比べてサウルの王国はしっかりしていた。いくら神様がサウルを廃位されたとしても、相変わらずサウルの圧倒的な権勢の前でダビデが王になると言う約束を誰が信じられるだろうか? 弱り目にたたり目のようにダビデは油を注がれてからより悲惨になった。ダビデには今、信仰が必要である。どんな信仰であるだろうか。なんの希望も持てられないその時に、希望するすべもなかった時になおも望みを抱いて信じる信仰が必要なのだ。約束された神様が全能な方である事実を信じる信仰なのだ。 その信仰は、神様の約束が絶対信じられない状況の中でも言われた主体に注目するのだ。自分の考え、自分の確率、自分の経験、自分の可能性に落ちこぼれて計算機を叩くときではなくて、ひたすら約束の主体である神様を信じろってことだ。 神様は全能な方である。だから神様が言われた言葉も全能である。 神様の全能でなければ解決できない状況だからこそ全能な神様を信じなければならないのだ。 したがって、神様の望む信仰は絶対に信じる信仰、すなわち‘希望するすべもなかった時になおも望みを抱いて信じる信仰’であるのだ。 その信仰はまた‘義と認められる信仰’である。主はアブラハムが完全に不可能になる時まで待てられた。余地が完全に遮断されるまで待てられた。そのとき、アブラハムの年が99才だった。自分も他人も皆が不可能を認めるしかない状況になってからやっとイサクを下さった。既に自分の体が衰えており(ローマ人への手紙4)、自分になんの可能性もないことを知った時、自分の可能性を探るのではなく約束された神様だけを信じたアブラハムの信仰を義と認めてくださった。主は‘私としてはできなくて、不可能だが、この事を可能にさせてくださる主が居られる!’と言う絶対信仰を要求させる。 この信仰は2000年後、ナザレ処女マリアにも発見できる。処女が子供を産むというのは常識はずれのことである。しかもその子が神様の息子であると言う事は被造物の常識と計算では本当に不可能な事だった。マリアが自分の考えでは‘そのような事がありえましょうか?’と聞いたときに、天使は‘神にできない事は何一つない’と答える。マリアの告白を聞いてみよう。‘私は主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように’(ルカによる福音書1) 私の確率が0%の状況の前で、また違う可能性を探し回っているのではないか?私たちの信仰の先にはいつも自分の可能性があったのではなかったのか?これは決して聖書が話す信仰ではない。 私たちの信仰の先はどこだろうか? 神様の人たち、信仰の人たちが持っていた信仰は、ずばり‘希望するすべもなかった時になおも望みを抱いて信じる信仰’だった。これはひたすら生きておられる神様だけを信頼する信仰である。現実と状況をただして自分の可能性を計るのを聖書は決して信仰とは言わない。 神様の王国を信仰のなかったダビデを通して建たせる神様の勝利を見よう。この言葉を信じるなら‘神様の国の復興と宣教完成’そして‘私たちの時代に主が再び来られるその日の栄光’を見るのはかえて可能だと言わざるを得ないではないか。<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師、LOG4ミッション代表)

可能性が0%の時に必要なのは‘絶対信仰

契約更新(1) 朝鮮戦争のためにヘウンデの白い砂浜に数多い避難民が集まった。‘助けて’と言う一言の悲鳴しか出ない切迫な状況だったが‘インチョン上陸作戦’で戦争状況がひっくり返ってしまった。5000分の1の可能性で成功されたこの作戦はまさに奇跡そのものであった。しかし、これ以上引き下がるところのない白い砂浜で切迫に神様に祈った人々はこのことが‘神様の御答え’であることがわかった。これは奇跡を行われる神様を絶対的に信じる信仰だけでできることであるからだ。驚くべきことにこのような信仰は私たちの最善では不可能な時に出せるのだ。 人に一番不可能で絶望的なことは、 罪のためにどんな努力でも 回復不可能になった神様との関係である。5000分の1の確率でも可能性があれば良い事だが、旧約の歴史中でそれは決して不可能である事を見せてもらった。神様はアブラハムを呼ばれて契約された。それは肯定的の力、積極的な考え方ではなく、契約を信じる信仰だけを必要とした。人としては叶えられないことを願って信じる信仰だった。その契約が明らかにされた場所がずばり出エジプトだった。 残されたのは神様の一歩的な契約しかなかった。人の側としては何の希望のない時に、100%まったく神様の御業で出エジプトをしたイスラエルは、すごい奇跡を経験したのにもかかわらず、荒野で果てない反逆で失敗してしまった。選民であるイスラエルもやはり罪のためにアダム呪いの受けたものである事が事件を通して明らかになった。 不可能を可能に変える神様の御業 ヨシュアとカレブを通して再び始まった荒野2世帯がカナンの地を征服する事もやはり不可能その物だった。武器を握った事のないイスラエルの民がどうやってカナンの地に住んでいる都市国家との戦争で勝てられるのか?ただ神様の介入でなければ不可能な戦争であるのだ。 とたんに‘神様が成し遂げられる’事実を信じるのがまさしく‘絶対信仰’である。私の可能背が0%の時に必要なのが‘絶対信仰’なのだ。神様の能力でイスラエルの民はヨルダン川を渡ってカナンの土地に向かって絶対信仰の歩みを歩き始めた。エリコ城を含めたすべての戦争で彼たちに必要なのはひたすら‘絶対信仰’だけだった。 士師記の悲惨な歴史の末に神様がサムエルを通して国を維持させるが、それにもかかわらず人は自分たちのために王を要求した。粘り強い反逆で病みついた自己の王国を代弁するサウルが登場する。 旧約の歴史はこのように奇跡と苦難など、何をしても抜けられない呪われた生命の悲惨さをいちいち記録している。豹の斑紋を落とす事ができないように、クシュ人の皮膚を白くする事ができないように、人の呪われた生命は自分の力では決して抜けられないのだ。すべての人が罪を犯して神様の栄光に至らないからである。(ローマ人への手紙3:10). すでに神様からは廃位されたが、外見は王国と王の姿をしていたサウル。そして、自己の王国に閉じ込められて神様に‘失敗’と言う印を何回も押されたイスラエル。このように限りなくやせた地に神様は御国を建てられるとまた約束された。[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師. LOGミッション代表)

神様の国は今も前進している。

エニシダの木の下 (5) 倒れた所から再び立ち上がるもう一つの勝利の秘訣は、私たちの実存を見る事である。‘自分にがっかりした’というのと、他人に比べて‘それでも私はあの人よりは増しだ’というのは、少なくとも自分に一抹の期待を持っているという意味である。しかし‘自分’に対しての毛筋ほどの期待も捨てろ。私たちの実存は絶望そのものであるからだ。 一番砕けられないのが自分の‘義’である。しかし、神様の御前に立ったらイザヤのように言わざるを得ない。“災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。 ”(イザヤ6:5) 私を遣わしてください! 神様の御前に立ったら‘落胆’‘絶望’とい言葉がどんなに贅沢な言葉であるのかを悟る。すべての絶望の理由がつまらなくなって、ひたすら神様の国とその栄光と能力を結論にすることになるのだ。 落胆に陥ったイザヤに神様の声が聞こえた。“誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。 ”(イザヤ6:8a) そしたらイザヤが答えた。“わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。 ”(イザヤ6:8b)状況は何も変わってないが、自分の限界に捕われず‘ わたしを遣わしてください’と叫んだ。 自分の姿、自分の教会、我が国の状況は変わるそうもない。しかし、神様の栄光と威厳を見かけたエリヤとイザヤは自分たちの裸にされた実状に捕われずに立ち上がった。エリヤは落胆の中から立ち上がってエリサに行って油を注いだ。その後も状況は変わらないで、実は見えなかった。どころが、エリヤの見方が完全に変わった。イザヤ、彼ものこぎりで引かれて死ぬまで、実一つ見てないが忠誠した。 ヨハネ黙示録の七つの教会の状況も同じであった。罪悪の津波がその弱い教会を飲み込むようなその時に、主は使徒ヨハネに天の玉座を見せて、目に見える歴史が実状ではない事を啓示された。すべての国の主権は神様にあって、神様の審判は必ず、徹底的に、完璧に成り立つのだ。また、神様の御業は神様の権能で自ら完成されて、神様の教会は今も前進していることを見せてくださった。 神様の教会は前進している。 神様の国は今も驚くほどに前進している。誰も神様の国の事を邪魔する事はできない。私たちの小さい魂の中の神様の国も前進している。主は今日も私たちに叫ぶ!“私はすぐに来る!”子羊の婚礼に私たちを招いてくださって、お会いになって下さるその日はすぐに来る!(<続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師. LOGミッション代表)

私たちを引き起こせるのはすごい軌跡ではなく、静かにささやく声

エニシダの木の下 (4) 倒れた所で再び立ち上がる勝利の秘訣は、いける神様の御前に立つ事である。いける神は静かにささやく声でご自分を掲示される。エリアの前に非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。 風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。落胆して絶望に陥ったエリヤにこのような奇跡は役に立たなかった。ただ、静かにささやく声で共に居られて話せる生ける神様の御前にたった時こそエリヤの絡み合っているすべてが落ち着かれた。 状況分析が上手いからといって状況を変えるわけではない。状況分析より重要な事は生ける神様の栄光の御前にたつことである。極端主義の武装団体がテロを犯して、あらゆる犯罪を犯して人を脅迫するのは昨日や今日の事ではない。世間がいくら騒いでも神様の御言葉だけを覚えていればいい。 “なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか 「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と。天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り”(詩篇2:1~4) 神様の統治から逃れようとしている世間の敵がいる。悪が盛んで、神様の国は見えない今、神様の栄光と威厳と神聖の御前に立ったら目に見える世間は革袋からこぼれる一滴のしずくに過ぎないのだ。“見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく。天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。 ”(イザヤ40:15) いくら華麗な世の中も、偉い権威を持った帝国も、狂って暴れる悪の枢軸でも神様の御前に立ったら何でもなくなる。立てる方も、廃する方も神様である!全能な神様の御前で私たちはどんなに無能な存在だろう!永遠の神様の御前で単なる枯れる草に過ぎないのではないか! 醜い罪人であるだけ!だから、生ける神様の御前に立て!主の栄光に視線を固定すればすべてが落ち着く。私たちを脅して、座り込ませたすべてが霧のように引き下がるのだ。 エリヤを立たせたのは偉い奇跡ではなかった。聖なる主の静かにささやく声であった。今も御霊が私たちの心の中にささやいたら聞くものは生き返る。そのために記録された聖書を下さった。一時期覚えてて忘れてしまって落胆して絶望の中に落ちた時に記録された聖書で話される事で私たちを再び引き起こして勝利させてくださるのだ。 常に真理の御言葉に注目するべきである。そんなときに真理の御霊は相手によらず、状況によらず私たちの魂を感動させて、叱って、悟らせて、悔い改めるようにしてくださる。<続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師。 LOGミッション代表)

気落ちする理由より勝利の福音に注目せよ!

エニシダの木の下(3) 恐怖に抑えられたまま死を避けて隠れていたエリヤ。彼の姿で福音を運命として受けてもらったが、いつの間にか信仰の場所から離れて、気落ちする十分な理由をあげている信仰の証人たちの姿が見られる。座り込んでいる彼にエホバが言われた。 “行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。(王上19:15~16) 王が生きているのに王を立たせるという命令が下ったのだ。落胆して、絶望しているエリヤはこの命令で回復されたが、この命令に含まれている神様のメッセージは、今の時代を生きている福音の証人の為にもなるのだ。 一つ目、すべての国の主権はエホバのもとにある。したがって、福音の証人たちは神様の主権が踏みにじられているような現象に騙されてはいけない。 二つ目、神様の裁きは必ず、徹底的に、完全に行われる。ハザエルとイエフを立たせられた理由はアハブ家を必ず徹底的に完全に裁くためだった。神様の裁きが行わずに悪が盛んでいる時に信仰の証人たちは落胆する。しかし、神様の審判は決して遅れることがない上、徹底的で完全に成り立つのだ。 三つ目、人は断たれるけど神様の国は永遠である。人生は終わっても祈祷は消えないで、祈りに答えてくださる神様は永遠である。エリヤがいくら大きく使われても能力は神様にある。エリヤにできる事はただ主の招きに忠誠を尽くすだけである。 四つ目、神様の国の主権と能力は誰にも邪魔されない。神様はバアルに膝を折らなかった7千人を残しておられた!“しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。”(王上19:18) 福音の完璧な勝利を味わっても、失敗と挫折で倒れたとき、がっかりするに十分な理由があるだろう。でも、覚えておきなさい!落胆と絶望は信仰の証人たちに上の四つの事実を忘れさせるのだ。 私たちがいただいた十字架の完璧な福音は勝利の福音である。落胆して失敗して倒れている人に尋ねてくださって引き起こす主は、信仰の証人たちを再び勝利の場所に導いてくださるのだ。だから、信仰の証人は決して滅ばない!信仰の証人たちよ!今霊的な戦いの現場に立っているのか?真理は永遠に変わらないけど、真理に召された使命者が乱れたら真理が邪魔される!したがって、使命者たちよ!気落ちする理由より勝利の福音に注目せよ! <続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表)

私は今どこにいるのか?

エニシダの木の下(2) 存在的な罪人の実状が歴史の中で十分に現れたアハブの時代は、神様の特別な僕であるエリヤでも落胆させるくらいに絶望的だった。エニシダの木の下に座り込んで命を取られることを願ったエリヤ、気力を回復してから到ったホレブ山の洞窟の中でも彼は相変わらず落胆に陥っている。 “わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。(王上19:10) 罪を犯したのでもなく、間違ったのでもない、ただ神様のお召しに従順しただけなのに悪はより盛んでいくばかりで、どこを見ても神様の民は見えないで、エリヤ一人だけが残されたような状況。もう何もできることがない状況。落胆と恐怖でいっぱいなエリヤに神が来られた。そして言われる。 “行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。”(王上19:15~16) 主が背けて、振り向いてくださらなければ、私たちも寂しがって、エニシダの木の下に座り込んで、ホレブ山の洞窟の中に隠れて絶望するしかないのだ。しかし、主は無力で恐怖に襲われてビジョンもなくした一人に訪ねられて言われる。これが福音なのだ!だから、どんなにひどく寂しい時だろうが、こぼれた水みたいに自分をもうどうにもできない状況だろうが、何の希望も言えない状況だろうが、忘れてはいけないのは主が訪れてくださるという事実であるのだ。 犯罪を犯して恐ろしさと恥ずかしさで隠れていた悲惨な罪人アダム、彼が隠れていた所は醜い罪悪と暗闇の場所であり、裏切りの場所だった。しかし、そんなアダムにも主は会いに行かれた。そして、彼に尋ねられた。“アダムよ、どこにいるのか?” 復活された主が再び会いに行かれた。ティベリアス湖、そこには裏切った弟子たちが夜が明けるまで何も取れない釣りをしていた。彼らには十字架は衝撃そのものだった。衝撃の大きさのあまりに彼らは主が何回も予告された復活のメッセージをすっかり忘れてしまって、以前の生活に戻っていた。どころで主はそんな弟子に会いに行かれた。 求める事も、呼ぶ事も、期待する事もできない所でも、主は会いに行かれるのだ!神様の栄光のために創造された方が、たとえ地の果てにいるとしても見つけ出される。(イザヤ43:5~7) ヨハネの黙示録の七つの教会は失敗と妥協で霊的に痛んで恐れていたが、金の燭台の間を歩く主は彼らの都合と置かれた状況をすべて存じていた。私たちはキリストの中にいる教会である。主ほどに‘教会’である私たちを存じている方はいない。主は必ず教会を回復させて、勝利の道に導いてくださるだろう。 私は今どこにいるのか?もしかして、いてはならない場所にいるのならば、間違っている道を歩いているのならば、離れるのだ!恐怖、ビジョンをなくした不信仰の場所から離れるのだ。 押さえつける恐怖に心を許したのか?福音を運命として受けたが信仰の場所からこっそり引いて、信仰の挑戦は諦めて、隠れて、適当に平凡な姿で洞窟の中に隠れているのか?エホバの御前に立って!そして道を取り戻すのだ! <続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。 LOGミッション代表)

信仰の英雄も無力感と恐怖に襲われるが。。。

エニシダの木の下(1) 律法を代表する人物がモーセならば、エリヤは預言者を代表するとも言える。エリヤは神様の権能の手に捕われて神様の威厳と裁きを強力に現した。彼はカルメル山の英雄であった。そんな彼が一瞬急転直下して、エニシダの木の下で死ぬことを願っている。“主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。 ”(列王記上 19:4) 旧約聖書の列王記書に登場する王の多くは取り上げる価値があまりない。特に北王国イスラエルの全部は’ヤロブアムの道’に行ってしまった。その上、オムリの息子アハブ王はヤロブアムの罪、即ち、金の子牛を礼拝するのに止まらずにシドンの姫イゼベルと結婚してバアル、アシェラ偶像を持ってきて国中を汚した。’ヤロブアムの罪’のためにすでに死刑をくだされた上に悪を加えたのだ。 このように露骨にエホバの名前を呪ったアハブの時代、世間と神様の国の対峙を克明に見せるために神様は歴史の真ん中にエリヤを召還された。彼の人生の中で絶好調だったカルメル山での対決、彼は一人バアルの預言者450名とアゼラの預言者400名を相手にした。“そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。 ”(列王記上 18:24) 人間が作った神、バアルが火をもって答えるはずがなかった。エリヤはすべての可能性を除くために祭壇と溝に溢れるほどの水を流した。そして、簡単に祈った。(列王記上 18:36)。生きておられる神様は火をもって答えてくださって、すべての民は恐れながら伏せて’主こそ神です。主こそ神です ’と叫んだ。バアルの預言者は一人も生き残らずにキション川沿いで皆殺された。やがて3年6ヶ月間閉まっていた空の門が開けられて雨が降り出した。 この大きな奇跡を見てもアハブが気付かないと心配してエリヤは60kmあまりの距離をアハブが乗った戦車よりも早く走った。イスラエルの民が神様の御前に伏せたようにアハブも神様の御前に伏せるべきだったが彼はびくともしなかった。 悪徳なイゼベルにエリヤを殺すと脅迫(王上19:2)されて’英雄’エリヤは生きるために荒野に逃げた。そして、一日ほど行った先のエニシダの木にべたりと座り込んで命をとって下さいと願った。肉体的にも霊的にも完全にバーンアウトされたからだ。御使いの助けでやっと気力を回復してから神の山であるホレブに到ったが、エリヤは洞窟に隠れた。そんな彼にエホバの御言葉が臨まれた。”エリヤよ。ここで何をしているのか”(王上19:9) ものすごい勝利を経験して、奇跡の真ん中に立っていた’英雄”エリヤがイゼベルの毒気の前で完全に消尽されてしまった呆れた状況、実に衝撃的である。しかし、アハブ時代の反逆と堕落は英雄的なエリヤでも恐ろしさと無力感で座り込ませるのに十分だった。 福音に会ってから命を懸けて従順したが、実ところかどんな可能性も見えないで、悪はより盛んだら、誰もがエリヤのように奈落に落ちることができるだろう。どころで、ありがたいことにエリヤに訪れた神様は、疲れて、無力感に襲われてビジョンまでなくした福音の証人’一人’に会いに訪れるのだ。そして、同じく言われる。“あなたはなぜここにいるのか”<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師、LOGミッション代表)

命を懸けるほどの福音を捕まえたのか?

ルツは言った。 「あなたを見捨て、あなたに背を向けて歸れなどと、そんなひどいことを强いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行きお泊まりになる 所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16~17) 永遠の価値を発見したルツの告白である。説明できない悲しさと、ねじ曲げられた人生は相変わらず説明できないけど、むしろ彼女の選択は明らかになった。息が詰まるほどの苦難の中で駄目なものは駄目と悟り、自分の力というのがどんなにちっぽけなものであるかを解るのに苦難は役に立った。 そういうわけで苦難は祝福であった。すべてを無くした姑ナオミが叫ぶエホバという神とその神の約束について時々聞いたルツはエホバに命をかけるほどの価値を発見した。そして、それを生命のように握った。 生きている間に命をかけるほどの価値を発見することは本当に幸せなことだろう。どうせ死ぬ人生、死に追われるか、そうでなければ命をかける価値と対象を追うか。永遠に変わることのない真の結論、真理を掴み取ったルツは真理に運命をかけた。ナオミについていくルツを見たら真理に会った皆の態度が同じであることがわかる。 エリサはエリヤという人に国の運命が掛かっている事をわかった。そして死ぬ気でついて行った。いくら止めても彼をエリヤから引き離せることができなかった。“主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません”(列王記下2:2)結局エリヤが両手をあげる。そしてこう言う。 “あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。 ”(列王記下2:10)0.0000%も帰る余地のない結論がついたならかなえるという意味であろう。 福音の前に立っている私たちの態度はどうだろうか?エリヤを発見したエリサのように、ナオミを発見したルツのように真理の福音に心のいかりを下ろしたのか?なぜ福音の栄光が発見できないのか?隙があれば帰ろうとしたり、言い訳ばかりで結論を出せないからだ。歴史の中で主の栄光を拝見した人々は例外なく帰る道を切った! 主が”わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。’といわれる時に戸惑う理由は自分の計算があるからだろう。福音のほかの何かを持っていくつもりだからだ。だから、狭い道がより狭く見えて、険しいみちはより険しく見える。そういうわけで誰もが行ける道ではない。十字架の道はすべてを乗り越えられるくらいに福音の栄光にとらわれなければ行けない道である。 ルツは真理を結論にして、姑について神様の約束があるところに行った。そしていよいよそこで備えられた救う者‘ゴエル’(Goel)にあった!まるで見えない主が見えるように見て、行く先もわからずに行ったアブラハムの信仰と変わらない。信仰の質においてアブラハムの信仰とルツの信仰は同じである。これ以下の信仰は存在できない。この信仰を持って姑について行った先でボアズに会ったのだ。 <続く> [GNPNEWS] キムヨンイ宣教師(巡回宣教団)  

やもめ三人の嘆き、神様から離れた皆の嘆き

“二人はまた声をあげて泣いた。 オルバはやがてしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。”(ルツ1:14) ナオミと二人の嫁が激しく泣いている。ただこの三人だけのことなのか? 人類の歴史の中で人の嘆きが止んだ時があっただろうか? 姑と二人の嫁、彼女たちは皆結婚の経験を持っている。 幸せを夢見ていたとも言えるだろう。 幸せというのは、 人ならば誰もが持つ存在的な渇きである。 しかし、幸せは‘絶対’叶わない夢である。 もし、 叶うとしても人間というのは存在的に満ち足りない渇きを持っているので、 幸せは蜃気楼なもののようである。 やもめ三人の嘆きは彼女たちだけの嘆きではない。 神様から離れたすべての人の嘆きであるのだ。 三人のやもめは信じられない、 決して信じてはならないのを信じていた。 それは死んだ夫であった。 人は創られる時から依存的な存在であるから頼る相手を探す。 その相手は様々である。 しかし人は決して頼るものではない。 幸せは絶対人から出てくるものではない。人は人を満足させることができない。 満足というのは永遠であって、 全能な創造主である神様にだけある。 主が言われたい福音 一時ベツレヘムで偉かったナオミは、 今は折れた枝、 乾いた川と違いない。 二人の嫁も同じである。 三人のやもめに残されたのは何もない。 彼女たちの話がここで終わりであるならあまりにも悲しい。もし、 このようなドラマを見ていてこんな結末であるなら、 むしろ見ないほうがよろしかった。ところで三人のやもめのように泣き喚いている人に主は自信満々にルツの話をだ出してくださるのだ。 なぜならば主は回答がお持ちであるからだ。 私たちには破綻して、何もかもがお終わりになったその場で、主には言われたい福音がある。 夜が暗ければ暗いほど星は輝くと言ったのか? 志士時代の真ん中ででも福音は一層輝いた。泣いていた二人の嫁の中でオルバは結局自分の神のところに戻った。しかし同じモアブ人だったルツから予期せぬ告白が出て来た。 “ルツは言った。 「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを强いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。(ルツ1:16) これが単なる人倫で、 人間の意志から出て来られる告白であるのか? いくら肯定の力、積極的な考え方を使うとしても話にならないこと。イスラエルの中でもこのような信仰は見つけられなかった志士時代、一体異邦人のルツは何を見て、何を聞いたのだろうか? ルツの姑ナオミは目に見えるすべてをなくされて滅びた。 自分に民族に戻ったオルバも見た。しかし、オルバは目に見えるものだけを見た。 彼女の目に見えた姑はただ哀れな女に過ぎなかった。 ところでルツは目に見えるものがすべて無くなったその時に目に見えない実体を見た。たとえナオミは悲惨にすべてを無くして滅びたがエホバの信仰と約束は相変わらずだった。ナオミの信仰が全うでなくても、 真理そのものは永遠に完全である。 どこからでも見つけられない人生の道と、真理と生命が生きておられる神様の約束にある。 誤って選択したその道で、もっとひどい凶年にあって完全に失敗した女みたいに残されても、世の中の誰も持てられない神様の約束を彼女は持っていた。福音であった。 いつでも会って体験できる福音の栄光と能力と祝福、目に見えるすべてがなくなっても依然として捕らえられる目に見えない希望、命をかける福音があなたにはあるのか? 価値を持たせなくても真理は真理であるばかりだ。 (2016.4 メッセージ整理) <続く> [GNPNEWS]

母の猛烈なお祈りと息子の絶望

再びお家へ(2) アメリカの中国人移民家庭で生まれて歯科大学院に行っていた一人の男が、同性愛と麻薬に落ちいて人生の極端まで味わってから主に出会って回復した。彼の後ろには息子によって自殺という決断を前にして、生きている主に出会った母のお祈りがあった。その話が載ってある’再びお家へ‘(デソン出版社、2017)を要約、紹介する。<編集者> アンジラ、猛烈なお祈り クリストファーが大学院で退学されそうだと聞かれた。何か月通えば卒業なのに衝撃的なお知らせだった。息子は学校にお願いしてくれるようにと私に言ってきた。しばらくして夫と私は学長に会って私たちの意思を伝えた。 “クリストファーが医者になることは大事なことではありません。私たちは息子が神様の弟子になることを願っております。妥当な処分が下りると信じます。” 次の年の夏。私たちは息子の家を訪問した。息子は去年のクリスマスにも帰ってこなかった。以前にも何回か約束を破っていた。彼は高級車に乗って空港に来た。息子の目下は黒くて体はやせていて、二時間ほどさまよってやっと自分のお家を見つけた。彼を見てとても不安だった。夫と私は日曜日にある教会に行って息子にも礼拝時間を教えてあげた。説教を聞くとどうか変化があるかもしれないと思ったからだ。 礼拝が始まってしばらくしてから息子が現れた。しかし次の日の朝、息子は私たちに家を出るように怒り出して叫んだ。惨めだった。聖書を息子に渡したが、息子はそれをゴミ箱に捨てた。しかし私たちは主の約束を信じて待った。私は断食をしながら主の哀れみを願った。 次の年の冬に刑務所から一通の電話がかかってきた。息子だった。私ははっきりとお祈りの中で代価を払うべきだと思っていた。しかしそれが麻薬とか刑務所になるとは想像つかなかった。苦しかったが、神様の応答であると確信した。神に初めての祝福を書いた。神様に感謝のお祈りをささげた。言葉では表現できないほどの平和が訪れた。 クリストファー、王様から奴隷へ 学校から追い出された私は全国のゲイのイベントを通して麻薬販売に集中した。私はゲイのコミュニティでは人気ある販売者だった。 ジョドンはゲイの映画系ではスターだった。私は彼と特別な関係だった。彼はHIV陽性判定を受けたと私に告白して、しばらくして貧しい人たちが行く公立病院に入院した。家族も、ゲイのお友達も彼から離れた。しかし両親は私と共に彼の病室を守ってくれた。彼とはその後別れた。 26回目の誕生日にデレクと共に新しい人生を始めた日、私はあるお友達の死を聞いた。デレクとの関係も順調ではなかった。二人で激しく喧嘩した日、彼もやはりHIV陽性者だと告白された。私は病気に伝染されたのかを心配する線を越えていた。 週末の夕方になると私のマンションには薬を買おうと人たちが来ていた。私たちはあっちこっちに薬を供給した。現金が入った。高級マンション、車、有名デザイナーの衣装、望むものは何でも手に入った。私は絶好調だった。ご両親がお家に訪れた。その時一緒に教会に行った。どうして私が行ったのかはわからないが、そこは天国にいくためのちょうどいいところだった。私は教会のトイレで薬を味わった。 6か月後に麻薬取締局の警察がマンションを急襲した。私は自分と関係が悪かったある麻薬販売者の名を提供して警察の保護観察をうけた。しかしお金も、売るためのものがなかった。噂が立つと人たちも私を避けた。絶望と憂鬱のせいで、安い麻薬に手を出していろんな人たちとも関係をもって今まで経験していなかったほどの堕落地へ落ちた。 私はもう王様ではなくて奴隷だった。その年の12月に刑務所に入れられた。毎週保護観察官に提出したおしっこから薬物が検出されたからだ。わざと他の人のおしっこを提出したことにも問題があった。その刑務所のごみ箱の上に置かれているものが目に入った。それは新約聖書だった。<続く> [GNPNEWS]

私は資格のない父、資格のない先生でした。

絶望の中で十字架をいだいたジョン宣教師(ヘブロン宣教大学) – 神様をいつ出会いましたか。 たぶんびっくりすると思います。神様の摂理だと言えるしかないので…。2000年7月1日。高校3年生だった娘が私に叱られてマンションから飛び降りました。その時まで私はお母さんが寺で祈って生まれた存在であって、仏教と運命を共にして生きていました。 高校と大学の時にも仏教に熱心でした。しかし天が崩れそうな絶望を経験しながら仏教を拒否する気持ちになりました。娘が通っていた教会で葬式をしてもらったこともあって、またお母さんに隠れて教会に通っていた妻もショックが大きくて私も教会に通うようになりました。しかし教会の牧師の説教は私一人のためにだと思われました。絶望の中だったので説教のひとつひとつが私の心にしみました。そのようにして私たち夫婦は導かれました。 – その後はどうなさいましたか。 3年ほど日曜日の礼拝と聖書クラスで養育をうけました。そして2003年の秋には信仰訓練に参加しました。その集会に参加して2週目になった時に子供たちに手紙を書く時間がありました。教会の建築現場で息子を失ったある牧師の手紙を聞いてとても衝撃をうけました。私は残っている二人の娘には手紙を書いたが、死んだ娘には書いたことがなかったです。’これはなんだろう?‘と思いました。私は娘のために手紙一枚も書けないものなのに、あの牧師は死んだ息子のためにあんな手紙を書くなんて!私は何者なのか。 その時から主は働きました。次の週までも手紙を書けなかったですが、ある日片隅で祈りながら手紙を書き始めました。手紙を書いて集会が始まって賛美を流れました。‘あなたは愛されるために生まれた人’だという賛美でした。主が私に聞かせてくださるようでした。娘を失った資格のない父。そんな私に愛されるために生まれたと言ってくださるようで涙が止まりませんでした。5週間の集会が終わって証をしました。 絶望の時間 – 実在になってないというのはどんな意味ですか。 ある日は証を言ってお家に帰ってきたが、妻からうるさくいろいろ言われました。私は何か自分が変わったと思っていてお家に着いたが、そのことを聞いて娘にしたのと同じ怒りを発して足で妻を蹴りました。一時間前には主に賛美していたのに、同じ口で怒って妻を足で蹴る自分を見て驚愕しました。自分に対しての絶望感が寄せてきました。 それだけではなかったです。私は高校で英語教師として働いていましたが、主を信じてからは学校でクリスチャン教師として務まました。クラブ活動のキリスト教クラブを担当していました。そのクラブは4人から始まって100人くらいの学生たちが集まりました。クラブ活動を通して賛美祭も開きました。多くの方たちが支援してくれました。 以前は入試構造上勉強ができる学生たちのために授業をしていたが、私が絶望してみると絶望の中にいる子供たちが目に入りました。イエス様の愛をもって行ったが、学校でも自分の限界が現れました。 – 何かありましたか。 子供たちを叩かない先生だと知ると生徒たちから軽く見られます。6か月間怒らないでいましたが、二人の生徒を叱りました。その中の一人の生徒から電話をもらいました。その生徒が病院にいるとのことでした。その電話をうけて深い絶望に陥りました。私は怒りで娘を失った資格のない父なのに、その怒りで生徒に骨折をさせた資格のない先生だったのです。 主にひれ伏して祈りました。そして辞表を出そうと思いました。その時主が言いました。‘あなたは授業の前に子供たちの前で祈ることができるのか?’でした。それは私が一番嫌がることでした。クリスチャン学校でもなく公立学校でありえないことでした。しかしその次の年の学期に子供たちに伺いました。‘私はあなたたちを怒りをもってではなく、祝福したい。同意いない人は手をあげてね。’ 学期の初めだったので誰も手をあげません。それで入るクラスごとに同じことを聞いて祈り始めました。それが10年になります。 子供たちを祝福して – 反発もあったと思いますが。。 親からの電話はありました。仏教信者だという方が抗議して校長室へ呼ばれました。無理にすると逆に主に迷惑になると思ってしばらくやめようと思いましたが、生徒たちが要請してきました。生徒たちは愛の言葉、祝福の言葉が必要でした。それでまたも始めました。しかし主がそのように導いてくださっていても、私は変わらなかったです。いろんなことを通して自分の変わらない自我を発見して苦しみました。 – .絶望の中でも福音を諦めなかった理由は何ですか。 み言葉を成し遂げる主を見たからです。ヨルダンにアウトリーチに行ったことがあります。その時にみ言葉のままに成し遂げてくださる主を生々しく経験しました。驚きました。しかし帰ってきたから時間がたつと、またもみ言葉から離れて苦しくなりました。そうなるとまた信仰訓練集会に参加しました。 2015年2月に名誉退職をして6か月の訓練集会に参加しました。私は次女から打ち切られた状態でした。結局は自分のせいです。その集会で福音の栄光を感じてキリストだけにささげる人生を得たと結論だしたが、またも時間がたつと乏しくなりました。福音は一人だけでは生きていけなかったです。 主が主人になる人生へ – 本当に長い絶望の時間でしたね。 はい。再び宣教学校の訓練生になりました。今度こそは一つずつ確認しながら、心の中で実際に信仰への同意が起こりました。そしてヘブロン宣教大学の広告を見た時、この学校に参加したくなりました。 – 大学で英語を教えていますか。 いいえ。私に任されたのは英語ではなかったです。私はずっと英語教師をしていてそれしかできないと思っていましたが、運転手として仕えています。未来の宣教師たちのために行うことなので、感謝でうれしいです。 主の夢と希望を抱くことが恵みです。 – いま語っておられる主に会っていますか。 アーメン。毎朝黙想の中で、み言葉とお祈りの中で、人生の中で主に出会います。そして知識の同意を超えて、‘この世代の世界福音化’を望んでいます。自分だけを見つめて走ってきた自我から抜けて、神様の夢、希望を見つめるようにしてくださって本当に感謝です。自分のために祈ることも知らないで、百年の生きられない私のようなもののために天地を作ってくださった神様の夢を知ってとてもうれしいです。 – 怒る自分に対してはどんな結論を出しましたか。 怒りによって娘を失ったことより大きな代価がどこにあるでしょうか。そしてそんな私のために、主は息子を十字架にかけました。現実は変わらないです。怒るべき理由はいつもあります。しかし以前とは同じ状況になっても死んだ者のようにいるつもりです。ダビデがサウルの投げたやりに出会ってもそれを避けて自分の道を歩んだように、私もその道を歩みます。私のほうはもっとひどい人だったのです。 – 最後にお祈りの課題を教えてください。 イエス様が来られることを待ち望む新婦として生きたいです。この世代に世界福音化が鳴り遂げられることを願います。いまでも次女とは断絶されていますが、関係が回復されて一緒に礼拝をささげるようになりたいです。 [GNPNEWS]

子供たちよ、あなたたちは知っているの?

ジャンビアのエンアシ・チャンス教会(Embassy chance church)で片手は胸に、他の片手は天に向けて祈る子供たち。目をつぶっている子供たちは何のために祈っているのか。 ‘子供たちよ、あなたたちはしっているのか。いま目をつぶっていのっている神様は天地を創造して、永遠の前からあなたたちを選んで、罪で死ぬべきあなたたちを救うために一人子の息子を送ってくださったその神様であることを。そしてその神様があなたたちの心に永遠にとどまることを望んでおられることを。’ 問題を解決したいときに、願いがかなうことを望むときに、天国に行くことを確信したいときに、そのようなときに神様に向けて求めるのではなく、私たちの本当の祝福であるイエス・キリストに出会うことを求めよう。そうするとすぐ彼に出会うであろう。 ‘わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。’(箴言8:17)[GNPNEWS]

私の説教は…

愛の原子爆弾としてよく知られているソン牧師は、当時クリスチャンたちの間で能力ある牧師として広く知られていた。しかしソン牧師は神秘的な奇跡とか祝福願望的な信仰をとても警戒してみ言葉中心の信仰を伝えた。 ブサンのある教会で集会を開いたとき、熱く賛美をうたっていたある盲人が涙ながら叫んでいた。 “先生、私の目が見えます!私の目が開きました!” 聖徒達があっちこっちでざわめいて説教が中断されて、あちらこちらで感嘆と賛美の声があふれ出た。そのときソン牧師は沈めさせてから次のように言った。 “皆さん、静かにしてください。あの人が目を開いたのは私とは関係ありません。私の説教は魂の病気を治すことであって、肉親の病気を治すためにではないからです。” [GNPNEWS]

幸せな結婚生活?現実は不幸ですか?

結婚することに決めたに、本当にあめでとうございます。あなたに本当に必要なプレゼントを差し上げたいです。この話を心に受け入れれば、結婚のための準備したことの中で一番大事なことだと思います。