我の限界が底をついた時、主を見よ

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イマヌエルの福音(2)

詩篇73篇は神が正しい人に祝福されて悪者を審判するという旧約の明瞭な思想を見せてくれる。誰もが解りやすいことだが問題は目の前の現実はそうではないことにある。

正しい人の苦痛は主が放って置かれて、悪者はやること全部繁盛して、苦しみを知らず、肥沃に暮して死ぬように見える。

'正しい者に恵みを下さる神は今何をしておられるのか?'と、あやうく足を滑らせ一步一步を踏み誤りそうになっていた詩篇記者は告白している。今も神に近くにいることが幸であると悟って肉体の本能に逆らって天国に属された人生として信仰で生きているけどこのような問題で足を滑らせた人が往々あるとよく聞かれる。

イエスは愛するラザロが死ぬ病にかかっていることを知って直ちに行かれなかった。ラザロが死んでから四日目に現れたイエスの御前で、それまで押された痛心と傷でマリアは泣き出した。'主よ!私たちが待っていたときに来てくださったら!'これは詩篇記者の気持と同じである。'私を私より愛する主だと知っているのに、なぜこの嘆きに答えてくださらないのですか?どうして耳を覆って聞かされないのですか?どうして悪者の高慢をただ見ていらっしゃいますか?と嘆くのは主を知っているから出てくる告白である。

私たちの現実は悪者がまるで歴史を導いていくように見える。高慢なものは神を怖がらず、神はいないという思想を伝播している。より悲惨なことは、教会までも世俗化に染まっている事実である。'神の民までも彼らに騙されて水を飲むように彼らの言うことをそのまま受けてつられて言う。神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか'(詩篇73:10~11)

足を滑らせた人は目の前にある世俗を憧れて信じてしまう。神を過去の存在として信じる。祈祷しても現実的に答えがないので少しの時間がたったらがっかりしてしまうのだ。

現在私たちの状況は正しい人が滅びるように見える。しかし、そのなかで神の国は完成に向かって進んでいるのだ。極端主義武装団体イスラム国家(ISIS)がエジプトのコプトクリスチャンを迫害するときに彼たちは主の御名を否認しなかった。殺人と暴力で満ちているイラン、イラク、シリアなどでも今も主の御名を信じる者の数を増やされて真実に福音の歴史をなされている。

しかし主の国の成就を信じながら祈祷の場に行って、悪者の繁盛の前で答えが遅い時に希望が揺れのが当たり前のことで、落胆はつらい苦痛になる。

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