“危機は御言葉に命をかけない人がいない現実である”

Date

2018年7月15日

全知全能であり、栄光に輝く神の御言葉は神の人を完全にさせて、神のすべての良い事を行う能力を整えられるのに完全であり、十分である。(テモテへの第二の手紙 3:15~16) 神をなくされた人生が成功的で後悔のない生を生きるために命綱のように握る指針として下さった律法の核心は単純で申し分なく確実である。(申6:4~9)

真理が生になるように

有一なエホバ神を心を尽くして、精神を尽くして愛することと命じられた。この命令は神を愛する人が取るべきの順従の基準である。まず、御言葉を心に刻みなさいと言われた。心に実際になるように命をかけて順従しなさいという意味なのだ。そして、一番愛する子供に手まめに教えようと命じられた。これが、親が子供に与えられる一番良いもの、親の役割の核心であろ。

“家に座っているときも”神の御言葉は家庭生活の完全な指針である。神の御言葉はただ礼拝の時だけ必要なのではなくて、正しい親の役割、子供の役割のために必要なすべてに秩序と原理が全部御言葉の中に入っているのだ。“道を歩く時も”だけではなく神の御言葉は社会生活の原理になるのだ。神の民は‘寝ている時も起きている時も’(申命記6:7)生のすべての瞬間になまかじりに習った罪人の知識と思想と価値観とシステムではなく、御言葉によって神の民らしく生きて行くべきである。世間は奪って、踏みにじって、征服しろって言うのではないか?!しかし、神の御言葉は仕えて、低くなって、あげる事が価値があるというのではないか?このように神の御言葉に従って神の民らしく生きる者は、たとえ地を踏んで生きているけど天に属した者であるのだ。

“これをしるしとして自分の手に結び、覺えとして額に付けて”神の民の知識と行動、人格と人生と使役は“御言葉通り”であるべきだ。聖書の思想と原理が生き方と使役ににじみ出なければならない。世間の人々になれた人格とは違わなければならない。“ あなたの家の戶口の柱にも門にも書き記しなさい。”イエスを信じる家庭は誰が見ても解るように神の御言葉の原理で武装して、徹底的に教えるべきであるのだ。

この地の知識と方法と哲学に従って生きるのに若干の助けになるように聖書の知識を押し詰めることを言うのではない。一週間に一回聞いた説教で満足をして、生き方は自由にして賢く生きろということではより違う。神の民、神の子供であれば神の御言葉がその人格と人生になるように教える事を言うのだ。

今は世間は面と向かって神を逆らっている。末期的な症状を見せるこの危機の時に、一時改革された教会までまた人本主義、世俗主義、知性主義、多元主義などの世間の風潮に膝を折っている。発達された印刷術のお陰で聖書は沢山持っているが、心から御言葉を奪われてしまった。その心に神の御言葉が刻んである人、御言葉に命をかける人すらいなかったら、それこそ真の危機ではないだろうか。<続く>[福音祈祷新聞]

キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。 LOGミッション代表)

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