[チェ·ヨナコラム] どもり人生
音戦争(1) 小学校に通っていたいつからか「どもり」を始めた。どういうわけか、自分が考える言葉と表現が頭の中だけでぐるぐる回って、実際に話そうとするとぎょきぎょきと詰まり始めた。最初は急いで話そうとしたので、詰まるようになったからかもしれないと思った。しかし、時間が経つにつれ、どもる症状はますますひどくなっていった。幼い頃から始まったどもり症状が成人になっても影響を与えるとは本当に思ってもみなかった。今でも忘れられない最も恐ろしい授業時間があった。それは「国語の時間」に先生が生徒一人ずつ本を読ませる授業だった。授業開始前から死にそうだった。脈拍と心拍数は急激に上がり、呼吸は荒くなり、先生と目を合わせないように姿勢を下げた。何より先生の目に触れないように隠れてる努力をする自分の姿が本当に気の毒だった。 ヨナ預言者によって地中海の海が揺れ動き、船が沈むようになると船頭たちは自分たちが仕えていた神(god)の名前を呼んだが、私も授業時間になると幼いのにあらゆる雑神の名前を呼んだ。この問題さえ解決してくれれば何でもすると、この困難さえ乗り越えれば何でもするというほどどもる症状を持っていた私にとって、学校の授業時間はとても大きな苦痛の時間だった。特に、前に出て発表したり、本を人前で読まなければならない日には、深い侮蔑感と羞恥心、そして嘲笑に耐えなければならない三重苦に耐えなければならなかった。 学校に行かないために仮病を起こしたり、あちこち町の周辺をうろついたりもした。だからといって、毎日学校を抜けるわけにもいかない状況ではないか。いよいよ私の番になって席を立って本を読み始めた。 「朝、バ、バ、バ、バ、バク、」 どもりながら読む自分の姿も嫌だったが、一緒に授業を受けていた友人たちも情けないように私の顔を眺めているのが、その状況があまりにも恥ずかしかった。 そばでくすくす笑っていたり、授業が終われば真似してからかう姿が耐え難い人生の苦痛だった。同じ単語と音節を繰り返しながら、私も知らないうちに特異な体の行動をし始めたが、それは目の視線を他のところに置いて落ち着かせようとする試みだった。ある瞬間、どもることを回避するために私の生存本能は文章を変えたり、単語を他のものに対峙したりしながらどもるという姿を隠そうと必死に努力した。 どもる原因はいろいろあるという。環境的な要因、心理的な要因、言語的な要因、情緒的な要因、そして遺伝的な要因が複合的に作用するというが、言語障害であることが明らかな病気の一種だ。どもる人生を生きるようになって形成された私のアイデンティティは多分に消極的で、内向的ですべてを否定的に考えさせた痛いアキレス腱になった。それで私にとって最も怖かった時間は「本を読む授業時間」であり、人前で「発表する時間」になった。 「どもり人生が社会に必要なのか」「どもり人生が人の役割を果たして生きていくのか?” 両親のため息と心配を後にして、学生時代を過ごしながら私はこの地で正常な人生を送るという期待は最初からしなかった。誰もこのようなどもり人生を歓迎してくれないだけでなく、この社会に必要な存在だとは思わないからだ。大学に入ってイエス様に人格的に会った後も、このような考えは変わらなかった。どもりながら視線をうまく合わせることができず、ひどくまばたきしながら同じ音節と単語を繰り返し、代名詞をよく使いながら単語を倒置するどもり人生を本当に恥ずかしがった。 「どうやってどもりながら説教ができるの?」「どうやって言葉をどもりながら賛美のリーダをすることができるのか?」「神様は私のような人を使うことができるのか 私はヨナ書を読む度にそのヨナの話が聖書に記録された神様の言葉を越えて私の人生を触る「神様の息吹」として近づいてくる。なぜなら、そのように預言者として資格がなく、逃げて、隠れてしまおうとする人生を私も生きてきたからだ。 「どうしてヨナのような人が預言者と呼ばれたのだろうか」 「どうして私のようなどもりの人生が説教者と呼ばれたのだろうか?” イエス様を信じた後も、私は信仰の根拠が人の知恵になく、聖霊の現れと能力にあるとおっしゃった言葉が私の人生に実在にならなかった。 しかし、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知惠であるキリストを宣べ傳えていらっしゃる。 「ところが、神は知惠ある者に恥をかかせるため、世の無學な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント人への第一の手紙第一1:27-28) [福音祈祷新聞] このコラムは筆者の著書「音戦争(うつぶせ出版社)」から著者の許可を得て抜粋、掲載します。 |チェ·ヨナ宣教師|総神大神学大学院卒。国際OMイスラエル所属。 CCCとYWAM礼拝導者とリーダで使役。著書「君が私の栄光を踏みにじった」(2020)に続き、最近これまで私たちが逃していた「神様の声」を渇望する気持ちで2023年11月<音戦争>を出版した。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org
創作クリスマスキャロル「雪が降ってる」
イエス·キリストの誕生を称えるクリスマスの嬉しい知らせを伝えるための創作クリスマスキャロル「雪が降る(Snow is falling down)」がソプラノのチン·ユンヒ、テナーのリュ·ジョンピルによって最近発表された。 この曲は作曲家であり編曲家であるチャン·ミンホ教授の曲に声楽家で劇作家、作詞家であるイ·スンウォンの歌詞で世の中のすべての痛みと悩み、心配を白い目で覆ってあげたい気持ちを込めた。 ロシアのレニングラード州国立交響楽団の演奏で曲の完成度を高め、グラミー賞クラシック部門最高技術賞を受賞したサウンドミラーコリアのファン·ビョンジュン代表がマスタリングを担当し、多くのキリスト教音楽アルバムのプロデューサーとして活動したチャ·ヨンウン代表(ナヌミュージック)が製作を担当した。 音楽学博士でグリ聖光教会聖歌隊指揮者であるチャン·ミンホ教授(サンミョン大学ニューメディア音楽学科)は「この曲はイザヤ1章18節の『 お前たちの罪が 緋のようでも、雪のように白くなることができる』という聖書の言葉を黙想して、戦争と暴力、不義の中で苦しむ人々を慰め祝福と平和の便りを伝えるクリスマスプレゼントになることを願う」と曲を紹介した。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org
ただ信仰の人、アブラハム!
ただ!絶対! みんなの福音!(8) 聖書が注目する人々がいる。 アブラハムとダビデ、新約ではパウロだ。 まず、信仰の先祖として知られているアブラハム。彼の信仰はただの信仰ではなかった。「ただ信じる」だった。彼の生涯は信仰を抜きにしては説明できない。聖書はアブラハムの生涯を絶えずに追跡しながら彼の信仰に注目している。 聖書は旧約の結論であるハバクク書2章4節の言葉で結論を宣布している。 「神に従う人は信仰によって生きる」ロ―マ人への手紙で1章17節でもその偉大な宣言を宣布する。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる 」と書いてあるとおりです」ただ良い信仰、熱心に信じる信仰ではなく「信仰によって生きる」を、「絶対信仰」を言っているのだ。 アブラハムが信仰の先祖だと言われる時、神は彼に信仰はどのようになければならないのかを話された。神様は一人の人生を通じてただ信仰を啓示してくださる。 これは教義的に、神学的に同意するレベルではない。「私はそれを信じます。ただ信仰です」と告白するレベルで終わるのではない。神様はアブラハムの生涯全体を主が使われて、ただ信仰という言葉が何を意味するのか混沌しないように啓示してくださった。 なぜなら、ただ信仰であってこそ、私たちが義とされて、そうしてこそ救いを得るからだ。私たちが失った「ただ、絶対、全部」が実際になるように生きて居られる神様に会うことが起きなければならない! ハレルヤ! ローマの信徒への手紙第4章で、ただ信仰だったアブラハムの信仰について見てみよう。 「では、私たちがアブラハムを肉による先祖としていることについては、何と言うべきでしょう。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。」(ローマの信徒への手紙4:1~3) アブラハムが義と認められたすべての根拠は、彼の行為や彼自身になかった。徹底的に信仰によって神様の前に義とされた。彼が信じた信仰は神様が見るにはどんな信仰だったのだろうか? 「「私はあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。「あなたの子孫はこのようになる」と言われているとおりです。およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。」(ローマの信徒への手紙4:17~22) それはただ信仰だった。生きていらっしゃる神様を聖書が言った創造の主であり、全能の主よ、永遠の主として、完全に神様を神様と信じたということだ。 ひたすら信仰でだ。アーメン。(2018年8月)<つづき> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org
[TGCコラム] サタンに何かあったの?
先日、私はイエス様の山上の説教を説教しながら、イエス様のように永遠の審判を扱った。主の口から出た言葉である以上、私はいくら不便な真理だとしても決してそっと避けながら聖徒たちにお世辞を言わない。考えてみよう、イエス様が本当に滅亡に導く広い道に関する警告と神様と財物に同時に仕えることはできないという内容、そして怒りと情欲が地獄の火に至らしめるという事実を伝えることが重要だと考えたなら、その方に従う人として、またその方の言葉を宣布する人として、私たちには他の選択の余地があるだろうか? 聖書にありのままそのメッセージを伝えること以外にない。それが現代人の耳にいくら恐ろしくてもだ。 礼拝が終わった後、ある女性が私に近づいてきて、「これまで多くの教会に通ったけど地獄について話す牧師を初めて見た」と話した。 彼女はその重要なメッセージを大声で宣言してくれてありがとうと言った。しかし、彼女は地獄という言葉をほとんどささやくように言った。まるで呪いの単語として乱用される地獄がその力を失ったように、しかし同時に依然として秘密であるかのようにだ。しかし、信実な信者たちは、その単語が依然として正統キリスト教の一部だが、それでも私たちが声を出して言ってはならない誰かの目的地であることを知っている。 このすべての状況が私の好奇心を呼び起こした。いや、審判を言及せずにどうやってイエスを伝えるのだろうか?イエス様のその多様な比喩をどのように説明するというのか?滅亡に対するイエスの継続的かつ一貫した警告をどのように処理できるのだろうか?これで終わりではない。イエスは確かに二者択一との対照を強調した。たとえあなたがパウロと他の使徒の教理にそれほど気を使わない、教団を越えた急進キリスト教徒(red-letter Christian)だとしても、滅亡と消える魂を警告したイエス様の肉声(the redletters)と地獄を象徴する死なない虫と消えない火のイメージまで無視することはできない。 グッバイ、サタン 地獄がないという事実と最も密接な関連を持つのは消えるサタンだ。 ますます多くの教会で神様と神様の民に対抗して戦争を繰り広げるサタンや鬼、勢力と情事に関する話を聞くのが難しくなっている。文字通りサタンが消えた。そうだ。恩師主義教会や五旬節教会にはたびたび現れるが、ますます裕福になり教育水準が高くなる福音主義教派では事情が違う。サタンという告訴者に関するイエス様と使徒たちの言葉の前で人々は震える。 悪魔がすべての問題の背後から覗いており、サタンの影響力が聖書の証言を歪曲する方式で過度に強調される他の信仰伝統に蔓延した一種の誇張を避けたがる牧師たちがいることを私は知っている。だから節制された方式で行った方がむしろましだということだ。ところが、このようなアプローチには唯一の障害物がある。それがまさに聖書だ。聖書だけでなく教会史も同じだ。そして非西欧地域にいるすべての兄弟姉妹も同じだ。 だから基本的に聖書がこのような態度に反対しており、キリスト教歴史の中のすべての信者もそうであり、また西欧キリスト教を除く他のすべての地域の信者も同じだ。 私たちは今、かなり変わっている。にもかかわらず、この問題に関する我々の沈黙はかなり精巧だと思われている。 サタンが消えて生じた様々な余波 問題はこれだ。サタンについて説教しなければ、聖書が証言する罪と救いではない。せいぜい一般的な善悪に区分される心理治療的で世俗的な範囲を越えることはできない。 地獄について全く言及しなければ、あなたが話す福音の中には緊迫感があり得ない。あなたが伝える福音は、単に人々が聞きやすくて、より満足そうな生き方にすぎない。これがまさにインスタグラムインフルエンサーから仏教徒に至るまで、皆がすることだ。 あなたが悪魔のことを全く話さないなら、当然天使も言及しないだろう。これは何を意味するのか?聖書が実在だと言う霊の世界を、すなわち見えない領域を本当だと思わないことを意味する。あなたは、御言葉から外れた宇宙観を持つ貧弱な想像力の持ち主である。しかし、古代教会は明らかに聖書の主張を確証した。そして今、世界の教会はそれに参加しています。 さらに天使、幽霊、サタン、地獄に対する貧弱な見方は、私たちが罪と戦う時、神様を正しく礼拝しようとする時、そして神を知り愛する心の純潔を追求する時、私たちの弱めになる。サタンの喪失はキリスト教徒の人生の脈絡が変わることを意味し、霊的戦場がいつのまにか平和な慰労と成就の現場に変形したことを示している。 永遠という持分の重さを減らす キリスト教が言う永遠がかかった問題の重要性を低くする時に伴う必然的な結果は、結局些細な問題がより重要になるということだ。イエス様と使徒たちが伝えた生死の緊急性を受け入れない時、どんな結果が生じるだろうか?生死の緊急性を他の問題に挿入することで、世の中の問題を実際より大きく見せかける。 これが西洋の教会で目撃する現実だ。私たちが宇宙的観点を失い「この世」と関連した人生の側面だけを強調する時、未来の審判という厳重な現実を軽視する時、私たちは結局永遠の正義に対する希望さえ失うことになる。 これは結局、地上の正義だけが私たちに残った全てだと認めることになるのだ。したがって、この地で完全な正義を達成しない限り、私たちは決して正義が究極的に実現する現実に出会うことはできないという意味だ。 「この世」しか残っていない人々に残された結果は何か? この世で追求する各種正義追求は事実上生死の闘争になる。 本当に深い関心を持たなければならない何かを探す過程で戦わなければならない本当の戦争の代わりに、私たちは休まず続く小さな戦闘に魅了される。偉大なドラマを逃した人の目には、この世が作る小さな世俗的ドラマが重要に見える。 イエス様のように教えているのか? 私は今日の人々にサタン、地獄、天使、悪魔に対する説教がどのように近づくか深く悩むことなく、生半可な説教を勧めない。状況化は重要だ。そのため、神様は私たちに言葉を解釈しろと説教者をくださった。ただ言葉は声を出して読むことで終わらない。いざ必要なのは聖書が教える内容を注意深く説明し、聖書が書かれた当時と今の文化的距離を認めながら、人々が世の中を違う方式で見るよう招待することだ。 しかし、いくら細心に配慮するとしても変な点を全部なくすことはできない。だからといって、現代人の耳に奇妙に聞こえるすべての部分をなくすために努力してはならない。特異な点は目につくものだ。 私たちがイエス様を見習ってその方を伝えるイエス様の宣言者になれば、イエスがおっしゃったすべてのこと、ひいては今日の私たちを不便にさせる部分までも苦心しなければならない。それは独善で神様の恩恵と慈悲を拡張できない人や巧妙さで審判に対する警告を笑う人に向けたイエス様の二重的な攻撃も含まれている。 正統的で健全な信仰告白を固守する教会も、いくらでも聖書が強調する教えに重きを置かないことができる。正しい教理に従いながらも、それにともなう適当な厳重さを持ってその教理をまともに扱わないことが可能だ。 今日、サタンが信者たちの感覚を鈍らせるために使う最も簡単な方法の一つが、牧師たちがイエス様のように話さなくても、まるでイエス様に関する真の教えを伝えるように説教させることだ。 [福音祈祷新聞] 원제 : Whatever Happened to Satan? トレビンワックスTrevin Wax | Life Way Christian Resourcesの神学とコミュニケーション学科の副学長であり、Wheaton Collegeの外来教授であり、The Gospel Projectの編集者である。 「ディス·イズ·アワー·タイム」、「歪んだ福音」、「私たちの時代の6つの偶像」、「Gospel Centered Teaching」を多数の本を著した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org […]
[GTKコラム] ヨセフのように成功するキリスト教徒?
ヨセフは聖書に出てくる人物で、兄たちの嫉妬心でミディアン商人たちに奴隷として売られたが、神様が共におられてポティファル将軍の家の管理者になった(創世記37)。ボディバル将軍妻の誘惑に屈しないと、監獄に収監されたが、彼は監獄でも看守長の信任を受け、獄中囚人を管理する管理者となった(創39)。 そして、最終的にはエジプト王であるパロの夢を解釈し、パロの信任を受けてエジプトの首相になった(創41)。7年間の豊作が過ぎ、7年間の凶作が来た時、ヨセフの兄たちも食べ物がなくてエジプトまで来て穀物を買うことになるが、この時彼らは総理になった自分たちの弟ヨセフの前にひざまずくことになる(創42)。 ヨセフの兄たちは彼が自分たちに復讐をするのではないかと心配したが、彼は兄たちを許してこのように話した。 しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5) 死んだと思ったが、生きてエジプトの首相にまでなったヨセフによって、彼の父親をはじめとするすべての家族がエジプトに来て暮らすことになり、エジプトのゴセンの地に定着することになった。 このようなヨセフを見て、多くのキリスト教徒は夢を見る。神様の意思が天のように地でもなされることを願うのではなく(マタイ6:10)、自分がヨセフのように偉大な人物になることを夢見る。ある説教者たちは、神様が共に居られたらヨセフのように成功できるとし言いながら若者たち、起業家たち、中小企業社長たちの心に希望の火種をつける。彼らは成功して家族を含めて多くの人を食べさせる人になるという大きな夢を抱けと言う。この文を書いている筆者の英語名はヨセフだ。そして、この英語の名前をつける時、彼の心にヨセフのように世の中で成功しようとする気持ちがなかったとすれば嘘だろう。 筆者がこの文で見せたいのは、まさに私たちの心に非常に巧妙に定着している欲と傲慢だ。私たちは生まれつき他人と同じような生活をしたがらない。事業をするならば小企業ではなく大企業を築きたいと思い、先生をするならばある地域の高校の先生ではなく有名なスター講師になりたがる。牧師も列外ではない。神学校の卒業生たちは、ある地域の小さな教会の信実な牧師ではなく、一時代を風靡する有名な牧師になることを望んでいる。 筆者はキリスト教徒が社会的に特に人気のある有名人になること自体を批判しているわけではない。どの時代でも、誰かは有名になり、自分の職業で非常に有能で人気のある人物になるだろう。しかし、問題は特別に社会的または経済的に成功することを目標に生きていくキリスト教徒の若者たちの心だ。私たちは世の中で社会的、経済的に最高になることを人生の目標にして生きてもいいのか?成功したヨセフのような人物を見て、私たちは大きな夢を見て、ただ一人の偉大なこの時代の偉人になることを願ってもいいのか? 真のキリスト教徒の目標 キリスト教徒が誰かを簡単に表現すると、彼は自分の罪を悔い改め、自分の罪を代わりに負って十字架で亡くなったイエス·キリストを救世主と信じ、今や自分の十字架を負ってその代価として死ぬとしても復活した主のみ言葉に従って生きていく人だ(マタイ16:24-26)。それなら、キリスト教徒の人生の目標は非常に単純だ。それは、主の言葉に従順する人生だ。 目標は旅行者の目的地と同じで、目的地は旅行者の行く方向を左右する。私たちの目標が本当に神様の意思がなされることなら、この目標は私たちが真実に(コロサイ3:9)、責任感を持って(コロサイ3:22)、情熱的に(コロサイ3:23)、勤勉に(箴言21:5)、自分に与えられた才能と機会を十分に活用して職業を得て仕事をし、福音を伝え(マタイ28:18-20)、主の中での兄弟·姉妹を愛するように(ローマ12:10)導くだろう。だから、自分が神様がくださった救いの恩恵を価値なく受けた者として、今日一日主の言葉に従って最善を尽くして生きているならば、どんなに収益があってもどれほど社会で認められるかに関係なく、すでに目標を成して生きているのだ。そして、このように生きていけば、私たちはますます経済的または社会的な結果に対する執着から自由になれる。 しかし、逆に私たちの目的が年俸10億も最も有名な俳優になることだとすれば、私たちはどんな手段と方法を動員してでもそれらを得るために慌てるのではないか?そして成功のために嘘もつき、悪い手段を使って事業をしながら「成功して献金をたくさんすればいい」と、考えて怒った良心を鎮めようとするのではないか?そんなに病気の良心を抱いて日曜日に教会に行って、無駄に涙をぬぐっては何事もなかったかのように、再び私たちの目標を達成するために罪を取り上げ、良心をバラバラに引き裂いてしまうのではないか? この時代の夢多き若者に訴える。私たちの夢は、今日キリストの言葉に従うことだ。今日、この文を読んだら、静かに自分自身を振り返ってほしい。今日、キリストの言葉に従うために全力を尽くして生きていくキリスト教徒は、毎日成功している最中だ。しかし、成功した未来の自分の姿を眺めながら全力を尽くして生きていく若者たちは、主の意思(言葉)を無視する人か、あるいは最初から生まれ変わったキリスト教徒ではないかもしれない。 1912年4月15日、タイタニック号は6回にわたる警告を無視して航海を続け、氷山にぶつかって沈没した。彼女の華やかさは一瞬にして暗い海に姿を消したのだ。私たちの人生も同じだ。今この文のような警告の言葉を聞いた時、心を謙虚にして良心の声に耳を傾けなければならない。これまで目的地を誤って設定して誤った道に進んでいたなら、今悔い改め、主に向かって正しい方向に旋回することを切に願う。 マタイによる福音書16章24-27節 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 [福音祈祷新聞] キム·イェジュン|マスターズ神学校でThMコースを修学中であり、現在米国LA近郊のグレンデールにあるグレース聖書教会で青少年使役を担当している。 GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
神様が完璧に創られた世界を人間が壊した
創世記1章30節はこう言う。”また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。” 洪水の前には地球上に住むすべてのものが植物を食べていた。パンダの歯は鋭い。見た目は肉食動物の歯のようだが、そうではない。中国にあるシカは、軍刀(刃の曲がった長い刀)歯、虎のような歯を持っている。シカも草食動物だ。フルーツコウモリ、菜食猿も鋭い歯を持っている。 創世記9章で洪水が終わった後、神様がノアと息子たちを祝福しながら生育し繁盛するよう命じた。 そして神様は「地のすべての獣が君たちを恐れ、君たちを恐れるのか」とおっしゃった。洪水の前の動物は人を怖がらなかった。しかし洪水の後、最初の変化は動物が人を怖がり始めたことだ。2番目の変化は動物を食べ始めたという事だ。 「ノア、すべての山にいる動物はあなたたちの食べ物になるだろう。これからは肉を食べてもいい」 私たちが食べるほど動物は苦しむ。神様は完全な世の中を創られたのに、人間がそれを破壊したのだ。人間がこの世に罪と死亡をもたらした。 洪水の後、動物たちは人を怖がった チャールズ·ダーウィンはこのように述べた。「私は混乱している。 無神論的に書く意図は全くなかった。しかし、この世には悲惨な事があまりにも多いようだ」 ダーウィンはなぜ神様がこの苦痛のある世の中を創られたのかとても理解できなかった。決して神様は苦痛のある世の中を創られたわけではない。しかし、チャールズ·ダーウィンは戦争と飢饉と死が私たちをより高い段階に引き上げると考えた。それはまさに今教える進化論である。「死」は進化論者の陰謀の英雄だ。しかし、聖書は神様が完璧な世の中を創られたと言っている。そんな世の中を人が壊した。 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマの信徒への手紙5:12) 神様が苦痛を創ったのではない これはアダムの過ちだ。壊れた車を持って「なぜこんな車を創ったのか」とメーカーのせいにすることはできない。メーカから出る時は完璧な姿だった。今、私たちは廃車場に住んでいる。私は地球に住むのが好きで、アメリカのノックスビルが美しいところだと思う。しかし、これはアダムとハワが見たものとは比べ物にならない。廃車場に過ぎない。しかし、神様が再び直してくださるだろう。 いつかは「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。」(イザヤ書11:6)という言葉が叶うだろう。子供がヒョウやライオンを導く姿を想像できるだろうか? 「ママ、私が見つけた大きな猫を見てください。飼ってもいいですか?」 「もちろんよ、大きな猫を裏庭に連れて行って草を食べさせなさい。」ライオンは草を食べないと抗議するでしょうけど、いつかはそうなるだろう。「獅子も牛のようにわらを食べる。」(イザヤ書11:7) カナダに住んでいるある人が自分の庭にいるクマを撮ったビデオには、クマが2時間草だけを食べていた。聖書は語る。「百歳で死ぬ人は若者とされ(イザヤ書65:20)、キリストと共に千年の間支配した。」(ヨハネの黙示録20:4)聖書で非常に信念的な節が多くないが、ここではこの世代の終わりに千年という時間が来ると記録されている。あなたが救われたなら、ここで千年住むことになる。すべてがエデンの園の状態に回復したままでだ。子供たちは恐竜のペットを個人的に持つことになるだろう。とても楽しいだろう。その後、主が新しい空と新しい土地を造られるだろう。 <続く>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
進化論に基づく薬物療法vs創造論に基づく栄養療法
英国海軍は壊血病という恐ろしい病気で100万人の兵士を失った。 そんな彼らがどうやって壊血病を治療したのだろうか?ビタミンCだ。当時はビタミンCという名称を知らなかった。しかし、ライムを食べるとその病気が起きないことが分かった。今、私たちが経験する多くの病気はビタミン不足によって引き起こされる。私たちは食べているもののために死ぬのではなく、食べていないもののために死ぬ。ビタミンBを十分に摂らないと、脚気になる。 聖書は語る。 「人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。…··· パンは人の心を支える。」(詩編104:14~15) 人々は小麦からビタミンE、レシチン、オメガ3脂肪を取り出し、白い小麦粉でパンを作れば、パンが数ヵ月間も維持されることを発見した。しかし、その後、人々が心臓麻痺と中風と循環障害などで死に始めた。簡単な公式だ。パンが白いほど人間の寿命を縮めた。白いパンが私たちを殺すのではなく、そのパンの中にない成分のためだ。神は心臓を強くするためにパンを作った。しかし、パンを作って売る人たちは、その日作ったパンの半分を棚で腐って売ることができないのがもったいなかった。それで収益を高めるためにパンを長持ちさせる方法を考案し、このような結果をもたらした。 健康に対する二つの哲学がある。一つは進化論に基づいた薬物療法だ。体は数百万年間偶然集まった化学物質に過ぎないため、病気を治療するためには化学物質をもっと入れればいいということだ。頭が痛いとき、医者はアスピリンを飲むように言う。しかし、考えてみなければならない。何が頭を痛めたのか? アスピリンが足りなくて頭が痛いのかな?私たちは原因ではなく症状を治療している。 例えば考えてみよう。高速道路を走行する時、燃料タンクに明かりが点いたら、私たちは2つを選択することができる。問題の原因を見つけて直したり、灯を消してしまったり。しかし、灯を消したらそれは愚かなことだ。灯は問題があるというサインだ。頭痛も体の問題があるというサインだ。マグネシウムやタンパク質欠乏など。しかし、最近私たちが飲んでいるほとんどすべての薬は灯を消す役割をするだけだ。問題の原因を解決するものではない。薬に無条件に反対するわけではないが、今の私たちの薬依存度は非常に高いのだ。ほとんどすべての病気は欠乏症だ。ビタミン、ミネラル、オイルなどが不足しているのだ。私たちの体は16種類のビタミンと60種類のミネラル、そして3種類のオイルが毎日必要だ。 すべての病気は欠乏症 1845年、オーストリア·ウィーンのシモワイズ医師は、病院で出産した女性の30%が死亡していることに驚いた。この医師は、医師たちが死んだ産婦を検査した後、手を洗わずに他の産婦を検査しに行くという事実を発見した。その時は微生物について知らなかったので衛生に対する概念がなかった。彼は自分のいる病院の医師たちに、死んだ死体を検査した後は必ず手を洗うべきだと主張した。すると死亡率が2%に低くなった。 3000年前、レビ記で神様がモーゼに言われた。「死んだ死体に触れた後は汚れたので、他の人に触れる前に手と体を洗うよう人々に言いなさい。」神様は科学が微生物を調べる3000年前におっしゃった。 医学に関するもう一つの哲学は創造論に基づいたものだ。これは体が神様によって設計され、神様が私たちの必要を満たす食べ物をくださったということだ。これを栄養療法という。野菜を食べて死ぬ人の割合は毎年0%だ。そして毎年3人程度がビタミンを飲んで死亡し、320人程度が非処方薬を飲んで死亡する。9000人程度が食中毒で死亡し、9万~11万人程度が正しく処方された薬を飲んで死亡する。これは誤って処方された薬を飲んだ場合を除いたものだ。ベトナム戦争で10年間死んだ数より2倍になる人々が毎年処方された薬を飲んで死んだ。 <つづき>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
永遠不変の絶対真理「ただ十字架!」
ただ!絶対! 全部の福音!(3) 社会的にも文明的にも21世紀を迎えた私たちの外部の状況は侮れない。世間を相手にして救わなければならない教会である私たちが、この世の急激な変化に背を向けることはできない。天に属した民である私たちは世の中に送られた者たちだ。 しかし、天に属した神様の真理に従って生きていく私たちをイエス様は狼群れの中で羊を送るようなものだとおっしゃった。必ず食べるのが本能であるオオカミの前に羊を置くようなものだとおっしゃったのだ。このような世の中で天国の原理と価値に従えという言葉は、「食われる」という言葉と変わらない。しかし、この世の中は肉体を着て生きていかなければならない私たちの生活の基盤であり使命地だ。だから私たちはそっぽを向くわけにはいかない。 今は第4次産業革命時代だと言う。以前は想像もできなかった価値観とライフスタイルが目の前に迫ってきた。今や私たちが迎えている時代は予測不可能な状況なのだ。融複合時代である第4次産業革命の驚くべき変化のためだ。 しかし、混合された世の中で混ざったり変わったりすることもできず消滅することもできない絶対真理がある。嵐の渦の中で揺れないようにつかまなければならないものがある。世間と決して混ざることも、変わることも、消滅することもできない絶対真理をつかまなければならないのだ。 天と地で唯一生きて居られる真の神はただ神様しかいない 罪人たちのアイデアから出てきた数多くの神の名前があるが、聖書に書いてある通り上に天と下に地に唯一生きている真の神はただ神様しかいない。聖書が証言し、私たちに知らせてくれたこと、その方は創造の主であり、今もこの歴史を統治されて、将来審判なさる生きているエホバ神だけが唯一の神だ。 そして神様が全天地万物の中にその神聖の充満さを能力で創られたすべての万物の中に啓示して下さったが、唯一神様が人類を救うために特別啓示を盛り込んだ唯一の神様の言葉はまさに聖書だ。それだけが私たちが選ぶ唯一の真理だ。 多元主義であれ相対主義であれ、人本主義に満ちているこの世の中はお互いの相対的な価値を認め、「絶対者」「ただ」「十字架」という単語を嫌う。 「イエスだけを信じて救われる。」という言葉の代わりに、私たち皆が一緒に多様性を認め、共に対話しながら一緒に一つになろうという。しかし、聖書が宣言した永遠不変の絶対真理はまさにこれだ。 「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤの信徒への手紙1:7~9)。 (2018年8月)<続き>【GNPNEWS】 キム·ヨンイ宣教師巡回宣教師。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
霊的ハンターの攻撃に勝つ力「十字架」
ただ! 絶対!全部の福音!(2) 神様も知らずに真理も知らないまま死亡の道を歩んでいた異邦人ガラディア地域内に福音伝道者を通じて叫ばれた福音が想像できない神様の能力で広がっていった。そして迫害と患乱の中で教会が生まれ始めた。到底不可能だったその地域に初めて埋もれた福音の種が聖霊の大きな権能で衝撃的に感激的に神の国の権能を示し、教会が生まれ始めた。 迫害と患乱の中で生まれたガラディア教会 異邦人出身だったガラディア信者たちは、神様の驚くべき福音を理解して衝撃と感動を受けて心が熱くなった。立てて間もない教会が情熱的に神様の前に福音の反応を見せ、急激な変化が起きた。本当に神様の能力だった。ところが不思議なことに教会が立ったら、そこに教会を散らそうとすることも同時に起きる。ユダヤ人の中で信じたとはいえ、自ら非常に正統なユダヤ人だと言う者たちが来てパウロが去っていない間に、今新しく生まれ躍動的に熱くなっているこのガラディア教会を掘り起こし始める。 ユダヤ人は自分たちの霊的な既得権を持って信じてから間もない人々のルーツを揺るがし始めた。「割礼を受けなければならない。 律法を守らなければならない。福音だけではだめだ。ただ十字架だけではだめだ。」ガラディア地域の教会は存立が難しいほど大きな衝撃と混沌に陥ることになった。 彼らに向けた混沌とさせる偽りの挑戦の中で嵐のような時間を過ごしていた教会に向かって、パウロはガラテヤの信徒への手紙で簡単だが強力な真理を宣言する。真理から外れて混ざり合い混沌とさせる偽りの教師たちに対して、霊的な狩人たちに向かって、そこに迷い込んでいる愚かなガラディア教会に向けて神様の福音を強く提示する。 偽りの挑戦の中で教会に対する強力な宣言 「しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。この基準に従って進む人々の上に、また、神のイスラエルの上に、平和と憐れみがありますように。終わりに、誰も私を煩わさないでほしい。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです。きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように、アーメン。」(ガラテヤの信徒への手紙 6:14~18)(2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 巡回宣教師。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
福音の能力
この時代の悪行に関するすべての統計を私にくれ。可能であれば、悪を行うすべての者の名前を言ってほしい。できれば、破壊された家庭と停滞状態に陥った教会の名簿をくれ。できれば、大国が世界支配のために開発した秘密兵器のリストをくれ。これらすべてをあなたが私に与えても、私は震えたり涙を流したりしない。 「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(ヨハネの手紙一:4:4)この言葉を覚えろ。もし神様が私たちの内にいらっしゃらなければ、私たちのすべての希望は消え、我が国のすべての教会が門を閉めなければならないだろう。しかし、もし主が私たちの中にいれば、私たちのすべての愚かな行為を悔い改め、私たちのすべての肉体的なものから清さを得て、聖霊に満ちて勝利に向かって前進しよう!こうすると、地獄の門は決して教会に勝つことはできないだろう。 [福音祈祷新聞] 「神の方法で復興せよ(レオナード·レイブンヒル)」より抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
精神的混沌の時代の真っ只中で真実をしっかりつかめ
ただ! 絶対! 全部の福音! (1) 台風のような自然環境で近づく外的な困難だけでなく、私たちの内面の中にも本当に暴風のような時間を渡る時がある。私たちの生活が緩んで注意集中できない時に台風が吹き荒れると緊張もするが、一方で生きているということを感じることができてありがたい。誰もが恐怖の前に直面すれば、改めて考えてみることになる。台風に対する準備をしろと言われたら、窓にテープも貼りながら、揺れることはないか、飛ぶことはないか振り返ってみる。普段から適当にやっておいたものをもう一度点検することだ。 内面の中にも嵐のような時がある 我々の心霊も同じだ。自然災害は目に見えるものを脅かすが、本当に致命的なのは心霊の中で耐えられない激動が起きる時だ。とても大変で難しく、自分の意志が底をつく時、私たちはその時にもう一度考えることになる。 自分の心のあちこちに散らかってたものが嵐の時間を一度過ぎると交通整理ができる。信じるか信じないのか、これが頼るものかどうかも考えずに虚しいものをそんなにつかんで激しく格闘したのかを振り返ることになる。交通整理をしながらしっかり結ぶべきものは結んで捨てるべきものは捨てて、混沌していたものをもう一度整理仕立てるには危機の時間がむしろ役に立つ。 ガラディア教会も揺るがした嵐のような時があった。福音で変化されたガラディア教会は混沌の過程を経て外部の攻撃だけでなく、教会内に内部の攻撃もこっそりと入り混沌させ揺さぶった。内的·外的な暴風のようなこういう挑戦と威嚇が今私たちにも同じようにある。その時が普通の強い風だったとすれば、今は本当に台風のような複雑な時代を生きている。 ガラディア教会を揺るがした混雑して混沌とさせるいかなる挑戦も、大胆に真理の立場で拒否しなければならない。暴風の中に巻き込まれたこの霊的混沌の時代の真ん中で、神様がくださったその真理の中心、永遠に変わらない真理を堅くつかんで台風に巻き込まれてはならない。世の中の台風だけに巻き込まれないのではなく、霊的な暴風にも巻き込まれず、むしろその中心に堅く立ってこの世を救う神様の証人として立ちなさい。 精神的嵐に巻き込まれないで, しっかり立って証人として立ちなさい 嵐と台風が吹き荒れるこの混雑したこの世の真ん中で永遠に揺れない永遠の絶対真理をつかみ、福音が全部になって、生きて居られるキリストが全てになった者として立たなければならない。 ただ絶対という言葉を一番嫌うまさにこの世代の真ん中で、罪悪の嵐の中にある最後の時代の中で平凡と普遍という言葉で騙す欺瞞にだまされず、ただイエス·キリストの生命が全てになった信頼で立たなければならない。 (2018年8月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[TGCコラム] 神の贈り物、「芸術」が偶像になる時
人の余暇はその人の価値体系と心の状態を把握できる良い素材だ。現代人の大部分が任せられた色々な種類の仕事と人生の重さから来るストレスから抜け出す各々の「仮想現実」または「気分転換装置」を探す。そして音楽、小説、映画、ドラマ、ゲームのような様々な芸術ジャンルが現実逃避の世界に彼らを誘惑する。では、キリスト教徒は何をしながら余暇を過ごすべきか? 休むべきかな? ぎこちない質問だ。 余暇の内容にキリスト教徒と非キリスト教徒の区分ができないためだ。ところがキリスト教徒はこの余暇と「休息」を敏感に考えなければならない。 休みは神様が創造の時から決めておいた「宇宙的リズム」だ。神様は御自分の形通りに創られた民も、女奴隷と男奴隷、客も、さらに家畜も7日目の日に休むよう命じられた(出20:10)。十戒に含まれたこの命令は数多くの律法条項の中でも最高の、憲法と同じ綱領だ。主が制定したこの安息日には、すべての場所に火もつけてはならず(出35:3)、さらには土地も安息した。土地は7年になる年に安息し、そのように7回の安息年を過ぎた翌年、つまり50年目の年を聖別してヨベルの年として守らなければならなかった。このヨベルの年には土地が播種なく完全な休息を取らなければならず、さらに担保された土地も「解放」されて帰ってくることができた(レ25:8-13)。 神様が制定した安息日法の目的は休みであり、「奴隷生活から解放」に対する記念だった。 そしてこの「休み」は「美しさ」を伴う。神様は美しい被造物をご覧になって「極めて良かった」と言われた(創世記1:31)。 審美的にも感情的にも、その美しさに対する鑑賞と楽しさの中で「休息」を享受したという意味だ。出エジプト以後の安息日には「罪からの解放」を記念する感激と喜びの美しさが加わった。すなわち、「休み」と共に影のように「美しさ」が存在した。 そのためか、芸術の「美しさ」はこの世の苦難と圧制から抜け出す、「休息の類似機能」をする。著名なドイツ哲学者ショッフェンハウアーは美学的経験を描写する際、イクシオン(IXion)というギリシャ神話の登場人物を例に挙げた。イクシオンは存続殺人をしてヘラを強姦しようとしたが、ゼウスから地獄で絶えずに回る回転輪にぶら下がる労役刑罰を受けた。ショーペンハウアーはイクシオンのこのつらい労役刑罰を引用して「芸術は『イクシオンの止まらない車輪』にぶら下げて回る世の中の苦痛の中で安息日」と結論を下す。[1] この言葉の正確な意味は「芸術とは苦痛の世界で少しでも安息を経験させてくれる神からの贈り物」ということだ。 罪で堕落した世の中は神様を離れ、残された美しさの痕跡のかけらを合わせながら偽りの休息を享受する。その栄光の席に代わりに座る常連は断然「芸術」だ。時には崇高で卓越しており、称賛するほど美しく、「意味」というものも伝えてくれる。時には深刻なほど心の波長を起こし、心の深い中心に入れるほど心臓をときめかせる。ジョン·パイパーは「神様の最も大きな敵はその方の贈り物」と話した。[2] イエス·キリストが「言葉の種と心の畑」比喩を聞かせながら「その他いろいろな 欲望が心に入り込み,御言葉を覆いふさいで実らない」(マルコ4:19)とおっしゃったが、ここで「その他いろいろな 欲望」は悪ではなくむしろ神様の贈り物だということだ。特に芸術の美しさがそうだ安息の代わりに安息の類似機能である「麻酔剤」として使われる芸術の驚くべき機能を見てみよう。私たちは日常で(1)審美的で感情的な美しさを享受し、(2)辛い労役のような人生から解放感を感じる。 実際、現代には絶望に陥ったキリスト教徒が逃避できる芸術的装置がたくさんある。映画やドラマ、小説、音楽のようなストーリーを持ったジャンルの中に逃避する。心が沈み絶望している時、ベートーベンとラフマニノフのピアノ曲を夜通し聞いた記憶がある。深い感情に触れる旋律から慰められ、その和声の進行に想像力を広げた。すべてを忘れることができ、世の中のどんな幸福感とも比べ物にならない感情的満足感を感じた。歌詞のない美しい楽器の音はこの上なく澄んでいた。神様からの贈り物だった。主の前に遠慮のない「休み」であり「心の旅」だと信じた。数日間、その美しさに溺れて止まることもできず、眠れないほど没頭した。そして現実に戻った時、その幸せはどんな善良な実も結ばなかったことを見た。神様と深く話し合い、その方にすべての心配を任せた後と音楽で麻酔させた自分の感情の結果を比較してみた。それ以来、二度と一晩中音楽に夢中になっていない。 美しさに常に敏感で誰よりも深く享受していた習慣が「神の敵」になりうることを悟った記憶だ。そして主がくださった芸術の美しさを主の中で享受する方法、そして優先順位に主との関係を先に置く方法、芸術で真の安息を得る方法を着実に練習しなければならなかった。 絶えずに神様の席に偶像を置かせるのが人間の心の属性だ。カルバンは「心は偶像の父であり、手は偶像の母だ」と話した。[3]心に抱いたものが善良であっても、それが人間の心のどこかで神様に対抗する偶像になってしまい、必ず言葉と行動で偶像という苦い実を結ぶことになるという意味だ。例えばこうだ。キリスト教徒がある映画を鑑賞し、その映画で神様の大叙事詩を賛美することができる。その映画で神の真理を発見することができる。その映画は永遠の希望を抱かせる媒体になり得る。しかし、その恩恵の経験を取り、ある瞬間その映画に没頭するようになり、結局神様の席にその映画を代わりに座らせることもできる。霊的分別力と鋭敏さがなければ、人間の心は偽りの美しさに明け渡しやすい。 理由は何だろうか? 本当の美しさと偽りの美しさがあまりにも似ているからだ。凄絶な努力と深い言葉の黙想、休まない祈りなしには見分けがつかないほど似ている。 キリスト教徒は福音の恩恵の下にいるが、「すでにそうだがまだ」この地で目標を目指して走らなければならない。神様が許可したあらゆる美しい芸術活動が誤った優先順位を持っているならば、神様に対抗する「偶像」になるという事実を忘れないようにしよう。私たちは毎日の文化芸術鑑賞に絶えず質問しなければならない。私はその作品を通じて「創造主三位神」の創造秩序を賛美して享受しているのか?私はその音楽で「福音」を享受しているか?私はそのドラマの視聴より神様との対話をもっと喜んでいるのか?祈りより絵の鑑賞に心を奪われてはいないか?詩の美しさより御言葉の真理を愛しているのか?私は休み時間には何を見て、何を聞きながら、何を手に握っているのか? 神様は最後まで私たちを勝利に導こうと私たちに着実に安息を経験させて居られる。安息日は「すでにそうだがまだ」の神の国の証として続いている。そして「安息日」と「美しさの経験」は完全で永遠な安息を眺める終末論的希望を生む。その願いは天国の栄光と美しさをしばらく味わいながら苦痛に耐える力をもたらす楽しさと喜びで現れる。すなわち、キリスト教徒にとって美しさの経験はこの地で享受する平和と今後臨む天国を通じて来るものであり、単純に苦痛を減らしてくれる麻酔剤としての芸術ではなく、平和と安息のある美的経験を願うことだ。 目標に向かって歩かずにいつも走り回っていた使徒パウロも例外なく、この地で規則的な安息を楽しんだ。そしてその休息は罪からの解放感に感謝と最後の栄光の美しさをしばらく味わうことであり、その安息の経験を通じて彼は「現在の苦しみは, 将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは 思います。 」(ローム8:18)と宣言した。エレミヤも「馬と共に走る」主の戦士だった(エレミヤ12:5)。 だが、彼も永遠の栄光の安息を味わう「この地の安息」があったために止まらずに走った。心に刻んだ「満開のア ― モンド花の幻想」(エレミヤ1:11)が心の永遠な安息に向けた彼の印となった。ゼカリヤは聖霊の油で消えない美しい純金の燭台の幻想(ゼカリヤ4章)を、祭司が王の王冠を受ける(ゼカリヤ6章)永遠の国で享受する真の和睦の安息を心に刻んだ。 美しさの「安息」の目的を知ることは、もしかしたら人生を礼拝として捧げなければならないキリスト教徒にとって最も重要な認識の一つではないだろうか? 安息日の神学がキリスト教の核心教理の中心にあるように、毎日の人生で美しい芸術を楽しむキリスト人は(1)神様が創造した美しい世の中が神様の国でさらに輝くように繰り広げられることと(2)罪から解放されて永遠な安息を享受するという真理を記憶しなければならない。 [福音祈祷新聞] [1] [1] Arthur Schopenhauer, World as Will and Representation I, trans. E. F. J. Payne (New York: Dover Publications, 2000), 220。 [2] [2] John Piper, A […]
滞りなく流れる十字架の福音
キリストの中で完全な教会(8) 「ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマの信徒への手紙6:12,13) 天地の歴史を変えるためには人を変えなければならず、人を変えるためにはその人の中心を変えなければならない。その中心を変える道は生まれ変わる道しかなく、献身する道しかない。それを可能にしてくれるのは十字架福音だ。神様と私たちの間のすべての問題を解決し、神様の完全な知恵と神様の完全な能力が充電されたのがまさにイエス·キリストの十字架福音だ。したがって、福音を聞かせるだけで御霊がこの福音の真理を私たちの魂の中に聞かせさせ、真理が照らしてくれる道に沿って行くようにする。主はガルボリ丘の十字架で死ぬことで罪=私だったこの悲しくて不可能な運命の病んだエゴをきれいに処理してくださった。そして復活されて神様の義と律法を全て成し遂げた。この事実を信じて、信仰から信仰へと従順に進む時、奇跡を見ることになる。 したがって、イエス十字架の福音なら十分だ。教会はこの福音を命のようにつかんで叫ばなければならない。神様の永遠の栄光を慕い、天国が実際になった人々が一体となった教会になる。罪を憎み、キリストの中で兄弟になった生命で、ただ主の栄光のために教会に仕える。これこそこの世で私たちが享受する天国だ。このような教会を通じて、主は我が民族を変えることができる。何も言わなくても自然と宣教的存在になる。 ところが教会に通いながら福音を信じながらも、最も重要な救援と私の人生の主権を譲り渡した献身の分岐点がなぜこのように私たちの中に薄いのか。まさにこのすべてのことを可能にするようにされたのが十字架復活の福音だ。十字架の復活の福音が実際に直面したら、この変化が起きざるを得ない。 そのように変化した聖徒と聖職者、教会はその能力でキリストが全てを主張することができる。キリストの救いの福音が滞りなく流れていく教会を誰が阻むだろうか。聖徒の数や教会の建物や教団とは関係ない。この十字架福音が力になった聖徒と教会を通じてのみ、福音の能力が力強く流れ、私たちの周辺の人々を変え、民族の流れを変えることができる。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 神様の愛(2): 神様の愛の中に内在する裁き
神の愛は私たちに大きな慰めを与えてくれる。しかし、それは人々が言うような慰めではないだろう。前にも言及したように、神様の愛は神様と私たちの関係について聖書が言うすべてを覆ってしまう神学的な毛布ではない。神の愛に対するこのような近視眼的アプローチは、しばしば愛のより広い意味を無視してしまう。具体的に言えば、神様の愛に裁きが内在しているという事実を見過ごしやすい。 愛と律法主義 多くの信者はキリスト教徒の人生を「神を愛し、人々を愛すること」と単純に言う。影響力のある大型教会の人気スローガンであるこの言葉は、貴重な優先順位を簡単なことに見せる。この簡単な文章は福音を誤って要約したものだ。 このような愛に対する誤解はイエス様当時のパリサイ人たちに蔓延している信仰だった。ルカによる福音書はこの問題と関連した事件を詳しく語っている。 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカによる福音書10:25-28) もしあなたがここまで読んだら、キリストが今天国に入る横門を開けたと考えることになるだろう。しかし、ジョン·マッカーサーは主がこの一節でおっしゃっている真の核心を次のように説明した。 ‘イエスは律法を守ることによって救われる人々がどこかにいるという話をしなかった。逆に律法は完全で完璧な従順(ヤコブの手紙2:10)を要求し、不従順する人々に肉体的、霊的、そして永遠の死を約束(エゼキエル18:4,20; ローマの信徒への手紙6:23)するため律法を守ることは絶対不可能だと指摘されたのだ。’ 律法主義者たちの救いに対する律法主義的な接近を確信させるよりは、キリストは彼の誤った敬虔さとその法を完遂することが不可能だということを説明しながら警告された。しかし、書記官はその点を理解していなかった。その代わり、彼は愚かにも自分の義に溺れて、とんでもない質問をした。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。(ルカによる福音書10:29)。 ジョン·マッカーサーは書記官の愚かさと無知について次のように説明した。 ‘この時点で書記官はルカによる福音書18章13節のセリのように、彼自身が神様が要求する愛ができないことを認識し、御恵を請わなければならなかった。しかし、逃げ場もなく追い込まれた彼には悲惨な傲慢が続いた。彼は自分を否定するのではなく、自分自身を「正当化」しようとした。彼は告白しなかったが、きっと心の中で罪に対する確信が芽生えたのだろう。しかし、彼は内面の自覚を軽蔑し、表向きは義で価値のある人だと確信した。’ 今、多くの教会で「神様を愛し、人々を愛する」ことができる適切な能力を主張しながら律法主義のような自己確信をよく繰り返すのを見る。 しかし軽率にもそのスローガンに慣れ、神様の愛を見習えという聖書で繰り返す勧告は見過ごしてしまう。律法師が自分を正当化しながら律法の途方もない重圧感を感じなければならなかったように、主の戒名に対する正直な反応は確信と罪悪感で敏感に反応することでなければならない。 他人を愛せないこと 弟子たちにした「私が君たちを愛したように愛し合え」(よはねの福音書13:34参照、15:12)とはキリストの命令は非常に単純に見える。 しかし、私たちがキリストの愛の深さを考える時、そして彼がその愛を表すためにされたことを考えてみれば、それははるかに大きな挑戦になる。率直に言って、そのような愛を実践することは不可能だ。 キリストの愛は、世界のどの愛よりも自己犠牲の模範を示した純粋な愛である。福音には彼が救おうとする民に対する彼の驚くべき愛の手本があふれている。そしてキリストが私たちを愛したように他の人々を愛さなければならない義務を罪悪感として感じないならば、私たちはイエスがその愛のために支払った代価が何なのか全く知らない人だ。 他人を愛する私たちの能力にどれほど欠陥があるかを考えてみろ。すべての利己的な衝動、自己保護のための努力、同情心で行うすべての慰めの方法はイエス様の愛と矛盾する。もし私たちが正直なら、私たちは他の人をイエス様のように愛したことが全くないということを認めざるを得ないだろう。私たちがキリストの愛を理解していくほど、私たちの罪悪のためにその方の手本に従わない失敗はさらに大きくなるだろう。 神様を愛せないこと 神を愛することも大して違わない。イスラエルと契約を結んだ初期から、主は民の心の中に最上のものを要求した。申命記6章5節には「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と明確におっしゃった。 キリスト自身はその言葉を最大の戒名と見なした(マタイによる福音書22:36~38) しかし、立ち止まって考えてみよう。私たちは本当に神を他のなによりも愛しているのか? あの方の栄光が私たちの偉大な望みなのか?彼を敬拝する私たちの礼拝が世間のことから自由なのか? 私たちの最も大切な宝物が天にあるのか? 私たちの愛はそも方に固定されているのか? 主の志を成すことが主な動機なのか? 彼に従うことが私たちの最大の喜びなのか? 私たちはその方に礼拝をしながら過ごしているのか?私たちのすべての人生が彼に仕え、敬拝し、栄華になることに献身しているのか? それは人間と神の関係の本質である。アダムの罪は私たちを神から切り離した。キリストの中でのみ、私たちは回復することができ、永遠に父と完全で愛らしい交際を享受することができる。しかし、今神様を愛せという命令は、私たちの堕落した肉体の無能力と不正さのために私たちの罪を絶えずに思い出せる御言葉である。 焦点は何か? 神様の愛に対する正しい理解は、私たちの霊的成長と敬虔のために必ず必要なものだ。自己欺瞞的な不信者たちにとって、神様の愛の深さは真の霊的状態の深刻性に対する悟りにならなければならない。 「神を愛し隣人を愛しなさい」と単純化された福音は全く福音ではない。神の律法を履行する能力に対するバリサイ人的な確信より、あるいは最も単純な要求でさえ、彼らは肉体の致命的な欠陥を理解しなければならないのだ。彼らは罪悪の重圧感を踏みにじられるように経験しなければならず、自分の意を覆い隠している傲慢さを破らなければならない。彼らはガラディア教会への手紙の中でパウロが説明した変化を経験しなければならない。 「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤの信徒への手紙 3:23-24) 簡単に言えば、彼らは謙虚に心から悔い改めなければならない。不注意な信者も同様に、神の愛によって謙遜されなければならない。救いは粗雑な神学やわいせつな生活に対する言い訳ではない。神の民は人生を通じて彼の愛を表わすために、その愛と戒めを正しく知り畏敬の念を持たなければならない。 私たちがどれだけ不足しているかを認識することが、私たちの成長と敬虔さの原動力になる。私たちはキリストにもっと似るためには節制しなければならず、周りの人々に彼の愛の手本を見せる人生を送らなければならない。 また、それがキリストへのより大きな愛に拍車をかけなければならない。私たちに要求されるこのすべてのことは究極的に愛の完全な標準であり、愛の完全な表現であるその方に焦点が合わされなければならない。その方だけが愛が要求するすべてを完全に成し遂げた唯一の方だ。 その方の中で私たちは神の愛の真実と完全さを発見することができる。それが私たちが次の時間に見ていくテーマだ。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 神様の愛(1):何が問題なのか?
一見すると、神の愛は深刻な神学的問題とは思えない。愛についての言葉として、ヨハネの手紙一4章8節より明確な言葉はないだろう。 「神様は愛だ。」この言葉は最も確実に神様を描写することなので、多くの人々に愛されている。 人々はどれほど簡単にこう言うのか。 「神様は愛だから決して____をしない。」その言葉の本当の意味は、「私は愛が何なのか知っている。 私は自分の思い通りに神を受け入れる」だ。これは今の多くの人々が、さらには多くの教会の聖徒でさえ受け入れている巧妙な形の偶像崇拝である。 問題は神様が愛するかしないかではない。問題は人々が宣言する神様の愛が、彼らが実際に話している最初の手がかりかということだ。そうだ。神様は愛である。しかし、愛がその方のすべてだとか、愛がその方に対して私たちが知らなければならないすべてだというとんでもないミスは犯してはならない。 神様の愛と神様がどんな方なのかについて無知な人々があたかもよく知っているかのように権威を装って人々に話してきたために今の神様の愛に対する問題は非常に曖昧になり混乱するようになった。 感じより大きいものだ 今の文化で堅固な愛の定義を見つけるのは容易ではない。ほとんどの人はそれを定義せず、単に自分が感覚的に感じることを愛だと信じてしまう。しかし、世の中で流行する愛の概念はせいぜいバラダーとロマンチック映画、急速デートのようなものに過ぎない。 ジョン·マッカーサーは好色的な愛と聖書的な世間観の間に横たわっている深い谷間を悲しみながらこのように話した。 「大衆的な歌で私たちが聞く愛はほとんどいつも感じを描写する。その感じはほとんど果たせなかった欲求を表している。ほとんどの愛の歌は、愛を感情的なものに変えるだけでなく、無意識的なものに変えている。恋に落ちる。彼らは恋に落ち、自分自身をコントロールできない。 愛をコントロールできないことで特徴づけるのは格好良く見えるかもしれないが、そのような「愛」はもう少し考えてみれば利己的で非理性的な愛だということが分かるだろう。それは聖書が語る愛とは程遠い。聖書によると、愛は抑えきれない欲望ではない。むしろそれは意図的なことだ。本当に愛する人は愛する人のために思慮深く献身する。真の愛は意志的なものであって、抑えきれない感情ではない。 魅力、愛情、あるいは欲望は真の愛の要素ではない。むしろ、それらは実際に真の愛の邪魔になり得る。使徒パウロは、愛は感情や感覚的なものではなく、犠牲的で利他的なものだと話した。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、(コリントの信徒への手紙一13:4~7) コリントの信徒への手紙一13章は曖昧だったり、ただ通り過ぎることができる聖書の一節ではない。そのフレーズは、私が行ったほとんどすべての結婚式場で引用されるフレーズだ(さらには不信者の結婚式でも)。 この言葉は大きな恐れを持って深く考えなければならない言葉であるにもかかわらず、一般的には気分を良くする程度として受け入れられる。 パウロが定義した愛のリストは、つらい自己犠牲と自己否認でいっぱいだ。私たちはそのようなことに熱中しない傾向がある。私たちは何よりも自分のニーズを満たす愛に慣れている。 本当の愛は難しい。実際、私たちが率直なら、パウロが言う基準は私たちが守るにはあまりにも難しいことだ。私たちはこの地で決して高貴な天国の基準を満たすことはできない。ひたすら神だけが可能である。 神は愛だけどひたすら愛だけではない キリストは神の愛の究極の表現である(よはね3:16)。 多くの人はキリストの聖肉神が神の転換点だと考えているが、これは誤りだ。決して神様の性格が「怒り」から「愛」に転換するのではない。 神様は絶対変わらない。 「主であるわたしは変わることがない」(マラキ書3:6、ヘブライ13:8参照)。神様はいつも愛だったが、だからといって他の属性を捨てたわけではない。 神の愛が罪に対する憎しみをなくすものではない。実はその反対だ。 神様のその愛は私たちの罪によって縛られているが、それと同時に私たちの罪によってさらに大きくなる。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5:8) 神の愛が神の他の属性(人々に人気のない)に反対したりなくすと仮定するのは間違っている。D.A.Carsonは、神の属性が変わる可能性があると考える人々が教会に蔓延していると話す。 「今、大部分の人々は神様の愛を信じるのにほとんど困難がないように見える。むしろ彼らは神の公義と怒り、全能な神の非論理的な真実性を信じることにはるかに大きな困難を感じている」 さらに、ジョン·マッカーサーは神の怒りについて説教しないことは、実際に神の愛を理解できないことだと主張する。 「私たちは神の怒りに対する真実を忘れている。私たちはその方が罪を憎んでいるという事実を無視してきた。ほとんどの福音主義者は、神は愛だが、怒りの神ではないと言う。私たちは「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヒ10:31)という御言葉を忘れてしまった。 私たちは怒りの神をもう信じない。 私たちは神の義である怒りを正しく理解し、聖なる畏敬の念を回復しなければならない。私たちは神の怒りが悔い改めない罪人に下すという点を覚えなければならない。 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。あなたの矢はわたしを射抜き、御手はわたしを押さえつけています。わたしの肉にはまともなところもありません。あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません。わたしが過ちを犯したからです。(詩篇38:1~3) この真実が彼の愛に対して驚嘆せざるを得ない核心だ。したがって、私たちは神の愛を宣言する時、この真理が言っていることと同じ信念と情熱を持たなければならない。ただ神様の怒りを理解する時、神様の愛の完全な意味を正しく理解できる。それがまさにイエス·キリストの十字架のメッセージだ。 神様の愛と怒りがその方の荘厳な充満の中で一緒に現れたのがまさに十字架事件だ。 しかし皮肉なことに、神様が愛であることを信じる人々が神様の怒りについては考えていない。つまり、神様の愛が何かを本当に知っている人はほとんどいないのだ。 神様の愛は、神様と私たちの関係について聖書が語る他のすべてを覆い隠す神学的毛布ではない。神様の愛は、実際に聖書の中でも最も難しい教理の一つである。しかし、この教理は我々が耐えなければならない挑戦だ。多くの人がこれを避けようとするが、愛の教理を正しく知ることは聖書的緊張感に鮮明で調和のとれた答えを提示することだ。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
すべてのものは 光にさらされて, 明らかにされる
作品説明:モナ·ハトゥム、「異邦人の群れ(Corps Étranger)」、1995、映像設置物、ポンピドゥーセンター所蔵、フランス·パリ モナ·ハトゥム(Mona Hatoum)はレバノン生まれの英国人芸術家で、パレスチナ人の両親の間で育った。レバノン生まれだけどレバノン国籍を持たず、イスラム文化の下で成長したが、アラブの家父長制には同意できなかった。このような理由から1980年代末、彼女の初期作品はアラブ女性として尊重されなかった母親に対する憐憫が土台に敷かれている。そんなハトゥムの作品を世界舞台でデビューさせた作品が1995年の「異邦人の群れ」だ。 <異邦人の群れ>は一人がやっと入れる規模の円筒形設置物で内部に入ると、グロテスクで奇異な映像が上映されるが、まさに作家の体の内外を内視鏡で撮影した映像だ。観客は密閉された空間に入り、ハトゥムの体の外部から始まり、内部への道(消化、排便、生殖通路)に沿って彼女の体の内部をのぞき込む。これを通じて、ハトゥムは女性をそれ自体で眺めるのではなく、部分部分に分けて性的対象物に転落させた支配的で権力的な視線を批判しようとした。言い換えれば、円筒の中の映像は私たちの視線によって破られた一人の人格であり、いざ不便でなければならないのは気持ち悪い映像ではなく、歪曲されて暴力的な私たちの目線であることを指摘した。 ハトゥムの意図はこうだが、<異邦人の群れ>を見れば隠密に隠されていた罪に直面できる信仰の力を思い出す。事実、ハトゥムの身体内部を見て感じた不便さは、私たちの内面に隠された闇が明らかになる時も間違いなく訪ねてくる。直面しようとする勇気を無力化するこの恐れは「婚前性関係」の代わりに「速度違反」、「外道」の代わりに「浮気」と比喩するように、罪を縮小したりする。しかし聖書は明らかに「すべてのものは光にさらされて,明らかにされる」と教える。内面のいかなる汚れや闇、絶望があるとしても、イエス様の血で得た救いが予定されているためだ。復活の能力を信じる信仰があれば、あらわれたことを加減しない直面の力を得る。その過程で怖かった手術台が救援と復活の審判台に変わる光を経験することになる。そのために明らかになったのは何でも光だ。主は罪をうまく覆い隠す能力者ではなく、それを十分に赦す全能者だからだ。[福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org