大洪水の前, 恐竜と人間が一緒に暮らした。
恐竜の骨は人間の骨、哺乳類の骨とともに発見されている。時には石化された人間の手のような岩石層で発見されることもある。インカ石板の中では人が恐竜に乗っている姿もある。 また、恐竜の足跡と人の足跡が一緒に発見された。この問題で議論になったテキサスのグレンロスに私が直接行ってみたこともあった。 グレンロスという小さな村は、パロキシー川が流れており、一面石灰岩で覆われている。地域全体が石灰岩であり、川は石灰岩層を削って通過している。1908年にここで非常に大きな洪水が発生した。その川は1マイル(約1.6キロ)当たり17フィート(約5メートル)低くなるが、洪水で川が氾濫する頃、堤防より30フィート(約9メートル)以上水位が上がった。 そんな中、洪水が川底を掃きながら石灰岩層を削ったのだ。2フィート(約60センチ)の石灰岩が落ちた場所には新しい石灰岩層が現れ、翌年夏に川が乾くとそこから数百個の恐竜の足跡が発見された。ここは今や「州立恐竜谷公園」と呼ばれている。 人々は川に浸食されないように多くの足跡を掘り起こし、博物館に保管した。ところが、たまにはこの地域で恐竜の足跡とともに人の足跡が発見される。発見された人の足跡の中で恐竜の足跡を横切るものもある。洪水を避けるために泥水を走る時は、誰かがすでに踏んでおいた所を踏むのが論理的だろう。深い雪の中を歩いていく時のようにだ。 私たちは今、ノアが箱舟に入って雨が降り始めると、人達が最初の数十分で死んだと思う。しかし、地球上のすべての人々が死ぬのに6ヶ月程度はかかっただろう。雨は40日間降ったが、聖書は水が150日間ずっと「上がってきた」と言う。大部分の水が「地の深い泉から」、すなわち地表の中から出てきたためだ。地表の中にあった水が洪水を起こしたのだ。水が上がり始めると、人々は高い土地を求めて登ったはずだ。お互いに高い土地を取ろうと戦い始めたのだろう。 今、人々が岩盤層を掘り起こしたとき、その下の石灰岩からさらに多くの足跡が発見された。足あと一つは足の指を横切って跡がついていた。その端の粒を研究した結果、これが圧着されて薄い面が歪んでいることが分かった。これに対する多くの議論があるが、このように説明できる。 足跡は6~7フィート(約1.8~2メートル)の歩幅を持っている。毎回この程度の歩幅を持つためには非常に大きな人でなければならないだろう。この足跡発掘当時、現場にいたアリゾナ州の南バプテスト教会で副牧師をしている知人が私にこんな手紙を送った。 「ホビンド博士、私は足跡をたくさん見て育ちましたが、カール·ボウ博士と一緒に発掘作業現場にいました。私たちは恐竜の足跡の横にいる人の足跡をたどりましたが、まるでその人が恐竜と一緒に歩いているように見えました。 「ノバ」(1974年から放送されたアメリカの科学テレビシリーズ。 訳者注)も発掘する現場を撮影しようと来ており、ある進化論者はそこでボウ博士と論争し続けました。ノバは足跡や私たちの発掘はあまり撮影せず、その進化論者にインタビューしました。彼は、そこで進化論を反証するものは何も見ていないと言いました。実際、彼は私たちが作業していた足跡を眺めることさえ拒否しました」 ノバは進化論を支持していたため、進化論に反対するものはテレビで放映しなかった。ある人は「人間の足跡と恐竜の足跡が一緒にあったということは、単に人間のような足を持った恐竜がいたことを証明するだけ」と話す。奇抜な解釈方法だ。 これは進化論が研究の妨げになるもう一例だろう。 米国の動物学者エルンスト·マイヤーはこう語った。 ”創造論者たちは人間と恐竜が同時代に生きたと言った。その重大な発言が真実なら、それを発見した人たちの名前は20世紀に最も優れた発見をした人たちの一人として、時の回廊に雷のように降りてくるだろう” メディアが止めなければ、それは事実だろう。 <続く>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
キリストの中で完全な教会(5)
「兄弟よ、きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(コリントの信徒への手紙一/ 2:1~2) コリント地域は港町として華やかな都市であり、目覚めた都市だった。ところがパウロはコリントで十字架福音を伝える時、華麗で非常にレベルの高い言葉を並べることができるが、そうしないことにした。十字架福音そのものが能力であるためだ。 なぜ十字架福音がそんなに能力になるのか! 何のために愚かに見える十字架が神の知恵と能力になるのか! それは十字架が人の内面中心を変えるからだ。 人間は罪で汚染された。禁断の果実の犯罪を犯してから過ちと罪で死んでしまって本性的に神を反逆することになった。心で神様を遠く離れて仇になった。このような人間の心の中心を振り返り、神様を愛する創造の時の形状に戻すことは、天と地が変わるよりも難しい。神の知恵と能力である十字架の福音だけがまさにこのことを可能にする。 十字架福音だけが内面を変える 生まれ変わらずに人間が存在的に変わるという話は不可能だ。改善されるという話も不可能だ。神の国は改良された罪人、改善された罪人が行けるところではない。生まれ変わった生命であってこそ入ることができる。人間という存在は生まれ変わらなければならないと言うほど可能性がなく、生命の存在自体が変わらなければならない。生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。何が生まれ変われるのか。天下のどんなものでも人間を生まれ変わらせるものはない。生まれ変わらせる方法はイエス·キリストの十字架だけだ。このためにイエス十字架福音が必ず必要なのだ。 イエス様が十字架に刺さって亡くなり、復活してから50日後に聖霊様がいらっしゃった。初代教会であるエルサレム教会は福音の敵対的な環境の中で福音のメッセージを受け、十字架福音を叫んで喜んで殺された。これがまさに初代教会だった。 キリスト教の名前を持って真理を学ぶと追いかけているけど、それは人の目を欺くだけで真理には至らない人々がいる。常に学ぶけど真理に至らないのは、自分の私欲を追う先生を追いかけるからだ。木は実を見て分かる。木が生命を欺くことができないように、イエス様の生命には必ず聖霊の実が現れることになる。 十字架福音はイエス生命の実を結ぶことができなかった罪人になった人間の存在を変え、イエス生命の実を結ばせる。この十字架の福音は真の神の能力であり知恵である。(2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[信仰の書き込み]キリストの内にとどまり、歩む人生
私たちは神の内にとどまっているからです(1) 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙一 2:6)。 ここでおっしゃっているキリストの内にとどまる人生と、キリストのように歩む人生、この二つの祝福は決して離せないものなのです。キリストの内にとどまる人生の実として現れるのが「キリストのように(like Christ)」ということです。 「キリストの中に止まっています」という言葉は私たちにまったく見慣れないことではありません。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」(ヨハネ15:4)と命じてくれたブドウと彼の枝についての驚くべきたとえ話は、私たちにしばしば祝福された教訓と慰めとなってくれました。 わたしたちがイエスの中に居るというこの教えを完全に悟らなかったとしても,わたしたちの魂が「主よ,あなたはすべてを知っており,あなたがわたしがあなたの中に今住んでいることを存じております。」と申し上げるときに臨みに来る喜びがどんなものかを私たちはすでに味わっています。 このような切実な祈りがしばしば私たちになければならないことも、主は知っておられます。「聖なる主よ、完全で絶えずにあなたの中にとどまることができるように恵みを施してください。」 「キリストのように歩む」という二番目の言葉は,「キリストの中に住む人生」に劣らず重要です。これは驚くべき能力の約束であり、その方の中にとどまる人生が完全に力を発揮することになるのです。 わたしたちが完全に神の内に生きるために自分自身を完全にささげることになれば,その実として,神の命がわたしたちの中で力強く働かれるようになり,異面的な生活が外に現れることで,わたしたちの行為はまさに神に似ていきます。この二つは別々に考えることができない関係なのです。イエスの中にとどまるということは、いつもイエスに従うというよりも先行するものです。 しかし、主と共に同行し、主のように行おうとする切ない願いが、彼の中に住む人生の次とは言えないのです。そうしてこそ、その方との親密な連合がなされるようになります。その方の計画に従って、その方が与えてくださった恵みを使う準備ができた人に、天の主が自ら豊かな御自分の恵みを余すことなく与えてくださいます。 救い主が「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)の意味はその方と共に歩むためにあなた自身を全て捧げることこそ、その方の内に完全に居る道ということです。 多くの人がここでキリストの中にとどまる人生の失敗を経験していることを発見するでしょう。人々がキリストに従うということについて知らずで、それで追求してみようともしなかったからです。使徒ヨハネは、ここで私たちにこの二つの真理の生命的な関係と相互依存的な関係を見るようにしてくださいました。 ヨハネによる福音書で教えている最初の教訓は次のとおりです。キリストの中にとどまることを切実に望む者なら、必ず主が行なわれたそのまま本人も行わなければならないということです。ブドウの枝は、彼が属するまさにそのブドウの実を結ぶことが当然のことであることを私たち全員は知っています。ぶどうの木とその枝の命は完全に一つです。 したがって、その命が現れることもまた一致しなければなりません。主イエス様が御自分の血で私たちを拘束されて、その方の義で私たちを天の父にささげた時は、古い性格をそのままにしておき、それなりに私たちの最善を尽くして神様に仕えるように放っておいたのではありません。 決して、そうではありません!その方の中には永遠の命があり、これは天の聖なる命であるということです。そして彼の中にとどまる者は、誰もが彼の聖なる、天に属する力の中にあるのと同じ永遠の命を得ることです。 ですから,イエスの中にとどまる者は,エホバから命を絶えずに得るようになり,「主の歩むように自分も歩む」と言われた言葉はまったく奇妙なことではありません。 しかし、神様の力ある生命力は、魂の中でよく分からず、または思わず私たちにキリストのように行うことを強要しません。 これとは対照的に、主のように行われる人生は、明らかに自由な選択の結果であり、強烈な希望によって得られるものであり、鮮やかな意志を見て許してくださるという事実です。 この観点から見ると、天におられる父がイエスのこの地での生活を通して見せたいと思ったことがあれば、それは天国の生活が私たちの人間の生活の条件と環境の中に臨むとき、どのような姿になるのかをお見せてくださったことです。 これと同じ目的を持って、イエスは私たちにこの地上での御自分の人生がどのようになったのかを教えてくださいました。ですから、私たちが彼から新しい命を得て、また私たちに彼の中にとどまるように呼ばれたのは、私たちが命を得て、より豊かになるようにするためです。 主は言われておられます。新しい命を私たちに与えてくださったのです。「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、」(ヨハネ15:10)。この御言葉を通して先生である主は、この地での人生は一言でこのような人生だと要約してくださりながら、またこれを私たちのすべての行為における規範と指針とするようにとても簡単に教えてくださいます。 私たちが主の中に止まっていると言いながら主が行ったのとは異なって行うことはできません。「キリストのように」という言葉は、短いながらもすべてが暗示されており、クリスチャンの人生の祝福された法則なのです。 クリスチャンはイエス様がこの地でそうなさったように考え、話し、行なわなければなりません。イエス様がそうされたように、今私たちはそうしなければなりません。<アンドリュー・マレー(Andrew Murray)><ルッサン教会提供> [福音祈りの新聞] <著作権者ⓒ私の手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[キム·ヨンハンコラム] 貧困と富に関するイエスの教え。
<歴史的イエス論究シリーズ> 歴史的イエスは貧困を祝福とは言わなかった。彼は貧しかったが富の所有を認め、貧しくて疎外者、当時の社会的弱者である女性だけでなく、アリマタヤのヨセフやバリサイ人であるニゴデモのような有力者たちを同僚とし、財産を聖なる委託と言った。歴史的イエスは第一に、財産は賢く管理しなければならず、第二に貧しく疎外された者たちにを特典を与えなければならず、第三に、地上の蔵ではなく天国に貯蓄しなければならず、第四に財産の使用に対する終末論的審判を教えている。 I。 貧困を祝福とは言わない イエス自身は貧しかったが、物質的な貧困そのものを祝福とは思わなかった。イエスは家もなく、遊離する放浪説教家(ルカ9:58)として社会的に地位と背景のないラビだった。彼は神の国を宣布し、教え、病気を治癒する福音伝道者だった。イエス自身は貧しかった。しかしイエスは社会的に裕福な者と権力層にいる者が自分の既得権を捨てて彼に従うようにする、霊的に豊かな人だった。 福音書の著者マタイはイエスに従おうとした書記官とイエスとの対話を記録している。ある書記官がイエスのところに来て言う:「先生、どこへ行っても私は従います」(マタイ8:19)。この書記官は、これまでイエスに従った弟子集団の外に立っていた者として、社会的には尊敬される身分と安定した生活を送っていた人だった。当時は書記官という律法学者の身分だった。イエスはこの書記官に言う:「キツネも洞窟があり、空中の鳥も居場所があるが、私は頭の置き場がない」(マタイ8:20)。イエスはこの書記官に自分に従うためには居場所もなく、社会的安全網もない境遇に参加しなければならないことを教えてくれたのだ。弟子職とは世の中で金持ちになり権力を握って名誉を得ることではないとおっしゃる。このようにイエスは当時、社会で全く社会の既得権がない者だった。そしてイエスは世間の富や権力を追求することもなかった。したがってイエスは神様との人格的関係の中で内面的自由を享受し、社会的どの党派の利害関係に縛られなかった。 イエスが十字架で処刑されて世を去った時も兵隊がくじ引きして分けた彼の服以外に何も他の人々が分けるものがなかった(マタイ27:35)。福音書の著者ヨハンはより詳しく記録している:「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その 服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。」(ヨハネ19:23)。当時は処刑された人が身に着けていたものは死刑執行を担当する部隊の軍兵が分けていた。それはローマ時代の慣例だった。しかし、イエスの下着は破って分けず、くじ引きで一人が持つようにした。イエスが十字架に釘を刺された後、彼の服をくじ引きして分けたということは、人間の側面から見て、イエスが受けた最も悲惨な恥辱を表現したものだ。イエスは葬られる墓がなく、家族の墓ではなく他人の墓に葬られたのだ(マタイ27:60)。 II.富の所有を是認 イエスは無所有者であったが、富のある者を敵にしなかった。彼の友人の中には金持ちもいた。イエスを支持した人の中には、アリマタヤの金持ちのヨセフ(マタイ27:57)、ガバナウムの百人隊の長(ルカ7:2)。 ベダニ家庭(ルカ10:38)、自分の所有でイエスに仕えた女性たち(ルカ8:3)などがいた。 イエスが金持ちとラザロの比喩して教えようとする教訓は、金持ちを憎悪し、貧しい者を庇うことではない。金持ちは財産が多いため陰部に行ったのではなく、乞食ラザロは所有が少ないために楽園に行ったのではない。来世で彼らの境遇が変わったのは、この世で金持ちは悦楽の生活だけをしたが、ラザロは信仰の生活をしたためだ(ルカ16:19-22)。 ラザロが死んでその胸に抱かれた旧約のアブラハムは、その時代で裕福な人だった。イエスが金持ちの青年に「行ってあなたの所有を売って貧しい者たちに分けなさい」(ルカ18:22)とおっしゃったのは天国は無所有者が行くという意味ではない。金持ちの青年は所有が多いので「この言葉を聞いてひどく心配した」(ルカ18:23)。彼が持っている財産が神の国に入るのに障害物になりうるということを教訓にしたのだ。金持ちの青年は彼の持つ財産の欲に縛られていたのだ。 イエスは国に納める税金と神殿に納める神殿税納付を否定しなかった。イエスは持ってるのがなかったので、重大な教えを与えようとする時には他人のお金を借りた。イエスは皇帝に税金を払わなければならないのかという質問を受けて「税金を払うお金を私に見せろ」と言う。彼らが「デナリオン銀貨を持ってくる」(マタイ22:19)。 イエスはこの銀貨の形状と文がガイサのものであることを見せる。そして「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答える。 国に対しては税金を払い、神に対しては神殿税と十分の一を払わなければならないことを教える。 III.富は聖なる委託 1.財産は賢く管理しなければならない イエスは財産を賢く使うべきことを教えた。イエスは弟子たちに貴人が預けたお金に対する比喩として財産善用を教える:「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」(ルカ19:12-13)。 帰ってきた彼は自分が委託したお金で僕たちが利益を残したことを喜ぶ。 ところが、1ムナ(100銀銭)を受け取った者は利益を残さずタオルに包んだまま彼に持って来た。1ムナを受け取った者は、その理由を次のように述べた。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」(ルカ19:21)。 これに対して彼は激怒して叱る:「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。」(ルカ19:22-23)。 すべての僕は自分の能力に見合うだけの資金を委託された。各人はそれを運用して自分の才能に見合う利益を得なければならない。主人にほめられた僕は、自分たちの才能を発揮した者たちだ。ところが主人の叱責を受けた僕は全く才能を発揮しなかった。彼はお金を運用しながら予測されるリスクを回避した。それで彼は主人の怒りを受けたのだ。イエスはここで財物に対する賢明な管理、今の用語では、健全な資本主義を教えている。 2.貧しく疎外された者たちに恩恵 富は貧しく疎外された人々に利益をもたらすように使われるべきだ。福音書の著者マタイは幼い頃から戒名をよく守ったという金持ち青年を教えるイエスの言葉を記録している:「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイ19:21)。 これに対し青年は心配して退く:「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マタイ19:22)。 イエスはこれを見て弟子たちに言う:「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ19:23-24)。 ここで金持ちとは、単に財産が多いものをいうわけではない。財産の多い清富もあるからだ。アブラハム、ヨブ、アリマタヤのヨセフなどは清富と言える。しかし、心が財物欲に満ちた金持ちは天国に入るのが難しい。財産は自分の欲とうぬぼれと贅沢な消費のためにあるものではない。貧しくて貧しい隣人に対する配慮がなければならない。必要な者に対する救済と分かち合いが必要だ。この地上で彼らと分かち合うことができる時、本当に天国の蔵に貯蓄することになる。 3.天国に貯蓄 イエスは貪欲を退け、神の国に富を蓄えるように教える。イエスは、裕福な農夫の比喩(ルカ12:16-21)を弟子たちに聞かせてくれる。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。』自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16-21)。 イエスはこの比喩を通じて財物の多い金持ちが神様に感謝せず、そして自分の隣人の貧しい者たちの世話をせずに自ら自己満足と傲慢に陥ったことを指摘している。このような富の蓄積を通じた傲慢な自己満足は神様の審判を招くことになる。 イエスは「人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)と教える。人の人生の意味とは、財産と権力の豊かさにあるのではなく、貧しい隣人を救済し分かち合う心の豊かなところにある。財産の分かち合いは自分自身には厳格で節制し、貧しい隣人には豊かな態度で成り立つ。地上の所有は愚かな金持ちのように自分の物置を広げ、自ら食べて飲んで楽しむことに終わってはならない。 「神様に財産をくださったことに感謝を申し上げる」ということは、単に宗教的礼物を差し上げることに終わるのではなく、貧しく疎外された者に対する配慮と分かち合いに連結されなければならない。イエスはこの比喩を通じて財産を自分の蔵に積まず疎外された貧しい者たちと分けて使うことで富を天国の倉庫に貯蓄しろと教える。 4.財産使用に対する終末論的審判 終末論的審判でイエスは社会的に疎外された者に対して世話をしなかった責任を追及する。終末論的審判の日に社会的に疎外された者たちの世話をしない者たちに向かって責める:「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」(マタイ25:41-43)。 彼らは次のように反問する:「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」(マタイ25:44)。 これに対し王が答えた:「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25:45)。 イエスはここで御自分を終末論的王(王)と同一視していらっしゃる。 終末論的な王とは、メシア的な王権を持つ者のことをいう。審判者である王は、自分を世界的に疎外し、病気になり、飢えた者と同一視する。イエスは神の国が心が貧しく清潔な者たちの所有だと教える。財産をたくさん持っていても社会に向かって借金をしたと思いながら、その財産を社会に還元しながら貧しくて貧しい隣人と分かち合い、社会の陰にある階層に向かって使う者は清富と言える。 韓国では慶州の崔氏の富豪、今の米国のマイクロソフト社創始者ビル·ゲイツ(Bill Gates)とその夫人、「投資の鬼才」と呼ばれるウォーレン·バフェット(Warren Buffett)などはこれに属すると言える。慶州の崔氏の富豪は、自分が住む1キロ内のすべての人が春窮期を耐えられるように門の前に公益米銭を用意し、飢えた人たちが適当量米を自由に持っていくように常に米を備えておいた。ゲイツ夫妻は彼が作った慈善財団を通じてアフリカのエイズ撲滅と児童教育分野のための慈善事業に毎年寄付している。バフェット氏は極貧層のための医療保険プログラムの設定のために寄付しており、そして「財産の85%、374億ドル(約36兆ウォン)を社会に還元」することを公言した。彼らは資本主義国家である米国社会で相続制廃止に反対し、自分たちの富を社会的に還元しながら「社会的資本主義」(social capitalism)の可能性を提示したために世界的に賞賛されている。このような面で、彼らはその心が貧しい者たちだと言えるだろう。 彼らは財産に関するイエスの教えを今日実践するきれいな金持ちだと言える。 (続く) [福音祈祷新聞] キム·ヨンハン|キリスト教学術院長/シャローム·ナビ常任代表/崇実大学キリスト教学大学院設立院長 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
神様の知恵、神様の能力、十字架の福音
キリストの中で完全な教会(4) 「どうか、わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるようにし」(エペソ1:17) 神様に出会う唯一の道は霊的に目覚め、私たちの霊の目が開かれ、心霊に霊の機能が蘇ることだ。私たちの鈍くなって呪われた霊が生きて居られる神様のみ言葉を理解させて、私たちの魂に話される。福音の真理を聞く時にその事が起こる。 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24) このためにはまず信仰を通じて私たちの霊の機能が蘇らなければならない。ところで信仰はどこから生まれるのか! 粗末な哲学や宗教や人間の数多い知識の言葉を聞くからといって成り立つものではない。神の生命、真理の福音を聞く時に私たちの死んだ魂が蘇って主を見ることになる。 中世に堕落したカトリックのように十字架救援の真理を覆い、行為で救われるという誘惑に目が回る瞬間、私たちは神様の呼び掛けを離れるしかない。行為救援のような考えは、まさに教会の堕落であり、腐って座り込んだ中世の暗黒時代を作り出した教会の悲劇だった。宗教改革に従う私たちの心が緩むと、神様の呼びかけを逃す恐れがある。 イエス·キリストはすべての世界の万物を統治し、治め、万王の王、万主の主になさる。そのように復活されて昇天されて、その栄光を回復された主が、十字架の死で連合させた教会を御自分の体にさせて万物の中で万物を充満させる方の充満だという。教会は外見上、みすぼらしいし、たいしたこともなく、軟弱な素焼きのようだと言える。しかし、その中にいらっしゃるキリストは栄光と能力と祝福に満ちた方だ。イエス·キリストによって命を得た人は世の中が耐えられない。世の中をひっくり返して歴史を揺るがした人々は、個人の人柄がすごい偉人や能力のある人々ではない。素焼きの中に宝されたイエス·キリストが歴史を変えて、世の中をひっくり返す福音の能力として現れたのだ。 したがって、教会は福音で新しくなることができる。教会は驚くべき主の約束、福音の栄光と能力と祝福で現れる。 それなら、私たちを神様の形でキリストの中に充満した者として完全な者に立てる神様レベルのことを神様がどのように成し遂げるのか! 絶望的な私たちにそのことがそのまま現れる秘密は驚くべきことに私たちが注目しなかったイエス·キリストの十字架の福音にある。人々にあれほど軽蔑されて愚かに見えるイエス·キリストと十字架の福音がまさに神様の能力であり、神の知恵だ。その十字架の福音の能力がまさに最も不可能な人生を丸ごと存在的にひっくり返して変化させる。そして、そのように変化した人間たちを通じてこの世が変化する。神様の最も完璧な知恵であり、最も完璧な能力がまさに十字架復活の福音であるのだ。これが秘密だ。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
世界への神様の唯一の贈り物、福音
キリストの中で完全な教会(3) 私たちは罪の中で生きていて、毎日罪に引きずり回される。 そして結局、罪の奴隷で地獄の審判に向かわざるを得ない存在的罪人だ。 私たちがどうやって主が呼んだ聖なる神の息子の形を着てキリストの中に充満した生命を持つ聖なる神の教会になれるのか! 出発自体が基盤もイエス·キリストであり、目標である使命も神様の水準であるため、人間のいかなる努力や方法でもなれないと聖書は言う。 ”武力によらず、權力によらず、ただわが 霊によってと万軍の主は言われる”(ゼカリヤ4:6) 最も不可能なことがあるとしたら、それは自分の人生を自分勝手にはできないということだ。ルカ福音書18章に出てくる金持ちの官員は幼い頃から律法を破ったことがなく最善を尽くして暮らした。あれほど永遠の命を追求し、苦労して生きてきて、イエス様の前に出てきた時、永遠の命を得る道を教えてくださった。難しい要求でもない。二つの中から一つを選べばいい。お金か?永遠の命か? 永遠の命とは何か。神様の永遠の命の中で神様の永遠の祝福と生命を享受することだ。そんな永遠の命がお金と比較対象なのか!それでも目に見える誘惑に勝てず、永遠の命を目の前にしても捕まえられないまま、私たちの心がお金に対する愛着と情欲に引かれる。 宗教的な努力と最善を尽くしたとしても、自分の心を変わる決断ができなければ、38度休戦線を越えるより難しいのが自分の心の境界を越えることだ。福音をあんなに聞きながらも決断できなくて一生だらだらとぶら下がって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いか! 厳重に警戒を守って立っている休戦線よりさらに堅固に越えられないのがあれば、まさに自分の心だ。私たちは心で神様を離れ、敵になった。そんな私たちを振り返って神に向かわせること、それがまさに十字架福音だ。人間の救いと変化は絶対に人から生まれることはできない。これは神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能なのだ。 神様の召しを忘れてしまえば、教会は現実に追われて召された席を離れ妥協し変質するしかない。そのために、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。教会は人によって行われるものではない。神様の神的な能力なしには完全に福音どおり救われ、地獄の人間が天国の人に変わる真の変化は一人にも起こり得ない。人間のいかなる努力や方法や制度になることはできない。神だけができることだ。 神様が私たちを本当にこの世を変化させる教会であり聖徒に変化させる福音の能力。この能力が我々に臨まなければならない。その時初めて教会は真の神様に召された場所に立つことができ、この世を変えることができる。そして世の中は彼らを変えられる能力を教会を通じて得ることになる。生きている神様がこの世に向かってくださった唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師、 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
危機の時はちょっと立ち止まって
キリストの中で完全な教会(2) さまざまな 道に立って眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道かと。その道を步み、 魂に安らぎを得よ。(エレミヤ書6:16) しばらく立ち止まって、主の呼び掛けに私たちの焦点が正確に合っているのか。神様の呼びかけを完全に理解して目線を変えず、妥協せず、変質せずに正しく立っているかを調べなければならない。 危機に瀕した教会が一番先に調べなければならないことは、神様が保障してくださったその心強い基礎の上に立っているのか! もしかして砂の上に家を建てていないか! ということだ。 主は砂の上に家を建てるな! 言われる。福音を聞いてその福音を行わない者は、必ず砂の上に家を建てる者のように愚かだから危険な目に会えばその基礎が明らかになって激しく崩れると主は言われた。 私たちの人生も同じだ。主は「拠り所がこわされたら、正しい者に何ができようか」(詩篇11:3)おっしゃる。自分の人生を耐えて頼りにしている居場所がどんなものなのかを見なければならない。自分の人生、自分が主人になって頼りにして、何らかを基盤にした人は、それが崩れれば終わりだ。ところが義人は言う。「すべてが揺れる日、拠り所が崩れれば私の避難所である主のところに駆けつけろ。’ 自分の人生の拠り所を今どこに置いたのか!教会は果たしてどこに立っているのか!世の中の世論、思想哲学、あり集団の教権という場所に立っているのか! 主は教会をそのような場所に建てたことがないと言われる。教会の敷地は永遠の岩であるイエス·キリストである。イエス·キリスト以外の何も教会の敷地にはなれない。教会はただイエス·キリスト、その十字架福音の敷地に立っている。神様が夢見る教会は建物や組織ではなく、まさに神様の呼び出しを受けた群れ、すなわちイエスキリストの十字架を通じて神様の聖なる子供に生まれ変わった神様の民たちだ。そして一人一人を呼んだビジョンの最後は「すべての人を キリストにある成人として 立たせるためです。」(コロサイ人への手紙1:28)と言われる。 神様が夢見る教会は十字架に生まれ変わった民たち 教会は生命力のある、頭になったキリストの体になった生命の有機的共同体だ。キリストの生命力が各肢体ごとに流れ、すべての肢体の中にイエスの生命が充満して育ち、キリストの成長した分量に至るまで、キリストの中で完全な者として一人一人が建てられるのが教会を呼んだ神様の呼びかけだ。もしかしてこの目標を逃しているのではないか! 果たして韓国教会の聖徒たちは、この呼び掛けの目標にふさわしいように、その目標に向かって育っているのかを見なければならない。 真の信仰で生きている新しい被造物となった聖徒で構成された聖なる教会、世の中と罪悪に勝って、自分に勝って、最後の勝利を勝ち取る神様の聖なる主の教会! これがまさに教会に対する神様の呼びかけである。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[TGCコラム] 速度を落とせ、記憶せよ、楽しみにしろ。
”降臨節、これは何か驚くべきことが近づいていることを意味する” クリスマスが近づくと、何か素敵なことが起こりそうな気がする。あなたもそうかな? 遠くから聞こえてきた音がだんだん近づいてくるように、愛する人が空港ターミナルを出てくる姿を見るように、水平線の向こうから太陽が昇る瞬間のように、そして長い間待ち望んでいた夢がついに現実になるまさにその瞬間のように、クリスマスには何か素敵なことが起こりそうだ。フレデリック·ビクナー(Frederick Buechner)は次のように書いた。 ほんの一瞬、あなたは空気の中で一度も行ったことのない場所、そして言葉では言い表せない時間を思い出させるある香りを嗅ぎます。今、自分の心臓の鼓動を感じるほどです。これから起きようとする特別なことは、ただそれが起こる直前がもたらす特別な瞬間とだけ比較することができます。その瞬間の名前は降臨節です。 降臨節、これは何か驚くべきことが近づいているという意味だ。 速度を落とす時間 今週は教会の節気によってクリスマス前の4週目に始まる降臨節が始まる日だ。今はキリストを宝物にするために心を準備する時だ。しかし、忙しい年末の混雑の中で、私たちはこの大切な待ち時間をあまりにも簡単に浪費したりする。慌ただしい12月をまともに記憶することがどれほど大変なのか、消費主義時代が作り出したもう一つの犠牲者になってクリスマスを目前にする気持ちがどんなものなのか、私たちはとてもよく知っている。 反応する。組織する。ショッピングする。計画する。包装する。予算を策定する。ストレスを受ける。食べる。ストレスのために食べる。 私が今この文を書く理由は、私と同じように速度を少し遅らせなければならない人々、有名なキャロル「私たち皆が主を迎える準備をしよう」(Let every heart prepare him room)が必ず必要な人々のためであるのだ。 覚えなければならない時間 クリスマスに成就した神様の約束を記憶する時、私たちはキリストの成肉身がこの世をどれほど強力に揺るがしたかを思い出すことになる。クリスマスの意味は家族の伝統、きれいな照明、古い靴下をかけておくのとは比べ物にならないほど深い。 クリスマスは革命を意味する。クリスマスは奇跡を意味する。クリスマスは神様が私たちのために来られたことを意味する。天の王が王座をゆりかごに変えたことを意味する。全能者が自分を弱さで包んだことを意味する。創造主が被造物の中に入ったことを意味する。著者がページの中に自分を入れたことを意味する。無限の人が赤ちゃんになったことを意味する。与える方が贈り物になったことを意味する。 イエス様はイマヌエル、すなわち私たちと共にする神様として来られた。ずいぶん前にアウグスティヌスはこう言った。 「その方は御自分が創造した母親から創造されました。その方は御自分が作られた手によってこの世に出てこられました。」神様がどのように私たちのそばに近づいたのかを熟考すれば、その方をもっと知りたいという欲求が深まるだろう。 期待の時間 降臨節にはキリストの初臨に対する幸せな記憶だけでなく、その方の再臨に対する深い熱望を悟らせる何かがある(計22:20)。この時代の教会は旧約の終わりに向かっていた神様の民と色々な面で似ている-まるで流刑者のように周辺に押し出されており、闇の中で希望を抱いており、トールキンの言葉を借りれば「すべての悲しいことを消える」ようにするキリストの再臨を息を殺して渇望する-位置にある。 神様の民は過去のクリスマスの幸せな思い出と来るクリスマスの興奮が与える息詰まる期待の間で浮き立ってクリスマス前夜を過ごす幼い子供と変わらない。私たちはキリストの復活が与える「ハレルヤ」とキリストの再臨が与える「マラナータ」の間で暮らしている。そして降臨節を待っている今、この場で神様の民は礼拝の期待というレンズを通じてのみ見ることができる独特の喜びを発見する。ティモシー·ポール·ジョーンズ(Timothy Paul Jones)は次のように説明する。 降臨節を迎えたキリスト教徒は、うめき声が現在の貧弱さのために生じた希望のないすすり泣きではなく、イエス様が私たちのために準備している神聖な宴に対する切実な熱望のためであることを認識して受け入れる。 … 古代イスラエルの民が肉身で来られるメシアを待っていたように、私たちもメシアが栄光の中で再び来られることを待っている。降臨節を迎え、信仰のある信者はこう告白する。童貞女の膝の間から荒い息を吐きながら生まれた赤ちゃんには、まだ言うべき最後の言葉が残っていると。 降臨節は私たちはこの世を通り掛かる巡礼者であることを、罪悪で壊れたこの世の中がずっとこのままではないことを、真の王が本当にすぐ来られることを再確認する時間だ。[福音祈祷新聞] 降臨節にはキリストの初臨に対する幸せな記憶だけでなく、彼の再臨に対する深い熱望を呼び起こす何かがある アダム·ラムゼイ(Adam Ramsey) | アダム·ラムゼイはLiberti Church(Gold Coast)を率いており、またActs 29 Australia/New Zealandのネットワークディレクターとして仕えている。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
福音の前に立つ時が来た。
福音に対する二つの反応(7) 闇が勢力を拡大し、からしの種のような光を覆い隠そうとしても、闇は絶対に光を覆うことはできない。もちろん人間の弱さやミス、罪悪は必ず整理されるようになっている。しかし、主の福音が冒涜を受けることが続けば、私は生きている限り、すべての機会を持ってこの蛮行を全世界に知らせるだろう。 500年前の宗教改革当時、聖書を持ってれば燃やして殺した。すべての信者は魂の抜けた人として扱われた。しかし、マーティン·ルーサーが宗教改革の炎を起こした時に無知で何も知らないようだった平民が爆発的に起きた。それが宗教改革となり、その実を今我々が享受している。私たちは霊的な存在なので何が正しくて何が間違っているかは知っている。今はだまされないで違うことは違うと言って福音の前に立たなければならない時が来た。このままではいけない。福音を栄えなければならない。 主は生きて居られる。神様に立ち向かって真理に反する者は決して安全ではない。良心に逆らったり、神の聖なる真理の前に正しくない態度は決して安全でも正しくもない。マーティン·ルーサーのように、私たちは主の前で叫ばなければならない。「主よ、私がここにいます。私を助けてください。私は他のところに立つことはできません。」生きて居られる神様の国がからしの種のように小さく見えて麹のようでもその国は誰も耐えられない生きている神様の威力を表すだろう。神の統治が臨む私たちの中にある天国は、聖なる国であり、誰も汚すことはできない。十字架復活、福音の能力が私たちを聖なるものに導き、勝利させ、真理で結論を出させ、「イエスならそれでいい!」を叫ばせる。この世が待ちわびている福音はただイエス! キリストの血のついた福音だ。この福音が歴史を変え、列強のすべての魂を救うだろう。ハレルヤ!我が主は生きて居られる! 私たちの教会は腐っていない!神の教会は神聖だ! 福音は光栄だ! 普遍妥当な世の中の権力や教権、流行、時流によって恐れられたまま押し流されるか、それとも一日だけを生きるとしても神様の聖なる真理の前に立つか。「主よ、福音で詐欺を働いたり偽善者にならず、福音を生命で証言する者にしてください。 私と一緒にいてください。私は真理以外のものを選ぶことはできません。」自分は果たして真理の側に立っているのか。自分はキリストの側に立っているのか。自分の利益に従わずにいつも主の国の側に立つだろうか。「御霊よ、私たちを照らして下さり、私たちが悔い改めて神様の福音に駆けて進ませてください。」(2018年6月)<終わり>【福音祈祷新聞】 キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載してご使用ください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
ムスリムに改宗したキリスト教徒、夢でイエスに会って回心
キリスト教徒だったがムスリムに改宗したある男性が夢でイエス·キリストに会って再び戻ってきて、心から回心した事情を米CBNニュースが最近伝えた。 マイク·ウェスターフィールドは信心深いキリスト教徒として育ち教会に通い、甚だしくは時々説教をすることもあった。彼はフロリダ州の刑務所で働いていたが,そこにはイスラム教徒が収容されていた。イスラム教徒はマイクにイスラム教の本を渡した。彼は当初イスラム教徒をキリストに導くために本を読み始めた。 イスラム教徒が質問し始めたとき,マイクは答える準備ができていなかった。特に、彼は三位一体に対して多くの疑問を持っている自分を発見した。どうして神様が息子であり、また聖霊であることができるのか。彼は三位一体を理解するために教授と牧師に一生懸命に聞きながら必死に努力した。そうしながら、このすべてを通じてただ推論しようと努力しながらイエスを疑い始め、イスラムについてさらに多く知るようになった。 彼は結局、神には息子がいないという結論を下し、神はただ一人であり、ムハンマドを最後の予言者として受け入れた。 マイクは「私は真実を発見した(I Found the Truth)」のビデオで自分の話を聞かせてくれた。 彼は「私は結局キリスト教を捨ててイスラム教を受け入れた。私は12年間イスラム教徒であり、イマームや学者になるためにイスラム大学に通った。約7年間、忠実にムスリム生活を送った後、私はイスラム教の欺瞞と嘘についてさらに知り、イエス·キリストについて再び考え始めた」と話した。 彼は聖書大学のキリスト教弁証論に関する古い本を探し始め,聖書を読み始めた。また、リストベルの「イエスは歴史だ」、「信仰の事件」のような本を見て、ラビ·ザカライアスのビデオを見た。そしてついに「エンブレイス·ザ·トゥルー·インターナショナル(Embrace the Truth International)」で働いたアブドゥル·マレーを紹介された。彼はイスラム教徒の回心者でありキリスト教弁証人でもあった。マイクが初めて会ったムスリム回心者だったので、彼は自分の考えと疑いを共有することができた。 彼はマイクに正直に接し、非難しなかった。マイクはかつてイスラム教に熱狂した後、なぜ今イスラム教を去ることを考えているのか彼に話した。 2012年、マイクは夢でイエス·キリストに会った。彼は「夢でその方の血で覆われた!なぜそんな夢を見たのか理解できなかったが、とても驚いて心からその夢を振り払うことができなかった。主の血が場面を埋め尽くした。そこから抜け出そうとしたが、完全に覆われてしまった! 平安と愛を感じ、イエス様の濃い茶色の目が私の魂を貫いた」と話した。 彼はアブドゥル·マレーに電話をかけて夢について語った。するとアブドゥルは驚いて言った。マイクがその夢を見た日の夜、彼とジョシュ·マクドウェルはイエスがマイクの夢に現れることを祈ったのだ。 神様はありがたくも彼らの祈りを聞いて下さり、神様の血が彼の罪を許すのに十分だということを確信させる夢を与えた。ハレルヤ! 彼は「ちょうどその時、イエス様が神様の息子だということを知った。しかし、イスラム教を離れるのは容易ではなかった。ついに、1年後の2013年1月にイエス様にすべてを捧げて生まれ変わった! 光栄だった! イエス様は私をあきらめなかった」と話した。 彼はキリスト教の修士号を取得した。彼はイエス·キリストを「私の主であり救世主」として仕えることがどれほど特権なのかを告白した。特にキリストの十字架だけが与えることができる許しが必要なムスリムたちと福音を交わすことを彼は本当に嬉しく思う。 マイクは「避けられないイエス様の愛(The Inescapable Love of Jesus)」という映像で彼の話をした。 彼は自分の話で他のキリスト教徒がイスラム教徒に近づくようにインスピレーションを与えることを望んでいる。 マイクは家族や友人が信仰を離れてムスリムに改宗したとしてもあきらめないように頼む。彼は「祈り続け、愛し続け、友達に彼らのために祈るように言うべきだ。一緒に天国に進もう。それが私の父がしたことであり、神はその祈りに答えた。命と死がかかっているこの事をあきらめるな」と伝えた。 [福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
戦争と暴力の中で平和を渇望するミャンマー
ミャンマーのある青年が村の井戸から水を勢いよく汲み上げる。 誰でも喉が渇いたら来て飲める。 ミャンマーでは昨年2月、軍部によるクーデターが発生した。国連難民機関(UNHCR)が5月23日に発表した資料によると、クーデター後、故郷を離れた失郷民が694万3000人に上るという。国連人権最高代表事務所(OHCHR)が最近発表した年次報告書には、クーデター発生後、軍部側が犯した殺人、拷問、性的暴力などの証拠だけでなく、民間人に対する意図的な攻撃、無差別殺人、村全体の放火などの戦争犯罪証拠があると明らかにした。特に軍事政権は持続的な教会放火とキリスト教徒殺害、教会を爆弾で破壊しており、教会に入って献金などを奪い取っているとオープンドア宣教会が伝えた。サイル区地域で多くの仏教塔と法堂は一発の銃弾攻撃も受けなかったが、キリスト教徒の家と教会は破壊され、キリスト教徒は獣のように殺害されている。 暴政と不義と殺人でミャンマーの魂は喉が渇いている。罪人がもがいて自ら汲み上げた水は再び喉が渇くだけだ。しかし福音であるイエス·キリストがくださる水を飲めば永遠に喉が渇かないだろう。アーメン 「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ4:13~14)[福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
イエス様が私の内に居られる神秘的な連合の栄光を味わいなさい
福音に対する二つの反応(6) 目に見えるどんな現実よりさらに現実である神様の国が臨むところは神様の教会である私たちの心霊だ。それなら、私たちが告白する使徒信条が心に実際なら、誰もが口にできない変化と能力が現れなければならない。この素晴らしい福音の栄光と能力と祝福が自分の人生に実際なのか。 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15:1~4) 神様と分離されたまま呪われ、永遠の刑罰を受けなければならない私たちを神様が愛した。罪を解決できる唯一の方法として罪のない御自分の息子を私のような罪人の形で送り、私が受けなければならない審判の席にイエス様を私の名札を付けさせて審判を執行された。カルボリの丘でイエス様の贖罪の死が地獄に行くしかない私の運命を終わらせた。泣いてももがいてもできなかった人類の根源的な宿題を終わらせ、私の人生の悲しみと呪いを神様がイエス·キリストによって解決された。 アーメン!そして神様が3日目に復活されたという話は、私がもう復活したイエスの新しい生命として生きることになったということだ。だからもう私ではありません、イエス様が私の中に生きている神秘的な連合を信頼で従う時、毎日神様の国の能力と栄光を経験して生きていくという話だ。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) 心霊が貧しく渇いた者が哀痛な心霊で絶望の中で「私はいくら努力しても私自身を変えることができません。律法を守る能力がありません。神様のみ言葉が分からない時は知らずに滅びるようなことをしたけど、律法を知っても私は私の心を自ら扱うことができず、み言葉通りに生きられなくて死にそうです。 ああ、神様、どうすればいいですか?」とため息の中で座り込む時、耳で聞いた神様が生生しっく命として心の中に入って来られる。 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6) 貧しくて喉が渇いた、失敗して完全に割れた心霊には、救命ロープを握るように十字架復活の福音が生命として受け取られ、人生がひっくり返ることになる。 イエスに会って同行しながら生きてきた40年余りの間「福音の実際」は私にとって一つのテーマだった。何の役にも立たなかった私は滅亡第1順位だった。全く可能性がなく、自分自身を放棄したまま自虐症に苦しんでいた私に、神様が一方的に訪ねてきたその日をどうやって忘れることができるだろうか。一生その感激だけでも感激して死ぬほど、ヨハネ福音書3章16節は私の生命の告白になった。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ我が手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
苦難で捕まえられる唯一のもの
もしイエス様が十字架の目的と価値を知らないまま、苦痛を受けとしたらこれ以上無念な苦難はないだろうと思う。罪を知らない方が私たちの罪を背負ってすべての苦痛と恥、絶望と呪いを受けなければならなかったからだ。聖書にはイエス様より先に、無念な苦難を体験した人物がもう一人いる。ヨブだ。後で神様がヨブの友人たちに雄牛と雄羊を彼に持って行けと言われヨブが友人のために全焼のいけにえと祈りを捧げるようにしろとおっしゃる時はイエスとヨブがオーバーラップされる。それなら、神様が許された苦難の前でヨブはどうだったのだろうか。 レンブラントとライバルだった17世紀のオランダ画家ヤン·リーベンス(JanLievens)はヨブを描きながら、彼の無力さを強調した。暗闇の中でとりわけ白く輝くヨブの肉体は、彼の義理を表現する。腕と足を垂らしたヨブは何の抵抗も、何の返事もしない。左にはヨブの妻が羽飾りの帽子と金のネックレスを見せながら、神様を呪って死ねと叫んでいる。帽子とネックレスは過ぎ去った富貴栄華を示す。右側には火を噴き出す二人のサタンがいる。ヨブには恥と嘲弄、絶望のほかに何も残らなかった。 このような深い苦難の中では、誰かの慰めや助言、原因分析も役立たない時が多い。むしろ痛みだけ増す場合が多い。「私だったらそのような神は信じない。」、「神様があなたの罪を記憶しているようだ。」など、中途半端な一言自体が苦難でありうる。 このように終わりの見えない苦難の中で捕まえられる唯一のものがある。苦難が自分に与える意味と神の心を発見することだ。この過程は霊的な知恵が必要なので、必ず主に答えを求めなければならない。罪のためか、それとも黙々と通り過ぎること以外に方法がないのかを見分ける知恵が必要だ。もし後者なら現在の苦難の価値、すなわち苦難が私たちの霊的成熟と清潔のための神様の訓練であることを悟らせるだろう。苦難の訓練であることを知ると、驚くべきの新しい力が出てくる。ヨブの垂れ下がった四肢が持ち上げたら十字架の形になるように、苦難が訓練に変われば、自分を捨てることに耐える力も与えてくださる。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[TGCコラム]神様が私に天国になる時
”神様は天国に行く唯一の道では終わらない。天国が天国なのは神様がそこにいらっしゃるからだ。” 福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。 人々はしばしば人生の重要な瞬間を「神様が私の世界をひっくり返した日」と描写する。思いがけない経験と対話、または試練が自分自身と人生、人間関係、周辺世界を見る方式を根本的に変える。私の場合には大学2年生の時、神様が私が考えていた天国をひっくり返した。 私はキリスト教の家庭に生まれ、愛が溢れるキリスト教徒の両親に育った。その事件が起こった時にも大学生だった私は明らかなキリスト教徒だった。ほとんど毎日聖書を読み、祈りを抜けなかった。正統教会に熱心に出席して周りには成熟して主に似ようとするキリスト人の友人たちであふれた。甚だしくは私は高校生に福音を伝えて彼らをきりすとの弟子にする使役にまで関与していた。その頃、ある瞬間、ある事件が起きた。それを一つの文章で言えば、突然福音が全く新しい意味で、全く新しい色彩で、そして新しい強烈さと喜びで私を巻きつけた。 私を福音の中にさらに深く導くためには、神様が先に私に会わなければならなかった。その出会いは実に甘い対面であり、最も満足できる訓戒だった。私が会った文章は私を座っていたその場で身動きが取れなくしてその後も決して私を去らなかった。 キリストは神を見て吟味するより、他のことをより尊く思う罪人を許すために死ななかった。キリストがいない天国でも、いくらでも幸せになれる人は天国に入ることができないだろう。福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。(ジョン·パイパー、神様が福音だ、47)。 今の時代に向けた質問 福音は人々を神様に導く道だ。福音は私を神様に導く道だ。それは荒廃と恍惚感を同時に与える珍しい悟りだ。なんで荒廃してるのかって?福音に会う前まで私たちがどれほど間違っていたかを悟らせるためだ。恍惚感は?一度も足を踏み入れたことのない土地、一度も航海したことのない海に出会うようで、想像もできなかった素晴らしい食べ物を食べる喜びを与えるからだ。 神様は天国に行く唯一の道で終わらない。天国が天国であるのは神様がそこにいらっしゃるからだ。神様は立派な食事だ。荒々しく驚異的な海だ。畑に隠した宝であり、貴重な真珠である(マタイ13:44-46)。 ジョン·パイパーは全く忘れられない驚くべき質問で、神様自身がどれほど卓越したプレゼントなのかを強調する。 私たちの世代だけでなく、すべての世代を問わず重要な質問はこれだ。あなたが天国に行ったとしよう。病気もなく、望むすべての友人がそばにいて、毎日好きな食べ物を食べて、各種余暇活動にまた毎日目の前で繰り広げられる自然の美しさ、味わうことができるすべての肉体的快楽に人間関係の葛藤や自然災害のない天国、そこで今あなたが生きているとしよう。ところでただ一つ、キリストがそこにいなければ、それでもそこがあなたにとって天国なのか?依然としてあなたは満足できるだろうか?(ジョン·パイパー、神様は福音だ、15) あなたはどうか。 私はどうなのか?これは私にとって天国自体を揺るがした質問だった。私はキリストがいない天国でも満足できるだろうか。そうでなければ、永遠に渇望するほど天国を本当に価値のある対象にするのがキリストなら、私は今なぜこの地でその方をもっと知り、より多く享受するためにもっと努力しないのか。 誰が天国なのか。 「福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。」神様は何とおっしゃるのか。その方が御自分について、そして福音と天国について本当にそうおっしゃるのか。 使徒パウロは神様が福音の中で最も大きなプレゼントであることを知った。”しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。”(フィリピの信徒への手紙3:7-9)。 世界のすべてを凌駕する真の宝物は、その方を知ること、その方を得ること、そしてその方を持つことだ。 キリストはなぜ十字架で死んだのか。使徒ベドロは言う。 ”キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。”(ペトロの手紙一3:18)。その方は私たちがただ許され地獄の苦痛から解放されるためだけでなく、私たちが神を持つように苦難を受けて血を流しながら死んだ。 罪がもたらす最悪の結果は硫黄の火ではなく分離である(テサロニケ一1:9)。様々な理由で地獄は苦しくて惨めだろう。呪われた者たちも依然として神の臨在を経験するだろうが(黙示録14:10)、それは恩恵と喜びではなく恐ろしい怒りだ。彼らは決して神を享受することができないだろう。 しかし拘束された者たちは”私は神の祭壇へと、わが喜びなる神へと近づき、琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。”(詩編43:4)と歌う。 ”命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが、右の手には麗しさが永遠にありますように。”(詩篇16:11)。 喜びと楽しさがただその方のそばまたは周囲にだけあるのではない。何よりもその方の中に喜びがある。その方は喜びそのものだ。楽しみそのものだ。その方の居られる所が楽園だ。私たちが愛して渇望する他のすべてが消えても、その方さえいらっしゃれば、そこは楽園だ。 キリストの中で私たちは今も部分的にその方の臨在を経験する。そうだ。私たちの中に残ってある罪とその結果がその方の臨在を妨害するけど神様が私たちの喜びになる時、私たちは今も真の喜びを味わうことができる。私たちは日常で今も快楽、永遠の快楽を味わう。そのために、詩編42編のような祈りを捧げることができる。”鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。”(詩42:1-2)。 救いや許し、治癒や供給、安心や和解のためではなく、ひたすら神様を渇望する。神様がくださる善良で完全な贈り物を渇望するわけでもない。 そのすべての贈り物より遥かに優れた贈り物、まさに神様、その方を渇望する。 新しい空と新しい地で天国 天国を待って熱望する時、私たちの中の多くの人がヨハネの黙示録21:4のような約束にしがみつく。”彼らの目からすべての涙を拭いてくれるので、二度と死がなく、悲しみも泣き叫ぶことも苦痛もないだろう。以前のものが全て消えてしまったためだ。”これ以上の涙も、これ以上の死も、これ以上の悲しみと泣き叫び、苦痛もない。私たちはこのようなすべての苦痛が消えた世の中が与える甘さ、だから影が全くない世の中を想像することができない。 しかし、天国はただ悪いことがないところと定義されない。天国はすべてを満足させるあり(presence)と定義されるだろう。神様が私たちのために天国になる時、3節は4節が含んでいる貴重な約束さえも隠してしまう。 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。 … そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、(黙示録21:1,3) 罪と悲しみ、死のない世の中よりもっと良いものは何だろうか。神様と共にする世の中だ。そうだ。その方は私たちの涙を拭いてくれるだろう。そうだ。その方は私たちの傷を癒して病気を治療してくれるだろう。そうだ。その方はついにその恐ろしい敵、死をなくすだろう。そのすべての祝福が無限に大きいけど、神様を所有して神様の所有になることに比べれば、そのすべての祝福は海のそばの水たまりに過ぎないだろう。私たちが流すすべての涙を拭いてくれる神様が私たちの神様だ。すべての癌を治す神様が自分自身を私たちに、つまらない私たちにくださるだろう。墓を空けて死を転覆させることができる神様が私たちのそばで永遠に私たちを守るだろう。 神様が私のためにできるすべてのことに目がくらみ、神様その方自体が私にどんな意味なのかを忘れるミスをしないようにしよう。水たまりで遊ぶのに夢中になって広大な海を逃す愚かな人になってはならない。神様を中心に置かないいかなる天国にも満足してはならない。 [福音祈祷新聞] |マーシャル·シーガル(MarshallSegal)||マーシャル·シーガルは作家であり、desiringGod.orgの責任編集者だ。 Bethlehem College & Seminaryを卒業し、韓国語で訳された「まだ結婚していないあなたへ」の著者である。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年に米国で設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム]罪とイエスの使役
イエス様が行われようとしたのは何だろうか? 彼の死と復活は現実に実際的な影響を及ぼすことだったのか? あるいは永遠の問題に全ての焦点を合わせたのだったのか? 聖なる神様の息子が、自分の栄光を捨てて、人の形を取って、義を貫いた人生を生きて、他の人たちの罪のために喜んで自分を完全ないけにえとして捧げたことを考えてみよう。その全ての事が罪を無くさないで、単純に罪を許すための目的だっただろうか? 使徒ヨハネは手紙の受信者たちが自分たちの信頼の真実性を試験するのを援助するために最初のソシン書を書いた。 このようなテストは、キリストの使役が彼らの人生に必然的に影響を与えているかどうかを試すものだった。 そして彼はヨハネの手紙一3:5-8で私たちを代わりにしたキリストの使役は彼の庶民の暮らしが画期的に聖化するのに影響を及ぼすためのものということを明らかにした。 "あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネの手紙一3:5-8) 私たちの代わりのキリストの御業 イエス様が私たちのためにこの地に”罪を除くために”(ヨハネ一3:5)来られた。彼は罪の代価を払うためにいらっしゃっただけでなく、罪を許すためにいらっしゃったし、すべての罪をなくすために来られた。キリストの贖いで信じる者は皆罪から分離された。一時、彼らの生活の特徴とも言える不法が除去された。 したがって、キリストの十字架の拘束でキリストの生命を共に分かち合った人が罪の中に生きるということはつじつまが合わないことだ。 つまり、イエス様は信じる者を聖火させるために死んだため(コリント第二5:21)、罪の中に生きることは信じる者の人生で罪の権勢を破った彼がされたことと反対であることだ(ローマ6:1-15参照)。 罪を滅ぼすために来られたイエス様の真理は単純に未来の希望ではなく、今起きている現実だ。ある人は、信じる人は死ねば罪から拘束されるが、死ぬ前には彼らが依然として罪の中にいる可能性があると言う。しかし、ヨハネはそうではないと話す。聖化の過程は遅くて漸進的に起こりうるが、救われた後に人生を変えるキリストの作業は即刻起きる事件である。(フイリピ1:6) 救われた瞬間、信じる者は本当にきれいになり、彼らの罪から分離されることを経験する。実際、その分離は彼らがイエス様の姿をより一層似ていきながら進行される。 テトスへの手紙2:11-14は、聖化の現在と未来の様子をよく説明している。“その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。" したがって、キリストが十字架でされた一度の業は、私たちの人生の中で彼が持続的にされることの始まりだった。 しかし、何がそれを持続的にできるようにしたのだろうか。 私たちがこの世で罪に勝てるようにするどんな変化が起きたのか。 キリストの中で私たちの新しい性格 ヨハネは5節を"彼には罪がない"という言葉で終えた。イエスは罪と何のかかわりもない方だ(コリント第二5:21)。この事実は実際的に大変な波及効果がある。ヨハネは手紙の前頭に”あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。”(ヨハネ第一2:29)と話した。神の救いの能力が新たに信ずる者に与える場合、彼らは生まれ変わって、新たな性格を受ける。そしてまるで生まれたばかりの赤ん坊のように神様の国で暮らすことを学ぶ生活を始まる。 その後に使徒は6節でキリストの御業で救われた人の特徴を説明している。 “御子の內にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく知ってもいません。”キリストの内にいるのは彼の法に従って彼の勝利を記念し、彼の王国に住むのと同じことだ。簡単に言って新たになった人は罪を遠ざけてキリストと近くなる。数年前にパウロは同じ真理をローマ聖徒たちに教えた。 “わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。”(ローマ人への手紙6:4-7) この言葉は新約聖書の中心を要約したものである。(エゼキエル36:25-31)パウロは続いてさらに詳しく説明した。 “しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。”(ロム6:17-18) パウロが強調するのは聖化である。 真のキリスト教人には聖霊様がいらっしゃる(ローマ8:12-17)。 新しい心を受け、(使徒行伝16:14)、完全な許しを受けて(1:14)、そして新たな生を受けている(コロサイ3:5-10)。 このすべてのものが神様の法に従う新たな能力で証明される。 聖火と確信"罪を犯す者"(ヨハネ第一3:6)はキリストの内にいることはできない。 この言葉はキリスト人になった人は二度と罪を犯さないということではない(ヨハネ第一1:8)。しかし、彼らは彼らが生きてきた人生を再び生きることはないだろう。なぜなら"御子を見て彼を知っている人は"(3:6)習慣的に生まれ変わっていない人のように"罪を犯さない"からだ。 ヨハネはさらに、手紙の受信者に対し、聖化について正しく理解していると騙されているのではないか確認するようにと注意した。逆に偽りの教えがあるが、ただ"義を行う"者だけが"イエス様が義であるように義である"(ヨハネ第一3:7)という確信を持つことができる。 ヨハネははっきりと結論を下した. "悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネ第一3:8)本当に信じる者たちが悪魔のような行動を続けることは不可能なことであり、考えられないことだ。 今、サタンは依然として神様の計画と神様の人々を対敵する(べテロ一5:8)。しかし、信じる者はもはや彼の影響の下にいるか、彼の支配の下にはいない。キリストを知り、キリストを愛する私たちは罪の束縛から自由になった。そして聖霊の感動を受けた使徒ヨハネは、「私たちはそのように生きなければならない」と話す。 これまで我々は罪のある生活様式は罪が不法であるため、救われる信仰と似合わないということを見た。そして、本当に信じる者は、その反抗的で不法な心を悔い改める心に変えたため、罪のある生活様式は救われる信仰とは似合わないということを調べてみた。今、私たちはどうやってイエス様の使役が私たちの罪を許すだけでなく、一生にかけて進行される聖化の過程を始めるということを調べた。 ヨハネは最後に罪がなぜ救われる信仰と似合わない理由を言う。そして、それは止まない御霊の使役に焦点を合わせたものである。 私たちはその最後の問題を次に調べて、このシリーズを終える。 [福音祈祷新聞] (上記の文章はジョン·マッカーサーの新約注釈:ヨハネの手紙一–三から抜粋したものです。) 出所:http://www.gty.org/blog/B140626?term=b140626 |ジョン·マッカーサー||グレイストゥコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起きるすべてのことを聖書の言葉から答えを探そうとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGracetoKorea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
真の福は'福音を見ることができる目と聞くことができる耳'
福音に対する二つの反応(3) 福音が強力で単純で明確に叫べば聞き取れない人がいない。ところが、不思議なことに同じ祝福の福音を聞いても、心の状態によって反応が分かれてしまう。“十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の 力です。(コリント第一1:18) 十字架の言葉が永遠、天国、尊さ、希望… このようなことなしで悪を抱いて生きる滅亡する者たちには愚かで無知な話に聞こえるけど、救われる人、すなわち心霊が貧しい者には十字架の言葉こそ彼らの人生を変化させる神様の能力なのだ。 ”ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知惠を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された 者には、神の力、神の知惠であるキリストを宣べ伝えているのです。“(コリント第一1:22~24) ユダヤ人は自分たちが理解できるしるしを求め、異邦人であるギリシャ人は人間のレベルで理解できる知恵を探すが、ひたすら召された者にはユダヤ人であれギリシャ人であれキリストこそ神の能力であり神の知恵だ。 このように同じ福音を聞かせて手に取るように持ってきても心の状態がどうなのかによって反応が天と地ほど異なる。心で聞く耳が重要なのだ。"しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。"(マタイ13:16)霊的な目と耳が開かれ心霊で神の声を聞いて見ることができる福が真の福だ。人間になった神様、永遠で唯一の主であるイエス·キリストをわかるということは、人間的な知識や知恵では分からず、霊的な目と耳が開かなければならない。十字架の言葉を悟らずに信じられなければ、私たちは罪の中で生まれ、罪の中で生きて永遠に滅びることになる。だから十字架の言葉の秘密を見ることができる目、それを聞くことができる耳が'生きるか死ぬか'の永遠の運命を分ける途方もない福なのだ。2000年前、ダビデの町にナザレイエスとして来られたイエス·キリスト。その方をキリストであり生きている神様の息子として知ることができる目を持つ者が救いに至り、神様の国の民になり、神様の永遠の福を受ける。この福音が私たちの生命になるにはまさに私たちの霊の目と耳が開かれてこそ可能であるのだ。 心霊が貧しい者に福があるという言葉は歴史の中にそのまま現れた。 神様が人になってベツレヘムのナザレにある馬小屋にいらっしゃった時、赤ん坊で来られた。その時、東方の博士たちが訪ねてきて礼物を差し上げたが、彼らはイスラエル人ではなかった。正確ではないが、今のペルシアやイランの向こうから遠い道を来た。推察してみると、聖殿もあり、祭司もあり、イエス様と関連した予言が並んでいる旧約聖書を毎日抱いて生きてきたユダヤ人こそ、一番先にイエス様をわかるべきだったのではないか。ところが、彼らはついに人間の体を着て来られたイエス様に気づかなかった。むしろその昔イスラエル人たちが捕虜で連れて行かれたが時に伝えられた聖書の一部の中で'人類を救うメシアがユダヤの地に王として来られる時、本来あった星でない星で東方に浮び上がるだろう'というかすかな影のような予言だけを持つ東方人たちがその星を発見した。そして、その遠い道を巡礼者のように訪ねてきて、赤ちゃんイエス様に黄金と没薬と乳香を礼物として差し上げて王に差し上げる敬拝をして帰った。 (2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨン イ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org