神の約束と誓い (6)
ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。
「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9)
イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。
どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか?
こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。
生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。
教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。
永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)
木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞]
キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表)
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