[GTKコラム] キリストで十分なキリスト教(4): 神の言葉の十分性、第一部

聖書: 詩篇19:7-14 聖書の中でキリストを指す名前の一つに「助言者」がある(日本語訳では「奇妙な者」、「相談役」と訳されている)。この点は非常に意味深い。キリストは私たちが助言を求めることのできる究極かつ最高の助言者であり、その言葉は私たちが神の知恵をくみ取ることのできる泉だ。これ以上に驚くべきことがあるだろうか? 実際、キリストの完全かつ十分な属性の最も栄光に満ちた側面の一つは、キリストが絶望、混乱、恐れ、不安、悲しみに満ちたこの時代に与えてくださる驚くべき助言と偉大な知恵だ。彼こそが本質的な助言者だ。 だからといって、この事実がクリスチャン同士で助言し合うことの重要性を軽視するわけではない。キリストの体である教会の中で、聖書に基づいた健全なカウンセリングは確かに必要だ。他の信徒を励まし、識別し、慰めや助言、憐れみと助けを提供する霊的な賜物を持つ信徒の重要な役割を否定するつもりは少しもない。 実際、今日健全でないカウンセリングが蔓延している問題の一つは、教会がそのような霊的な賜物を持つ人々が効果的に奉仕できるようにする役割を十分に果たしていない点だ。この時代の複雑さは、時間をかけて他者の話に耳を傾け、温かい関係を通じて他者に仕えることで、教会が健康と活力を享受するために必要な親密な交わりを提供することが、かつてないほど難しくなっている。 教会はこの不足を補うために心理学に依存しているが、心理学はほとんど効果を上げていない。専門の心理学者やカウンセラーは、霊的な賜物を持つ人々を決して代替することができず、カウンセリング心理学の試みは聖書的な知恵と神の力を代替することはできない。さらに、心理学は人々を心理療法士に依存させる傾向があるが、真の霊的賜物が発揮されるなら、人々はいつでも欠けることのない救い主とその欠けることのない言葉に立ち返るようになる。 神の言葉が十分であることを歌った詩篇 ダビデ王は時折、人間の助言者に助言を求めることもあったが、最終的にはいつも神に解決を求めた。いくつかの詩篇に示されているように、ダビデは特に個人的な問題や感情との戦いにおいて、ただ神だけを頼りにした。彼は落胆や内的な葛藤に陥ったとき、神を頼り、祈りで奮闘した。彼自身の罪が問題となったとき、彼は打ち砕かれた悔い改めの心を持って悔い改めた。彼はこう祈った。「主よ、私を調べて試し、私の思いと良心を訓練してください」(詩篇26:2)。霊的に成熟した人は、魂が心配や落胆、混乱や不安に包まれるとき、いつでも神に助けを求め、神が知恵ある助言と救いを与えてくださることを確信している。 それは、人間の魂が必要とするすべては、究極的には霊的なものであるからだ。霊的な原因や肉体的な原因と関係のない「心理的な問題」など存在しない。神はそのすべての必要を完全に満たすための十分な手段を提供してくださる。ダビデはこのことを知っていた。 ダビデの書は、人生の極限状況を十分に経験した一人の人間の体験と感情、そして霊的な洞察の深さを反映している。ダビデは羊飼いから王の座に登りつめる喜びを知っていた。彼は完璧な勝利から苦々しい落胆まで、あらゆることについて書いた。耐え難い深い苦しみとも格闘した。 彼の実子アブサロムは彼を殺そうとし、アブサロムは殺害された。彼は自分の不道徳と殺人によってひどい罪悪感に苛まれた。彼の子供たちは絶えず彼を悲しませた。彼は神の本質と自分自身の心を理解しようと苦闘した。神については「主は偉大である」(詩篇145:3)と言いながら、自分自身については「私の罪を洗い流し、私の罪を清めてください」(詩篇51:2)と言った。ダビデは神が自分を罰するすべての権利を持っていることを認めつつ、神に自分の感情を吐露し、救いを与えてくださるように叫び求めた。 ダビデの詩篇の終わりには希望の窓を見つめることもあったが、そうできなかった時もあった。しかし、ダビデは神の主権と自分の堕落をよく知っていたので、いつも神に近づいた。ダビデは欠けることのない救い主だけが、自分の必要に対する解答を持っており、その解答を適用する力があることを知っていた。そして彼はそのような解答を、神の言葉に啓示された神についての真理の中に見いださなければならないことを知っていた。言葉そのものが完全に十分だった。十分である神は、ご自身の十分な言葉の中でご自身を啓示されたのだ。 詩篇19:7-14は、聖書が十分であることを簡潔に説明した記念碑的な文章だ。ダビデが聖霊の霊感を受けて記したこの詩篇は、状況に左右されない神の言葉の十分性についての神自身の確固たる証言を示している。この詩篇は、現代心理学から得た真理を神の言葉に加えなければならないと信じている人々の教えに反論している。 7~9節でダビデは聖書について六つのことを述べている。それぞれの述べた内容は、神の言葉の特徴を強調し、その言葉を受け入れる人の人生に現れる言葉の効果を記述している。 次回は、ダビデが強調した神の言葉の六つの特徴を見ていくつもりだ。【福音祈祷新聞】 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)|グレーストゥコリア コラムニスト 原文: https://www.gty.org/library/blog/B140912 GTKコラムは、私たちの生活におけるすべての出来事に対して、聖書の言葉から答えを見つけようとするアメリカのグレース・コミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師や信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本紙と協約を結んで掲載されています。

十字架を通過したのか?

神の約束と誓い (8) 「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4) 私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。 神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。 「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13) 主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。 だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。 証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。 「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11) 私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 神の国が手の中に、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活!

神の約束と誓い (7) 「しかし、時が来たので、神はその御子を送り、女から生まれ、律法の下に生まれさせました。それは律法の下にある者たちを贖い出し、私たちが子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4:4-5) 呪われるしかない私たちを、神がそのまま赦すためには、聖さを放棄しなければならない。しかし、神は公義を放棄されない。罪に対する裁きは、そのまますべて果たされなければならない。このように罪に対する裁きは行われるが、その罪と共にある私を生かしてこそ、救いが成し遂げられるのである。「罪がすなわち私であり、私がすなわち罪」であるから、私にある罪を完全に裁かなければ、罪が終わりを迎え、私が生きることができるのである。しかし、罪を裁くと私が死んでしまうし、私を生かすと裁きを行うことができないというこのジレンマを、主は解決しなければならなかったのである。 これに対して神は、私たちが想像もできない代贖という方法を用いられた。代贖とは、誰かが私が負った借金を代わりに返済し、その者が返済したすべてを私が返済したものとして認められるという意味である。これを信じるだけで、その信仰を義と認めてくださる方法によって、神も義であり、私たちも義とされる代贖の義を、主は準備されたのである。 「すべての人は罪を犯して神の栄光に達することができず、キリスト・イエスにある贖いにより、神の恵みによって、ただで義と認められる者とされた。このイエスを神はその血によって信仰を通じて和解の供え物として立てられた。それは神が長く忍耐されて、以前の罪を見逃されたことでご自分の義を示すためであった。それはすなわち、この時にご自分の義を示して、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするためである」(ローマ3:23-26) 神も義であり、イエスを信じる私たちも堂々とするための道を備えるために、私のすべての罪の代価を主が裁きによってすべて終わらせ、その後に一つの要素だけを残しておいたのである。 それはまさに、誰かが私の名と私の資格で返済してくれたその功労を信仰によって完全に受け入れ、その者に起こったことを自分に起こったこととして受け入れることである。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死に、裁きを受けられた時、私の名において私自身となって死なれたので、その方が死んだ時、変わらない私も共に死んだことを信仰によって受け入れることである。 初めに主は言葉で創造された。しかし、私たちを救う時、神の父がただ一つの御子をこの地に人として送り、女から生まれさせ、律法の呪いを代わりに受けさせ、子であるイエス様が十字架で死に、復活することで、律法の義をすべて成し遂げられたのである。 神は私にある罪を裁いて罪に対する問題を終わらせ、私を生かして義とされたのである。このようにして私の義を得るために、私が直接行ったことは何もない。その代わりに、イエス・キリストが成し遂げられたそのことが私にも成し遂げられたことを信じ、信仰によって参加しなければならないのである。イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活。今や罪がもはや主人の役割を果たすことはできず、律法が私を罪に定めることもできない。キリストだけが私の中で主人となって生きられることにより、神を愛し、真理に従い、天に属する生活を送ることができるのである。この驚くべき福音を主が準備してくださり、私たちを招待しておられるのを、ただ信じなさいというのである。ハレルヤ。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] 金容義 (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

私ほど… 私を弁護するのは誰の基準ですか?

“私が一体どれほど大きな罪を犯したので地獄に行かなければならないのですか?私ほど他人に害を与えずに生きてみろと言ってください。” その通りです。あなたは十分に自分を弁護するに値します。しかし、その弁護の基準は誰の基準ですか?地獄と天国は人間が作ったものではありませんし、天国行きと地獄行きを決定する基準も人間が定めることはできません。その基準は創造主なる神によって定められ、決まるのです。 あなたは人を憎み、両親に嘘をつきました。家庭の金に手を出したこともあり、他人の物を欲しがったこともあります。嫉妬や誹謗中傷もしました。他人の悪口を言い、無情なこともしました。困っている人を無視したこともあり、他人のお金を受け取っていい加減な仕事をしたこともあります。自分より弱い人や困っている人を軽視し、強く見える人には自分の利益のためにおべっかを使ったこともあります。猥褻なものを見たり、異性を性的に欲望したこともあります。時には自分を飾り立てて傲慢にもなりました。こうしたあなたが天国に行くことは神はおっしゃいます。 「こんな程度の罪も犯さない人がどこにいるのだから、そんな厳しい基準を持ち出すのか。」と不満に思うかもしれません。しかし、神はその基準を要求するに足るお方です。その方は罪とは全く関係のない「聖なる」存在だからです。だからこそ、あなたは絶望しているのです。 しかし、神はあなたを愛しているので、天国に行く道を開いてくださいました。あなたの全ての罪を御子イエスに移し、その罪の代償を十字架で支払わせました。十字架は最も屈辱的な死です。しかし、それは最も偉大な愛の表現です。 あなたの罪のために死に、甦ったイエス・キリストを私の主として迎え、信じるだけで天国に行けると約束されました。罪人であるあなたのままでイエス・キリストのもとに出れば、罪の赦しを与えてくださいます。イエス・キリストのもとに出てください。今すぐです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

今、あなたはどこに行くのでしょうか?

誰もが喜ばしい知らせ、つまり福音を聞きたいと願っています。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。これは、からし種宣教会が制作した伝道誌の内容から抜粋し、紹介しています。<編集者> 飛ぶ矢のように時が速く過ぎていきます。流れる時を意識することもなく、ある日鏡の中に自分の親の姿を発見したりはしませんか?そのとき、あなたはどんな考えを持つでしょうか?「私ももう年を取ったな」と思い、時の無常さや虚しさ、そして漠然とした恐れが心をよぎることはありませんか? 親が生きているとしても、やがてその道をあなたもたどることになるでしょう。それが切ないことですか?その切ない時を過ごした後、あなたは一体どこに行くのでしょうか?「どこに行くって?」と、当たり前の質問で答えたくないと思っていませんか? そうではありません。この質問に答えたい人たちがいます。それは、イエスを信じる人たちです。イエスを信じる信仰は、死を恐れることも、これまでの人生を虚しいものにすることもありません。なぜなら、死が終わりではないからであり、死を通して永遠の命を得るからです。 さて、あなたはどこに行くのでしょうか?肉体が年老いて衰えても、やってくる死を恐れずに済む永遠の命の道があります。しかし、その永遠の命はあなたの力では得られません。なぜなら、あなたは心の中に神を置くことを嫌う罪人だからです。その罪を許してもらわなければ、永遠の命を得ることはできません。だからこそ神は、自分の子をあなたの罪の代わりに背負わせて十字架で死なせました。 今、あなたは永遠の命を得て天国に行くために、何もしなくても大丈夫です。ただあなたの罪を悔い改め、あなたの代わりに死んで復活されたイエス様を心の主人として受け入れ、その方と共に生きるだけでいいのです。「死んだら終わりだ」という歪んだ確信のまま、永遠の滅びの道を歩むのでしょうか? それはダメです。イエスを信じて永遠の命と天国の道を歩んでください。 [福音祈祷新聞] <著作権ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架の福音以外には生まれ変わる道はない

神の約束と誓い (6) ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。 「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9) イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。 どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか? こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。 生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。 教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。 永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) 木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及び問い合わせ: gpnews@kakao.com

神様はあなたを存じております。

誰もが良い知らせ、すなわち福音を聞きたいと望んでいます。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。カラシ種宣教会が制作した伝道紙の内容から抜粋して紹介します。<編集者> あなたは神を知らなくても、神はあなたを知っています。神は子供を失った親のように、あなたを切実に探しています。イエスを通して救われるということは、神の愛の中に入ることを意味します。 昔、あるロシアの貴族の馬車が走っていました。その後ろを飢えたオオカミたちが恐ろしい勢いで追いかけていました。御者は馬車を引く4頭の馬のうち2頭を放し、オオカミの餌にして追い払おうとしました。しかし、再びオオカミたちは追いかけてきました。そこで御者は手綱を貴族の主人に託し、銃を手に馬車から飛び降りました。 貴族は全力で馬車を駆り、村に到着し、救助隊と共に来た道を戻りました。しかし見つかったのは、御者のわずかな骨だけでした。御者は愛する主人を救うために、自らの命を犠牲にしました。本当に主人への使用人の愛は感動的です。 しかし、この話の中で、もし御者を救うために自らオオカミの餌になることを選んだ主人がいたらどうでしょうか? その主人の愛はまさに身分を超えた偉大な愛でしょう。それがイエスの愛です。彼はすでに私たちの代わりに死んで救いを完成させました。その愛を信じるだけで救われるのです。 人が地獄に行く理由は罪のためです。正しい言葉です。しかし、さらに適切な言葉は、神が独り子イエスを代わりに死なせてまで私たちを救ったその愛の中に入らないからこそ、罪人である人間が地獄に行くのです。 親の声を聞いてもなお隠れ続ける子供を、どうやって再び子供として回復させることができるでしょうか?あなたはそのような神の声を聞かなかったと弁解することはできません。今この文章を通して、あなたを切実に探している神の声を聞いているのです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

生まれ変わる唯一の道、イエス・キリストの十字架!

神の約束と誓い (5) この言葉に注目しよう。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探すが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かに見えるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力であり、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのである。」(コリント人への第一の手紙 1:22-25) その神の力と知恵がどのように現れたのか。それは、人々が軽蔑するイエス・キリストと彼の十字架の福音によるものである。この十字架の福音こそが神の力であり、神の知恵である。最も希望のない人生が丸ごと変わり、変わった彼らを通して世界が変わること。このことが神の完全な知恵と力である十字架と復活の福音によって可能になるのである。 これは誰にでもわかる秘密ではない。十字架の福音は、伝統に慣れ親しんだユダヤ人には愚かに見え、世のことに精通した異邦人には無駄に見える。このように十字架の福音がどれほどみすぼらしく無知に見えたとしても、それを信じると言う教会でさえこれを無視している。しかし、使徒の中の使徒であり、優れた神学者であり、神の前に力強く用いられた使徒パウロは言う。 「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない。キリストによって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのである。」(ガラテヤ人への手紙 6:14) 教会の中には、華やかな神学知識や体験、力、組織など多くの必要があるが、なぜ主は愚かに見える十字架を福音の中心に置かれたのか。なぜこの無駄に見える十字架が神の知恵と力だと言われたのか。それは神が歴史を変えようとするとき、結局は人を変えなければならず、人を変えようとするとその人の中心である心を変えなければならないからである。罪によって汚染された人間が本質的に神に反逆する心から本来の神の形に戻ることは天地開闢よりも難しいことである。唯一、神の知恵とその力である十字架の福音によってそのことが可能になる。 救いと生まれ変わり。主は言われた。『多くの訓練と努力をしても生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。』生まれ変わらずに人間が存在的に変わることは不可能である。 人間は努力によって少しは改善されることがある。酒やタバコを楽しんでいた人が突然やめたり、悪口を言っていた人が優しく話したり、詐欺で他人を困らせていた人が慈善事業をすることもある。しかし、その人が罪人であるという点では一歩も逃れることはできない。 神の国は改良された罪人が行ける場所ではなく、生まれ変わった生命でなければ入ることはできない。再び生まれなければならないと言うほど、生命の存在そのものが変わらなければその場所に行くことはできない。どうやって何によって生まれ変わるのか。我々を生まれ変わらせる唯一の道はイエス・キリストの十字架にある。(2018年9月)<続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

戻ってきた息子を取り戻した父の喜び

信仰は聞くことから生まれると聖書に記録されています。その聞かれた御言葉、信仰の先人たちが残した言葉や告白を要約、紹介します。<編集者> 放蕩息子のたとえ話の要点はただ一つです。実際、その一つで十分です。その核心は、息子が帰ってきたときに父が喜んだということです。 その喜びは単に息子に対する父の自然な愛の表現ではありません。失った息子を再び見つけたとき、父の心を満たした安堵感、感謝、言葉にできない誇らしさが混じった圧倒的な感情の表現でした。 ですから、このたとえ話で重要な点は彼が「堕落した」という事実ではなく、彼が「息子」であったという点です。父がそれほど大きく喜んだのは、その息子を失ったが再び見つけたからです。この息子は父の心に他の何ものにも比べられない貴重な存在であったため、彼が戻ってきたということはそれほど貴重な存在を再び見つけたことを意味しました。 だから父は息子が帰ってくるとき、家にただ座って彼を迎えたのではありません。息子に対する憐憫の情でいっぱいになり、まだ遠くにいるのを見て走り寄りました。彼を迎えて口づけし、召使いたちに命じて彼に最も貴重な衣を着せ、汚れた足を洗い、靴を履かせ、指に指輪をはめさせ、肥えた子牛を捕らえて宴を開き、音楽を奏でました。なぜなら、父の言葉のように「この息子は死んでいたのにまた生き返り、私が失ったのにまた見つけた」からです。 私たちは何度も繰り返して話を聞くと心が鈍くなります。主が感動を与えたいと思ってもそれを受け取ろうとしません。しかし、これが私たちの姿であっても、罪人が悔い改めて戻ってくるとき、神は放蕩息子の父が息子を迎え喜ぶように喜ばれます。この偉大なメッセージに誰が驚きと感動を覚えないでしょうか?[福音祈祷新聞] ベンジャミン・ウォーフィールド③ <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com

救われないほど悪い罪人はいない

ルカの福音書15章には放蕩息子のたとえ、正確に言えば失われた息子のたとえが出てきます。次男が父から先に自分の相続分を受け取り、浪費して帰ってくると、父は喜んで彼を迎え入れます。 しかし、彼の兄はこのような父の態度が気に入らず、父が勧めても次男のために父が開いた宴会に参加しないという話です。 このことに関しては様々な解釈があります。 しかし、このたとえが与える教訓と核心は何でしょうか。それは、罪の深さがどんなに深くても再び戻ってくれば神が必ず受け入れてくださるという、実に偉大で言葉では言い尽くせない感動的な真理がこのたとえの中に存在していることです。 罪人があまりにも悪くて全く手の施しようがない場合もあるかもしれません。しかし、救われないほど悪い罪人はいません。次男は自分が受け取った相続分を好き勝手に浪費してしまいました。父の家から持ち出した全てを一つも残さずに浪費し、自分は完全に裸の状態になってしまいました。 この放蕩息子はその地である人の足下にひざまずいて乞うようになってしまいました。その人は放蕩息子を荒れた畑に送り出し、彼はそこで豚の世話をする身となりました。ユダヤ人にとって豚の世話をすることほど恥ずかしく惨めなことはありません。しかし、その失われた息子は豚に餌を与えるだけでなく、自分自身が豚の餌を食べて命をつないでいました。 放蕩息子の極度の状態に関するこのような描写から、ユダヤ人にとって嫌悪感を与えた徴税人たちの実態の一端を垣間見ることができます。彼らは自分の同族を捨て、その豚のような異邦人に仕えるだけでなく、実際にその餌箱から腹を満たしていました。主は放蕩息子の惨めな状況の極限をこのように描写しています。 主は罪人を慰めますが、単に黙認するわけではありません。主が彼らの本当の姿を知らず感じていないから彼らを受け入れるのではありません。<続く>[福音祈禱新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。

これは中国で実際にあった話です。 両親を失って暮らしていた二人の兄弟がいました。兄は弟を非常に愛していました。兄は評判の良い人でしたが、弟は喧嘩と賭博を繰り返す不幸な人でした。 ある日、弟が乱闘中に感情が高ぶり、ついに人を殺してしまいました。警察に追われた弟は急いで兄のもとに走り助けを求めました。兄はしばらく何かを考えた後、決然とした表情で弟の血のついた服を脱がせ、自分の服と取り替えました。 弟が兄の服を着て逃げた後、兄は現行犯として逮捕され、ついに死刑判決を受けました。一方、恐怖に駆られて逃げていた弟は遅れてこの知らせを聞きました。苦しんだ末に自首し、警察は彼をすぐに収監しました。 この事件は社会的な関心を集めて再び裁判にかけられました。陪審員たちの長い審議と討論の末、ついに裁判官は判決を下しました。「無罪を宣言します。」その理由は、弟の名前で既に法が裁きを執行したためでした。同じ事件を二度処罰することはできないという理由でした。 確かに彼は罪人でしたが、法は彼に罪を問いませんでした。誰かが彼の代わりに罪の代価を支払ったため、彼は法的に罪がないことになったのです。罪は最終的に神の法を破ることですから、救いを得るためにはこのように法的に明確に罪がないと認められなければなりません。 死刑執行前に兄が残した手紙を弟は遅れて読むことになりました。 「私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。今やあなたは私の服を着て、私のように生きてくれ。」 「キリストと一つになるためにバプテスマを受けた者は皆、キリストを着たのです。(ガラテヤ人への手紙3:27)」 [GPNEWS]

福音は私たちの中で実際にならなければなりません。

この世には二種類の不幸者(不幸者)があります。第一の不幸者は福音を一度も聞いたことがない人です。彼らを‘不信者’と呼びます。不信者の人生はそれ自体が迷いです。 第二の不幸者は福音を聞いたにもかかわらず、福音を誤解するか、聞いた福音が自分にとって実際になっていない人です。彼らは信仰生活をする‘信者’ですが、信仰の混乱を経験します。彼らには福音が実際にならない理由を調べ、聞いた福音が実際になるように助けなければなりません。 実際(実際)とは、『事実の状況や事情』という意味で、ある『事実』に焦点を当てる時に使う言葉です。つまり、福音が実際になるとは、福音の事実がそのまま自分に現れることを言います。 私たちは神が創世前に準備された福音、救いの性質、救い主の資格、救いの方法をすべて聞きました。完全な福音を今や私たちの生活の中で実際に享受しなければなりません。 渇きを解決する実際 渇いている一人の人がいます。誰かが彼に清潔な生水を持ってきました。彼に届けられた生水はそれ自体で実際です。しかし、渇いているこの人にとってはまだ実際ではありません。 なぜなら彼がその生水を飲んでいないからです。意外にも多くの人々が生水の瓶を持ったり握ったままで渇いていると言います。渇きを解決する生水を手に握ったままで依然として渇いているということです。生水の瓶を持って飲む時に初めてその生水は彼にとって実際になります。 福音は実際です。福音を与えてくださった主はその福音が私たちにとって実際になることを望んでおられます。では、福音がなぜ私たちに実際にならないのでしょうか?その理由を聖書は次のように言います。 「その人々と同じように、私たちも福音を聞かされましたが、その言葉が彼らに役立たなかったのは、聞いた者が信仰と結びつけなかったからです(ヘブライ人への手紙4:2)」 福音はただ信仰によってのみ実際に経験し享受することができます。[GNPNEWS]

十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。

神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]

十字架は私のための贖罪の場所です

神様はイスラエルに許された犠牲は自分のために存在するものではありません。犠牲は自分のために死なないのです。犠牲はイスラエルのために存在し、イスラエルのために死にました。 救い主イエス・キリストは犠牲としてこの世界に来られました。イエス・キリストの誕生、生涯、死は自分のためではなく、まさに罪深い私たちのためです。イエス・キリストは存在する罪深い私であり、十字架で死なれました。 十字架は私のための贖罪の場所です。イエス・キリストの死は罪、すなわち私、私が罪であり、自己の死です。罪深い私が死ぬ十字架に神の小羊、イエス・キリストが犠牲となって死なれたのです。その十字架は私とイエス・キリストが共に死んだ十字架です。 断絶された神と人の関係。罪と断絶されなければ神との関係が回復されることはありません。神と和解するためには、神の方法と御心に従って進まなければなりません。神と和解するためには和解の犠牲が必要です。血の流れる犠牲を払う和解の犠牲が必要です。血の流れる犠牲を払うことなくしては神と和解することはできません。 十字架、神と和解する場所 「神は信仰によってイエスをその血による和解の犠牲として立て、それによってその義を示し、またイエスを信じる人を義とされんと思われたのである」(ローマ書 3:25-26) 罪深い者の最善の供え物、罪深い者の血、すなわち罪深い者の犠牲では神と和解することはできません。そのため罪のないイエス・キリストが私たちのための和解の犠牲となられました。イエス・キリストが十字架で流された血によって私たちはついに罪の赦しを得ました。 私たちが信仰によって和解の犠牲とされたイエス・キリストを信じることによって、私たちに神の義が与えられ、神と和解することができます。十字架の結果は神との元の関係の回復です。十字架は完全な愛と喜びの交わりの対象への回復を成し遂げました。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

生まれ変わった人は世に打ち勝つ

「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」(ヨハネの手紙一 5:4) 生まれ変わった人は世の人々の見解を正しいかどうかの基準としない。生まれ変わった人はもはや世の方法や流行、観念、習慣に従わない。彼はもはや「人々がどう言うか?」に関心を持たない。生まれ変わった人の目には、世の人々の生活が虚しく、価値がなく、無益に感じられる。また、生まれ変わった人は世を恐れない。彼は世の人々から非難を受けても気にせず、嘲笑されても諦めず、人々よりも神に褒められることを好む。生まれ変わった人は人々の気分を害することよりも、神の怒りを招くことを恐れる。生まれ変わった人は見えない神だけを見つめ、どこへ行ってもその方に従うことを決意する。生まれ変わった人は神を喜ばせることを第一の目標とする。あなたは本当に生まれ変わった人ですか?[福音祈祷新聞] 『生まれ変わったか』(J. C. ライル)より抜粋

[GTK コラム] キリストで十分なキリスト教(2): 心理学に染まった教会 パート1

1980年、私たちグレイス・コミュニティ教会は、一部の牧師たちが専門知識もないまま、私たちの教会の信徒であるある青年を聖書の真理で助けようとした結果、彼の自殺を助長したという名目で訴えられた。この事件は、アメリカの司法制度の歴史で初めての聖職者の背信行為の訴えだった。 この事件が長引くにつれて、メディアは教会をからかうのに夢中になった。全国放送されるある扇情的なプログラムでは、私たちの教会がその青年に自殺は天国に至る確かな方法だと教え、自殺を奨励したとまで主張した。もちろんそれは事実ではない。その青年は自殺が間違っていることを聖書を通して知っていた。私たちは彼に神の言葉の導きを受けて、神を親しく知り、彼の苦しい心を癒すことを願っている彼の中で豊かな恵みを享受するよう勧めた。残念ながら、彼は私たちの勧めを拒否し、自殺した。 この事件が提起した主要な争点の一つは、教会が苦しんでいる人々に聖書で相談する法的権利を持っているかという問題だった。多くの人々は、誰かに聖書で助言をすることは相談に対する過度に単純化されたアプローチだと主張するだろう。彼らは、聖書は普通の人を助けるのには良いかもしれないが、本当の問題を抱える人々には心理学の専門家の助けが必要だと言う。 そこで、教会のカウンセラーは深刻なうつ病と自殺衝動に苦しむ人々を精神保健の専門家に紹介する義務があるというのが、この訴訟の主張だった。このような苦痛を経験している人々に聖書で相談する試みは、結局、教会のカウンセラーに道徳的にも法的にも罪を犯すべき無責任で無知な行為だとされた。 しかし、裁判所で明らかになった真実は、メディアの注目をほとんど、または全く受けなかった。この若者が専門の精神科医の治療を受けていたという事実は証言を通して明らかにされた。青年は私たちの教会のカウンセラーから聖書的な相談を受けながら、精神科の治療も受けていた。 さらに、私たちの教会のカウンセラーは、その青年がうつ病の有機的、化学的原因を取り除くために、いくつかの医師の診察を受けるよう配慮した。彼は可能な限りの治療を受けていたが、結局自殺を選んだ。私たちは彼を助けるためにできることはすべてしたが、彼は私たちの助言を拒否し、キリストにおける十分な恵みに背を向けた。 三度にわたり私たちは勝訴し、裁判官も私たちの教会がこの青年に適切な配慮をする責任を果たしたと断定的に判断した。彼らの判断は、私たちのカウンセラーがこの青年から相談を求められた際に、法的および道徳的な責任を十分に果たしたことだった。 結局、この事件は上訴され、アメリカ連邦最高裁判所まで持ち込まれた。高等裁判所は事件の審理を拒否し、カリフォルニア州最高裁判所の判断を受け入れることにした。州最高裁判所は教会の正当性を証明した。何よりも重要なのは、この事件がすべての教会が聖書を基に相談できる憲法上の権利を確認し、世界の裁判所が教会の相談領域を侵害できないようにする法的な先例を設けた点だ。 カウンセリング事業の専門化 不幸なことに、聖書の真理によってカウンセリングを行う人々の特権は、何らかの形で危険にさらされるかもしれない。教会外の法的制約のためではなく、教会内での聖書に対する態度のためだ。裁判中、多くの「専門家」が証言した。しかし、私にとって最も驚くべきことは、キリスト教心理学者や精神科医が、聖書一冊では人々の最も深い個人的、情緒的なニーズを満たすのに十分な助けが含まれていないと証言したことだった。 彼らは実際に、世俗の法廷の前で、神の言葉は人々の霊的な問題をカウンセリングするための適切な供給源ではないと主張した。本当に恐ろしいのは、そのような「専門家」の言葉を喜んで受け入れようとする福音主義者があまりにも多いという点である。 過去数十年の間に、福音主義の心理カウンセリングセンターが雨後の筍のように増えた。ほとんどのカウンセリングセンターが聖書的なカウンセリングを提供していると主張しているが、多くは単に霊的な用語で偽装された世俗の心理学に従ってカウンセリングを行っている。 さらに悪いことに、彼らはカウンセリング事業を教会共同体内に本来あるべき場所から取り除き、クリスチャンが自分自身をカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けている。多くの牧師が自分はカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けられている。ある重要な知恵の領域は聖書およびイエス・キリストとの人格的関係の外に存在し、そのような聖書外の領域から出てきた一部の概念や技法が人々の深刻な問題を解決する実際的な鍵を握っているという嘘をそのまま信じる人があまりにも多い。 真の霊的事業 真の心理学(「魂についての研究」)は、キリスト教徒だけが行うことができる。キリスト教徒だけが魂を理解し、変えるための手段を持っているからだ。心理学が登場するずっと前に、ピューリタンは人々を扱う事業を「魂の仕事」として認識していた。 聖書はすべての「魂の仕事」のための指針書であり、すべての霊的な問題の診断と処方において非常に包括的であり、信者の中にある聖霊の力を得ることで人をイエス・キリストのように変える結果をもたらす。これが聖書的な聖化の過程である。 人々が足を骨折したり、腎臓に異常があったり、虫歯ができたり、その他の身体的な病気があるときに医療的な助けを求めるのは合理的だ。アルコールや薬物に中毒していたり、学習障害があったり、レイプ、近親相姦、または深刻な暴力で精神的ショックを受けた人が傷を克服していく過程で多少の助けを得るのも賢明なことである。 根本的な原因が有機的で、そのまま放置すると危険な患者を安定させるためには薬物治療が必要な特定のタイプの情緒的疾患もあるかもしれない。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。身体的および情緒的な生活上の問題をそのように扱うことは聖化ではない! 人本主義的な心理学の特定の技法も、キリスト教徒や非キリスト教徒を問わず、人々の精神的ショックや依存現象を減らし、行動を修正するのに貢献することができる。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。 キリスト教心理学? 今日使われているような「キリスト教心理学」という用語は、一種の矛盾を含んでいる。心理学という言葉はもはや魂を研究することを意味しない。その代わりに、この言葉は基本的に人間主義的なさまざまな療法や理論を指している。 心理学の前提とその大部分の教えは、キリスト教の真理と成功裏に結びつけることができない。さらに、心理学が教会の教えに注入されることで、行動修正と聖化の境界線が曖昧になった。 完全さに至る道は、霊的な聖化の道だ。この世の肉体的な知恵と行動主義という停滞した水たまりのために、驚くべき助言者であり命の水の泉である彼に背を向けるのは愚かである。 我らの主イエス・キリストは、あらゆる試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。しかし、すべての困難はどんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。したがって、人生のすべての困難に対する完璧な勝利は、キリストに似た者となることの結果でなければならないことを明確にする必要がある。 どんな「魂の働き手」も、すべての試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。そのようなすべての困難は、どんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。 真のキリスト教心理学者であれば、行動修正という浅瀬で遊ぶのではなく、言葉と聖霊の深い深淵で魂の働きをするべきだ。信者がなぜ霊的な変化のための手段を持っているにもかかわらず、行動修正を選ぶべきだろうか?最も熟練したカウンセラーは、慎重に祈りながら誠実に霊的な聖化の原理を適用する、つまり他の人をイエス・キリストの形に変える人だ。 一般の心理学の理論を急いで受け入れることよりも、今日の教会にとって深刻な脅威となるものはない。それらの理論は、サタンがあたかも力強く人生を変える神からの真理であるかのように教会に植え付けたあらゆる人間的な概念にすぎない。ほとんどの心理学者は、自分たちが人々の実際の問題を解決するための秘められた知識を持っていると主張し、新しいグノーシス主義の典型を示している。自称「キリスト教カウンセリング」と称する療法を実施していると主張する心理学者もいますが、実際には聖書の節を引用しながら霊的な問題を扱うのに一般の心理学を使用している。 その結果、神の言葉を使ってカウンセリングを行う牧師、聖書学者、聖書教師および他の信者を育成する平信徒は、単純で完全に不適格なカウンセラーとして批判される。聖書読書と祈りは一般に「明白な答え」、落胆や不安と戦っている人にとっては不十分な解決策として過小評価された。聖書、聖霊、キリスト、祈り、恩恵などは、キリスト教カウンセラーがこれまで人々に提示してきた伝統的な解決策だ。しかし、今日の普通のキリスト教徒は、そのような解決策のどれもが実際に人々の苦しみを癒すことができないと信じるようになった。 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレース・トゥ・コリア コラムニスト GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべての出来事に対して聖書の言葉から答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ・チャーチのジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師および信者たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ:gpnews@kakao.com