私に向けられた愛が主に向けられる
愛すればその相手を見たくて会いたくなる。会うためにかかる代価が疲れもせず、惜しくも感じないのは、愛というエネルギーのためである。生まれ変わった後、自分自身を神様に捧げたならば、今度は愛すべき対象が私ではなく主になる。私を愛していたエネルギーが主に向けられるのである。 コリント人への手紙第一16章22節には「もし誰でも主を愛していないなら、その者は呪われるべきである。主よ、来てください」と書かれている。主を愛していないならば、必ず自己愛と世の愛に陥り、罪を愛して滅びるということである。しかし、イエスの命によって変化を経験したならば、私たちは真理以外のものを愛さなくなる。真理の中で真の自由を味わい、真理の中を歩むこと、これが私たちの魂の本性と一致する。こうして私たちの中に完全な存在の変化が起こり、私たちの価値観が変わる。この価値観の変化は地に属していた基準が天の基準に変わり、私中心の視点がイエス中心の視点に変わり、不義と偽りを好んでいた人が真理と共に喜び、自分の利益だけを求めていた者が他人の利益を求める者に変わるのである。どのような価値観を持っているかによって、私たちが喜ぶことや悲しむことは異なってくる。生きた命の信仰が私たちの価値観まで変えるとき、生きた信仰と生きた希望と生きた愛が、信仰の働きと愛の労苦と希望の忍耐が、私たちの人生を疲れさせることなく導いていくのである。 福音が私たちと教会をこのように新しくすることができる。福音に出会い、生まれ変わった命により、人生の主が「私」から「主」に変わるならば、その人は愛する対象が変わり、真理を愛する人になる。したがって信仰と信仰告白をしながらも、人生が全く従わない人は価値観が変わっていない。価値観が変わらないまま役職だけが上がり、神学の知識だけが積まれると、怪物のような教会員になるのである。 C.T.スタッドの告白のように「もしイエス・キリストが本当に生きておられる神であり、彼が私たちのような罪人のために死なれたのが事実ならば、私たちが彼のために捧げるどのような犠牲も決して大きいとは言えない。」当然のことである。このような私を救おうとご自分の唯一の御子を捧げてくださった神様の愛を、人の知恵でどう理解できるだろうか。人間の力で受け入れられるものではない。この言葉を正しく理解したならば、私たちの人生がひっくり返らないのが不思議なことである。神が私のような罪人を愛し、愛し、救う他の道がなかったので私のために十字架で死なれたという言葉ほど感動的なストーリーがどこにあるだろうか。 これがまさにキリスト教が語る福音である。その中心には十字架のその驚くべき愛がある。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことにより、神が私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのである」(ローマ5:8) アーメン。(2018年9月) <続く> [福音祈り新聞] 金容儀(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈り新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
ヒンズー教国家を夢見るインドの聖徒たちの勝利の報告を待ちながら
インドのガンジス川のほとりで、おじいさんと孫を含む3世代が集まって写真を撮っている。皆、額に赤い点が付いているのを見ると、ヒンズー教の行事に参加して帰ってきたと考えられる。 インドでは、人口の74%以上がヒンズー教徒である。インドには神が3億3000万いると言われるほど、インドは多神教の国である。しかし、イエス・キリストだけを信じる唯一の信仰は許可されていない。また、今、ヒンズー教国家の建設を夢見ているナレンドラ・モディ首相が3選に成功し、28のインドの州のうち11州で『改宗禁止法』が施行されている。特にウッタルプラデーシュ州では、過去4年間にキリスト教徒に対する迫害が45%増加した。 3%未満のインドの聖徒たちは、キリスト教徒であるという理由で治療を拒否されたり、命の危険にさらされたりしているが、キリスト教を迫害していた人々が回心するなど、逆に教勢は成長している。ラジオ宣教放送団体『ザ・タイド』のドン・シェンク理事は「あるヒンズー教の聖職者は伝道用ラジオを壊そうとしたが、放送を聞いてイエス様を救い主として受け入れた」と述べ、「聖徒たちが信仰にしっかりと立ち続けることはもちろん、迫害者たちの心も変わるように祈ってほしい」と語った。 今も迫害のニュースの主人公として信仰を守り、勝利の報告を伝えているインドの聖徒たち、キリストの命を持つ主の民こそが、永遠の神の国を希望するインドの真の幸福者ではないか? 「イスラエルよ、あなたは幸いな人である。主の救いをあなたのように得た民は誰か。彼はあなたを助ける盾であり、あなたの栄光の剣である。」(申命記33:29) [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供および問い合わせ: gpnews@kakao.com
重い人生の荷があなたを縛っていますか?
人々は誰しも重い荷を背負って生きています。みんな辛くて、その荷を下ろしたいと思っています。それで財閥も、人気のある芸能人も、人々に認められていたどんな人も自殺するのです。重い荷を背負って生きることは、それでも大丈夫です。 すべての人間は罪に縛られて生きています。一人きりの淫らさ、嘘、貪欲、怒り、偽善。縛られた罪は言うのも恥ずかしいものです。誰に自分の罪状を明かせるでしょうか?だから隠し、取り繕い、縛られたままで生きているのです。縛られた状態から解放されたいと思って良い行いをしてみたり、自分だけではないと弁解したり、それでも自分はまだマシだと主張したりするのです。 誰かがあなたの荷を代わりに背負ってくれるなら、そして縛られた罪から解放して自由をくれるなら、あなたはまさに天国のような生活を送ることになるでしょう。でも、誰がその荷を代わりに背負ってくれるでしょうか?誰が縛られた罪からあなたを救ってくれるでしょうか?自分の罪すらどうすることもできない人間が、どうして他人の罪を背負えるでしょうか? 神様だけがそれをすることができ、すでに御子イエスを通して成し遂げてくださいました。イエス様に近づけば、重い荷を背負う人々を休ませ、罪から解放してくださいます。重い荷と縛られた罪のために受けなければならないすべての苦しみをイエス様が十字架で既に受けてくださいました。死をもってその代価を払われました。 もうこれ以上ためらわないでください。そのイエス様のもとにただ近づいてください。重い荷を下ろし、縛られた罪から解放されて天国を生きることができるのです。[福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供および問い合わせ: gpnews@kakao.com
復活の十字架福音にぶつかったのか?
神の約束と誓い(10) 私の人生の主権を主に委ねた献身の決断はいつだったのか? 復活の十字架福音に命としてぶつかれば、この変化が起こらないはずがない。キリストが私の人生の全てを主張されることができる変わった聖徒、変わった聖職者、変わった教会は主のために生きるようになる。 ローマ人への手紙14章7〜9節には、イエスの復活の十字架福音が私たちの内に生まれ変わった新しい命を与え、私たちの献身を通じて私ではなく、ただイエス・キリストが生きられるとき、私たちの内に起こる非常に顕著な変化が記されている。「私たちの中に誰でも自分のために生きる者はいないし、自分のために死ぬ者もいない。私たちが生きても主のために生き、死んでも主のために死ぬ。だから、死んでも生きても私たちは主のものである。これをためにキリストは死んで、また生き返られた。それは、死んだ者と生きている者の主となられるためである。」(ローマ14:7〜9)イエスの十字架復活の目的は、私に対して死に、ただイエスに対して生きるようにさせることである。だから、キリストを命として出会い、変わり、献身した人なら主のために生きるのである。 天の父が空に飛ぶ鳥さえも養い、衣を与えているのに、何を心配するのか。あなたたちは財閥の子どもよりも偉大な神の子、娘なので、何も心配せずに神の子どもらしく神の国とその義を求めるように言われている。主の祈りの核心は、神の名が聖なるものとされ、あなたの国が来ることである。この地に神の国が来なければならない。私たちの希望は、この地に、私たちの心の中に神の治めるところ、天国が来ることである。主人が変わらなければならない。私から主に変わるのである。私たちは二人の主人に仕えることはできない。ルカ9章23節の言葉のように、自分を否定し、日々自分の十字架を負わなければ主に従うことはできないと言われている。 私たちの中心が変わったのか? 人間は自分を崇拝するほど自分を愛している。しかし、十字架を通過した人は、自分がこれほど愛し、大切にしていた古い自己が解決された人である。人を変えることが最も重要である。この福音がなければ古い自己を処理する方法はない。その古い自己である私に対して十字架で処理されなければ、罪から自由を得ることはできない。これがなければ、何も変わったことはなく、何も楽しむことはできない。 目の欲、肉の欲、この世の誇りはすべて私たちの心を刺激し、淫らさや不正、私欲、悪しき欲望、貪欲を助長する。ドラマ、歌、芸術、文化など、すべての世の中のものは世俗的で肉的であり、私の古い自己を追求することに満ちている。世を愛することは結局、自我の愛である。 ひどく自我を愛していた者が変わるとこうなる。「あなたたちはイエスを見たことがないが愛している。今も見たことがないが信じて、言葉にできない栄光に満ちた喜びで喜んでいる。信仰の結果は、魂の救いである。」(ペトロ1:8〜9) (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キムヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供および問い合わせ: gpnews@kakao.com
今日は悔い改める時
神様はご自身の喜ばれる御心に従って、あなたに悔い改めを強く促しておられる。まだキリストを受け入れていない魂が毎朝目を覚まし、まだ地獄に落ちていないことに気付くとき、東の空から昇る輝かしい太陽が「私は昨日もあなたに光を照らし、今日も照らしているのは、あなたに悔い改めの時間を与えるためである」と語っているのではないか?あなたが一日三度食事をするたびに、その食べ物が「私たちがあなたの肉体を支えているのは、あなたに悔い改めの時間を与えるためである」と語っているのではないか?あなたが聖書を開くたびに、神の御言葉が「私はあなたが悔い改めることを促している」と語っているのではないか?命と死、天国と地獄があなたに悔い改めを促しているのではないか?このように神はあなたに悔い改めの時間を与えるだけでなく、その手を差し伸べ、悔い改めへと親しく導いてくださる、慈愛と憐れみの神である。 『主に服従せよ』(C.H.スポルジョン)より抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
使徒ヨハネ(1):分派的な愛の使徒
ヨハネが「愛の使徒」と呼ばれるのは驚くべきことではない。実際、彼は新約聖書の著者の中で、誰よりも愛の重要性について多く記録している。信者がキリストに対して持つべき愛や、教会に対するキリストの愛、そして真の信者であれば必ず持っているべき聖徒間の愛を特に強調している。愛というテーマは、彼のすべての書物を通じて流れ出ている。 しかし、愛は彼の天性ではなく、キリストから学んだものであった。若い頃のヨハネは兄ヤコブと同様に「雷の子」であった。もし皆さんが中世の美術作品に描かれているように、ヨハネを柔和で穏やかで青白く、男らしくない姿でイエスの傍に横たわり、優しい目で彼を見上げている人だと想像しているならば、それは間違った想像である。ヨハネは他の漁師出身の弟子たちと同様、頑健で徹底的な人物であった。そして、再び言うが、彼はすべてにおいて兄と同じように忍耐がなく、野心的であり、情熱的で爆発的な人間であった。 共観福音書でヨハネについて記録されているのは、ヨハネ自身が直接言ったたった一つの記録だけである。この記録では、彼の攻撃的で自己主張が強く、厚かましく忍耐がない性質がよく表れている。それは、主に対して、自分がイエスの名で悪魔を追い払う一人を叱ったと述べたときのことである。(マルコ9:38 「先生、私たちに従わない者があなたの名によって悪霊を追い出しているのを見ましたが、私たちに従わないので、それを止めました」) 福音書の記録を通じて、ヨハネが非常に分派的で偏狭であり、固執しやすく、急進的で衝動的な人間であったことが明らかである。彼は気まぐれで無礼であった。また、攻撃的でもあった。情熱的で感情的であり、野心に満ちた人間で、兄と彼は一心同体であった。 しかし、ヨハネは正しく年を取っていった。聖霊の導きによって、彼のすべての弱点は長所に変わった。若い弟子ヨハネと、年老いた信仰の父ヨハネを比べてみると、成熟するにつれて、彼は自分の最大の弱点を最大の長所に発展させていったことが分かる。彼は、私たちがキリストにあって成長する中で、どのようなことが起こるべきかを示す素晴らしい手本である。それは、私たちの弱さの中で主の力が完全にされるということである。 今日、私たちが使徒ヨハネについて考えるとき、大抵は心が柔和な年老いた使徒を思い浮かべる。1世紀の終わりに至るまで、教会の名高い長老としてヨハネは広く愛され、キリストに対する献身と、全世界の聖徒たちに対する大いなる愛ゆえに尊敬された。まさにその理由でヨハネは「愛の使徒」という称号を得たのである。 しかし、その愛は真理に対するヨハネの情熱を打ち砕くことはなかった。むしろ、愛は彼をバランスの取れた人物にした。彼は死ぬまで神の真理に対する深く持続的な愛を保ち、その愛を最後まで大胆に宣言した。 真理に対するヨハネの熱意は、彼の著作の方向性を決定づけた。新約聖書の著者の中で、ヨハネの思考は最も明確な白黒であった。彼は考え抜き、徹底的に記録した。何事も確信を持って扱い、すべてを明確に示した。彼の教えにはグレーゾーンがほとんどない。それは、彼が条件なしで、修飾語のない対比的な言葉で事実を述べたからである。 例えば、福音書で彼は、暗闇と光、死と生命、サタンの王国と神の国、サタンの子供たちと神の子供たち、悪者の裁きと義者の裁き、呪いの復活と命の復活、キリストを拒絶することとキリストを受け入れること、実を結ばないことと実を結ぶこと、不従順と従順、憎しみと愛を対比させている。ヨハネは絶対的な真理とその反対側を一緒に扱うのが好きであった。彼は明確な線を引くべきことを理解していた。 同じアプローチは彼の書簡でも現れている。彼は私たちに、光の中を歩むか、暗闇の中を歩むかを命じた。もし私たちが神から生まれているなら、罪を犯さない。いや、罪を犯すことができない(ヨハネ第一3:9)。私たちは「神に属しているか」、「世に属しているか」、どちらかである(ヨハネ第一4:4-5)。もし私たちが神を愛しているなら、私たちは神に属している。逆に、愛していないなら、神に属していない(ヨハネ第一4:7-8)。ヨハネはこのように記録している。「彼の中に留まる者は皆罪を犯さない。罪を犯す者は皆彼を見たこともなく、彼を知らないのである」(ヨハネ第一3:6)。 彼はヨハネ第二で、すべての偽りから完全で徹底した分離を促している。 「キリストの教えに留まらない者は誰も、神を持っていないが、その教えに留まる者は父と子を持っている。誰でもその教えを持たずにあなたがたのところに来たなら、その者を家に入れたり挨拶したりしてはならない。その者に挨拶する者は、その悪事に加担しているのである」(ヨハネ第二9-11) 彼はヨハネ第三の11節を次のような言葉で締めくくっている。「善を行う者は神に属しており、悪を行う者は神を見ていないのである」(11節) ヨハネはこのように白黒がはっきりした人間であった。 ヨハネの書物は、彼の個性を反映したものであった。彼は真理に対する情熱を持っていた。彼は数歩後退して真理を曖昧にすることはなかった。絶対的で確実な言葉で語り、グレーゾーンを埋めるためにインクを浪費することはなかった。すべての例外を列挙することなく、最も優先される法を述べた。イエスも時折そのような絶対的な形式で語られたが、ヨハネがそのスタイルを主から学んだことは間違いない。 たとえいつも温かく、個人的で、牧会的な口調で書かれていても、その内容が常に読みやすいものではない。しかし、彼の著作には真理に対する深い確信と絶対的な献身が込められている。 ヨハネのような性格の人が持つ危険性は、事態を極端に押し進めてしまうことである。実際、彼の若い頃はやや極端主義者であったようだ。彼は霊的な平衡感覚に欠けていた。彼と兄は、天から火を呼んで彼らを拒絶した村を焼き尽くすことを望んだほどであった。しかし、彼は老年期に至るまで正しい平衡感覚を身につけていた。愛の使徒と呼ばれることになったのはまさにそのためである。 時々私たち全員がまさにこの原理によって犠牲になることがある。これは人が完全に堕落しているために起こる結果の一つである。私たちが持っている最良の美徳さえ、時には罪によって堕落し、自己破滅の原因となることがあるのだ。 真理を重要視することは本当に素晴らしいことである。しかし、真理に対する熱意は、人々に対する愛とバランスを取らなければならない。そうでなければ、その熱意は性急に判断し、冷淡で、思いやりがないものとなる可能性がある。野心的で一生懸命働くことは良いことであるが、それが謙虚さとバランスを取らなければ、その野心は罪深い傲慢、つまり他人を犠牲にして自分を高めようとする罪深さになる。自信もまた素晴らしい美徳であるが、それが罪深い自己中心的な自信になると、私たちは思い上がり、霊的に無関心になるのだ。 確かに、真理に対する熱意や成功を求める欲望、自信を持つことは間違いではない。それはすべて正当な美徳である。しかし、どれほど優れた美徳であっても、バランスを失うと霊的な健康に重大な打撃を与える可能性がある。バランスを欠いた真理は深刻な誤りに導く可能性があるのと同様である。バランスを失った人は不安定である。一人の人間のバランスを欠いた性格は、一種の放縦であり、自己制御を失ったものと見なされる。それ自体が罪なのである。したがって、真理や何らかの資質の一面を無限に一つの極端に押し進めることは非常に危険なことである。 これが、私たちが若き日の使徒ヨハネで見たことである。彼は当初、愛の使徒とはまったく似つかない人物であった。しかし、イエスとの三年間が、自己中心的な狂信者をバランスの取れた成熟した人物へと変えていったのだ。イエスとの三年間が、この「雷の子」を「愛の使徒」へと変えていった。彼が最もバランスを欠いていた点をキリストが変え、ヨハネは頑固で性急な人から、初期教会の愛の多い敬虔な長老指導者へと変貌していったのである。 今後しばらくの間、私たちはキリストがヨハネの人生において最も必要としたバランスをどのように取ってくださったかを詳しく学んでいこうと思う。実際、このバランスは私たち全員にとって切実に必要なものである。 ジョン・マッカーサー(John MacArthur) | グレース・トゥ・コリア コラムニスト GTKコラムは、私たちの生活で起こるすべての事柄に対して聖書の教えから答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師および信者たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツで、本紙と提携して掲載されています。 <著作権 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
あなたは神様の特別な作品です。あなたは特別です。
まったく同意できませんか? 他の人は見た目が良くて、才能も多く、勉強もできて、運動も上手で、歌も上手く歌えるように思えませんか? それに比べて自分は何一つ得意なことがないと感じますか? そのため、時には憂鬱になり、人と一緒にいるよりも一人でいる方が楽だと感じることはありませんか? いいえ、そんなことはありません。 なぜなら、あなたは神様の特別な愛によって生まれた存在だからです。「神様の愛で創られたのに、どうしてこんなに優れたところがないんだ」と文句を言うかもしれません。しかし、「優れている」「劣っている」というのは人間が作った基準です。神様は劣った人を作ったことはありません。神様はご自身の形に従って、全ての人を大切で特別な存在として創られました。私たちは、それぞれが異なる神様の作品に過ぎないのです。 しかし、この世の価値観で見ると、常に優劣があり、それによって幸福や不幸が決まるかのように見えます。本当にそうでしょうか? 本当に全ての優位を手に入れれば幸せになれるでしょうか? そのように考える全ての人間は、不幸な人生を送るしかありません。だからこそ、人間は生まれた瞬間から不幸になるのです。 生まれた時から他人と比較し、優位に立ちたいと願って不幸になった人間が、幸せになる唯一の道があります。それは、あなたを特別に創られた神様に出会うことです。あなたに向けられた神様の愛を深く知れば知るほど、あなたは幸せになります。神様は、この世の価値観でより良い「自分」を作り上げようとする、あなたの涙ぐましい努力と全ての罪を清め、神様が創られた本来の姿に回復させることができるのです。 そのために、神様は一人しかいない御子イエスに、あなたの罪を負わせました。御子イエスは十字架で死に、復活されたイエスは、あなたがイエスを受け入れる時、聖霊として共にいて、常にあなたが神様の特別な存在であることを教えてくれます。驚くべき神様の愛を経験したあなたは、もはや取るに足らない存在ではありません。あなたは特別です。これが、あなたを創られた神様の思いです。 【福音祈祷新聞】 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> お問い合わせ: gpnews@kakao.com
準備はできていますか?
この言葉は、何かを始める前に言うものです。陸上競技のスタートの号砲が鳴る前や、的に向かって矢を放つ前に聞かれる言葉です。何事も準備なしにはうまくいきません。大学入試を受ける前には、幼稚園から高校までの12年間という非常に長い準備期間があります。結婚する相手がいても、結婚の準備をする時間が必要です。準備する時間がなければ、私たちは戸惑い、その結果も驚くべきものになってしまうでしょう。 あなたにも今、必ず準備しなければならないことがあります。それは死に対する準備です。遺影やお棺を準備することではありません。財産をどのように整理・分配するかを尋ねているのでもありません。よく考えてみれば、そうしたことは生きている人たちの仕事であり、死んでいるあなたには何の関係もないことです。今、私は「本当にあなた自身のための準備」について話しています。 天国と地獄は確かに存在します。人は死ぬと天国、あるいは地獄に行くことになります。神様はあなたが地獄に行かないように準備できる時間を、あなたの生涯の長さと同じだけすでに与えてくださっています。また、多くの人々を通じて「イエスを信じて天国に来なさい」という招待の伝令も送ってくださいました。天国に行くための準備は、イエスを信じることで行います。 その方は神様でありながら、この地に来て十字架の刑罰を受けることで私たちの罪の代価を払ってくださいました。あなたを愛しているそのイエス様を信じるだけで天国に行けると約束されています。あなたが自分で一生懸命準備しなければならないことは実際には何もありません。イエス様があなたのために血を流して死ぬことであらかじめ準備してくださった十字架の福音を信じるだけで良いのです。あなたが準備しなければならないのは、ただ信仰だけです。 神様は今日、あなたに尋ねています。「準備はできていますか?」[福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。>お問い合わせ: gpnews@kakao.com
[GTKコラム] キリストで十分なキリスト教(4): 神の言葉の十分性、第一部
聖書: 詩篇19:7-14 聖書の中でキリストを指す名前の一つに「助言者」がある(日本語訳では「奇妙な者」、「相談役」と訳されている)。この点は非常に意味深い。キリストは私たちが助言を求めることのできる究極かつ最高の助言者であり、その言葉は私たちが神の知恵をくみ取ることのできる泉だ。これ以上に驚くべきことがあるだろうか? 実際、キリストの完全かつ十分な属性の最も栄光に満ちた側面の一つは、キリストが絶望、混乱、恐れ、不安、悲しみに満ちたこの時代に与えてくださる驚くべき助言と偉大な知恵だ。彼こそが本質的な助言者だ。 だからといって、この事実がクリスチャン同士で助言し合うことの重要性を軽視するわけではない。キリストの体である教会の中で、聖書に基づいた健全なカウンセリングは確かに必要だ。他の信徒を励まし、識別し、慰めや助言、憐れみと助けを提供する霊的な賜物を持つ信徒の重要な役割を否定するつもりは少しもない。 実際、今日健全でないカウンセリングが蔓延している問題の一つは、教会がそのような霊的な賜物を持つ人々が効果的に奉仕できるようにする役割を十分に果たしていない点だ。この時代の複雑さは、時間をかけて他者の話に耳を傾け、温かい関係を通じて他者に仕えることで、教会が健康と活力を享受するために必要な親密な交わりを提供することが、かつてないほど難しくなっている。 教会はこの不足を補うために心理学に依存しているが、心理学はほとんど効果を上げていない。専門の心理学者やカウンセラーは、霊的な賜物を持つ人々を決して代替することができず、カウンセリング心理学の試みは聖書的な知恵と神の力を代替することはできない。さらに、心理学は人々を心理療法士に依存させる傾向があるが、真の霊的賜物が発揮されるなら、人々はいつでも欠けることのない救い主とその欠けることのない言葉に立ち返るようになる。 神の言葉が十分であることを歌った詩篇 ダビデ王は時折、人間の助言者に助言を求めることもあったが、最終的にはいつも神に解決を求めた。いくつかの詩篇に示されているように、ダビデは特に個人的な問題や感情との戦いにおいて、ただ神だけを頼りにした。彼は落胆や内的な葛藤に陥ったとき、神を頼り、祈りで奮闘した。彼自身の罪が問題となったとき、彼は打ち砕かれた悔い改めの心を持って悔い改めた。彼はこう祈った。「主よ、私を調べて試し、私の思いと良心を訓練してください」(詩篇26:2)。霊的に成熟した人は、魂が心配や落胆、混乱や不安に包まれるとき、いつでも神に助けを求め、神が知恵ある助言と救いを与えてくださることを確信している。 それは、人間の魂が必要とするすべては、究極的には霊的なものであるからだ。霊的な原因や肉体的な原因と関係のない「心理的な問題」など存在しない。神はそのすべての必要を完全に満たすための十分な手段を提供してくださる。ダビデはこのことを知っていた。 ダビデの書は、人生の極限状況を十分に経験した一人の人間の体験と感情、そして霊的な洞察の深さを反映している。ダビデは羊飼いから王の座に登りつめる喜びを知っていた。彼は完璧な勝利から苦々しい落胆まで、あらゆることについて書いた。耐え難い深い苦しみとも格闘した。 彼の実子アブサロムは彼を殺そうとし、アブサロムは殺害された。彼は自分の不道徳と殺人によってひどい罪悪感に苛まれた。彼の子供たちは絶えず彼を悲しませた。彼は神の本質と自分自身の心を理解しようと苦闘した。神については「主は偉大である」(詩篇145:3)と言いながら、自分自身については「私の罪を洗い流し、私の罪を清めてください」(詩篇51:2)と言った。ダビデは神が自分を罰するすべての権利を持っていることを認めつつ、神に自分の感情を吐露し、救いを与えてくださるように叫び求めた。 ダビデの詩篇の終わりには希望の窓を見つめることもあったが、そうできなかった時もあった。しかし、ダビデは神の主権と自分の堕落をよく知っていたので、いつも神に近づいた。ダビデは欠けることのない救い主だけが、自分の必要に対する解答を持っており、その解答を適用する力があることを知っていた。そして彼はそのような解答を、神の言葉に啓示された神についての真理の中に見いださなければならないことを知っていた。言葉そのものが完全に十分だった。十分である神は、ご自身の十分な言葉の中でご自身を啓示されたのだ。 詩篇19:7-14は、聖書が十分であることを簡潔に説明した記念碑的な文章だ。ダビデが聖霊の霊感を受けて記したこの詩篇は、状況に左右されない神の言葉の十分性についての神自身の確固たる証言を示している。この詩篇は、現代心理学から得た真理を神の言葉に加えなければならないと信じている人々の教えに反論している。 7~9節でダビデは聖書について六つのことを述べている。それぞれの述べた内容は、神の言葉の特徴を強調し、その言葉を受け入れる人の人生に現れる言葉の効果を記述している。 次回は、ダビデが強調した神の言葉の六つの特徴を見ていくつもりだ。【福音祈祷新聞】 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)|グレーストゥコリア コラムニスト 原文: https://www.gty.org/library/blog/B140912 GTKコラムは、私たちの生活におけるすべての出来事に対して、聖書の言葉から答えを見つけようとするアメリカのグレース・コミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師や信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本紙と協約を結んで掲載されています。
十字架を通過したのか?
神の約束と誓い (8) 「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4) 私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。 神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。 「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13) 主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。 だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。 証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。 「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11) 私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 神の国が手の中に、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com
イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活!
神の約束と誓い (7) 「しかし、時が来たので、神はその御子を送り、女から生まれ、律法の下に生まれさせました。それは律法の下にある者たちを贖い出し、私たちが子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4:4-5) 呪われるしかない私たちを、神がそのまま赦すためには、聖さを放棄しなければならない。しかし、神は公義を放棄されない。罪に対する裁きは、そのまますべて果たされなければならない。このように罪に対する裁きは行われるが、その罪と共にある私を生かしてこそ、救いが成し遂げられるのである。「罪がすなわち私であり、私がすなわち罪」であるから、私にある罪を完全に裁かなければ、罪が終わりを迎え、私が生きることができるのである。しかし、罪を裁くと私が死んでしまうし、私を生かすと裁きを行うことができないというこのジレンマを、主は解決しなければならなかったのである。 これに対して神は、私たちが想像もできない代贖という方法を用いられた。代贖とは、誰かが私が負った借金を代わりに返済し、その者が返済したすべてを私が返済したものとして認められるという意味である。これを信じるだけで、その信仰を義と認めてくださる方法によって、神も義であり、私たちも義とされる代贖の義を、主は準備されたのである。 「すべての人は罪を犯して神の栄光に達することができず、キリスト・イエスにある贖いにより、神の恵みによって、ただで義と認められる者とされた。このイエスを神はその血によって信仰を通じて和解の供え物として立てられた。それは神が長く忍耐されて、以前の罪を見逃されたことでご自分の義を示すためであった。それはすなわち、この時にご自分の義を示して、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするためである」(ローマ3:23-26) 神も義であり、イエスを信じる私たちも堂々とするための道を備えるために、私のすべての罪の代価を主が裁きによってすべて終わらせ、その後に一つの要素だけを残しておいたのである。 それはまさに、誰かが私の名と私の資格で返済してくれたその功労を信仰によって完全に受け入れ、その者に起こったことを自分に起こったこととして受け入れることである。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死に、裁きを受けられた時、私の名において私自身となって死なれたので、その方が死んだ時、変わらない私も共に死んだことを信仰によって受け入れることである。 初めに主は言葉で創造された。しかし、私たちを救う時、神の父がただ一つの御子をこの地に人として送り、女から生まれさせ、律法の呪いを代わりに受けさせ、子であるイエス様が十字架で死に、復活することで、律法の義をすべて成し遂げられたのである。 神は私にある罪を裁いて罪に対する問題を終わらせ、私を生かして義とされたのである。このようにして私の義を得るために、私が直接行ったことは何もない。その代わりに、イエス・キリストが成し遂げられたそのことが私にも成し遂げられたことを信じ、信仰によって参加しなければならないのである。イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活。今や罪がもはや主人の役割を果たすことはできず、律法が私を罪に定めることもできない。キリストだけが私の中で主人となって生きられることにより、神を愛し、真理に従い、天に属する生活を送ることができるのである。この驚くべき福音を主が準備してくださり、私たちを招待しておられるのを、ただ信じなさいというのである。ハレルヤ。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] 金容義 (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
私ほど… 私を弁護するのは誰の基準ですか?
“私が一体どれほど大きな罪を犯したので地獄に行かなければならないのですか?私ほど他人に害を与えずに生きてみろと言ってください。” その通りです。あなたは十分に自分を弁護するに値します。しかし、その弁護の基準は誰の基準ですか?地獄と天国は人間が作ったものではありませんし、天国行きと地獄行きを決定する基準も人間が定めることはできません。その基準は創造主なる神によって定められ、決まるのです。 あなたは人を憎み、両親に嘘をつきました。家庭の金に手を出したこともあり、他人の物を欲しがったこともあります。嫉妬や誹謗中傷もしました。他人の悪口を言い、無情なこともしました。困っている人を無視したこともあり、他人のお金を受け取っていい加減な仕事をしたこともあります。自分より弱い人や困っている人を軽視し、強く見える人には自分の利益のためにおべっかを使ったこともあります。猥褻なものを見たり、異性を性的に欲望したこともあります。時には自分を飾り立てて傲慢にもなりました。こうしたあなたが天国に行くことは神はおっしゃいます。 「こんな程度の罪も犯さない人がどこにいるのだから、そんな厳しい基準を持ち出すのか。」と不満に思うかもしれません。しかし、神はその基準を要求するに足るお方です。その方は罪とは全く関係のない「聖なる」存在だからです。だからこそ、あなたは絶望しているのです。 しかし、神はあなたを愛しているので、天国に行く道を開いてくださいました。あなたの全ての罪を御子イエスに移し、その罪の代償を十字架で支払わせました。十字架は最も屈辱的な死です。しかし、それは最も偉大な愛の表現です。 あなたの罪のために死に、甦ったイエス・キリストを私の主として迎え、信じるだけで天国に行けると約束されました。罪人であるあなたのままでイエス・キリストのもとに出れば、罪の赦しを与えてくださいます。イエス・キリストのもとに出てください。今すぐです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com
今、あなたはどこに行くのでしょうか?
誰もが喜ばしい知らせ、つまり福音を聞きたいと願っています。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。これは、からし種宣教会が制作した伝道誌の内容から抜粋し、紹介しています。<編集者> 飛ぶ矢のように時が速く過ぎていきます。流れる時を意識することもなく、ある日鏡の中に自分の親の姿を発見したりはしませんか?そのとき、あなたはどんな考えを持つでしょうか?「私ももう年を取ったな」と思い、時の無常さや虚しさ、そして漠然とした恐れが心をよぎることはありませんか? 親が生きているとしても、やがてその道をあなたもたどることになるでしょう。それが切ないことですか?その切ない時を過ごした後、あなたは一体どこに行くのでしょうか?「どこに行くって?」と、当たり前の質問で答えたくないと思っていませんか? そうではありません。この質問に答えたい人たちがいます。それは、イエスを信じる人たちです。イエスを信じる信仰は、死を恐れることも、これまでの人生を虚しいものにすることもありません。なぜなら、死が終わりではないからであり、死を通して永遠の命を得るからです。 さて、あなたはどこに行くのでしょうか?肉体が年老いて衰えても、やってくる死を恐れずに済む永遠の命の道があります。しかし、その永遠の命はあなたの力では得られません。なぜなら、あなたは心の中に神を置くことを嫌う罪人だからです。その罪を許してもらわなければ、永遠の命を得ることはできません。だからこそ神は、自分の子をあなたの罪の代わりに背負わせて十字架で死なせました。 今、あなたは永遠の命を得て天国に行くために、何もしなくても大丈夫です。ただあなたの罪を悔い改め、あなたの代わりに死んで復活されたイエス様を心の主人として受け入れ、その方と共に生きるだけでいいのです。「死んだら終わりだ」という歪んだ確信のまま、永遠の滅びの道を歩むのでしょうか? それはダメです。イエスを信じて永遠の命と天国の道を歩んでください。 [福音祈祷新聞] <著作権ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com
十字架の福音以外には生まれ変わる道はない
神の約束と誓い (6) ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。 「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9) イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。 どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか? こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。 生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。 教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。 永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) 木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及び問い合わせ: gpnews@kakao.com
神様はあなたを存じております。
誰もが良い知らせ、すなわち福音を聞きたいと望んでいます。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。カラシ種宣教会が制作した伝道紙の内容から抜粋して紹介します。<編集者> あなたは神を知らなくても、神はあなたを知っています。神は子供を失った親のように、あなたを切実に探しています。イエスを通して救われるということは、神の愛の中に入ることを意味します。 昔、あるロシアの貴族の馬車が走っていました。その後ろを飢えたオオカミたちが恐ろしい勢いで追いかけていました。御者は馬車を引く4頭の馬のうち2頭を放し、オオカミの餌にして追い払おうとしました。しかし、再びオオカミたちは追いかけてきました。そこで御者は手綱を貴族の主人に託し、銃を手に馬車から飛び降りました。 貴族は全力で馬車を駆り、村に到着し、救助隊と共に来た道を戻りました。しかし見つかったのは、御者のわずかな骨だけでした。御者は愛する主人を救うために、自らの命を犠牲にしました。本当に主人への使用人の愛は感動的です。 しかし、この話の中で、もし御者を救うために自らオオカミの餌になることを選んだ主人がいたらどうでしょうか? その主人の愛はまさに身分を超えた偉大な愛でしょう。それがイエスの愛です。彼はすでに私たちの代わりに死んで救いを完成させました。その愛を信じるだけで救われるのです。 人が地獄に行く理由は罪のためです。正しい言葉です。しかし、さらに適切な言葉は、神が独り子イエスを代わりに死なせてまで私たちを救ったその愛の中に入らないからこそ、罪人である人間が地獄に行くのです。 親の声を聞いてもなお隠れ続ける子供を、どうやって再び子供として回復させることができるでしょうか?あなたはそのような神の声を聞かなかったと弁解することはできません。今この文章を通して、あなたを切実に探している神の声を聞いているのです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
生まれ変わる唯一の道、イエス・キリストの十字架!
神の約束と誓い (5) この言葉に注目しよう。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探すが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かに見えるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力であり、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのである。」(コリント人への第一の手紙 1:22-25) その神の力と知恵がどのように現れたのか。それは、人々が軽蔑するイエス・キリストと彼の十字架の福音によるものである。この十字架の福音こそが神の力であり、神の知恵である。最も希望のない人生が丸ごと変わり、変わった彼らを通して世界が変わること。このことが神の完全な知恵と力である十字架と復活の福音によって可能になるのである。 これは誰にでもわかる秘密ではない。十字架の福音は、伝統に慣れ親しんだユダヤ人には愚かに見え、世のことに精通した異邦人には無駄に見える。このように十字架の福音がどれほどみすぼらしく無知に見えたとしても、それを信じると言う教会でさえこれを無視している。しかし、使徒の中の使徒であり、優れた神学者であり、神の前に力強く用いられた使徒パウロは言う。 「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない。キリストによって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのである。」(ガラテヤ人への手紙 6:14) 教会の中には、華やかな神学知識や体験、力、組織など多くの必要があるが、なぜ主は愚かに見える十字架を福音の中心に置かれたのか。なぜこの無駄に見える十字架が神の知恵と力だと言われたのか。それは神が歴史を変えようとするとき、結局は人を変えなければならず、人を変えようとするとその人の中心である心を変えなければならないからである。罪によって汚染された人間が本質的に神に反逆する心から本来の神の形に戻ることは天地開闢よりも難しいことである。唯一、神の知恵とその力である十字架の福音によってそのことが可能になる。 救いと生まれ変わり。主は言われた。『多くの訓練と努力をしても生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。』生まれ変わらずに人間が存在的に変わることは不可能である。 人間は努力によって少しは改善されることがある。酒やタバコを楽しんでいた人が突然やめたり、悪口を言っていた人が優しく話したり、詐欺で他人を困らせていた人が慈善事業をすることもある。しかし、その人が罪人であるという点では一歩も逃れることはできない。 神の国は改良された罪人が行ける場所ではなく、生まれ変わった生命でなければ入ることはできない。再び生まれなければならないと言うほど、生命の存在そのものが変わらなければその場所に行くことはできない。どうやって何によって生まれ変わるのか。我々を生まれ変わらせる唯一の道はイエス・キリストの十字架にある。(2018年9月)<続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com