十字架を通過したのか?

神の約束と誓い (8) 「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4) 私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。 神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。 「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13) 主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。 だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。 証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。 「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11) 私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 神の国が手の中に、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活!

神の約束と誓い (7) 「しかし、時が来たので、神はその御子を送り、女から生まれ、律法の下に生まれさせました。それは律法の下にある者たちを贖い出し、私たちが子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4:4-5) 呪われるしかない私たちを、神がそのまま赦すためには、聖さを放棄しなければならない。しかし、神は公義を放棄されない。罪に対する裁きは、そのまますべて果たされなければならない。このように罪に対する裁きは行われるが、その罪と共にある私を生かしてこそ、救いが成し遂げられるのである。「罪がすなわち私であり、私がすなわち罪」であるから、私にある罪を完全に裁かなければ、罪が終わりを迎え、私が生きることができるのである。しかし、罪を裁くと私が死んでしまうし、私を生かすと裁きを行うことができないというこのジレンマを、主は解決しなければならなかったのである。 これに対して神は、私たちが想像もできない代贖という方法を用いられた。代贖とは、誰かが私が負った借金を代わりに返済し、その者が返済したすべてを私が返済したものとして認められるという意味である。これを信じるだけで、その信仰を義と認めてくださる方法によって、神も義であり、私たちも義とされる代贖の義を、主は準備されたのである。 「すべての人は罪を犯して神の栄光に達することができず、キリスト・イエスにある贖いにより、神の恵みによって、ただで義と認められる者とされた。このイエスを神はその血によって信仰を通じて和解の供え物として立てられた。それは神が長く忍耐されて、以前の罪を見逃されたことでご自分の義を示すためであった。それはすなわち、この時にご自分の義を示して、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするためである」(ローマ3:23-26) 神も義であり、イエスを信じる私たちも堂々とするための道を備えるために、私のすべての罪の代価を主が裁きによってすべて終わらせ、その後に一つの要素だけを残しておいたのである。 それはまさに、誰かが私の名と私の資格で返済してくれたその功労を信仰によって完全に受け入れ、その者に起こったことを自分に起こったこととして受け入れることである。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死に、裁きを受けられた時、私の名において私自身となって死なれたので、その方が死んだ時、変わらない私も共に死んだことを信仰によって受け入れることである。 初めに主は言葉で創造された。しかし、私たちを救う時、神の父がただ一つの御子をこの地に人として送り、女から生まれさせ、律法の呪いを代わりに受けさせ、子であるイエス様が十字架で死に、復活することで、律法の義をすべて成し遂げられたのである。 神は私にある罪を裁いて罪に対する問題を終わらせ、私を生かして義とされたのである。このようにして私の義を得るために、私が直接行ったことは何もない。その代わりに、イエス・キリストが成し遂げられたそのことが私にも成し遂げられたことを信じ、信仰によって参加しなければならないのである。イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活。今や罪がもはや主人の役割を果たすことはできず、律法が私を罪に定めることもできない。キリストだけが私の中で主人となって生きられることにより、神を愛し、真理に従い、天に属する生活を送ることができるのである。この驚くべき福音を主が準備してくださり、私たちを招待しておられるのを、ただ信じなさいというのである。ハレルヤ。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] 金容義 (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架の福音以外には生まれ変わる道はない

神の約束と誓い (6) ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。 「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9) イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。 どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか? こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。 生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。 教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。 永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) 木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及び問い合わせ: gpnews@kakao.com

神様はあなたを存じております。

誰もが良い知らせ、すなわち福音を聞きたいと望んでいます。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。カラシ種宣教会が制作した伝道紙の内容から抜粋して紹介します。<編集者> あなたは神を知らなくても、神はあなたを知っています。神は子供を失った親のように、あなたを切実に探しています。イエスを通して救われるということは、神の愛の中に入ることを意味します。 昔、あるロシアの貴族の馬車が走っていました。その後ろを飢えたオオカミたちが恐ろしい勢いで追いかけていました。御者は馬車を引く4頭の馬のうち2頭を放し、オオカミの餌にして追い払おうとしました。しかし、再びオオカミたちは追いかけてきました。そこで御者は手綱を貴族の主人に託し、銃を手に馬車から飛び降りました。 貴族は全力で馬車を駆り、村に到着し、救助隊と共に来た道を戻りました。しかし見つかったのは、御者のわずかな骨だけでした。御者は愛する主人を救うために、自らの命を犠牲にしました。本当に主人への使用人の愛は感動的です。 しかし、この話の中で、もし御者を救うために自らオオカミの餌になることを選んだ主人がいたらどうでしょうか? その主人の愛はまさに身分を超えた偉大な愛でしょう。それがイエスの愛です。彼はすでに私たちの代わりに死んで救いを完成させました。その愛を信じるだけで救われるのです。 人が地獄に行く理由は罪のためです。正しい言葉です。しかし、さらに適切な言葉は、神が独り子イエスを代わりに死なせてまで私たちを救ったその愛の中に入らないからこそ、罪人である人間が地獄に行くのです。 親の声を聞いてもなお隠れ続ける子供を、どうやって再び子供として回復させることができるでしょうか?あなたはそのような神の声を聞かなかったと弁解することはできません。今この文章を通して、あなたを切実に探している神の声を聞いているのです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

「神様は本当に生きておられるのか?」

誰でも喜ばしい知らせを聞きたいものです。何が喜ばしい知らせ、つまり福音でしょうか。渇いた魂のために、様々な信仰の告白を集めて紹介します。この内容はゴマ粒宣教会が制作した伝道資料から抜粋したものです。 <編集者> 世の中の人々は「神様は存在しない」と思っていることを真実のように思っています。「神様なんて存在しない。科学的に証明できない。それは常識だ。」と主張します。しかし、そうではありません。「神様がいない」という言葉は最も大きな嘘です。神様は生きておられます。 なぜ世の中の人々は「神様がいない」と言うのでしょうか?それは神様に会ったことがないからです。では、なぜ世の中の人々は神様に会えないのでしょうか?それは神様が霊だからです。人は肉体と霊から成り立っており、人が神様を離れ罪を犯したために霊が死んでいるので、聖なる神様を経験することができないのです。罪のために神様を経験することができないので「会わせてくれ、見せてくれ、そうすれば信じる」と言います。しかし、神様に会った人がいます。 その人がまさに私です。私も神様に先に会った人から神様について聞きました。神様は宇宙万物の創造主であり、罪のために地獄に行くことになった私を愛し、一人子のイエス様を私の代わりに死なせました。私はこの愛を信じることによって、十字架で私の罪深い古い自我が死に、再び生まれたイエス様が私の命となり、イエスの命によって私の人生を生きています。私に永遠の命をくださいました。天国をくださいました。 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、すべての人がアメリカ大陸に行ってみて初めて「アメリカがあるんだ!」と言ったでしょうか?いいえ、アメリカ大陸に行ったコロンブスの言葉を信じて「アメリカがあるんだ」と思うのです。行った人がいれば、私が行かなくても確かにあるのです。存在するのです。神様に会った人、まさに私がその神様を紹介します。神様は生きておられます。イエス様を信じてください。そうすれば永遠の命を得て、イエス様を主として迎える美しく新しい人生が始まります。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

生まれ変わる唯一の道、イエス・キリストの十字架!

神の約束と誓い (5) この言葉に注目しよう。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探すが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かに見えるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力であり、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのである。」(コリント人への第一の手紙 1:22-25) その神の力と知恵がどのように現れたのか。それは、人々が軽蔑するイエス・キリストと彼の十字架の福音によるものである。この十字架の福音こそが神の力であり、神の知恵である。最も希望のない人生が丸ごと変わり、変わった彼らを通して世界が変わること。このことが神の完全な知恵と力である十字架と復活の福音によって可能になるのである。 これは誰にでもわかる秘密ではない。十字架の福音は、伝統に慣れ親しんだユダヤ人には愚かに見え、世のことに精通した異邦人には無駄に見える。このように十字架の福音がどれほどみすぼらしく無知に見えたとしても、それを信じると言う教会でさえこれを無視している。しかし、使徒の中の使徒であり、優れた神学者であり、神の前に力強く用いられた使徒パウロは言う。 「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない。キリストによって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのである。」(ガラテヤ人への手紙 6:14) 教会の中には、華やかな神学知識や体験、力、組織など多くの必要があるが、なぜ主は愚かに見える十字架を福音の中心に置かれたのか。なぜこの無駄に見える十字架が神の知恵と力だと言われたのか。それは神が歴史を変えようとするとき、結局は人を変えなければならず、人を変えようとするとその人の中心である心を変えなければならないからである。罪によって汚染された人間が本質的に神に反逆する心から本来の神の形に戻ることは天地開闢よりも難しいことである。唯一、神の知恵とその力である十字架の福音によってそのことが可能になる。 救いと生まれ変わり。主は言われた。『多くの訓練と努力をしても生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。』生まれ変わらずに人間が存在的に変わることは不可能である。 人間は努力によって少しは改善されることがある。酒やタバコを楽しんでいた人が突然やめたり、悪口を言っていた人が優しく話したり、詐欺で他人を困らせていた人が慈善事業をすることもある。しかし、その人が罪人であるという点では一歩も逃れることはできない。 神の国は改良された罪人が行ける場所ではなく、生まれ変わった生命でなければ入ることはできない。再び生まれなければならないと言うほど、生命の存在そのものが変わらなければその場所に行くことはできない。どうやって何によって生まれ変わるのか。我々を生まれ変わらせる唯一の道はイエス・キリストの十字架にある。(2018年9月)<続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

福音は私たちの中で実際にならなければなりません。

この世には二種類の不幸者(不幸者)があります。第一の不幸者は福音を一度も聞いたことがない人です。彼らを‘不信者’と呼びます。不信者の人生はそれ自体が迷いです。 第二の不幸者は福音を聞いたにもかかわらず、福音を誤解するか、聞いた福音が自分にとって実際になっていない人です。彼らは信仰生活をする‘信者’ですが、信仰の混乱を経験します。彼らには福音が実際にならない理由を調べ、聞いた福音が実際になるように助けなければなりません。 実際(実際)とは、『事実の状況や事情』という意味で、ある『事実』に焦点を当てる時に使う言葉です。つまり、福音が実際になるとは、福音の事実がそのまま自分に現れることを言います。 私たちは神が創世前に準備された福音、救いの性質、救い主の資格、救いの方法をすべて聞きました。完全な福音を今や私たちの生活の中で実際に享受しなければなりません。 渇きを解決する実際 渇いている一人の人がいます。誰かが彼に清潔な生水を持ってきました。彼に届けられた生水はそれ自体で実際です。しかし、渇いているこの人にとってはまだ実際ではありません。 なぜなら彼がその生水を飲んでいないからです。意外にも多くの人々が生水の瓶を持ったり握ったままで渇いていると言います。渇きを解決する生水を手に握ったままで依然として渇いているということです。生水の瓶を持って飲む時に初めてその生水は彼にとって実際になります。 福音は実際です。福音を与えてくださった主はその福音が私たちにとって実際になることを望んでおられます。では、福音がなぜ私たちに実際にならないのでしょうか?その理由を聖書は次のように言います。 「その人々と同じように、私たちも福音を聞かされましたが、その言葉が彼らに役立たなかったのは、聞いた者が信仰と結びつけなかったからです(ヘブライ人への手紙4:2)」 福音はただ信仰によってのみ実際に経験し享受することができます。[GNPNEWS]

十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。

神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]

「救いのためにあなたができることはありません」

救いとは何ですか? 救い(救援)は漢字で「救う」(助ける、救う、援助する)と「援」(引く、取る、掴む)で構成されています。 救いの意味は、困難や危険に陥った人を救うこと、人類を死と苦しみと罪悪から救うことなどです。また、何かから救出され解放されること、罪から自由になることをも意味します。 このように、救いは自らを救うことではありません。救いには明確な主体があり、その主体がどこからかどこかへと救い出すのです。 つまり、救いは自分の意志ではなく、他者の意志によって成し遂げられます。 救う主体がいて初めて救われることが可能です。あなたに救いが必要であることは非常に明白ですが、救われるためにあなたができることはありません。 救いは神の約束です。 神は人に救いを約束されました。救いに関する神の計画は必要に応じて突然生じたものではありません。神の心の中にある意志に従ってその救いは準備されていました。 その約束は、キリスト(救い主)を通して私たちを罪と死から救うということです。誠実な神はその約束を守られました。ご自身の子を十字架につけて罪に陥った人類を救われました。 神がすでに成し遂げた救いを受け入れませんか? [GPNEWS]

「罪を犯す人は『悪魔』に属しています」

罪には形がありません。しかし、罪を見ればサタンを知ることができます。サタンの実体は正確に罪を通して現れます。 サタンは罪を道具にして神に反逆します。それゆえ、サタンに属する者は罪を犯さずにはいられず、罪を犯す者はすべてサタンに属しているのです。 「罪を犯す者は悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一 3:8a)」 あなたは誰に属していますか? 小さな湖に一匹の魚が悠々と泳いでいました。突然、美味しそうに見えるミミズがその魚の目の前でうごめきながら現れました。魚は冷静に何度も周囲を確認し、何も異常がないことを確認した後、ミミズを一口で飲み込みました。その時、突然強い引っ張る力が魚のえらを通じて感じられました。 見えなかった釣り針が魚をがっちりと捕えました。魚は全力で逃げ出そうとしましたが、強い釣り針は既にえらを貫いていました。もがけばもがくほど、釣り針はえらに深く食い込むばかりでした。 その釣り針は見えない糸に繋がっており、その糸の先には釣り竿があり、それは黒く煤けた釣り人の力強い手に握られていました。水中で自由に泳いでいた魚がミミズを飲み込んだ瞬間、その魚は釣り人の手中に入ったのです。 魚は悔しがりながら大声で叫びました。「私はミミズを食べただけなのに、どうしてこんなことをされるのか。私は釣り人と関係ない!」しかし、餌を食べた瞬間、その魚は釣り人に属するものとなったのです。このように、罪を犯す者は罪の元凶であるサタンに属するのです。 「罪を犯す者はすべて、不法を行っています。罪は不法です。彼が私たちの罪を取り除くために現れたことをあなたがたは知っています。彼には罪がありません。(ヨハネの手紙第一 3:4-5)」 「神の子が現れたのは、悪魔の仕業を滅ぼすためです。(ヨハネの手紙第一 3:8b)」[GPNEWS]

生まれ変わった人は世に打ち勝つ

「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」(ヨハネの手紙一 5:4) 生まれ変わった人は世の人々の見解を正しいかどうかの基準としない。生まれ変わった人はもはや世の方法や流行、観念、習慣に従わない。彼はもはや「人々がどう言うか?」に関心を持たない。生まれ変わった人の目には、世の人々の生活が虚しく、価値がなく、無益に感じられる。また、生まれ変わった人は世を恐れない。彼は世の人々から非難を受けても気にせず、嘲笑されても諦めず、人々よりも神に褒められることを好む。生まれ変わった人は人々の気分を害することよりも、神の怒りを招くことを恐れる。生まれ変わった人は見えない神だけを見つめ、どこへ行ってもその方に従うことを決意する。生まれ変わった人は神を喜ばせることを第一の目標とする。あなたは本当に生まれ変わった人ですか?[福音祈祷新聞] 『生まれ変わったか』(J. C. ライル)より抜粋

イエスに命を見出すと福音の力が現れる

神の約束と誓い (4) 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きに至らず、死から命へと移っているのです。」(ヨハネ 5:24) 信仰を通して私たちの霊の機能が生き返るが、その信仰はどこから生まれるのだろうか。哲学や宗教、人間の知識ではなく、真理の福音を聞くときに死んでいた魂が生き返り、主を見ることができる。 「心の目を開いてくださり、神の召しの望みが何であるか、聖徒の中で神の所有の栄光の豊かさが何であるかを知ることができますように。」(エフェソ 1:18) 教会が神の召しではなく、消費者中心、つまり教会員の罪深い欲求に急いで従うと、絶対的な神の召しから遠ざかることがある。中世に堕落したカトリック教会は、十字架の救いの真理を覆い隠し、行いによって救われると言い、多くの献金を集め、莫大な権力を享受した。これが教会の堕落であり、中世の暗黒時代を生んだ教会の悲劇だった。 改革を行ったとされる私たちの教会も油断すると召しを見失うことがある。しかし、この福音の召しの望みが何であり、聖徒の中でその所有の栄光がどれほど豊かであるかを悟ると、偽物に心を奪われていた私たちの心が目覚め、立ち返ることができる。神の永遠の愛に感動した人は、人間のつまらない愛を求めて追いかける卑劣な行いをしない。 「私たちの目を開き、召しの望みを見せてください。私たちの所有の栄光の豊かさ、福音の栄光と力、その祝福を私たちに啓示し、私たちの霊を天の香りで満たしてください。騙されて汚れた臭いのする世の中を探し回ることなく、天の香りで私たちを満たし、神のその完全な愛で私たちの魂を満たしてください。そして、主のその力の働きに従い、信じる私たちに与えられる福音の力と祝福が何であるかを悟らせてください。」このような祈りが私たちに必要だ。 全ての世の万物を統治し支配される万王の王、万主の主であるイエス・キリスト。復活し昇天されてその栄光を回復されたイエスの十字架の死と共に連なった教会は、その体であり、万物の中で万物を満たす方の満ち満ちた存在である。アーメン。 教会が貧しく見栄えがしなくても、その中におられるイエス・キリストは栄光と力と祝福に満ちた方だ。その主が偉大であるので、何もできず、学ぶこともなく、意志も弱くて使い物にならない土の器のような人であっても、その命を得た人であれば世が敵わないとヘブル書11章は言う。本当に弱くて見劣りする人がイエス・キリストを命として福音の栄光と力と祝福を見出し変えられると、世をひっくり返す福音の力が現れる。したがって、教会は福音によって新たにされ得るのだ。私たちをキリストの中で満ち満ちた者、完全な者として立ててくださる神のレベルの仕事を主がどのように成し遂げられるか。この秘密はまさにイエス・キリストの十字架の福音だ。アーメン。 (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

[GTK コラム] キリストで十分なキリスト教(2): 心理学に染まった教会 パート1

1980年、私たちグレイス・コミュニティ教会は、一部の牧師たちが専門知識もないまま、私たちの教会の信徒であるある青年を聖書の真理で助けようとした結果、彼の自殺を助長したという名目で訴えられた。この事件は、アメリカの司法制度の歴史で初めての聖職者の背信行為の訴えだった。 この事件が長引くにつれて、メディアは教会をからかうのに夢中になった。全国放送されるある扇情的なプログラムでは、私たちの教会がその青年に自殺は天国に至る確かな方法だと教え、自殺を奨励したとまで主張した。もちろんそれは事実ではない。その青年は自殺が間違っていることを聖書を通して知っていた。私たちは彼に神の言葉の導きを受けて、神を親しく知り、彼の苦しい心を癒すことを願っている彼の中で豊かな恵みを享受するよう勧めた。残念ながら、彼は私たちの勧めを拒否し、自殺した。 この事件が提起した主要な争点の一つは、教会が苦しんでいる人々に聖書で相談する法的権利を持っているかという問題だった。多くの人々は、誰かに聖書で助言をすることは相談に対する過度に単純化されたアプローチだと主張するだろう。彼らは、聖書は普通の人を助けるのには良いかもしれないが、本当の問題を抱える人々には心理学の専門家の助けが必要だと言う。 そこで、教会のカウンセラーは深刻なうつ病と自殺衝動に苦しむ人々を精神保健の専門家に紹介する義務があるというのが、この訴訟の主張だった。このような苦痛を経験している人々に聖書で相談する試みは、結局、教会のカウンセラーに道徳的にも法的にも罪を犯すべき無責任で無知な行為だとされた。 しかし、裁判所で明らかになった真実は、メディアの注目をほとんど、または全く受けなかった。この若者が専門の精神科医の治療を受けていたという事実は証言を通して明らかにされた。青年は私たちの教会のカウンセラーから聖書的な相談を受けながら、精神科の治療も受けていた。 さらに、私たちの教会のカウンセラーは、その青年がうつ病の有機的、化学的原因を取り除くために、いくつかの医師の診察を受けるよう配慮した。彼は可能な限りの治療を受けていたが、結局自殺を選んだ。私たちは彼を助けるためにできることはすべてしたが、彼は私たちの助言を拒否し、キリストにおける十分な恵みに背を向けた。 三度にわたり私たちは勝訴し、裁判官も私たちの教会がこの青年に適切な配慮をする責任を果たしたと断定的に判断した。彼らの判断は、私たちのカウンセラーがこの青年から相談を求められた際に、法的および道徳的な責任を十分に果たしたことだった。 結局、この事件は上訴され、アメリカ連邦最高裁判所まで持ち込まれた。高等裁判所は事件の審理を拒否し、カリフォルニア州最高裁判所の判断を受け入れることにした。州最高裁判所は教会の正当性を証明した。何よりも重要なのは、この事件がすべての教会が聖書を基に相談できる憲法上の権利を確認し、世界の裁判所が教会の相談領域を侵害できないようにする法的な先例を設けた点だ。 カウンセリング事業の専門化 不幸なことに、聖書の真理によってカウンセリングを行う人々の特権は、何らかの形で危険にさらされるかもしれない。教会外の法的制約のためではなく、教会内での聖書に対する態度のためだ。裁判中、多くの「専門家」が証言した。しかし、私にとって最も驚くべきことは、キリスト教心理学者や精神科医が、聖書一冊では人々の最も深い個人的、情緒的なニーズを満たすのに十分な助けが含まれていないと証言したことだった。 彼らは実際に、世俗の法廷の前で、神の言葉は人々の霊的な問題をカウンセリングするための適切な供給源ではないと主張した。本当に恐ろしいのは、そのような「専門家」の言葉を喜んで受け入れようとする福音主義者があまりにも多いという点である。 過去数十年の間に、福音主義の心理カウンセリングセンターが雨後の筍のように増えた。ほとんどのカウンセリングセンターが聖書的なカウンセリングを提供していると主張しているが、多くは単に霊的な用語で偽装された世俗の心理学に従ってカウンセリングを行っている。 さらに悪いことに、彼らはカウンセリング事業を教会共同体内に本来あるべき場所から取り除き、クリスチャンが自分自身をカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けている。多くの牧師が自分はカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けられている。ある重要な知恵の領域は聖書およびイエス・キリストとの人格的関係の外に存在し、そのような聖書外の領域から出てきた一部の概念や技法が人々の深刻な問題を解決する実際的な鍵を握っているという嘘をそのまま信じる人があまりにも多い。 真の霊的事業 真の心理学(「魂についての研究」)は、キリスト教徒だけが行うことができる。キリスト教徒だけが魂を理解し、変えるための手段を持っているからだ。心理学が登場するずっと前に、ピューリタンは人々を扱う事業を「魂の仕事」として認識していた。 聖書はすべての「魂の仕事」のための指針書であり、すべての霊的な問題の診断と処方において非常に包括的であり、信者の中にある聖霊の力を得ることで人をイエス・キリストのように変える結果をもたらす。これが聖書的な聖化の過程である。 人々が足を骨折したり、腎臓に異常があったり、虫歯ができたり、その他の身体的な病気があるときに医療的な助けを求めるのは合理的だ。アルコールや薬物に中毒していたり、学習障害があったり、レイプ、近親相姦、または深刻な暴力で精神的ショックを受けた人が傷を克服していく過程で多少の助けを得るのも賢明なことである。 根本的な原因が有機的で、そのまま放置すると危険な患者を安定させるためには薬物治療が必要な特定のタイプの情緒的疾患もあるかもしれない。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。身体的および情緒的な生活上の問題をそのように扱うことは聖化ではない! 人本主義的な心理学の特定の技法も、キリスト教徒や非キリスト教徒を問わず、人々の精神的ショックや依存現象を減らし、行動を修正するのに貢献することができる。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。 キリスト教心理学? 今日使われているような「キリスト教心理学」という用語は、一種の矛盾を含んでいる。心理学という言葉はもはや魂を研究することを意味しない。その代わりに、この言葉は基本的に人間主義的なさまざまな療法や理論を指している。 心理学の前提とその大部分の教えは、キリスト教の真理と成功裏に結びつけることができない。さらに、心理学が教会の教えに注入されることで、行動修正と聖化の境界線が曖昧になった。 完全さに至る道は、霊的な聖化の道だ。この世の肉体的な知恵と行動主義という停滞した水たまりのために、驚くべき助言者であり命の水の泉である彼に背を向けるのは愚かである。 我らの主イエス・キリストは、あらゆる試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。しかし、すべての困難はどんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。したがって、人生のすべての困難に対する完璧な勝利は、キリストに似た者となることの結果でなければならないことを明確にする必要がある。 どんな「魂の働き手」も、すべての試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。そのようなすべての困難は、どんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。 真のキリスト教心理学者であれば、行動修正という浅瀬で遊ぶのではなく、言葉と聖霊の深い深淵で魂の働きをするべきだ。信者がなぜ霊的な変化のための手段を持っているにもかかわらず、行動修正を選ぶべきだろうか?最も熟練したカウンセラーは、慎重に祈りながら誠実に霊的な聖化の原理を適用する、つまり他の人をイエス・キリストの形に変える人だ。 一般の心理学の理論を急いで受け入れることよりも、今日の教会にとって深刻な脅威となるものはない。それらの理論は、サタンがあたかも力強く人生を変える神からの真理であるかのように教会に植え付けたあらゆる人間的な概念にすぎない。ほとんどの心理学者は、自分たちが人々の実際の問題を解決するための秘められた知識を持っていると主張し、新しいグノーシス主義の典型を示している。自称「キリスト教カウンセリング」と称する療法を実施していると主張する心理学者もいますが、実際には聖書の節を引用しながら霊的な問題を扱うのに一般の心理学を使用している。 その結果、神の言葉を使ってカウンセリングを行う牧師、聖書学者、聖書教師および他の信者を育成する平信徒は、単純で完全に不適格なカウンセラーとして批判される。聖書読書と祈りは一般に「明白な答え」、落胆や不安と戦っている人にとっては不十分な解決策として過小評価された。聖書、聖霊、キリスト、祈り、恩恵などは、キリスト教カウンセラーがこれまで人々に提示してきた伝統的な解決策だ。しかし、今日の普通のキリスト教徒は、そのような解決策のどれもが実際に人々の苦しみを癒すことができないと信じるようになった。 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレース・トゥ・コリア コラムニスト GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべての出来事に対して聖書の言葉から答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ・チャーチのジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師および信者たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ:gpnews@kakao.com

[イアチムコラム] 神を見つめると喜びが湧き上がります

主に 望みをおく人は 新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、步いても疲れない。(イザヤ40:31) 主を待ち望むことが大切です。今日、この聖句と「視線」という賛美歌の歌詞が同じように心に響いて、涙を堪えるのに必死でした。主を待ち望めば、新しい力を得ます。神を経験すればするほど、神の驚くべき計画と摂理が完璧に感じられます。 それを知らずに生きてきたことを非常に後悔しているので、神を完全に信頼する心がさらに深まります。神がこれから行われる新しいことが期待され、驚くべきことであり、安心できます。私は1日2時間40分ほど祈りますが、ある日祈りの量が減ったときに、神に感謝しました。これまでの祈りの内容は大半が「知らないから、不安だから、心配だから」というものでした。神に上げられる祈りではなく、どん底に行く祈りでした。 今は祈りの量は減りましたが、深さが増しています。今は神に心を寄せるために祈ります。私を知っている神を信頼し、私の心を神に寄せることを決めて祈ります。「神様、心配と不安が予想されます、神様、満たしてください」と祈りましたが、実は自分のために祈っていたのです。 今は神が信じられるようになってきました。だから神に心を寄せ始めました。神を見つめ始めました。どのように待ち望み、どのように見つめるのでしょうか。十字架で一つになる道以外にはありません。 イエス様は、父なる神がなさったことだけを見て従っていきました。私もそれに倣いたいと思います。イエス様は、裏切り者ユダが自分を売ると前もって知っておられました。しかし、売られることへの渇望はありませんでした。心が実際に揺れ動くことはありませんでした。欺かれることもありませんでした。私はイエス様の祈りの力が理解できるようになってきました。その心を私にも与えてくださるよう神に祈りました。 イエス様はその出来事を見ても、心が揺れ動くことはありませんでした。むしろ、悲しみを感じ、裏切り者ユダに「お前は生まれなければよかったのに」と言われました。渇望の問題ではありません。イエス様は父なる神と心が一つになっておられました。 その神の心が与えられれば、すっきりします。天から頼もしい「後ろ盾」が降りてきます。ダビデの心が降りてきます。使徒パウロも、イエス様のように自慢屋です。使徒言行録26章で、パウロは、ユダヤ人アグリッパ王とギリシャ人フェストス総督の前で弁明します。 捕らえられて王と総督の前に引き出されたパウロは、尋問されながらも、ただイエス・キリストが救い主であること、そしてイエス様が十字架で死なれたことだけを話します。すると王と総督は、そのわずかな学問で自分を改宗させようとするのかと言うと、パウロは、自分が尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと言います。王の前で囚人が堂々と、尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと叫びます。自慢です。話が通りますか? 使徒パウロの心は、この世とまったく結びつきがなかったため、この世に何の渇望も感じていない状態だったからこそ、そのような自慢ができたのです。神と密接に結びついていて、神の美しさに夢中になっていました。天の栄光を実際に見たからこそ、総督にあのように語ったのです。「尋問されていることを除いては、すべてが私と同じであってほしい!」皆さんも私に倣っていただきたいと祝福します。渇望を感じるたびに十字架に走り、天の栄光が臨む業が何であるかを深く悟るようになりますように。イエスの御名によって祝福します。 エピローグ 渇望が起こるときは、渇望が呼び求めるものがあります。そのときは心配と腹立たしさが湧きます。しかし、神を求めるときは笑顔になります。その神秘を必ず一緒に経験しなければなりません。他のものに対する渇望を感じるときは神経を使い、エネルギーを使い、落ち着きがなくなりますが、神を見つめると喜びが湧き上がります。神を求めれば表情が変わります。だから見分けることができるのです。神を求めることを祝福します。 しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。あなたは焼き尽くすいけにえの羊を私のもとに引いて来ることもなくあなたのいけにえで私を崇めることもなかった。私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも、乳香であなたを疲れさせることもしなかった。あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなくいけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。かえって、あなたの罪で私に労苦させあなたの過ちで私を疲れさせた。(イザヤ43:22-24) イスラエルの民は神を求めました。祭りを捧げました。しかし、神は「祭りを捧げたことがない」と言われます。なぜでしょうか。 30代、40代の母親たちが集まると、塾の話をします。塾の話をしていますが、実は子供の話をしているのです。30代、40代の会社員が集まると、仮想通貨や株の話をします。仮想通貨の話をしていますが、実は金銭の話をしているのです。株の話をしていますが、金銭を呼び求めているのです。 イスラエルの民が神を呼んでいましたが、神を呼んでいたのではなく、欲求を満たそうとしていたのだと言うのです。欲求を呼び求めていたのです。それを悔い改めなければなりません。真に神の人となり、十字架に走って主と一つになる業が深く起こりますように。イエスの御名によって祝福します。 イ・アチム牧師 | 「神の御心に適うと見なされた教会」の担任牧師。次世代のために「トブ・原型学校」を運営しており、信徒たちが日常生活の中で信仰の実践を経験できるよう養育している。著書に『主が咲かせてくださるように』(トブ・ウォンヒョン出版社、2020年)、『はい、主よ。私は従順の専門家です』(トブ原型出版社、2019年)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈りの新聞。出典を明記して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com

[チェ·ヨナコラム] 策略と「恐怖」

音戦争15 「私たちの握った手が開くためにはどうしたらいいだろう?」私たちの握った手が問題ではなく、自分の心に何かが定着して一生それに従って生きることがもっと大きな問題ではないだろうか!ヤコブには本当に越えがたい「アキレス腱」があった。それは「恐怖(fear)」だった。私にも他人に話せなかったアキレス腱があった。それは38年間の「乾癬(Psoriasis, 粃糠性乾癬)」という皮膚病だ。この病気は今でも私に言葉にできない苦痛と痛みを与える肉体的な棘だ。 小学校から始まった「吃音」と「皮膚病」、そして父の「アルコール依存症」という三重苦は、私の人生に許可なく訪れた不躾客のようだった。最初は単に皮膚病だと思って薬を飲んだり塗ったりすれば治ると思っていたが、時間が経つにつれて治らず、どんどん悪化し、頭から足まで全身が奇妙な皮膚のカサブタのようになるのを見ながら、私は自分自身を守らなければならなかった。世間の指を指されるかも知らないという恐怖、友達に避けられて嘲笑を受ける恐怖、結婚もできずに一生孤独の中で生きるしかないという運命論的な絶望感、そして四季を問わず常に長袖と長ズボンを着て過ごさなければならない苦痛が私を絶望の淵に追い込んでいた。 この皮膚病を治すためにあちこち走り回っていたある日、「皮膚病をよく治す」という「巫女のおばあさん」を紹介された。そのおばあさんは、皮膚病ができたのは私の体内に「汚れた血」があるからで、針で全身を刺して汚れた血を抜かなければならないと言った。そして、服を全部脱がせて、私の体に「塩」を振りかけ、「祈祷」をしながら「剣舞」を踊る儀式を行った後、針で全身を刺し、蓖麻で血を絞り出し始めた。血が出るとその上にアルコールを塗った。家中に血とアルコールの匂いだった。今考えると、それは医術ではなく、ある種の「巫女宗教儀式」だった。 また、皮膚病患者が銭湯に行くことはあり得ないことだったので、常に家でお湯を用意して洗わなければならなかった数多くの時間は、今でも私に深い傷と痛みの跡として残っている。 ヨナ:「お父さん!今日は一緒に銭湯に行きましょうか?」 ヨナ:「今日はお父さんの背中を流します。」 お父さん:「私はいいけど、大丈夫かい?」 ヨナ:「はい、大丈夫です。他の人に感染する病気でもないし、特に問題はありません。」 生まれてから一度も父の手を取って銭湯に行ったことがなかった私は、その日勇気を出して父の背中を流すために銭湯を訪れた。そして、服を脱いで、父と一緒に湯船に入り、父の背中を流し始た。 しばらくすると、何人かの鋭い視線を感じる頃に、管理者の方が来てこう言った。 管理者:「出て行ってください!」 ヨナ:「すぐに洗って出ます。」 管理者:「他でやってください!潰れるのを見たいんですか?」 ヨナ:「これは他の人に感染する病気ではありません!」 管理者:「すぐに出て行ってください!」 冷酷に追い出されて、父の背中を流してあげることもできずに出た。私の一生の願いは、年老いた父を連れて公衆浴場に行き、父の背中を流してあげることだったが、それさえも許されない状況で、私は号泣した。中国に短期宣教に行き、チームメンバーと一緒に浴場を訪れたときも追い出された痛い記憶があって、父との美しい思い出を作れなかった「浴場事件」は、ずっと心を圧迫する記憶として残っている。そして、私の中にあるもう一つの恐怖は、まさに「結婚」だった。 「こんな皮膚病の患者に結婚したいと思う人がいるだろうか?」自分でも自分を受け入れられず苦しんでいるのに、こんな私を抱きしめてくれる人に出会えるとは1%も思ってなかった。時間が経ち、結婚したいと思っていた姉妹に私の皮膚病の話を正直に話したとき、当然拒否されると思っていた。しかし、その姉妹は、皮膚病という肉体的疾患は何の問題もないと言って、私のプロポーズを許してくれたとき、私は生まれて初めて人に「受け入れ」と「慈悲」の感情を学んだ。しかし、恐怖が持つ影響力は大きく、今後生まれてくる子供たちの「肌の状態」が一番最初に心配になった。 「もし私のように皮膚病を持って生まれたらどうしよう?」 「もし私のように言葉をたどって人々に笑いと嘲笑を受けたらどうしよう?」 私の恐れがどれほど大きかったのか、息子と娘が生まれたときに最初に確認したのは子供の肌の状態だった。しばしば妻は不信者よりも信じられない信仰を持つ私にこう助言した。 「起きていないことをあらかじめ引き上げて心配するのは、不信者よりも大きな犯罪」だと。 「本当にそうだった!」 神様は私が持っている恐怖よりも大きく、完全なお父様であるという事実を今まで学ばせてくださっている。 神は, おくびょうの 霊ではなく, 力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです.(テモテへの第二の手紙 1:7)

すべての状況を変化させる能力、福音!

神様の約束と誓い(3) 自分の心を自由に統制できれば、この世に悩む人がどこにいるだろうか?神様の御言葉が正しいと思って、御言葉通り従順にしようと決心したら自然にそうなれば、牧師がなぜ必要であり、牧会が何が難しいだろうか。自分の人生を自分が任意に調節することが最も不可能なことだ。 あれほど永生を追求して努力して律法を破ったことなく最善を尽くしてきた金持ちの官員に、イエス様がお金または永生から永生を得る道は二つのうち一つを選ぶことしかないと教えてくださった。神様の永遠の祝福を享受する永遠の生命がなぜお金と比較されるのか。見えない永生より一瞬享受するお金の誘惑があまりにも強いからだ。 そのため、目に見える誘惑に勝てず、永生を目の前にしても捕まえないまま、このお金に対する愛着と情欲に引かれていくのだ。 ルカによる福音書18章に出てくる金持ちの官員は、幼い頃から律法を破ったことのない模範青年だった。その上、ユダヤ人であり、母胎信仰である彼が永生と金の中でどれを選択するのが正しいことなのか区分できないだろうか。ところが、お金が永遠でないことを明らかに知りながらも結論を出せずに滅亡の道に転じるのがあきれた人間の実状だ。 十字架の福音を聞いて信仰に背を向けさえすれば、地獄から天国に運命を変えることができる。ところが、福音をそんなに聞きながらも決断できず、一生引きずって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いのか。厳重な警備網で囲まれた休戦ラインよりさらに堅固に越えられないのがまさに自分の心の境界だ。神様を離れて敵になった私たちの心を振り返って神様に向かわせることができるのは福音しかない。救いは人としてはできないが、ただ神としてはできる神の能力だ。人間の救いと変化は絶対に人から出ることができず、神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能だ。 教会が神様の召命を忘れてしまえば、現実に追われて召命の席を離れ妥協して変質せざるを得ない。したがって、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。神様の能力が私たちにあってこそ、教会は真の神様の呼びかけの場に立つことができ、世の中を変えることができる。 生きている神様がこの世の中を祝福する唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。エペソ人への手紙1章17節から23節までは福音の栄光と能力と祝福に対してこのように話す。「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 私たちの霊が死んで神様を感じる機能が消えた。私たちが霊的に目覚めて霊の目が開かれ、私たちの心霊に霊の機能が蘇る時に神様に会うことができる。聖霊と真理が私たちのこの鈍くなって呪われた霊の機能を回復させれば、生きている神様の言葉を理解することになる。それがまさにこの祈りのようになるのだ。 「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 アーメン。(2018年9月)<継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com