[GTK コラム] キリストで十分なキリスト教 (5): 神の言葉の十分性、第2部

ダビデは詩篇19篇7~14節を通して、神の言葉が十分であることを確信をもって証明している。今日は、パウロが強調した神の言葉の六つの十分性のうち、最初の三つを見ていこうと思う。 聖書は完全であり、魂を蘇らせる 最初の宣言で(詩篇19:7)、ダビデは「主の律法は完全であり、魂を蘇らせる」と言った。「律法」と訳されたヘブライ語の単語は「トーラー」で、これは聖書の教訓的な本質を強調する言葉だ。 「完全」と訳されたヘブライ語の単語は「全てを備えている」「完成された」または「十分な」などを意味する。この言葉は、あらゆる問題のすべての側面を扱うほど包括的な概念を含んでいる。聖書は包括的であり、個人の霊的な生活に必要なすべてを具現化している。ダビデは、人間は不完全であり、不足していて欠点が多い存在であることを暗黙のうちに対比して語っている。 ダビデは、神の完全な律法が人々の「魂を蘇らせる」効果を発揮すると言った(詩篇19:7)。「蘇らせる」という言葉で訳されたヘブライ語の単語は「回心させる」「生き返らせる」または「新たにする」などの意味で伝えることができるが、私がこの単語の同義語で最も好きなのは「変革させる」(transforming)だ。「魂」という言葉(ヘブライ語のネフェシュ)は、個人の人格、自我、または心を指す。この言葉は旧約聖書でそのようにすべて翻訳されている。この言葉の核心は内なる人間、全人、つまり実際の自分自身だ。 ダビデの言葉を言い換えれば、聖書は強力で包括的であり、一人の人間全体を回心させたり変革させて、その人を神が望む人物に変えることができるということだ。神の言葉は、救いを通じて、ひどく壊れた人生さえも回復させるに十分である。これはダビデが自分の人生を通して十分に証明した事実でもある。 聖書は信頼でき、知恵を提供する ダビデは、聖書が十分であるということの範囲をさらに広げ、詩篇19篇7節でこう言っている。「主の証言は確かであり、愚かな者を賢くする。」ここで「証言」という言葉は、聖書を神聖な証言と呼ぶ言葉だ。聖書は神がどのようなお方であるか、そして私たちに何を求めているかに関する神の確実な証言だ。「確かである」というのは、神の証言が揺るぎなく、確固不動で、誤りなく、信頼でき、価値があるという意味だ。この証言は、私たちの人生と永遠の運命の基礎として立つ土台を提供してくれる。 神の確かな言葉は、愚かな者を賢くする(詩篇19:7)。「愚かな」と訳されたヘブライ語の単語は「開いた門」という意味がある一つの表現から派生した。この言葉は、いつ偽りや不純な教えに対して自分がいつ心を閉ざすべきかを知らない無邪気な心のイメージを連想させる。彼は分別がなく、無知で、だまされやすい人間だ。しかし神の言葉はそのような人を賢くする。「賢い」という言葉は、単に何か事実を知っている人を指すのではなく、敬虔な生活を送るのに長けた人を指す言葉だ。そのような人は聖書に従い、自分の状況に適用する方法を知っている人だ。したがって、神の言葉は分別のない愚かな人を、人生のあらゆる問題に熟達した人にする。このような知恵は、実際には愚かしくて仕方がない人間の知恵とは対照的なものである(コリント第一1:20)。 聖書は正直であり、心を喜ばせる ダビデは、聖書の十分性に関する三つ目の宣言を付け加えている。彼はこう言う。「主の教えは正直であり、心を喜ばせる。」ここで「教え」とは、優れた品性と行いのための神聖な原理と指針だ。神は私たちを創造され、私たちが神の栄光を高めるためにはどう生きるべきかを知っているので、敬虔な生活のために必要なすべての原理を聖書の中に込めている。 ダビデは言っている。神の教えは「正直である」と。これは単に誤ったものと対比される正しいものを意味するだけでなく、誰かに正しい道を示すという意味を含んでいる。聖書の真理は、人生の難しい迷路を切り抜ける正しい道を示してくれる。それは驚くべき確信だ。今日、多くの人が方向感覚や目的意識を持たずに苦しみと失意に陥っている。多くの人が誤った源泉から答えを求める。神の言葉は私たちの道の光となるだけでなく(詩篇119:105)、私たちの行くべき道を示してくれる。 神の言葉は私たちを人生の正しい道へと導いてくれるので、大きな喜びをもたらしてくれる。もしあなたが気落ちしていて、不安の中にあり、恐れや疑いに陥っているなら、神の言葉に従い、その結果としての喜びを享受する方法を学びなさい。自己尊重や自己実現といった放縦な目標に頼ることはやめなさい。神の真理に集中しなさい。その中で真実で永続する喜びを見出すことができるだろう。それ以外のすべての源泉は表面的で一時的なものである。 神の言葉の十分性は驚くべきことである。それは完全で不足がなく、真実であり、生産的な生活への道を確立している。そのようにして、私たちをキリストに似た姿に変え、常に私たちに知恵を与え、永遠の喜びで私たちを満たしてくれる。神聖な知恵の源泉を脇に置き、無力で不足している人間の知恵に従うことが、どれほど大きな悲劇であるか。 次回は、聖書の十分性と神の言葉の甘美な香りに関する残りの三つを見ていくことにする。【福音祈祷新聞】 ジョン・マッカーサー | グレース・トゥ・コリア コラムニスト 原文: https://www.gty.org/library/blog/B140912 GTKコラムは、私たちの生活で起こるすべての出来事に対して聖書の言葉から答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ・チャーチのジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。

十字架を通過したのか?

神の約束と誓い (8) 「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4) 私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。 神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。 「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13) 主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。 だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。 証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。 「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11) 私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 神の国が手の中に、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活!

神の約束と誓い (7) 「しかし、時が来たので、神はその御子を送り、女から生まれ、律法の下に生まれさせました。それは律法の下にある者たちを贖い出し、私たちが子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4:4-5) 呪われるしかない私たちを、神がそのまま赦すためには、聖さを放棄しなければならない。しかし、神は公義を放棄されない。罪に対する裁きは、そのまますべて果たされなければならない。このように罪に対する裁きは行われるが、その罪と共にある私を生かしてこそ、救いが成し遂げられるのである。「罪がすなわち私であり、私がすなわち罪」であるから、私にある罪を完全に裁かなければ、罪が終わりを迎え、私が生きることができるのである。しかし、罪を裁くと私が死んでしまうし、私を生かすと裁きを行うことができないというこのジレンマを、主は解決しなければならなかったのである。 これに対して神は、私たちが想像もできない代贖という方法を用いられた。代贖とは、誰かが私が負った借金を代わりに返済し、その者が返済したすべてを私が返済したものとして認められるという意味である。これを信じるだけで、その信仰を義と認めてくださる方法によって、神も義であり、私たちも義とされる代贖の義を、主は準備されたのである。 「すべての人は罪を犯して神の栄光に達することができず、キリスト・イエスにある贖いにより、神の恵みによって、ただで義と認められる者とされた。このイエスを神はその血によって信仰を通じて和解の供え物として立てられた。それは神が長く忍耐されて、以前の罪を見逃されたことでご自分の義を示すためであった。それはすなわち、この時にご自分の義を示して、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするためである」(ローマ3:23-26) 神も義であり、イエスを信じる私たちも堂々とするための道を備えるために、私のすべての罪の代価を主が裁きによってすべて終わらせ、その後に一つの要素だけを残しておいたのである。 それはまさに、誰かが私の名と私の資格で返済してくれたその功労を信仰によって完全に受け入れ、その者に起こったことを自分に起こったこととして受け入れることである。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死に、裁きを受けられた時、私の名において私自身となって死なれたので、その方が死んだ時、変わらない私も共に死んだことを信仰によって受け入れることである。 初めに主は言葉で創造された。しかし、私たちを救う時、神の父がただ一つの御子をこの地に人として送り、女から生まれさせ、律法の呪いを代わりに受けさせ、子であるイエス様が十字架で死に、復活することで、律法の義をすべて成し遂げられたのである。 神は私にある罪を裁いて罪に対する問題を終わらせ、私を生かして義とされたのである。このようにして私の義を得るために、私が直接行ったことは何もない。その代わりに、イエス・キリストが成し遂げられたそのことが私にも成し遂げられたことを信じ、信仰によって参加しなければならないのである。イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活。今や罪がもはや主人の役割を果たすことはできず、律法が私を罪に定めることもできない。キリストだけが私の中で主人となって生きられることにより、神を愛し、真理に従い、天に属する生活を送ることができるのである。この驚くべき福音を主が準備してくださり、私たちを招待しておられるのを、ただ信じなさいというのである。ハレルヤ。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] 金容義 (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

私ほど… 私を弁護するのは誰の基準ですか?

“私が一体どれほど大きな罪を犯したので地獄に行かなければならないのですか?私ほど他人に害を与えずに生きてみろと言ってください。” その通りです。あなたは十分に自分を弁護するに値します。しかし、その弁護の基準は誰の基準ですか?地獄と天国は人間が作ったものではありませんし、天国行きと地獄行きを決定する基準も人間が定めることはできません。その基準は創造主なる神によって定められ、決まるのです。 あなたは人を憎み、両親に嘘をつきました。家庭の金に手を出したこともあり、他人の物を欲しがったこともあります。嫉妬や誹謗中傷もしました。他人の悪口を言い、無情なこともしました。困っている人を無視したこともあり、他人のお金を受け取っていい加減な仕事をしたこともあります。自分より弱い人や困っている人を軽視し、強く見える人には自分の利益のためにおべっかを使ったこともあります。猥褻なものを見たり、異性を性的に欲望したこともあります。時には自分を飾り立てて傲慢にもなりました。こうしたあなたが天国に行くことは神はおっしゃいます。 「こんな程度の罪も犯さない人がどこにいるのだから、そんな厳しい基準を持ち出すのか。」と不満に思うかもしれません。しかし、神はその基準を要求するに足るお方です。その方は罪とは全く関係のない「聖なる」存在だからです。だからこそ、あなたは絶望しているのです。 しかし、神はあなたを愛しているので、天国に行く道を開いてくださいました。あなたの全ての罪を御子イエスに移し、その罪の代償を十字架で支払わせました。十字架は最も屈辱的な死です。しかし、それは最も偉大な愛の表現です。 あなたの罪のために死に、甦ったイエス・キリストを私の主として迎え、信じるだけで天国に行けると約束されました。罪人であるあなたのままでイエス・キリストのもとに出れば、罪の赦しを与えてくださいます。イエス・キリストのもとに出てください。今すぐです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

今、あなたはどこに行くのでしょうか?

誰もが喜ばしい知らせ、つまり福音を聞きたいと願っています。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。これは、からし種宣教会が制作した伝道誌の内容から抜粋し、紹介しています。<編集者> 飛ぶ矢のように時が速く過ぎていきます。流れる時を意識することもなく、ある日鏡の中に自分の親の姿を発見したりはしませんか?そのとき、あなたはどんな考えを持つでしょうか?「私ももう年を取ったな」と思い、時の無常さや虚しさ、そして漠然とした恐れが心をよぎることはありませんか? 親が生きているとしても、やがてその道をあなたもたどることになるでしょう。それが切ないことですか?その切ない時を過ごした後、あなたは一体どこに行くのでしょうか?「どこに行くって?」と、当たり前の質問で答えたくないと思っていませんか? そうではありません。この質問に答えたい人たちがいます。それは、イエスを信じる人たちです。イエスを信じる信仰は、死を恐れることも、これまでの人生を虚しいものにすることもありません。なぜなら、死が終わりではないからであり、死を通して永遠の命を得るからです。 さて、あなたはどこに行くのでしょうか?肉体が年老いて衰えても、やってくる死を恐れずに済む永遠の命の道があります。しかし、その永遠の命はあなたの力では得られません。なぜなら、あなたは心の中に神を置くことを嫌う罪人だからです。その罪を許してもらわなければ、永遠の命を得ることはできません。だからこそ神は、自分の子をあなたの罪の代わりに背負わせて十字架で死なせました。 今、あなたは永遠の命を得て天国に行くために、何もしなくても大丈夫です。ただあなたの罪を悔い改め、あなたの代わりに死んで復活されたイエス様を心の主人として受け入れ、その方と共に生きるだけでいいのです。「死んだら終わりだ」という歪んだ確信のまま、永遠の滅びの道を歩むのでしょうか? それはダメです。イエスを信じて永遠の命と天国の道を歩んでください。 [福音祈祷新聞] <著作権ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架の福音以外には生まれ変わる道はない

神の約束と誓い (6) ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。 「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9) イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。 どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか? こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。 生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。 教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。 永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) 木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及び問い合わせ: gpnews@kakao.com

神様はあなたを存じております。

誰もが良い知らせ、すなわち福音を聞きたいと望んでいます。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。カラシ種宣教会が制作した伝道紙の内容から抜粋して紹介します。<編集者> あなたは神を知らなくても、神はあなたを知っています。神は子供を失った親のように、あなたを切実に探しています。イエスを通して救われるということは、神の愛の中に入ることを意味します。 昔、あるロシアの貴族の馬車が走っていました。その後ろを飢えたオオカミたちが恐ろしい勢いで追いかけていました。御者は馬車を引く4頭の馬のうち2頭を放し、オオカミの餌にして追い払おうとしました。しかし、再びオオカミたちは追いかけてきました。そこで御者は手綱を貴族の主人に託し、銃を手に馬車から飛び降りました。 貴族は全力で馬車を駆り、村に到着し、救助隊と共に来た道を戻りました。しかし見つかったのは、御者のわずかな骨だけでした。御者は愛する主人を救うために、自らの命を犠牲にしました。本当に主人への使用人の愛は感動的です。 しかし、この話の中で、もし御者を救うために自らオオカミの餌になることを選んだ主人がいたらどうでしょうか? その主人の愛はまさに身分を超えた偉大な愛でしょう。それがイエスの愛です。彼はすでに私たちの代わりに死んで救いを完成させました。その愛を信じるだけで救われるのです。 人が地獄に行く理由は罪のためです。正しい言葉です。しかし、さらに適切な言葉は、神が独り子イエスを代わりに死なせてまで私たちを救ったその愛の中に入らないからこそ、罪人である人間が地獄に行くのです。 親の声を聞いてもなお隠れ続ける子供を、どうやって再び子供として回復させることができるでしょうか?あなたはそのような神の声を聞かなかったと弁解することはできません。今この文章を通して、あなたを切実に探している神の声を聞いているのです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

「神様は本当に生きておられるのか?」

誰でも喜ばしい知らせを聞きたいものです。何が喜ばしい知らせ、つまり福音でしょうか。渇いた魂のために、様々な信仰の告白を集めて紹介します。この内容はゴマ粒宣教会が制作した伝道資料から抜粋したものです。 <編集者> 世の中の人々は「神様は存在しない」と思っていることを真実のように思っています。「神様なんて存在しない。科学的に証明できない。それは常識だ。」と主張します。しかし、そうではありません。「神様がいない」という言葉は最も大きな嘘です。神様は生きておられます。 なぜ世の中の人々は「神様がいない」と言うのでしょうか?それは神様に会ったことがないからです。では、なぜ世の中の人々は神様に会えないのでしょうか?それは神様が霊だからです。人は肉体と霊から成り立っており、人が神様を離れ罪を犯したために霊が死んでいるので、聖なる神様を経験することができないのです。罪のために神様を経験することができないので「会わせてくれ、見せてくれ、そうすれば信じる」と言います。しかし、神様に会った人がいます。 その人がまさに私です。私も神様に先に会った人から神様について聞きました。神様は宇宙万物の創造主であり、罪のために地獄に行くことになった私を愛し、一人子のイエス様を私の代わりに死なせました。私はこの愛を信じることによって、十字架で私の罪深い古い自我が死に、再び生まれたイエス様が私の命となり、イエスの命によって私の人生を生きています。私に永遠の命をくださいました。天国をくださいました。 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、すべての人がアメリカ大陸に行ってみて初めて「アメリカがあるんだ!」と言ったでしょうか?いいえ、アメリカ大陸に行ったコロンブスの言葉を信じて「アメリカがあるんだ」と思うのです。行った人がいれば、私が行かなくても確かにあるのです。存在するのです。神様に会った人、まさに私がその神様を紹介します。神様は生きておられます。イエス様を信じてください。そうすれば永遠の命を得て、イエス様を主として迎える美しく新しい人生が始まります。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

生まれ変わる唯一の道、イエス・キリストの十字架!

神の約束と誓い (5) この言葉に注目しよう。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探すが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かに見えるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力であり、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのである。」(コリント人への第一の手紙 1:22-25) その神の力と知恵がどのように現れたのか。それは、人々が軽蔑するイエス・キリストと彼の十字架の福音によるものである。この十字架の福音こそが神の力であり、神の知恵である。最も希望のない人生が丸ごと変わり、変わった彼らを通して世界が変わること。このことが神の完全な知恵と力である十字架と復活の福音によって可能になるのである。 これは誰にでもわかる秘密ではない。十字架の福音は、伝統に慣れ親しんだユダヤ人には愚かに見え、世のことに精通した異邦人には無駄に見える。このように十字架の福音がどれほどみすぼらしく無知に見えたとしても、それを信じると言う教会でさえこれを無視している。しかし、使徒の中の使徒であり、優れた神学者であり、神の前に力強く用いられた使徒パウロは言う。 「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない。キリストによって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのである。」(ガラテヤ人への手紙 6:14) 教会の中には、華やかな神学知識や体験、力、組織など多くの必要があるが、なぜ主は愚かに見える十字架を福音の中心に置かれたのか。なぜこの無駄に見える十字架が神の知恵と力だと言われたのか。それは神が歴史を変えようとするとき、結局は人を変えなければならず、人を変えようとするとその人の中心である心を変えなければならないからである。罪によって汚染された人間が本質的に神に反逆する心から本来の神の形に戻ることは天地開闢よりも難しいことである。唯一、神の知恵とその力である十字架の福音によってそのことが可能になる。 救いと生まれ変わり。主は言われた。『多くの訓練と努力をしても生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。』生まれ変わらずに人間が存在的に変わることは不可能である。 人間は努力によって少しは改善されることがある。酒やタバコを楽しんでいた人が突然やめたり、悪口を言っていた人が優しく話したり、詐欺で他人を困らせていた人が慈善事業をすることもある。しかし、その人が罪人であるという点では一歩も逃れることはできない。 神の国は改良された罪人が行ける場所ではなく、生まれ変わった生命でなければ入ることはできない。再び生まれなければならないと言うほど、生命の存在そのものが変わらなければその場所に行くことはできない。どうやって何によって生まれ変わるのか。我々を生まれ変わらせる唯一の道はイエス・キリストの十字架にある。(2018年9月)<続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

戻ってきた息子を取り戻した父の喜び

信仰は聞くことから生まれると聖書に記録されています。その聞かれた御言葉、信仰の先人たちが残した言葉や告白を要約、紹介します。<編集者> 放蕩息子のたとえ話の要点はただ一つです。実際、その一つで十分です。その核心は、息子が帰ってきたときに父が喜んだということです。 その喜びは単に息子に対する父の自然な愛の表現ではありません。失った息子を再び見つけたとき、父の心を満たした安堵感、感謝、言葉にできない誇らしさが混じった圧倒的な感情の表現でした。 ですから、このたとえ話で重要な点は彼が「堕落した」という事実ではなく、彼が「息子」であったという点です。父がそれほど大きく喜んだのは、その息子を失ったが再び見つけたからです。この息子は父の心に他の何ものにも比べられない貴重な存在であったため、彼が戻ってきたということはそれほど貴重な存在を再び見つけたことを意味しました。 だから父は息子が帰ってくるとき、家にただ座って彼を迎えたのではありません。息子に対する憐憫の情でいっぱいになり、まだ遠くにいるのを見て走り寄りました。彼を迎えて口づけし、召使いたちに命じて彼に最も貴重な衣を着せ、汚れた足を洗い、靴を履かせ、指に指輪をはめさせ、肥えた子牛を捕らえて宴を開き、音楽を奏でました。なぜなら、父の言葉のように「この息子は死んでいたのにまた生き返り、私が失ったのにまた見つけた」からです。 私たちは何度も繰り返して話を聞くと心が鈍くなります。主が感動を与えたいと思ってもそれを受け取ろうとしません。しかし、これが私たちの姿であっても、罪人が悔い改めて戻ってくるとき、神は放蕩息子の父が息子を迎え喜ぶように喜ばれます。この偉大なメッセージに誰が驚きと感動を覚えないでしょうか?[福音祈祷新聞] ベンジャミン・ウォーフィールド③ <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com

救われないほど悪い罪人はいない

ルカの福音書15章には放蕩息子のたとえ、正確に言えば失われた息子のたとえが出てきます。次男が父から先に自分の相続分を受け取り、浪費して帰ってくると、父は喜んで彼を迎え入れます。 しかし、彼の兄はこのような父の態度が気に入らず、父が勧めても次男のために父が開いた宴会に参加しないという話です。 このことに関しては様々な解釈があります。 しかし、このたとえが与える教訓と核心は何でしょうか。それは、罪の深さがどんなに深くても再び戻ってくれば神が必ず受け入れてくださるという、実に偉大で言葉では言い尽くせない感動的な真理がこのたとえの中に存在していることです。 罪人があまりにも悪くて全く手の施しようがない場合もあるかもしれません。しかし、救われないほど悪い罪人はいません。次男は自分が受け取った相続分を好き勝手に浪費してしまいました。父の家から持ち出した全てを一つも残さずに浪費し、自分は完全に裸の状態になってしまいました。 この放蕩息子はその地である人の足下にひざまずいて乞うようになってしまいました。その人は放蕩息子を荒れた畑に送り出し、彼はそこで豚の世話をする身となりました。ユダヤ人にとって豚の世話をすることほど恥ずかしく惨めなことはありません。しかし、その失われた息子は豚に餌を与えるだけでなく、自分自身が豚の餌を食べて命をつないでいました。 放蕩息子の極度の状態に関するこのような描写から、ユダヤ人にとって嫌悪感を与えた徴税人たちの実態の一端を垣間見ることができます。彼らは自分の同族を捨て、その豚のような異邦人に仕えるだけでなく、実際にその餌箱から腹を満たしていました。主は放蕩息子の惨めな状況の極限をこのように描写しています。 主は罪人を慰めますが、単に黙認するわけではありません。主が彼らの本当の姿を知らず感じていないから彼らを受け入れるのではありません。<続く>[福音祈禱新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。

これは中国で実際にあった話です。 両親を失って暮らしていた二人の兄弟がいました。兄は弟を非常に愛していました。兄は評判の良い人でしたが、弟は喧嘩と賭博を繰り返す不幸な人でした。 ある日、弟が乱闘中に感情が高ぶり、ついに人を殺してしまいました。警察に追われた弟は急いで兄のもとに走り助けを求めました。兄はしばらく何かを考えた後、決然とした表情で弟の血のついた服を脱がせ、自分の服と取り替えました。 弟が兄の服を着て逃げた後、兄は現行犯として逮捕され、ついに死刑判決を受けました。一方、恐怖に駆られて逃げていた弟は遅れてこの知らせを聞きました。苦しんだ末に自首し、警察は彼をすぐに収監しました。 この事件は社会的な関心を集めて再び裁判にかけられました。陪審員たちの長い審議と討論の末、ついに裁判官は判決を下しました。「無罪を宣言します。」その理由は、弟の名前で既に法が裁きを執行したためでした。同じ事件を二度処罰することはできないという理由でした。 確かに彼は罪人でしたが、法は彼に罪を問いませんでした。誰かが彼の代わりに罪の代価を支払ったため、彼は法的に罪がないことになったのです。罪は最終的に神の法を破ることですから、救いを得るためにはこのように法的に明確に罪がないと認められなければなりません。 死刑執行前に兄が残した手紙を弟は遅れて読むことになりました。 「私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。今やあなたは私の服を着て、私のように生きてくれ。」 「キリストと一つになるためにバプテスマを受けた者は皆、キリストを着たのです。(ガラテヤ人への手紙3:27)」 [GPNEWS]

福音は私たちの中で実際にならなければなりません。

この世には二種類の不幸者(不幸者)があります。第一の不幸者は福音を一度も聞いたことがない人です。彼らを‘不信者’と呼びます。不信者の人生はそれ自体が迷いです。 第二の不幸者は福音を聞いたにもかかわらず、福音を誤解するか、聞いた福音が自分にとって実際になっていない人です。彼らは信仰生活をする‘信者’ですが、信仰の混乱を経験します。彼らには福音が実際にならない理由を調べ、聞いた福音が実際になるように助けなければなりません。 実際(実際)とは、『事実の状況や事情』という意味で、ある『事実』に焦点を当てる時に使う言葉です。つまり、福音が実際になるとは、福音の事実がそのまま自分に現れることを言います。 私たちは神が創世前に準備された福音、救いの性質、救い主の資格、救いの方法をすべて聞きました。完全な福音を今や私たちの生活の中で実際に享受しなければなりません。 渇きを解決する実際 渇いている一人の人がいます。誰かが彼に清潔な生水を持ってきました。彼に届けられた生水はそれ自体で実際です。しかし、渇いているこの人にとってはまだ実際ではありません。 なぜなら彼がその生水を飲んでいないからです。意外にも多くの人々が生水の瓶を持ったり握ったままで渇いていると言います。渇きを解決する生水を手に握ったままで依然として渇いているということです。生水の瓶を持って飲む時に初めてその生水は彼にとって実際になります。 福音は実際です。福音を与えてくださった主はその福音が私たちにとって実際になることを望んでおられます。では、福音がなぜ私たちに実際にならないのでしょうか?その理由を聖書は次のように言います。 「その人々と同じように、私たちも福音を聞かされましたが、その言葉が彼らに役立たなかったのは、聞いた者が信仰と結びつけなかったからです(ヘブライ人への手紙4:2)」 福音はただ信仰によってのみ実際に経験し享受することができます。[GNPNEWS]

十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。

神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]

十字架がなぜ唯一の救いの方法なのでしょうか?

神の救いの方法がなぜ必ずしも十字架でなければならないのでしょうか? 十字架刑は当時ローマで最も残忍な死刑のひとつでした。 死刑判決を受けた罪人が十字架に釘付けにされ、数日にわたってゆっくりと死に至る刑罰が十字架刑です。ユダヤ人にとって、十字架に釘を刺された者は神に呪われた最も罪深い人と見なされました。 「木にかけた者は、神からの呪いを受ける者である」(申命記 21:23) 聖書は罪の代価を死として述べています。したがって、罪人は実際に死という代償を支払わなければなりません。それゆえすべての罪人は死の権威の下で自由になれないのです。 罪は必ず神の裁きを受けます。その裁きの結果は永遠の地獄です。しかし、イエス・キリストは罪人の代わりに十字架で死にました。 十字架は、サタンの権威が破壊された場所です。 したがって神の裁きは終わり、すべての罪人はすでに裁かれたのです。十字架でサタンの死の権威が破られ、イエス・キリストは復活によって勝利しました。 「わたしの言葉を聞いてまたわたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持ち、審判に至らないで、死から命に移ったのである」(ヨハネの福音書 5:24) 私たちが認めようが否とうが、罪は霊的な背後勢力であるサタンに属しています。 「罪を犯す者はみな、悪魔に属する者である。悪魔は元から罪を犯した者である」(ヨハネの第一の手紙 3:8) これはすべての罪の権威がサタンにあることを意味し、罪を犯すということはサタンの権威の下にあることを意味します。私たちは罪から自由になるためには、罪の根源であるサタンの権威が破壊されなければなりません。しかし、既に創世記3章15節の神の救いの約束が十字架によって成就されました。 「神の子が現れたのは、悪魔のわざを破壊しようとされたためである」(ヨハネの第一の手紙 3:8) [GPNEWS]

「世の知恵では決して理解できない逆説、十字架!」

神の救いを約束されたユダヤ人たちはそれぞれ自分が望む救い主を心に待っていました。ローマの束縛から解放してくれる革命家、新しいイスラエルの国を建て回復させる政治家、貧しい人々に食べ物を与え世話をする社会活動家。しかし、神が用意された救い主は彼らの期待とは異なっていました。神はご自身の計画通りに救い主をこの地に送り、親しく救いを成し遂げました。唯一その方法だけが私たちを救うことができるからです。 救いを誤解する人々 「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された。それは彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネの福音書 3:16)」 神の救いは逆説的な方法です。十字架の道は世の方法では理解できません。死が命となり、失敗が勝利となる逆説だからです。 十字架の秘密 「女の子孫はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記 3:15b)」, 「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを得るであろう。(マタイの福音書 10:39)」 救い主がかかとに攻撃を受けると同時に、蛇(サタン)の頭は砕かれます。救い主を殺すことは結果的にサタンを殺すことでした。死の力を持つサタンに打ち勝つ唯一の方法は死から生き返ることです。つまり、死が命とならなければ勝利できないのです。生きようとすれば死に、死のうとすれば生きる逆説、それゆえ十字架は秘密なのです。 世の誰もこの逆説的な神の救いの方法を知りませんでした。もしサタンがイエスの死が救いを成し遂げることだと知っていたならば、救い主であるイエスを十字架にかけることはなかったでしょう。 「この知恵は、この世の支配者たちの誰一人として知りませんでした。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけなかったでしょう。(コリントの第一の手紙 2:8)」 [GPNEWS]