審判の時代を生きる信仰 (2)
審判の時代とは、終わりの時が来たことを意味する。「赦す」「待つ」という言葉が過ぎ去ったその時期がまさに審判の時である。創世記6章5節には、主が人間の罪悪が地に満ち、その心で考えるすべての計画が常に悪いだけであるのを見られたと記されている。もはや待つことのない審判の時が到来したということだ。全地が目を開けても見られないほど神の前に腐敗し、暴力が地に満ちた。人が腐敗すると、人の行動から出るすべての結果が腐敗で満たされるのだ。
さらに絶望的なのは、神の人々さえも、人の娘たちの美しさ、世の華やかさ、贅沢さ、性的魅力を見て自分の欲するままに彼女たちを妻としたという事実である。このような姿に神は「わたしの霊は永遠に人と共にいない。それは彼らが肉となったからだ」と語られた。この結果、神の人々さえ神を捨て、罪の中に留まると、神の霊は離れてしまった。福音に従って生きると言った、神を愛すると言った人々までもが皆離れ去った惨憺たる状況である。
嵐が吹き荒れる真っ暗な海で光を照らす灯台が存在することは大きな希望だ。しかし、この灯台さえ消えてしまうなら、これ以上の絶望の瞬間はない。悪が満ち、腐敗が地に満ち、人々の思いが常に悪い終末の時代に、灯台のように立っているべき神の人々が堕落したということほど絶望的なことはない。時代の最後の希望を消してしまうのは、灯台のようであった教会がその光を失ってしまうことである。それがまさにノアの時代であった。
主は、私たちが迎えるであろうこれからの世の中、末世の終わりについて語られる。マタイの福音書24章では、終わりの時に人々が選んだ罪の結果がどこに向かっているかが定められていることがわかる。人々は洪水が起こり皆滅びる日まで、最後まで食べ、飲み、嫁ぎ、嫁がせ、売り買いすることに夢中であった。彼らは目に見えるもの、刺激を受けるもの、触れるものにしか関心がなかった。神も霊魂も未来も天国も地獄も審判も何の関心もない。完全に肉的な生活に戻ってしまった。それがまさに終わりの時だと語られる。
「終わりだな、このままでは滅びるのだな」と知ることができる良心の機能が働かない。聖書はイエスが再び来られるその時もそうであると言っている。このような恐ろしい時が本当に終わりの時である。
テモテへの第二の手紙3章1~5節でも終わりの時についての預言がある。末世になると、神なしで人間自らが神のようになってすべてを開発できるという。しかし、結局末世に苦しむ時が来れば行くべきところへ行くようになる。罪は必ず滅びに向かう。
神がもともと造られた神の形が離れ、神なしで「私」が神になってしまった。ひたすら「私」の満足と利益だけを追求し、生まれながらにして霊魂の病を抱えて生まれた全人類が一様にただ自分を愛し、金を愛し、自慢し、非難し、親に背き、感謝せず、聖くない。無情で恨みを晴らさず、誹謗し、節制できず、荒々しく、善いものを好まず、裏切り、短気で、自惚れ、快楽を愛することを神を愛すること以上に愛している。この時、教会はどこへ行くべきか。暗闇を照らす灯台の役割を取り戻さなければならない。再び福音に立ち帰るべきである。 (2018年11月) <続く> [福音祈祷新聞]
キム・ヨンイ | 巡回宣教師、LOGミッション代表。元巡回宣教団代表
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