私に向けられた愛が主に向けられる

愛すればその相手を見たくて会いたくなる。会うためにかかる代価が疲れもせず、惜しくも感じないのは、愛というエネルギーのためである。生まれ変わった後、自分自身を神様に捧げたならば、今度は愛すべき対象が私ではなく主になる。私を愛していたエネルギーが主に向けられるのである。 コリント人への手紙第一16章22節には「もし誰でも主を愛していないなら、その者は呪われるべきである。主よ、来てください」と書かれている。主を愛していないならば、必ず自己愛と世の愛に陥り、罪を愛して滅びるということである。しかし、イエスの命によって変化を経験したならば、私たちは真理以外のものを愛さなくなる。真理の中で真の自由を味わい、真理の中を歩むこと、これが私たちの魂の本性と一致する。こうして私たちの中に完全な存在の変化が起こり、私たちの価値観が変わる。この価値観の変化は地に属していた基準が天の基準に変わり、私中心の視点がイエス中心の視点に変わり、不義と偽りを好んでいた人が真理と共に喜び、自分の利益だけを求めていた者が他人の利益を求める者に変わるのである。どのような価値観を持っているかによって、私たちが喜ぶことや悲しむことは異なってくる。生きた命の信仰が私たちの価値観まで変えるとき、生きた信仰と生きた希望と生きた愛が、信仰の働きと愛の労苦と希望の忍耐が、私たちの人生を疲れさせることなく導いていくのである。 福音が私たちと教会をこのように新しくすることができる。福音に出会い、生まれ変わった命により、人生の主が「私」から「主」に変わるならば、その人は愛する対象が変わり、真理を愛する人になる。したがって信仰と信仰告白をしながらも、人生が全く従わない人は価値観が変わっていない。価値観が変わらないまま役職だけが上がり、神学の知識だけが積まれると、怪物のような教会員になるのである。 C.T.スタッドの告白のように「もしイエス・キリストが本当に生きておられる神であり、彼が私たちのような罪人のために死なれたのが事実ならば、私たちが彼のために捧げるどのような犠牲も決して大きいとは言えない。」当然のことである。このような私を救おうとご自分の唯一の御子を捧げてくださった神様の愛を、人の知恵でどう理解できるだろうか。人間の力で受け入れられるものではない。この言葉を正しく理解したならば、私たちの人生がひっくり返らないのが不思議なことである。神が私のような罪人を愛し、愛し、救う他の道がなかったので私のために十字架で死なれたという言葉ほど感動的なストーリーがどこにあるだろうか。 これがまさにキリスト教が語る福音である。その中心には十字架のその驚くべき愛がある。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことにより、神が私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのである」(ローマ5:8) アーメン。(2018年9月) <続く> [福音祈り新聞] 金容儀(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈り新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

今日は悔い改める時

神様はご自身の喜ばれる御心に従って、あなたに悔い改めを強く促しておられる。まだキリストを受け入れていない魂が毎朝目を覚まし、まだ地獄に落ちていないことに気付くとき、東の空から昇る輝かしい太陽が「私は昨日もあなたに光を照らし、今日も照らしているのは、あなたに悔い改めの時間を与えるためである」と語っているのではないか?あなたが一日三度食事をするたびに、その食べ物が「私たちがあなたの肉体を支えているのは、あなたに悔い改めの時間を与えるためである」と語っているのではないか?あなたが聖書を開くたびに、神の御言葉が「私はあなたが悔い改めることを促している」と語っているのではないか?命と死、天国と地獄があなたに悔い改めを促しているのではないか?このように神はあなたに悔い改めの時間を与えるだけでなく、その手を差し伸べ、悔い改めへと親しく導いてくださる、慈愛と憐れみの神である。 『主に服従せよ』(C.H.スポルジョン)より抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

使徒ヨハネ(1):分派的な愛の使徒

ヨハネが「愛の使徒」と呼ばれるのは驚くべきことではない。実際、彼は新約聖書の著者の中で、誰よりも愛の重要性について多く記録している。信者がキリストに対して持つべき愛や、教会に対するキリストの愛、そして真の信者であれば必ず持っているべき聖徒間の愛を特に強調している。愛というテーマは、彼のすべての書物を通じて流れ出ている。 しかし、愛は彼の天性ではなく、キリストから学んだものであった。若い頃のヨハネは兄ヤコブと同様に「雷の子」であった。もし皆さんが中世の美術作品に描かれているように、ヨハネを柔和で穏やかで青白く、男らしくない姿でイエスの傍に横たわり、優しい目で彼を見上げている人だと想像しているならば、それは間違った想像である。ヨハネは他の漁師出身の弟子たちと同様、頑健で徹底的な人物であった。そして、再び言うが、彼はすべてにおいて兄と同じように忍耐がなく、野心的であり、情熱的で爆発的な人間であった。 共観福音書でヨハネについて記録されているのは、ヨハネ自身が直接言ったたった一つの記録だけである。この記録では、彼の攻撃的で自己主張が強く、厚かましく忍耐がない性質がよく表れている。それは、主に対して、自分がイエスの名で悪魔を追い払う一人を叱ったと述べたときのことである。(マルコ9:38 「先生、私たちに従わない者があなたの名によって悪霊を追い出しているのを見ましたが、私たちに従わないので、それを止めました」) 福音書の記録を通じて、ヨハネが非常に分派的で偏狭であり、固執しやすく、急進的で衝動的な人間であったことが明らかである。彼は気まぐれで無礼であった。また、攻撃的でもあった。情熱的で感情的であり、野心に満ちた人間で、兄と彼は一心同体であった。 しかし、ヨハネは正しく年を取っていった。聖霊の導きによって、彼のすべての弱点は長所に変わった。若い弟子ヨハネと、年老いた信仰の父ヨハネを比べてみると、成熟するにつれて、彼は自分の最大の弱点を最大の長所に発展させていったことが分かる。彼は、私たちがキリストにあって成長する中で、どのようなことが起こるべきかを示す素晴らしい手本である。それは、私たちの弱さの中で主の力が完全にされるということである。 今日、私たちが使徒ヨハネについて考えるとき、大抵は心が柔和な年老いた使徒を思い浮かべる。1世紀の終わりに至るまで、教会の名高い長老としてヨハネは広く愛され、キリストに対する献身と、全世界の聖徒たちに対する大いなる愛ゆえに尊敬された。まさにその理由でヨハネは「愛の使徒」という称号を得たのである。 しかし、その愛は真理に対するヨハネの情熱を打ち砕くことはなかった。むしろ、愛は彼をバランスの取れた人物にした。彼は死ぬまで神の真理に対する深く持続的な愛を保ち、その愛を最後まで大胆に宣言した。 真理に対するヨハネの熱意は、彼の著作の方向性を決定づけた。新約聖書の著者の中で、ヨハネの思考は最も明確な白黒であった。彼は考え抜き、徹底的に記録した。何事も確信を持って扱い、すべてを明確に示した。彼の教えにはグレーゾーンがほとんどない。それは、彼が条件なしで、修飾語のない対比的な言葉で事実を述べたからである。 例えば、福音書で彼は、暗闇と光、死と生命、サタンの王国と神の国、サタンの子供たちと神の子供たち、悪者の裁きと義者の裁き、呪いの復活と命の復活、キリストを拒絶することとキリストを受け入れること、実を結ばないことと実を結ぶこと、不従順と従順、憎しみと愛を対比させている。ヨハネは絶対的な真理とその反対側を一緒に扱うのが好きであった。彼は明確な線を引くべきことを理解していた。 同じアプローチは彼の書簡でも現れている。彼は私たちに、光の中を歩むか、暗闇の中を歩むかを命じた。もし私たちが神から生まれているなら、罪を犯さない。いや、罪を犯すことができない(ヨハネ第一3:9)。私たちは「神に属しているか」、「世に属しているか」、どちらかである(ヨハネ第一4:4-5)。もし私たちが神を愛しているなら、私たちは神に属している。逆に、愛していないなら、神に属していない(ヨハネ第一4:7-8)。ヨハネはこのように記録している。「彼の中に留まる者は皆罪を犯さない。罪を犯す者は皆彼を見たこともなく、彼を知らないのである」(ヨハネ第一3:6)。 彼はヨハネ第二で、すべての偽りから完全で徹底した分離を促している。 「キリストの教えに留まらない者は誰も、神を持っていないが、その教えに留まる者は父と子を持っている。誰でもその教えを持たずにあなたがたのところに来たなら、その者を家に入れたり挨拶したりしてはならない。その者に挨拶する者は、その悪事に加担しているのである」(ヨハネ第二9-11) 彼はヨハネ第三の11節を次のような言葉で締めくくっている。「善を行う者は神に属しており、悪を行う者は神を見ていないのである」(11節) ヨハネはこのように白黒がはっきりした人間であった。 ヨハネの書物は、彼の個性を反映したものであった。彼は真理に対する情熱を持っていた。彼は数歩後退して真理を曖昧にすることはなかった。絶対的で確実な言葉で語り、グレーゾーンを埋めるためにインクを浪費することはなかった。すべての例外を列挙することなく、最も優先される法を述べた。イエスも時折そのような絶対的な形式で語られたが、ヨハネがそのスタイルを主から学んだことは間違いない。 たとえいつも温かく、個人的で、牧会的な口調で書かれていても、その内容が常に読みやすいものではない。しかし、彼の著作には真理に対する深い確信と絶対的な献身が込められている。 ヨハネのような性格の人が持つ危険性は、事態を極端に押し進めてしまうことである。実際、彼の若い頃はやや極端主義者であったようだ。彼は霊的な平衡感覚に欠けていた。彼と兄は、天から火を呼んで彼らを拒絶した村を焼き尽くすことを望んだほどであった。しかし、彼は老年期に至るまで正しい平衡感覚を身につけていた。愛の使徒と呼ばれることになったのはまさにそのためである。 時々私たち全員がまさにこの原理によって犠牲になることがある。これは人が完全に堕落しているために起こる結果の一つである。私たちが持っている最良の美徳さえ、時には罪によって堕落し、自己破滅の原因となることがあるのだ。 真理を重要視することは本当に素晴らしいことである。しかし、真理に対する熱意は、人々に対する愛とバランスを取らなければならない。そうでなければ、その熱意は性急に判断し、冷淡で、思いやりがないものとなる可能性がある。野心的で一生懸命働くことは良いことであるが、それが謙虚さとバランスを取らなければ、その野心は罪深い傲慢、つまり他人を犠牲にして自分を高めようとする罪深さになる。自信もまた素晴らしい美徳であるが、それが罪深い自己中心的な自信になると、私たちは思い上がり、霊的に無関心になるのだ。 確かに、真理に対する熱意や成功を求める欲望、自信を持つことは間違いではない。それはすべて正当な美徳である。しかし、どれほど優れた美徳であっても、バランスを失うと霊的な健康に重大な打撃を与える可能性がある。バランスを欠いた真理は深刻な誤りに導く可能性があるのと同様である。バランスを失った人は不安定である。一人の人間のバランスを欠いた性格は、一種の放縦であり、自己制御を失ったものと見なされる。それ自体が罪なのである。したがって、真理や何らかの資質の一面を無限に一つの極端に押し進めることは非常に危険なことである。 これが、私たちが若き日の使徒ヨハネで見たことである。彼は当初、愛の使徒とはまったく似つかない人物であった。しかし、イエスとの三年間が、自己中心的な狂信者をバランスの取れた成熟した人物へと変えていったのだ。イエスとの三年間が、この「雷の子」を「愛の使徒」へと変えていった。彼が最もバランスを欠いていた点をキリストが変え、ヨハネは頑固で性急な人から、初期教会の愛の多い敬虔な長老指導者へと変貌していったのである。 今後しばらくの間、私たちはキリストがヨハネの人生において最も必要としたバランスをどのように取ってくださったかを詳しく学んでいこうと思う。実際、このバランスは私たち全員にとって切実に必要なものである。 ジョン・マッカーサー(John MacArthur) | グレース・トゥ・コリア コラムニスト GTKコラムは、私たちの生活で起こるすべての事柄に対して聖書の教えから答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師および信者たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツで、本紙と提携して掲載されています。 <著作権 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

あなたは神様の特別な作品です。あなたは特別です。

まったく同意できませんか? 他の人は見た目が良くて、才能も多く、勉強もできて、運動も上手で、歌も上手く歌えるように思えませんか? それに比べて自分は何一つ得意なことがないと感じますか? そのため、時には憂鬱になり、人と一緒にいるよりも一人でいる方が楽だと感じることはありませんか? いいえ、そんなことはありません。 なぜなら、あなたは神様の特別な愛によって生まれた存在だからです。「神様の愛で創られたのに、どうしてこんなに優れたところがないんだ」と文句を言うかもしれません。しかし、「優れている」「劣っている」というのは人間が作った基準です。神様は劣った人を作ったことはありません。神様はご自身の形に従って、全ての人を大切で特別な存在として創られました。私たちは、それぞれが異なる神様の作品に過ぎないのです。 しかし、この世の価値観で見ると、常に優劣があり、それによって幸福や不幸が決まるかのように見えます。本当にそうでしょうか? 本当に全ての優位を手に入れれば幸せになれるでしょうか? そのように考える全ての人間は、不幸な人生を送るしかありません。だからこそ、人間は生まれた瞬間から不幸になるのです。 生まれた時から他人と比較し、優位に立ちたいと願って不幸になった人間が、幸せになる唯一の道があります。それは、あなたを特別に創られた神様に出会うことです。あなたに向けられた神様の愛を深く知れば知るほど、あなたは幸せになります。神様は、この世の価値観でより良い「自分」を作り上げようとする、あなたの涙ぐましい努力と全ての罪を清め、神様が創られた本来の姿に回復させることができるのです。 そのために、神様は一人しかいない御子イエスに、あなたの罪を負わせました。御子イエスは十字架で死に、復活されたイエスは、あなたがイエスを受け入れる時、聖霊として共にいて、常にあなたが神様の特別な存在であることを教えてくれます。驚くべき神様の愛を経験したあなたは、もはや取るに足らない存在ではありません。あなたは特別です。これが、あなたを創られた神様の思いです。 【福音祈祷新聞】 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> お問い合わせ: gpnews@kakao.com

準備はできていますか?

この言葉は、何かを始める前に言うものです。陸上競技のスタートの号砲が鳴る前や、的に向かって矢を放つ前に聞かれる言葉です。何事も準備なしにはうまくいきません。大学入試を受ける前には、幼稚園から高校までの12年間という非常に長い準備期間があります。結婚する相手がいても、結婚の準備をする時間が必要です。準備する時間がなければ、私たちは戸惑い、その結果も驚くべきものになってしまうでしょう。 あなたにも今、必ず準備しなければならないことがあります。それは死に対する準備です。遺影やお棺を準備することではありません。財産をどのように整理・分配するかを尋ねているのでもありません。よく考えてみれば、そうしたことは生きている人たちの仕事であり、死んでいるあなたには何の関係もないことです。今、私は「本当にあなた自身のための準備」について話しています。 天国と地獄は確かに存在します。人は死ぬと天国、あるいは地獄に行くことになります。神様はあなたが地獄に行かないように準備できる時間を、あなたの生涯の長さと同じだけすでに与えてくださっています。また、多くの人々を通じて「イエスを信じて天国に来なさい」という招待の伝令も送ってくださいました。天国に行くための準備は、イエスを信じることで行います。 その方は神様でありながら、この地に来て十字架の刑罰を受けることで私たちの罪の代価を払ってくださいました。あなたを愛しているそのイエス様を信じるだけで天国に行けると約束されています。あなたが自分で一生懸命準備しなければならないことは実際には何もありません。イエス様があなたのために血を流して死ぬことであらかじめ準備してくださった十字架の福音を信じるだけで良いのです。あなたが準備しなければならないのは、ただ信仰だけです。 神様は今日、あなたに尋ねています。「準備はできていますか?」[福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。>お問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架を通過したのか?

神の約束と誓い (8) 「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4) 私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。 神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。 「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13) 主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。 だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。 証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。 「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11) 私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 神の国が手の中に、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活!

神の約束と誓い (7) 「しかし、時が来たので、神はその御子を送り、女から生まれ、律法の下に生まれさせました。それは律法の下にある者たちを贖い出し、私たちが子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4:4-5) 呪われるしかない私たちを、神がそのまま赦すためには、聖さを放棄しなければならない。しかし、神は公義を放棄されない。罪に対する裁きは、そのまますべて果たされなければならない。このように罪に対する裁きは行われるが、その罪と共にある私を生かしてこそ、救いが成し遂げられるのである。「罪がすなわち私であり、私がすなわち罪」であるから、私にある罪を完全に裁かなければ、罪が終わりを迎え、私が生きることができるのである。しかし、罪を裁くと私が死んでしまうし、私を生かすと裁きを行うことができないというこのジレンマを、主は解決しなければならなかったのである。 これに対して神は、私たちが想像もできない代贖という方法を用いられた。代贖とは、誰かが私が負った借金を代わりに返済し、その者が返済したすべてを私が返済したものとして認められるという意味である。これを信じるだけで、その信仰を義と認めてくださる方法によって、神も義であり、私たちも義とされる代贖の義を、主は準備されたのである。 「すべての人は罪を犯して神の栄光に達することができず、キリスト・イエスにある贖いにより、神の恵みによって、ただで義と認められる者とされた。このイエスを神はその血によって信仰を通じて和解の供え物として立てられた。それは神が長く忍耐されて、以前の罪を見逃されたことでご自分の義を示すためであった。それはすなわち、この時にご自分の義を示して、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするためである」(ローマ3:23-26) 神も義であり、イエスを信じる私たちも堂々とするための道を備えるために、私のすべての罪の代価を主が裁きによってすべて終わらせ、その後に一つの要素だけを残しておいたのである。 それはまさに、誰かが私の名と私の資格で返済してくれたその功労を信仰によって完全に受け入れ、その者に起こったことを自分に起こったこととして受け入れることである。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死に、裁きを受けられた時、私の名において私自身となって死なれたので、その方が死んだ時、変わらない私も共に死んだことを信仰によって受け入れることである。 初めに主は言葉で創造された。しかし、私たちを救う時、神の父がただ一つの御子をこの地に人として送り、女から生まれさせ、律法の呪いを代わりに受けさせ、子であるイエス様が十字架で死に、復活することで、律法の義をすべて成し遂げられたのである。 神は私にある罪を裁いて罪に対する問題を終わらせ、私を生かして義とされたのである。このようにして私の義を得るために、私が直接行ったことは何もない。その代わりに、イエス・キリストが成し遂げられたそのことが私にも成し遂げられたことを信じ、信仰によって参加しなければならないのである。イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活。今や罪がもはや主人の役割を果たすことはできず、律法が私を罪に定めることもできない。キリストだけが私の中で主人となって生きられることにより、神を愛し、真理に従い、天に属する生活を送ることができるのである。この驚くべき福音を主が準備してくださり、私たちを招待しておられるのを、ただ信じなさいというのである。ハレルヤ。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] 金容義 (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架の福音以外には生まれ変わる道はない

神の約束と誓い (6) ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。 「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9) イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。 どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか? こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。 生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。 教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。 永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) 木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及び問い合わせ: gpnews@kakao.com

「神様は本当に生きておられるのか?」

誰でも喜ばしい知らせを聞きたいものです。何が喜ばしい知らせ、つまり福音でしょうか。渇いた魂のために、様々な信仰の告白を集めて紹介します。この内容はゴマ粒宣教会が制作した伝道資料から抜粋したものです。 <編集者> 世の中の人々は「神様は存在しない」と思っていることを真実のように思っています。「神様なんて存在しない。科学的に証明できない。それは常識だ。」と主張します。しかし、そうではありません。「神様がいない」という言葉は最も大きな嘘です。神様は生きておられます。 なぜ世の中の人々は「神様がいない」と言うのでしょうか?それは神様に会ったことがないからです。では、なぜ世の中の人々は神様に会えないのでしょうか?それは神様が霊だからです。人は肉体と霊から成り立っており、人が神様を離れ罪を犯したために霊が死んでいるので、聖なる神様を経験することができないのです。罪のために神様を経験することができないので「会わせてくれ、見せてくれ、そうすれば信じる」と言います。しかし、神様に会った人がいます。 その人がまさに私です。私も神様に先に会った人から神様について聞きました。神様は宇宙万物の創造主であり、罪のために地獄に行くことになった私を愛し、一人子のイエス様を私の代わりに死なせました。私はこの愛を信じることによって、十字架で私の罪深い古い自我が死に、再び生まれたイエス様が私の命となり、イエスの命によって私の人生を生きています。私に永遠の命をくださいました。天国をくださいました。 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、すべての人がアメリカ大陸に行ってみて初めて「アメリカがあるんだ!」と言ったでしょうか?いいえ、アメリカ大陸に行ったコロンブスの言葉を信じて「アメリカがあるんだ」と思うのです。行った人がいれば、私が行かなくても確かにあるのです。存在するのです。神様に会った人、まさに私がその神様を紹介します。神様は生きておられます。イエス様を信じてください。そうすれば永遠の命を得て、イエス様を主として迎える美しく新しい人生が始まります。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。

神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]

生まれ変わった人は世に打ち勝つ

「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」(ヨハネの手紙一 5:4) 生まれ変わった人は世の人々の見解を正しいかどうかの基準としない。生まれ変わった人はもはや世の方法や流行、観念、習慣に従わない。彼はもはや「人々がどう言うか?」に関心を持たない。生まれ変わった人の目には、世の人々の生活が虚しく、価値がなく、無益に感じられる。また、生まれ変わった人は世を恐れない。彼は世の人々から非難を受けても気にせず、嘲笑されても諦めず、人々よりも神に褒められることを好む。生まれ変わった人は人々の気分を害することよりも、神の怒りを招くことを恐れる。生まれ変わった人は見えない神だけを見つめ、どこへ行ってもその方に従うことを決意する。生まれ変わった人は神を喜ばせることを第一の目標とする。あなたは本当に生まれ変わった人ですか?[福音祈祷新聞] 『生まれ変わったか』(J. C. ライル)より抜粋

イエスに命を見出すと福音の力が現れる

神の約束と誓い (4) 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きに至らず、死から命へと移っているのです。」(ヨハネ 5:24) 信仰を通して私たちの霊の機能が生き返るが、その信仰はどこから生まれるのだろうか。哲学や宗教、人間の知識ではなく、真理の福音を聞くときに死んでいた魂が生き返り、主を見ることができる。 「心の目を開いてくださり、神の召しの望みが何であるか、聖徒の中で神の所有の栄光の豊かさが何であるかを知ることができますように。」(エフェソ 1:18) 教会が神の召しではなく、消費者中心、つまり教会員の罪深い欲求に急いで従うと、絶対的な神の召しから遠ざかることがある。中世に堕落したカトリック教会は、十字架の救いの真理を覆い隠し、行いによって救われると言い、多くの献金を集め、莫大な権力を享受した。これが教会の堕落であり、中世の暗黒時代を生んだ教会の悲劇だった。 改革を行ったとされる私たちの教会も油断すると召しを見失うことがある。しかし、この福音の召しの望みが何であり、聖徒の中でその所有の栄光がどれほど豊かであるかを悟ると、偽物に心を奪われていた私たちの心が目覚め、立ち返ることができる。神の永遠の愛に感動した人は、人間のつまらない愛を求めて追いかける卑劣な行いをしない。 「私たちの目を開き、召しの望みを見せてください。私たちの所有の栄光の豊かさ、福音の栄光と力、その祝福を私たちに啓示し、私たちの霊を天の香りで満たしてください。騙されて汚れた臭いのする世の中を探し回ることなく、天の香りで私たちを満たし、神のその完全な愛で私たちの魂を満たしてください。そして、主のその力の働きに従い、信じる私たちに与えられる福音の力と祝福が何であるかを悟らせてください。」このような祈りが私たちに必要だ。 全ての世の万物を統治し支配される万王の王、万主の主であるイエス・キリスト。復活し昇天されてその栄光を回復されたイエスの十字架の死と共に連なった教会は、その体であり、万物の中で万物を満たす方の満ち満ちた存在である。アーメン。 教会が貧しく見栄えがしなくても、その中におられるイエス・キリストは栄光と力と祝福に満ちた方だ。その主が偉大であるので、何もできず、学ぶこともなく、意志も弱くて使い物にならない土の器のような人であっても、その命を得た人であれば世が敵わないとヘブル書11章は言う。本当に弱くて見劣りする人がイエス・キリストを命として福音の栄光と力と祝福を見出し変えられると、世をひっくり返す福音の力が現れる。したがって、教会は福音によって新たにされ得るのだ。私たちをキリストの中で満ち満ちた者、完全な者として立ててくださる神のレベルの仕事を主がどのように成し遂げられるか。この秘密はまさにイエス・キリストの十字架の福音だ。アーメン。 (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

[GTKコラム]キリストで十分なキリスト教(3):心理学に染まった教会、パート2

なぜ教会はそう急いで心理学を受け入れたのでしょうか。その理由は、概して心理学者が自分たちを科学者として描写しているからだ。 科学の時代である今日、学問の世界で確実に認められることで、心理学の真理が論争の余地のない学問であることを意味するからだ。 そうではないだろうか? 行動科学はどのくらい科学的だろう? 何十年もの間、ますます多くの人が心理学を受け入れながら心理学を支持する人々は、単に心理学が真の科学であると当然受け入れている。しかしそうではない。それは偽の科学であり、道徳的および精神的な問題に対処することなく行動の問題を説明し、診断し、治療するように設計された人間の最新の発明品の一つである。 心理学は、熱力学や有機化学などの科学的知識のような一貫したシステムではない。私たちが言う心理学とは、様々なあらゆる複雑な思想と理論を言うことであり、その中で、いくつかの理論は互いに矛盾している。心理学は、人間が心や精神的、情緒的変化の過程を効果的に扱う能力を立証しているわけでもない。したがって、心理学は科学として認めることはできない。 確かに、私が心理学を類似科学に分類することについて多くの人が反感を抱くでしょう。しかし心理学とはまさにそのようなものだ。わずか百年前に骨相学と呼ばれる変った一種の「行動科学」をめぐって一大議論があった。骨相学は、人格的特性が頭蓋骨の形状によって決定されると信じていた。読者もおそらく以前の骨相学図解を見たことがあるだろう。 骨相学図解とは、脳のどの領域が特定の感情や特性を決定するのかを知らせる説明が、頭の特定の部位ごとについている脳の地図だ。骨相学者は人々の頭蓋骨をたどって頭の湧き上がった部分の位置をもって、彼らが持っている問題を診断したりした。 もしそれ以来、行動科学が大きく発展したと思ったら、大人に、彼が出生前にどんな悩みをしたのかを再び思い出すことができるように、胎児のように枕を抱いて体を丸める姿勢を取ることがどれほど合理的なことなのか自問してほしい。もし私にそのような機会があれば、私は誰かに私の頭をコックコック刺してもらうように頼む! 現代の心理学者は多数の矛盾する理論に基づいて、何百ものカウンセリングモデルとカウンセリング技術を使用している。したがって、心理療法がまるで単一した統合的で一貫した科学であるかのように話すことは不可能だ。 しかし、現代の心理学の基礎は、初期のフロイドの人本主義に根ざしたいくつかの一般的なアイデアにまとめることができる。これらは多くのクリスチャンが聖書的真理で合成しようと努力するのと同じ考えでだ。 ∙人間の本性は根本的に良い。 ∙人々は自分の問題を解決する答えが自分の内面に入っている。 ・人の過去は、その人の態度と行動を理解し矯正できる鍵だ。 ・ある人の問題は、他の誰かがその人に加えた行動の結果だ。 ∙人間の問題は、本質的にどんな精神的または肉体的な状態とかかわらない純粋に心理的な問題であるかもしれない。 ∙心の奥深くにある問題は、心理療法を使用する専門カウンセラーによってのみ解決することができる。 ∙聖書と祈りと聖霊は、特定の種類の問題を解決するには不適切で過度に単純な解決策だ。 それらと違うけど似ている邪悪な理論が、心理学のタンクから色々な雑なのと教会に共に入ってきた。残念なことに、それらは人々を助けようとする教会に根強く衝撃的な悪影響を及ぼしや。多くの忠実なクリスチャンは、真剣に相談が何であり、何をするべきかが理解できなかった。 意外にも、教会が「行動科学」にこんなに心酔する前から心理療法が何であるかを最もよく知っている人々は、それが果たして科学かについて疑問を抱き始めた。1979年、タイム誌は「精神課治療」を受ける精神医学」という次の特集記事を載せた。 精神医学は今四面楚歌に陥ったようだ…。 多くの精神科医は、平凡で日常的な神経症患者(「世界のすべてを一人で心配している人」)を心理学者や人気のあるアマチュア心理療法士に任せたがる。 精神科医は、彼らの職業が専門用語、難読化、神秘化でいっぱいの現代錬金術を頻繁に使用しているけど、貴重な知識はほとんどないことを認めている。 いつもそうだったように、精神医学を最も辛く批判する人々は精神科医自身だ。自分の専攻分野について長い間最も露骨な批判を加えてきたトーマス・サスは、精神疾患のようなものは実際には存在せず、通常の生活の問題だけが存在するだけだと主張する。精神医学に反対するもう一人の精神科医であるポーラートリーは、精神不眠症などのいくつかの脳疾患の存在は喜んで認めるが、そのような病気は一般開業医や内科医が処方できる薬だけでも十分に治療できると言う。 主流に属する精神科医でさえ、精神医学が果たして正常と異常を区別できると確信できない。 この記事は研究センターの精神科医であり生化学者であるロス・バルデサリニの悲観的な見通しで終わりを結んでいる。 彼はこう言った。「私たちは近い将来には精神疾患の原因と治療法を見つけることができないだろう」 数年後、アリゾナ州フェニックスで心理療法をテーマにした史上最大規模の集まりだと宣伝されたあるセミナーで、世界の主要心理治療専門家たちが集まった。「心理療法の進化」と命名されたこのセミナーは、全世界から来た7000人の精神健康専門家たちを集めた。このセミナーは主催側で心理療法のウッドストックフェスティバルと名付けられた歴史上最大の心理療法セミナーだった。 カンファレンスに一つの真理が明らかに台頭した。 心理療法士の間でほとんど同意しなかった。彼らには統合された心理学的「科学」はなかった。ひたすら耳にさらされる破壊された神学と治療学だけだった。 ロサンゼルスの新聞はラングの言葉を引用した。「彼は、1世紀にわたる心理療法の歴史から生まれた人間関係についてのどんな根本的な洞察も考え出せないと述べた。「私は私たちがソクラテス、シェイクスピア、トルストイ、あるいは15歳の時のポロベルさえも上回ったとは思わない」と話した。 ラングはこう付け加えて言った。「私は精神医学はまったく科学ではないと思う。精神医学は知識と発展の体系を築くことができる化学や物理学のようなものではない。 このカンファレンスの主催者であるジェフリー・ジグは、米国だけでも、様々な理論が百程度はあると述べた。ところが彼の言葉によれば、その中の大部分は「ぼやけて消えてしまう運命に処している」。 心理学はその基礎となる無神論的な進化理論と同様に科学ではない。有神論的進化論と同様に「キリスト教心理学」は本質で矛盾した二つの思想体系を調和させようとする試みだ。現代心理学と聖書は、聖書の十分性という原理を真剣に毀損したり、完全に捨てなければ決して融合することはできない。 心理療法は良いビジネスにはなったけど、誰かの霊的な問題も解決できない。せいぜい心理療法は、行動を表面的に修正するために人間的な洞察力をたまに使用できるだけだ。心理療法は単に一時的な臨時的にすぎない一種の精神的矯正療法であるため、クリスチャンにも非クリスチャンにも同じように成功することも失敗することもある。 [福音祈禱新聞] ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレイストゥコリアコラムニスト 原文: https://www.gty.org/library/blog/B140910 GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを探しているアメリカのグレースコミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師と、GTK協力の牧師と聖徒たちが貢献するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツです。 と条約を結んで掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。 ソースを記載して使用してください。>情報とお問い合わせ:gpnews@kakao.com

[GTK コラム] キリストで十分なキリスト教(2): 心理学に染まった教会 パート1

1980年、私たちグレイス・コミュニティ教会は、一部の牧師たちが専門知識もないまま、私たちの教会の信徒であるある青年を聖書の真理で助けようとした結果、彼の自殺を助長したという名目で訴えられた。この事件は、アメリカの司法制度の歴史で初めての聖職者の背信行為の訴えだった。 この事件が長引くにつれて、メディアは教会をからかうのに夢中になった。全国放送されるある扇情的なプログラムでは、私たちの教会がその青年に自殺は天国に至る確かな方法だと教え、自殺を奨励したとまで主張した。もちろんそれは事実ではない。その青年は自殺が間違っていることを聖書を通して知っていた。私たちは彼に神の言葉の導きを受けて、神を親しく知り、彼の苦しい心を癒すことを願っている彼の中で豊かな恵みを享受するよう勧めた。残念ながら、彼は私たちの勧めを拒否し、自殺した。 この事件が提起した主要な争点の一つは、教会が苦しんでいる人々に聖書で相談する法的権利を持っているかという問題だった。多くの人々は、誰かに聖書で助言をすることは相談に対する過度に単純化されたアプローチだと主張するだろう。彼らは、聖書は普通の人を助けるのには良いかもしれないが、本当の問題を抱える人々には心理学の専門家の助けが必要だと言う。 そこで、教会のカウンセラーは深刻なうつ病と自殺衝動に苦しむ人々を精神保健の専門家に紹介する義務があるというのが、この訴訟の主張だった。このような苦痛を経験している人々に聖書で相談する試みは、結局、教会のカウンセラーに道徳的にも法的にも罪を犯すべき無責任で無知な行為だとされた。 しかし、裁判所で明らかになった真実は、メディアの注目をほとんど、または全く受けなかった。この若者が専門の精神科医の治療を受けていたという事実は証言を通して明らかにされた。青年は私たちの教会のカウンセラーから聖書的な相談を受けながら、精神科の治療も受けていた。 さらに、私たちの教会のカウンセラーは、その青年がうつ病の有機的、化学的原因を取り除くために、いくつかの医師の診察を受けるよう配慮した。彼は可能な限りの治療を受けていたが、結局自殺を選んだ。私たちは彼を助けるためにできることはすべてしたが、彼は私たちの助言を拒否し、キリストにおける十分な恵みに背を向けた。 三度にわたり私たちは勝訴し、裁判官も私たちの教会がこの青年に適切な配慮をする責任を果たしたと断定的に判断した。彼らの判断は、私たちのカウンセラーがこの青年から相談を求められた際に、法的および道徳的な責任を十分に果たしたことだった。 結局、この事件は上訴され、アメリカ連邦最高裁判所まで持ち込まれた。高等裁判所は事件の審理を拒否し、カリフォルニア州最高裁判所の判断を受け入れることにした。州最高裁判所は教会の正当性を証明した。何よりも重要なのは、この事件がすべての教会が聖書を基に相談できる憲法上の権利を確認し、世界の裁判所が教会の相談領域を侵害できないようにする法的な先例を設けた点だ。 カウンセリング事業の専門化 不幸なことに、聖書の真理によってカウンセリングを行う人々の特権は、何らかの形で危険にさらされるかもしれない。教会外の法的制約のためではなく、教会内での聖書に対する態度のためだ。裁判中、多くの「専門家」が証言した。しかし、私にとって最も驚くべきことは、キリスト教心理学者や精神科医が、聖書一冊では人々の最も深い個人的、情緒的なニーズを満たすのに十分な助けが含まれていないと証言したことだった。 彼らは実際に、世俗の法廷の前で、神の言葉は人々の霊的な問題をカウンセリングするための適切な供給源ではないと主張した。本当に恐ろしいのは、そのような「専門家」の言葉を喜んで受け入れようとする福音主義者があまりにも多いという点である。 過去数十年の間に、福音主義の心理カウンセリングセンターが雨後の筍のように増えた。ほとんどのカウンセリングセンターが聖書的なカウンセリングを提供していると主張しているが、多くは単に霊的な用語で偽装された世俗の心理学に従ってカウンセリングを行っている。 さらに悪いことに、彼らはカウンセリング事業を教会共同体内に本来あるべき場所から取り除き、クリスチャンが自分自身をカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けている。多くの牧師が自分はカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けられている。ある重要な知恵の領域は聖書およびイエス・キリストとの人格的関係の外に存在し、そのような聖書外の領域から出てきた一部の概念や技法が人々の深刻な問題を解決する実際的な鍵を握っているという嘘をそのまま信じる人があまりにも多い。 真の霊的事業 真の心理学(「魂についての研究」)は、キリスト教徒だけが行うことができる。キリスト教徒だけが魂を理解し、変えるための手段を持っているからだ。心理学が登場するずっと前に、ピューリタンは人々を扱う事業を「魂の仕事」として認識していた。 聖書はすべての「魂の仕事」のための指針書であり、すべての霊的な問題の診断と処方において非常に包括的であり、信者の中にある聖霊の力を得ることで人をイエス・キリストのように変える結果をもたらす。これが聖書的な聖化の過程である。 人々が足を骨折したり、腎臓に異常があったり、虫歯ができたり、その他の身体的な病気があるときに医療的な助けを求めるのは合理的だ。アルコールや薬物に中毒していたり、学習障害があったり、レイプ、近親相姦、または深刻な暴力で精神的ショックを受けた人が傷を克服していく過程で多少の助けを得るのも賢明なことである。 根本的な原因が有機的で、そのまま放置すると危険な患者を安定させるためには薬物治療が必要な特定のタイプの情緒的疾患もあるかもしれない。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。身体的および情緒的な生活上の問題をそのように扱うことは聖化ではない! 人本主義的な心理学の特定の技法も、キリスト教徒や非キリスト教徒を問わず、人々の精神的ショックや依存現象を減らし、行動を修正するのに貢献することができる。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。 キリスト教心理学? 今日使われているような「キリスト教心理学」という用語は、一種の矛盾を含んでいる。心理学という言葉はもはや魂を研究することを意味しない。その代わりに、この言葉は基本的に人間主義的なさまざまな療法や理論を指している。 心理学の前提とその大部分の教えは、キリスト教の真理と成功裏に結びつけることができない。さらに、心理学が教会の教えに注入されることで、行動修正と聖化の境界線が曖昧になった。 完全さに至る道は、霊的な聖化の道だ。この世の肉体的な知恵と行動主義という停滞した水たまりのために、驚くべき助言者であり命の水の泉である彼に背を向けるのは愚かである。 我らの主イエス・キリストは、あらゆる試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。しかし、すべての困難はどんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。したがって、人生のすべての困難に対する完璧な勝利は、キリストに似た者となることの結果でなければならないことを明確にする必要がある。 どんな「魂の働き手」も、すべての試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。そのようなすべての困難は、どんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。 真のキリスト教心理学者であれば、行動修正という浅瀬で遊ぶのではなく、言葉と聖霊の深い深淵で魂の働きをするべきだ。信者がなぜ霊的な変化のための手段を持っているにもかかわらず、行動修正を選ぶべきだろうか?最も熟練したカウンセラーは、慎重に祈りながら誠実に霊的な聖化の原理を適用する、つまり他の人をイエス・キリストの形に変える人だ。 一般の心理学の理論を急いで受け入れることよりも、今日の教会にとって深刻な脅威となるものはない。それらの理論は、サタンがあたかも力強く人生を変える神からの真理であるかのように教会に植え付けたあらゆる人間的な概念にすぎない。ほとんどの心理学者は、自分たちが人々の実際の問題を解決するための秘められた知識を持っていると主張し、新しいグノーシス主義の典型を示している。自称「キリスト教カウンセリング」と称する療法を実施していると主張する心理学者もいますが、実際には聖書の節を引用しながら霊的な問題を扱うのに一般の心理学を使用している。 その結果、神の言葉を使ってカウンセリングを行う牧師、聖書学者、聖書教師および他の信者を育成する平信徒は、単純で完全に不適格なカウンセラーとして批判される。聖書読書と祈りは一般に「明白な答え」、落胆や不安と戦っている人にとっては不十分な解決策として過小評価された。聖書、聖霊、キリスト、祈り、恩恵などは、キリスト教カウンセラーがこれまで人々に提示してきた伝統的な解決策だ。しかし、今日の普通のキリスト教徒は、そのような解決策のどれもが実際に人々の苦しみを癒すことができないと信じるようになった。 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレース・トゥ・コリア コラムニスト GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべての出来事に対して聖書の言葉から答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ・チャーチのジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師および信者たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ:gpnews@kakao.com

[イアチムコラム] 神を見つめると喜びが湧き上がります

主に 望みをおく人は 新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、步いても疲れない。(イザヤ40:31) 主を待ち望むことが大切です。今日、この聖句と「視線」という賛美歌の歌詞が同じように心に響いて、涙を堪えるのに必死でした。主を待ち望めば、新しい力を得ます。神を経験すればするほど、神の驚くべき計画と摂理が完璧に感じられます。 それを知らずに生きてきたことを非常に後悔しているので、神を完全に信頼する心がさらに深まります。神がこれから行われる新しいことが期待され、驚くべきことであり、安心できます。私は1日2時間40分ほど祈りますが、ある日祈りの量が減ったときに、神に感謝しました。これまでの祈りの内容は大半が「知らないから、不安だから、心配だから」というものでした。神に上げられる祈りではなく、どん底に行く祈りでした。 今は祈りの量は減りましたが、深さが増しています。今は神に心を寄せるために祈ります。私を知っている神を信頼し、私の心を神に寄せることを決めて祈ります。「神様、心配と不安が予想されます、神様、満たしてください」と祈りましたが、実は自分のために祈っていたのです。 今は神が信じられるようになってきました。だから神に心を寄せ始めました。神を見つめ始めました。どのように待ち望み、どのように見つめるのでしょうか。十字架で一つになる道以外にはありません。 イエス様は、父なる神がなさったことだけを見て従っていきました。私もそれに倣いたいと思います。イエス様は、裏切り者ユダが自分を売ると前もって知っておられました。しかし、売られることへの渇望はありませんでした。心が実際に揺れ動くことはありませんでした。欺かれることもありませんでした。私はイエス様の祈りの力が理解できるようになってきました。その心を私にも与えてくださるよう神に祈りました。 イエス様はその出来事を見ても、心が揺れ動くことはありませんでした。むしろ、悲しみを感じ、裏切り者ユダに「お前は生まれなければよかったのに」と言われました。渇望の問題ではありません。イエス様は父なる神と心が一つになっておられました。 その神の心が与えられれば、すっきりします。天から頼もしい「後ろ盾」が降りてきます。ダビデの心が降りてきます。使徒パウロも、イエス様のように自慢屋です。使徒言行録26章で、パウロは、ユダヤ人アグリッパ王とギリシャ人フェストス総督の前で弁明します。 捕らえられて王と総督の前に引き出されたパウロは、尋問されながらも、ただイエス・キリストが救い主であること、そしてイエス様が十字架で死なれたことだけを話します。すると王と総督は、そのわずかな学問で自分を改宗させようとするのかと言うと、パウロは、自分が尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと言います。王の前で囚人が堂々と、尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと叫びます。自慢です。話が通りますか? 使徒パウロの心は、この世とまったく結びつきがなかったため、この世に何の渇望も感じていない状態だったからこそ、そのような自慢ができたのです。神と密接に結びついていて、神の美しさに夢中になっていました。天の栄光を実際に見たからこそ、総督にあのように語ったのです。「尋問されていることを除いては、すべてが私と同じであってほしい!」皆さんも私に倣っていただきたいと祝福します。渇望を感じるたびに十字架に走り、天の栄光が臨む業が何であるかを深く悟るようになりますように。イエスの御名によって祝福します。 エピローグ 渇望が起こるときは、渇望が呼び求めるものがあります。そのときは心配と腹立たしさが湧きます。しかし、神を求めるときは笑顔になります。その神秘を必ず一緒に経験しなければなりません。他のものに対する渇望を感じるときは神経を使い、エネルギーを使い、落ち着きがなくなりますが、神を見つめると喜びが湧き上がります。神を求めれば表情が変わります。だから見分けることができるのです。神を求めることを祝福します。 しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。あなたは焼き尽くすいけにえの羊を私のもとに引いて来ることもなくあなたのいけにえで私を崇めることもなかった。私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも、乳香であなたを疲れさせることもしなかった。あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなくいけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。かえって、あなたの罪で私に労苦させあなたの過ちで私を疲れさせた。(イザヤ43:22-24) イスラエルの民は神を求めました。祭りを捧げました。しかし、神は「祭りを捧げたことがない」と言われます。なぜでしょうか。 30代、40代の母親たちが集まると、塾の話をします。塾の話をしていますが、実は子供の話をしているのです。30代、40代の会社員が集まると、仮想通貨や株の話をします。仮想通貨の話をしていますが、実は金銭の話をしているのです。株の話をしていますが、金銭を呼び求めているのです。 イスラエルの民が神を呼んでいましたが、神を呼んでいたのではなく、欲求を満たそうとしていたのだと言うのです。欲求を呼び求めていたのです。それを悔い改めなければなりません。真に神の人となり、十字架に走って主と一つになる業が深く起こりますように。イエスの御名によって祝福します。 イ・アチム牧師 | 「神の御心に適うと見なされた教会」の担任牧師。次世代のために「トブ・原型学校」を運営しており、信徒たちが日常生活の中で信仰の実践を経験できるよう養育している。著書に『主が咲かせてくださるように』(トブ・ウォンヒョン出版社、2020年)、『はい、主よ。私は従順の専門家です』(トブ原型出版社、2019年)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈りの新聞。出典を明記して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com

すべての状況を変化させる能力、福音!

神様の約束と誓い(3) 自分の心を自由に統制できれば、この世に悩む人がどこにいるだろうか?神様の御言葉が正しいと思って、御言葉通り従順にしようと決心したら自然にそうなれば、牧師がなぜ必要であり、牧会が何が難しいだろうか。自分の人生を自分が任意に調節することが最も不可能なことだ。 あれほど永生を追求して努力して律法を破ったことなく最善を尽くしてきた金持ちの官員に、イエス様がお金または永生から永生を得る道は二つのうち一つを選ぶことしかないと教えてくださった。神様の永遠の祝福を享受する永遠の生命がなぜお金と比較されるのか。見えない永生より一瞬享受するお金の誘惑があまりにも強いからだ。 そのため、目に見える誘惑に勝てず、永生を目の前にしても捕まえないまま、このお金に対する愛着と情欲に引かれていくのだ。 ルカによる福音書18章に出てくる金持ちの官員は、幼い頃から律法を破ったことのない模範青年だった。その上、ユダヤ人であり、母胎信仰である彼が永生と金の中でどれを選択するのが正しいことなのか区分できないだろうか。ところが、お金が永遠でないことを明らかに知りながらも結論を出せずに滅亡の道に転じるのがあきれた人間の実状だ。 十字架の福音を聞いて信仰に背を向けさえすれば、地獄から天国に運命を変えることができる。ところが、福音をそんなに聞きながらも決断できず、一生引きずって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いのか。厳重な警備網で囲まれた休戦ラインよりさらに堅固に越えられないのがまさに自分の心の境界だ。神様を離れて敵になった私たちの心を振り返って神様に向かわせることができるのは福音しかない。救いは人としてはできないが、ただ神としてはできる神の能力だ。人間の救いと変化は絶対に人から出ることができず、神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能だ。 教会が神様の召命を忘れてしまえば、現実に追われて召命の席を離れ妥協して変質せざるを得ない。したがって、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。神様の能力が私たちにあってこそ、教会は真の神様の呼びかけの場に立つことができ、世の中を変えることができる。 生きている神様がこの世の中を祝福する唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。エペソ人への手紙1章17節から23節までは福音の栄光と能力と祝福に対してこのように話す。「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 私たちの霊が死んで神様を感じる機能が消えた。私たちが霊的に目覚めて霊の目が開かれ、私たちの心霊に霊の機能が蘇る時に神様に会うことができる。聖霊と真理が私たちのこの鈍くなって呪われた霊の機能を回復させれば、生きている神様の言葉を理解することになる。それがまさにこの祈りのようになるのだ。 「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 アーメン。(2018年9月)<継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com