十字架を通過したのか?

神の約束と誓い (8) 「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4) 私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。 神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。 「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13) 主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。 だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。 証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。 「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11) 私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 神の国が手の中に、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com

イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活!

神の約束と誓い (7) 「しかし、時が来たので、神はその御子を送り、女から生まれ、律法の下に生まれさせました。それは律法の下にある者たちを贖い出し、私たちが子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4:4-5) 呪われるしかない私たちを、神がそのまま赦すためには、聖さを放棄しなければならない。しかし、神は公義を放棄されない。罪に対する裁きは、そのまますべて果たされなければならない。このように罪に対する裁きは行われるが、その罪と共にある私を生かしてこそ、救いが成し遂げられるのである。「罪がすなわち私であり、私がすなわち罪」であるから、私にある罪を完全に裁かなければ、罪が終わりを迎え、私が生きることができるのである。しかし、罪を裁くと私が死んでしまうし、私を生かすと裁きを行うことができないというこのジレンマを、主は解決しなければならなかったのである。 これに対して神は、私たちが想像もできない代贖という方法を用いられた。代贖とは、誰かが私が負った借金を代わりに返済し、その者が返済したすべてを私が返済したものとして認められるという意味である。これを信じるだけで、その信仰を義と認めてくださる方法によって、神も義であり、私たちも義とされる代贖の義を、主は準備されたのである。 「すべての人は罪を犯して神の栄光に達することができず、キリスト・イエスにある贖いにより、神の恵みによって、ただで義と認められる者とされた。このイエスを神はその血によって信仰を通じて和解の供え物として立てられた。それは神が長く忍耐されて、以前の罪を見逃されたことでご自分の義を示すためであった。それはすなわち、この時にご自分の義を示して、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするためである」(ローマ3:23-26) 神も義であり、イエスを信じる私たちも堂々とするための道を備えるために、私のすべての罪の代価を主が裁きによってすべて終わらせ、その後に一つの要素だけを残しておいたのである。 それはまさに、誰かが私の名と私の資格で返済してくれたその功労を信仰によって完全に受け入れ、その者に起こったことを自分に起こったこととして受け入れることである。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死に、裁きを受けられた時、私の名において私自身となって死なれたので、その方が死んだ時、変わらない私も共に死んだことを信仰によって受け入れることである。 初めに主は言葉で創造された。しかし、私たちを救う時、神の父がただ一つの御子をこの地に人として送り、女から生まれさせ、律法の呪いを代わりに受けさせ、子であるイエス様が十字架で死に、復活することで、律法の義をすべて成し遂げられたのである。 神は私にある罪を裁いて罪に対する問題を終わらせ、私を生かして義とされたのである。このようにして私の義を得るために、私が直接行ったことは何もない。その代わりに、イエス・キリストが成し遂げられたそのことが私にも成し遂げられたことを信じ、信仰によって参加しなければならないのである。イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活。今や罪がもはや主人の役割を果たすことはできず、律法が私を罪に定めることもできない。キリストだけが私の中で主人となって生きられることにより、神を愛し、真理に従い、天に属する生活を送ることができるのである。この驚くべき福音を主が準備してくださり、私たちを招待しておられるのを、ただ信じなさいというのである。ハレルヤ。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] 金容義 (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架の福音以外には生まれ変わる道はない

神の約束と誓い (6) ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。 「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9) イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。 どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか? こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。 生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。 教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。 永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) 木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及び問い合わせ: gpnews@kakao.com

「神様は本当に生きておられるのか?」

誰でも喜ばしい知らせを聞きたいものです。何が喜ばしい知らせ、つまり福音でしょうか。渇いた魂のために、様々な信仰の告白を集めて紹介します。この内容はゴマ粒宣教会が制作した伝道資料から抜粋したものです。 <編集者> 世の中の人々は「神様は存在しない」と思っていることを真実のように思っています。「神様なんて存在しない。科学的に証明できない。それは常識だ。」と主張します。しかし、そうではありません。「神様がいない」という言葉は最も大きな嘘です。神様は生きておられます。 なぜ世の中の人々は「神様がいない」と言うのでしょうか?それは神様に会ったことがないからです。では、なぜ世の中の人々は神様に会えないのでしょうか?それは神様が霊だからです。人は肉体と霊から成り立っており、人が神様を離れ罪を犯したために霊が死んでいるので、聖なる神様を経験することができないのです。罪のために神様を経験することができないので「会わせてくれ、見せてくれ、そうすれば信じる」と言います。しかし、神様に会った人がいます。 その人がまさに私です。私も神様に先に会った人から神様について聞きました。神様は宇宙万物の創造主であり、罪のために地獄に行くことになった私を愛し、一人子のイエス様を私の代わりに死なせました。私はこの愛を信じることによって、十字架で私の罪深い古い自我が死に、再び生まれたイエス様が私の命となり、イエスの命によって私の人生を生きています。私に永遠の命をくださいました。天国をくださいました。 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、すべての人がアメリカ大陸に行ってみて初めて「アメリカがあるんだ!」と言ったでしょうか?いいえ、アメリカ大陸に行ったコロンブスの言葉を信じて「アメリカがあるんだ」と思うのです。行った人がいれば、私が行かなくても確かにあるのです。存在するのです。神様に会った人、まさに私がその神様を紹介します。神様は生きておられます。イエス様を信じてください。そうすれば永遠の命を得て、イエス様を主として迎える美しく新しい人生が始まります。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。

神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]

生まれ変わった人は世に打ち勝つ

「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」(ヨハネの手紙一 5:4) 生まれ変わった人は世の人々の見解を正しいかどうかの基準としない。生まれ変わった人はもはや世の方法や流行、観念、習慣に従わない。彼はもはや「人々がどう言うか?」に関心を持たない。生まれ変わった人の目には、世の人々の生活が虚しく、価値がなく、無益に感じられる。また、生まれ変わった人は世を恐れない。彼は世の人々から非難を受けても気にせず、嘲笑されても諦めず、人々よりも神に褒められることを好む。生まれ変わった人は人々の気分を害することよりも、神の怒りを招くことを恐れる。生まれ変わった人は見えない神だけを見つめ、どこへ行ってもその方に従うことを決意する。生まれ変わった人は神を喜ばせることを第一の目標とする。あなたは本当に生まれ変わった人ですか?[福音祈祷新聞] 『生まれ変わったか』(J. C. ライル)より抜粋

イエスに命を見出すと福音の力が現れる

神の約束と誓い (4) 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きに至らず、死から命へと移っているのです。」(ヨハネ 5:24) 信仰を通して私たちの霊の機能が生き返るが、その信仰はどこから生まれるのだろうか。哲学や宗教、人間の知識ではなく、真理の福音を聞くときに死んでいた魂が生き返り、主を見ることができる。 「心の目を開いてくださり、神の召しの望みが何であるか、聖徒の中で神の所有の栄光の豊かさが何であるかを知ることができますように。」(エフェソ 1:18) 教会が神の召しではなく、消費者中心、つまり教会員の罪深い欲求に急いで従うと、絶対的な神の召しから遠ざかることがある。中世に堕落したカトリック教会は、十字架の救いの真理を覆い隠し、行いによって救われると言い、多くの献金を集め、莫大な権力を享受した。これが教会の堕落であり、中世の暗黒時代を生んだ教会の悲劇だった。 改革を行ったとされる私たちの教会も油断すると召しを見失うことがある。しかし、この福音の召しの望みが何であり、聖徒の中でその所有の栄光がどれほど豊かであるかを悟ると、偽物に心を奪われていた私たちの心が目覚め、立ち返ることができる。神の永遠の愛に感動した人は、人間のつまらない愛を求めて追いかける卑劣な行いをしない。 「私たちの目を開き、召しの望みを見せてください。私たちの所有の栄光の豊かさ、福音の栄光と力、その祝福を私たちに啓示し、私たちの霊を天の香りで満たしてください。騙されて汚れた臭いのする世の中を探し回ることなく、天の香りで私たちを満たし、神のその完全な愛で私たちの魂を満たしてください。そして、主のその力の働きに従い、信じる私たちに与えられる福音の力と祝福が何であるかを悟らせてください。」このような祈りが私たちに必要だ。 全ての世の万物を統治し支配される万王の王、万主の主であるイエス・キリスト。復活し昇天されてその栄光を回復されたイエスの十字架の死と共に連なった教会は、その体であり、万物の中で万物を満たす方の満ち満ちた存在である。アーメン。 教会が貧しく見栄えがしなくても、その中におられるイエス・キリストは栄光と力と祝福に満ちた方だ。その主が偉大であるので、何もできず、学ぶこともなく、意志も弱くて使い物にならない土の器のような人であっても、その命を得た人であれば世が敵わないとヘブル書11章は言う。本当に弱くて見劣りする人がイエス・キリストを命として福音の栄光と力と祝福を見出し変えられると、世をひっくり返す福音の力が現れる。したがって、教会は福音によって新たにされ得るのだ。私たちをキリストの中で満ち満ちた者、完全な者として立ててくださる神のレベルの仕事を主がどのように成し遂げられるか。この秘密はまさにイエス・キリストの十字架の福音だ。アーメン。 (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

[GTKコラム]キリストで十分なキリスト教(3):心理学に染まった教会、パート2

なぜ教会はそう急いで心理学を受け入れたのでしょうか。その理由は、概して心理学者が自分たちを科学者として描写しているからだ。 科学の時代である今日、学問の世界で確実に認められることで、心理学の真理が論争の余地のない学問であることを意味するからだ。 そうではないだろうか? 行動科学はどのくらい科学的だろう? 何十年もの間、ますます多くの人が心理学を受け入れながら心理学を支持する人々は、単に心理学が真の科学であると当然受け入れている。しかしそうではない。それは偽の科学であり、道徳的および精神的な問題に対処することなく行動の問題を説明し、診断し、治療するように設計された人間の最新の発明品の一つである。 心理学は、熱力学や有機化学などの科学的知識のような一貫したシステムではない。私たちが言う心理学とは、様々なあらゆる複雑な思想と理論を言うことであり、その中で、いくつかの理論は互いに矛盾している。心理学は、人間が心や精神的、情緒的変化の過程を効果的に扱う能力を立証しているわけでもない。したがって、心理学は科学として認めることはできない。 確かに、私が心理学を類似科学に分類することについて多くの人が反感を抱くでしょう。しかし心理学とはまさにそのようなものだ。わずか百年前に骨相学と呼ばれる変った一種の「行動科学」をめぐって一大議論があった。骨相学は、人格的特性が頭蓋骨の形状によって決定されると信じていた。読者もおそらく以前の骨相学図解を見たことがあるだろう。 骨相学図解とは、脳のどの領域が特定の感情や特性を決定するのかを知らせる説明が、頭の特定の部位ごとについている脳の地図だ。骨相学者は人々の頭蓋骨をたどって頭の湧き上がった部分の位置をもって、彼らが持っている問題を診断したりした。 もしそれ以来、行動科学が大きく発展したと思ったら、大人に、彼が出生前にどんな悩みをしたのかを再び思い出すことができるように、胎児のように枕を抱いて体を丸める姿勢を取ることがどれほど合理的なことなのか自問してほしい。もし私にそのような機会があれば、私は誰かに私の頭をコックコック刺してもらうように頼む! 現代の心理学者は多数の矛盾する理論に基づいて、何百ものカウンセリングモデルとカウンセリング技術を使用している。したがって、心理療法がまるで単一した統合的で一貫した科学であるかのように話すことは不可能だ。 しかし、現代の心理学の基礎は、初期のフロイドの人本主義に根ざしたいくつかの一般的なアイデアにまとめることができる。これらは多くのクリスチャンが聖書的真理で合成しようと努力するのと同じ考えでだ。 ∙人間の本性は根本的に良い。 ∙人々は自分の問題を解決する答えが自分の内面に入っている。 ・人の過去は、その人の態度と行動を理解し矯正できる鍵だ。 ・ある人の問題は、他の誰かがその人に加えた行動の結果だ。 ∙人間の問題は、本質的にどんな精神的または肉体的な状態とかかわらない純粋に心理的な問題であるかもしれない。 ∙心の奥深くにある問題は、心理療法を使用する専門カウンセラーによってのみ解決することができる。 ∙聖書と祈りと聖霊は、特定の種類の問題を解決するには不適切で過度に単純な解決策だ。 それらと違うけど似ている邪悪な理論が、心理学のタンクから色々な雑なのと教会に共に入ってきた。残念なことに、それらは人々を助けようとする教会に根強く衝撃的な悪影響を及ぼしや。多くの忠実なクリスチャンは、真剣に相談が何であり、何をするべきかが理解できなかった。 意外にも、教会が「行動科学」にこんなに心酔する前から心理療法が何であるかを最もよく知っている人々は、それが果たして科学かについて疑問を抱き始めた。1979年、タイム誌は「精神課治療」を受ける精神医学」という次の特集記事を載せた。 精神医学は今四面楚歌に陥ったようだ…。 多くの精神科医は、平凡で日常的な神経症患者(「世界のすべてを一人で心配している人」)を心理学者や人気のあるアマチュア心理療法士に任せたがる。 精神科医は、彼らの職業が専門用語、難読化、神秘化でいっぱいの現代錬金術を頻繁に使用しているけど、貴重な知識はほとんどないことを認めている。 いつもそうだったように、精神医学を最も辛く批判する人々は精神科医自身だ。自分の専攻分野について長い間最も露骨な批判を加えてきたトーマス・サスは、精神疾患のようなものは実際には存在せず、通常の生活の問題だけが存在するだけだと主張する。精神医学に反対するもう一人の精神科医であるポーラートリーは、精神不眠症などのいくつかの脳疾患の存在は喜んで認めるが、そのような病気は一般開業医や内科医が処方できる薬だけでも十分に治療できると言う。 主流に属する精神科医でさえ、精神医学が果たして正常と異常を区別できると確信できない。 この記事は研究センターの精神科医であり生化学者であるロス・バルデサリニの悲観的な見通しで終わりを結んでいる。 彼はこう言った。「私たちは近い将来には精神疾患の原因と治療法を見つけることができないだろう」 数年後、アリゾナ州フェニックスで心理療法をテーマにした史上最大規模の集まりだと宣伝されたあるセミナーで、世界の主要心理治療専門家たちが集まった。「心理療法の進化」と命名されたこのセミナーは、全世界から来た7000人の精神健康専門家たちを集めた。このセミナーは主催側で心理療法のウッドストックフェスティバルと名付けられた歴史上最大の心理療法セミナーだった。 カンファレンスに一つの真理が明らかに台頭した。 心理療法士の間でほとんど同意しなかった。彼らには統合された心理学的「科学」はなかった。ひたすら耳にさらされる破壊された神学と治療学だけだった。 ロサンゼルスの新聞はラングの言葉を引用した。「彼は、1世紀にわたる心理療法の歴史から生まれた人間関係についてのどんな根本的な洞察も考え出せないと述べた。「私は私たちがソクラテス、シェイクスピア、トルストイ、あるいは15歳の時のポロベルさえも上回ったとは思わない」と話した。 ラングはこう付け加えて言った。「私は精神医学はまったく科学ではないと思う。精神医学は知識と発展の体系を築くことができる化学や物理学のようなものではない。 このカンファレンスの主催者であるジェフリー・ジグは、米国だけでも、様々な理論が百程度はあると述べた。ところが彼の言葉によれば、その中の大部分は「ぼやけて消えてしまう運命に処している」。 心理学はその基礎となる無神論的な進化理論と同様に科学ではない。有神論的進化論と同様に「キリスト教心理学」は本質で矛盾した二つの思想体系を調和させようとする試みだ。現代心理学と聖書は、聖書の十分性という原理を真剣に毀損したり、完全に捨てなければ決して融合することはできない。 心理療法は良いビジネスにはなったけど、誰かの霊的な問題も解決できない。せいぜい心理療法は、行動を表面的に修正するために人間的な洞察力をたまに使用できるだけだ。心理療法は単に一時的な臨時的にすぎない一種の精神的矯正療法であるため、クリスチャンにも非クリスチャンにも同じように成功することも失敗することもある。 [福音祈禱新聞] ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレイストゥコリアコラムニスト 原文: https://www.gty.org/library/blog/B140910 GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを探しているアメリカのグレースコミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師と、GTK協力の牧師と聖徒たちが貢献するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツです。 と条約を結んで掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。 ソースを記載して使用してください。>情報とお問い合わせ:gpnews@kakao.com

[GTK コラム] キリストで十分なキリスト教(2): 心理学に染まった教会 パート1

1980年、私たちグレイス・コミュニティ教会は、一部の牧師たちが専門知識もないまま、私たちの教会の信徒であるある青年を聖書の真理で助けようとした結果、彼の自殺を助長したという名目で訴えられた。この事件は、アメリカの司法制度の歴史で初めての聖職者の背信行為の訴えだった。 この事件が長引くにつれて、メディアは教会をからかうのに夢中になった。全国放送されるある扇情的なプログラムでは、私たちの教会がその青年に自殺は天国に至る確かな方法だと教え、自殺を奨励したとまで主張した。もちろんそれは事実ではない。その青年は自殺が間違っていることを聖書を通して知っていた。私たちは彼に神の言葉の導きを受けて、神を親しく知り、彼の苦しい心を癒すことを願っている彼の中で豊かな恵みを享受するよう勧めた。残念ながら、彼は私たちの勧めを拒否し、自殺した。 この事件が提起した主要な争点の一つは、教会が苦しんでいる人々に聖書で相談する法的権利を持っているかという問題だった。多くの人々は、誰かに聖書で助言をすることは相談に対する過度に単純化されたアプローチだと主張するだろう。彼らは、聖書は普通の人を助けるのには良いかもしれないが、本当の問題を抱える人々には心理学の専門家の助けが必要だと言う。 そこで、教会のカウンセラーは深刻なうつ病と自殺衝動に苦しむ人々を精神保健の専門家に紹介する義務があるというのが、この訴訟の主張だった。このような苦痛を経験している人々に聖書で相談する試みは、結局、教会のカウンセラーに道徳的にも法的にも罪を犯すべき無責任で無知な行為だとされた。 しかし、裁判所で明らかになった真実は、メディアの注目をほとんど、または全く受けなかった。この若者が専門の精神科医の治療を受けていたという事実は証言を通して明らかにされた。青年は私たちの教会のカウンセラーから聖書的な相談を受けながら、精神科の治療も受けていた。 さらに、私たちの教会のカウンセラーは、その青年がうつ病の有機的、化学的原因を取り除くために、いくつかの医師の診察を受けるよう配慮した。彼は可能な限りの治療を受けていたが、結局自殺を選んだ。私たちは彼を助けるためにできることはすべてしたが、彼は私たちの助言を拒否し、キリストにおける十分な恵みに背を向けた。 三度にわたり私たちは勝訴し、裁判官も私たちの教会がこの青年に適切な配慮をする責任を果たしたと断定的に判断した。彼らの判断は、私たちのカウンセラーがこの青年から相談を求められた際に、法的および道徳的な責任を十分に果たしたことだった。 結局、この事件は上訴され、アメリカ連邦最高裁判所まで持ち込まれた。高等裁判所は事件の審理を拒否し、カリフォルニア州最高裁判所の判断を受け入れることにした。州最高裁判所は教会の正当性を証明した。何よりも重要なのは、この事件がすべての教会が聖書を基に相談できる憲法上の権利を確認し、世界の裁判所が教会の相談領域を侵害できないようにする法的な先例を設けた点だ。 カウンセリング事業の専門化 不幸なことに、聖書の真理によってカウンセリングを行う人々の特権は、何らかの形で危険にさらされるかもしれない。教会外の法的制約のためではなく、教会内での聖書に対する態度のためだ。裁判中、多くの「専門家」が証言した。しかし、私にとって最も驚くべきことは、キリスト教心理学者や精神科医が、聖書一冊では人々の最も深い個人的、情緒的なニーズを満たすのに十分な助けが含まれていないと証言したことだった。 彼らは実際に、世俗の法廷の前で、神の言葉は人々の霊的な問題をカウンセリングするための適切な供給源ではないと主張した。本当に恐ろしいのは、そのような「専門家」の言葉を喜んで受け入れようとする福音主義者があまりにも多いという点である。 過去数十年の間に、福音主義の心理カウンセリングセンターが雨後の筍のように増えた。ほとんどのカウンセリングセンターが聖書的なカウンセリングを提供していると主張しているが、多くは単に霊的な用語で偽装された世俗の心理学に従ってカウンセリングを行っている。 さらに悪いことに、彼らはカウンセリング事業を教会共同体内に本来あるべき場所から取り除き、クリスチャンが自分自身をカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けている。多くの牧師が自分はカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けられている。ある重要な知恵の領域は聖書およびイエス・キリストとの人格的関係の外に存在し、そのような聖書外の領域から出てきた一部の概念や技法が人々の深刻な問題を解決する実際的な鍵を握っているという嘘をそのまま信じる人があまりにも多い。 真の霊的事業 真の心理学(「魂についての研究」)は、キリスト教徒だけが行うことができる。キリスト教徒だけが魂を理解し、変えるための手段を持っているからだ。心理学が登場するずっと前に、ピューリタンは人々を扱う事業を「魂の仕事」として認識していた。 聖書はすべての「魂の仕事」のための指針書であり、すべての霊的な問題の診断と処方において非常に包括的であり、信者の中にある聖霊の力を得ることで人をイエス・キリストのように変える結果をもたらす。これが聖書的な聖化の過程である。 人々が足を骨折したり、腎臓に異常があったり、虫歯ができたり、その他の身体的な病気があるときに医療的な助けを求めるのは合理的だ。アルコールや薬物に中毒していたり、学習障害があったり、レイプ、近親相姦、または深刻な暴力で精神的ショックを受けた人が傷を克服していく過程で多少の助けを得るのも賢明なことである。 根本的な原因が有機的で、そのまま放置すると危険な患者を安定させるためには薬物治療が必要な特定のタイプの情緒的疾患もあるかもしれない。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。身体的および情緒的な生活上の問題をそのように扱うことは聖化ではない! 人本主義的な心理学の特定の技法も、キリスト教徒や非キリスト教徒を問わず、人々の精神的ショックや依存現象を減らし、行動を修正するのに貢献することができる。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。 キリスト教心理学? 今日使われているような「キリスト教心理学」という用語は、一種の矛盾を含んでいる。心理学という言葉はもはや魂を研究することを意味しない。その代わりに、この言葉は基本的に人間主義的なさまざまな療法や理論を指している。 心理学の前提とその大部分の教えは、キリスト教の真理と成功裏に結びつけることができない。さらに、心理学が教会の教えに注入されることで、行動修正と聖化の境界線が曖昧になった。 完全さに至る道は、霊的な聖化の道だ。この世の肉体的な知恵と行動主義という停滞した水たまりのために、驚くべき助言者であり命の水の泉である彼に背を向けるのは愚かである。 我らの主イエス・キリストは、あらゆる試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。しかし、すべての困難はどんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。したがって、人生のすべての困難に対する完璧な勝利は、キリストに似た者となることの結果でなければならないことを明確にする必要がある。 どんな「魂の働き手」も、すべての試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。そのようなすべての困難は、どんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。 真のキリスト教心理学者であれば、行動修正という浅瀬で遊ぶのではなく、言葉と聖霊の深い深淵で魂の働きをするべきだ。信者がなぜ霊的な変化のための手段を持っているにもかかわらず、行動修正を選ぶべきだろうか?最も熟練したカウンセラーは、慎重に祈りながら誠実に霊的な聖化の原理を適用する、つまり他の人をイエス・キリストの形に変える人だ。 一般の心理学の理論を急いで受け入れることよりも、今日の教会にとって深刻な脅威となるものはない。それらの理論は、サタンがあたかも力強く人生を変える神からの真理であるかのように教会に植え付けたあらゆる人間的な概念にすぎない。ほとんどの心理学者は、自分たちが人々の実際の問題を解決するための秘められた知識を持っていると主張し、新しいグノーシス主義の典型を示している。自称「キリスト教カウンセリング」と称する療法を実施していると主張する心理学者もいますが、実際には聖書の節を引用しながら霊的な問題を扱うのに一般の心理学を使用している。 その結果、神の言葉を使ってカウンセリングを行う牧師、聖書学者、聖書教師および他の信者を育成する平信徒は、単純で完全に不適格なカウンセラーとして批判される。聖書読書と祈りは一般に「明白な答え」、落胆や不安と戦っている人にとっては不十分な解決策として過小評価された。聖書、聖霊、キリスト、祈り、恩恵などは、キリスト教カウンセラーがこれまで人々に提示してきた伝統的な解決策だ。しかし、今日の普通のキリスト教徒は、そのような解決策のどれもが実際に人々の苦しみを癒すことができないと信じるようになった。 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレース・トゥ・コリア コラムニスト GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべての出来事に対して聖書の言葉から答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ・チャーチのジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師および信者たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ:gpnews@kakao.com

[イアチムコラム] 神を見つめると喜びが湧き上がります

主に 望みをおく人は 新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、步いても疲れない。(イザヤ40:31) 主を待ち望むことが大切です。今日、この聖句と「視線」という賛美歌の歌詞が同じように心に響いて、涙を堪えるのに必死でした。主を待ち望めば、新しい力を得ます。神を経験すればするほど、神の驚くべき計画と摂理が完璧に感じられます。 それを知らずに生きてきたことを非常に後悔しているので、神を完全に信頼する心がさらに深まります。神がこれから行われる新しいことが期待され、驚くべきことであり、安心できます。私は1日2時間40分ほど祈りますが、ある日祈りの量が減ったときに、神に感謝しました。これまでの祈りの内容は大半が「知らないから、不安だから、心配だから」というものでした。神に上げられる祈りではなく、どん底に行く祈りでした。 今は祈りの量は減りましたが、深さが増しています。今は神に心を寄せるために祈ります。私を知っている神を信頼し、私の心を神に寄せることを決めて祈ります。「神様、心配と不安が予想されます、神様、満たしてください」と祈りましたが、実は自分のために祈っていたのです。 今は神が信じられるようになってきました。だから神に心を寄せ始めました。神を見つめ始めました。どのように待ち望み、どのように見つめるのでしょうか。十字架で一つになる道以外にはありません。 イエス様は、父なる神がなさったことだけを見て従っていきました。私もそれに倣いたいと思います。イエス様は、裏切り者ユダが自分を売ると前もって知っておられました。しかし、売られることへの渇望はありませんでした。心が実際に揺れ動くことはありませんでした。欺かれることもありませんでした。私はイエス様の祈りの力が理解できるようになってきました。その心を私にも与えてくださるよう神に祈りました。 イエス様はその出来事を見ても、心が揺れ動くことはありませんでした。むしろ、悲しみを感じ、裏切り者ユダに「お前は生まれなければよかったのに」と言われました。渇望の問題ではありません。イエス様は父なる神と心が一つになっておられました。 その神の心が与えられれば、すっきりします。天から頼もしい「後ろ盾」が降りてきます。ダビデの心が降りてきます。使徒パウロも、イエス様のように自慢屋です。使徒言行録26章で、パウロは、ユダヤ人アグリッパ王とギリシャ人フェストス総督の前で弁明します。 捕らえられて王と総督の前に引き出されたパウロは、尋問されながらも、ただイエス・キリストが救い主であること、そしてイエス様が十字架で死なれたことだけを話します。すると王と総督は、そのわずかな学問で自分を改宗させようとするのかと言うと、パウロは、自分が尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと言います。王の前で囚人が堂々と、尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと叫びます。自慢です。話が通りますか? 使徒パウロの心は、この世とまったく結びつきがなかったため、この世に何の渇望も感じていない状態だったからこそ、そのような自慢ができたのです。神と密接に結びついていて、神の美しさに夢中になっていました。天の栄光を実際に見たからこそ、総督にあのように語ったのです。「尋問されていることを除いては、すべてが私と同じであってほしい!」皆さんも私に倣っていただきたいと祝福します。渇望を感じるたびに十字架に走り、天の栄光が臨む業が何であるかを深く悟るようになりますように。イエスの御名によって祝福します。 エピローグ 渇望が起こるときは、渇望が呼び求めるものがあります。そのときは心配と腹立たしさが湧きます。しかし、神を求めるときは笑顔になります。その神秘を必ず一緒に経験しなければなりません。他のものに対する渇望を感じるときは神経を使い、エネルギーを使い、落ち着きがなくなりますが、神を見つめると喜びが湧き上がります。神を求めれば表情が変わります。だから見分けることができるのです。神を求めることを祝福します。 しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。あなたは焼き尽くすいけにえの羊を私のもとに引いて来ることもなくあなたのいけにえで私を崇めることもなかった。私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも、乳香であなたを疲れさせることもしなかった。あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなくいけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。かえって、あなたの罪で私に労苦させあなたの過ちで私を疲れさせた。(イザヤ43:22-24) イスラエルの民は神を求めました。祭りを捧げました。しかし、神は「祭りを捧げたことがない」と言われます。なぜでしょうか。 30代、40代の母親たちが集まると、塾の話をします。塾の話をしていますが、実は子供の話をしているのです。30代、40代の会社員が集まると、仮想通貨や株の話をします。仮想通貨の話をしていますが、実は金銭の話をしているのです。株の話をしていますが、金銭を呼び求めているのです。 イスラエルの民が神を呼んでいましたが、神を呼んでいたのではなく、欲求を満たそうとしていたのだと言うのです。欲求を呼び求めていたのです。それを悔い改めなければなりません。真に神の人となり、十字架に走って主と一つになる業が深く起こりますように。イエスの御名によって祝福します。 イ・アチム牧師 | 「神の御心に適うと見なされた教会」の担任牧師。次世代のために「トブ・原型学校」を運営しており、信徒たちが日常生活の中で信仰の実践を経験できるよう養育している。著書に『主が咲かせてくださるように』(トブ・ウォンヒョン出版社、2020年)、『はい、主よ。私は従順の専門家です』(トブ原型出版社、2019年)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈りの新聞。出典を明記して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com

すべての状況を変化させる能力、福音!

神様の約束と誓い(3) 自分の心を自由に統制できれば、この世に悩む人がどこにいるだろうか?神様の御言葉が正しいと思って、御言葉通り従順にしようと決心したら自然にそうなれば、牧師がなぜ必要であり、牧会が何が難しいだろうか。自分の人生を自分が任意に調節することが最も不可能なことだ。 あれほど永生を追求して努力して律法を破ったことなく最善を尽くしてきた金持ちの官員に、イエス様がお金または永生から永生を得る道は二つのうち一つを選ぶことしかないと教えてくださった。神様の永遠の祝福を享受する永遠の生命がなぜお金と比較されるのか。見えない永生より一瞬享受するお金の誘惑があまりにも強いからだ。 そのため、目に見える誘惑に勝てず、永生を目の前にしても捕まえないまま、このお金に対する愛着と情欲に引かれていくのだ。 ルカによる福音書18章に出てくる金持ちの官員は、幼い頃から律法を破ったことのない模範青年だった。その上、ユダヤ人であり、母胎信仰である彼が永生と金の中でどれを選択するのが正しいことなのか区分できないだろうか。ところが、お金が永遠でないことを明らかに知りながらも結論を出せずに滅亡の道に転じるのがあきれた人間の実状だ。 十字架の福音を聞いて信仰に背を向けさえすれば、地獄から天国に運命を変えることができる。ところが、福音をそんなに聞きながらも決断できず、一生引きずって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いのか。厳重な警備網で囲まれた休戦ラインよりさらに堅固に越えられないのがまさに自分の心の境界だ。神様を離れて敵になった私たちの心を振り返って神様に向かわせることができるのは福音しかない。救いは人としてはできないが、ただ神としてはできる神の能力だ。人間の救いと変化は絶対に人から出ることができず、神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能だ。 教会が神様の召命を忘れてしまえば、現実に追われて召命の席を離れ妥協して変質せざるを得ない。したがって、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。神様の能力が私たちにあってこそ、教会は真の神様の呼びかけの場に立つことができ、世の中を変えることができる。 生きている神様がこの世の中を祝福する唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。エペソ人への手紙1章17節から23節までは福音の栄光と能力と祝福に対してこのように話す。「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 私たちの霊が死んで神様を感じる機能が消えた。私たちが霊的に目覚めて霊の目が開かれ、私たちの心霊に霊の機能が蘇る時に神様に会うことができる。聖霊と真理が私たちのこの鈍くなって呪われた霊の機能を回復させれば、生きている神様の言葉を理解することになる。それがまさにこの祈りのようになるのだ。 「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 アーメン。(2018年9月)<継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

[イアチムコラム] 十字架で死んでイエス様のように愛しなさい

神様は私たちに、イエス様のように愛するようにと言います。どうすればイエス様のように愛することができるでしょうか?可能ですか? しかし、実際にそれほど簡単なものはありません。本当に神様に会ってみたらそうです。それが難しいと思う理由は、今まで私たちがイエス様を知らなかったからです。間違って信じたし、イエス様となんの関係がなかったからです。 イエス様に会ってみると、イエス様のように愛することほど簡単なことはありません。本当です。私たちは、どうしてそんなに愛することができるのかと言います。努力しても駄目だと言います。教会で聖徒に使役をさせるには、あらゆる機嫌を取らなければならず、牧師たちが祈りも強くしなければならないのではないですか? ヨハネ福音書(12:24、13:34~35)の言葉を聞いていると、私の心に天の栄光が臨みました。イエスは十字架を通じて私たちを愛しています。十字架を通過しなかった愛はありません。そんな愛があるなら違法です。意味がありません。十字架を通過しない愛は、自分の義が残ります。子供を愛するとき、これまでどれくらい苦労しましたか?骨が傷んでいます。財政も全部払われました。後で分かったことですが、子供が怪物でした。 イエス様のように愛しなさいという言葉は十字架で死んで愛しなさいということです。愛を先に話したのではありません。先に十字架で死ねということです。そして、愛せよということです。十字架で死ぬほど驚くべき恩恵が臨むことがどこにありますか?信仰の観点から、そのように簡単で明快で強力で、嬉しく、能力があり、新しい希望が臨むことがどこにありますか?私にはとても簡単で強力です。 十字架で死んでから子供を見ると変わります。愛になります。皆さんを見ても良く見えます。皆さんの信仰の大きさが千差万別なのにそうです。とても神秘的です。虫のような、罪人の中で怪獣のような人生だからです。以前は耐えようとしたので骨が傷みました。信仰が弱い人までは大目に見てくれます。ところが、仲間の中に悪い人がいると愛せません。その人をスプーンですくって出してほしいとさえ思いました。 十字架で死なないからです。十字架で死ぬと、すくって出す気持ちがなくなります。心が揺れ、善悪に敏感な理由は、先に愛をしようとしたからでした。自分の力で家と城を建てようとしたからです。違法です。神様の力でしなかったことであり、神様の言葉に従わなかったことでした。 愛するということは、十字架で死んで子供を見つめることです。十字架で死んでからビジネスをすることです。十字架で死んで共同体にいるのです。十字架で死んで使役するのです。十字架で死んで牧師を見ることです。十字架で死んで夫婦が見つめ合うのです。 十字架で自分が死んだので、神様が立てるものが何なのか注目することです。神様が立てるということが実際になるということは、神様がしなければならないという信仰が私たちの中で歴史することです。その恵みが深く臨むことを祝福します。このようなことが起こると、どんな驚くべきことが起こるのでしょうか? 空しいことだ。朝早く起き、夜遅く休み。苦労してパンを食べる人々よ。主は愛する者には眠りをお与えになるのだから(詩127:2) 睡眠をとります。頭をつけたらすぐいびきをかいて、横になってすぐに眠るということは、疲れていてもそうですが健康が悪いということです。神様が愛すれば眠りをくれるという話を見れば、眠りがプレゼントです。むなしく思えませんか?睡眠をくださるというのはどういう意味でしょうか? 「目上の人の言うことをよく聞くと、寝ていても餅ができる」ということわざと同じ言葉です。居眠りもせず、寝ずに働く神様の贈り物があるという意味です。牧師の言うことをよく聞くと、寝ていてもチキンができるということをトーブ円形学校の子供たちは知っています。使役チームがお祝いの歌を歌えば、良い日程ができるということを知っています。夫が妻の言うことをよく聞くと、寝ていても小遣いが上がります。 神様の言うことをよく聞くということは、自分が死んで神様だけが見えることです。神様が何かをなさるということは、寝ていても餅ができることです。愛する者たちに眠りを与えるという意味はそういう意味です。働いている神様について行きます。神様と共にする栄光を経験することを願います。それで私たちの情熱と願いではなく、神様を願うと望む信仰の渦が起きることを祝福します。餅がどんな内容なのか3節から5節まで出てきます。 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。胎の実りは報い。若い頃生んだ子どもたちは勇士の手にある矢のようだ。幸いな者、矢筒をこれらの矢で満たす男は。町の門から敵を追い払うときも/恥を受けることはない。(詩127:3~5) 子供に対して生物学的観点で祝福する言葉ではありません。生物学的関係で形成された子供を意味する言葉ではありません。十字架で私が死にました。心配事が入ってくる時に死に、希望と抱負が死に、神様だけが見える時に神様が餅をくださいます。私にお餅をくださいます。神様には私たちに与えられるお餅があるという意味です。それが私たちに向けた神様の計画と意味と考えです。神様は私たちが寝ている間にも餅ができるようにします。 私からのみできる代表的な象徴は子供です。私の娘は私たち夫婦からのみ出ています。婿は私からは出ません。血縁関係は私からだけ出ます。すなわち、生物学的観点の子供ではなく、私に向けた神様の固有の志が別にあるという意味です。神様の固有の計画があり、神様が立てればそれが明らかになるということです。それを見逃すなということです。 神様が与えたいものを受け取る信仰の人があまりいないようです。次善をもらうか、それとも次次善をもらうか、いやそれでもなくくず程度をもらうようです。神様が最初から私たちに与えたい神様の計画が私たちの人生で現れるのは、呪いの産物である苦労が作るのではなく、神様が私たちを立てる時に現れることです。 神様は私たちを通じてのみ成し遂げたいことが多いです。皆さん、何が叶いましたか?神様が私を通じて成し遂げたいことがありますが、果たして何が叶いましたか? それがこれです! と言えるその証人らしさがあちこちで響き渡ることを祝福します。それで先に苦労をするのではなく、先に努力をするのではなく、先に悲しい努力をするのではなく、私たちの心の考えとエネルギーを神様に上げ、私たちの心ではだめだから一千回死んででも、その十字架の死によって必ず神様が立てることを見てやるという信仰を使うことです。 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。(マタイによる福音書6:28) 新約に出てくるこの「労苦」という単語もヘラ語で見ると「コポス」です。「苦痛と傷を伴う熱心」です。 旧約と同じ意味です。立てる神様の手を経験することを願うと祈ることを願います。 このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。(コロサイの信徒への手紙1:27) 私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。(コリントの信徒への手紙一15:58) 神の心が私たちに入ってくるのは神秘です。神様の心が入ってくると、実際にそれがわかる証拠があります。その苦労が証拠です。「皆さん、使役をする時は大変ですか?大変じゃないですか?」普通は大変だと言います。難しいと言います。皆さんが思っている以上に私にも困難が多いです。心理的な困難、霊的な困難、貧しい人を眺める困難。 ところが、この使役に神様の心が入ってくると、ほんきになります。自分が自ら神の人であることをわかります。神様の未恵を受けたことをわかります。使役に本気になるからです。窓ガラス一つを拭いても本気でやります。本当です。交友たちに会う時も以前とは違ってきます。ある交友を抜き出したい気持ちがなくなり、神様の哀れと愛が臨むことを願う真心が苦労の中でもエネルギーを奪われず、むしろ力が補充されることを経験します。一人一人にそのような未恵が伴わなければなりません。 私たちはキリストの体だから、イエスと共に死に、藩祭壇で毎日死ななければなりません。神様の立てることを眺める神様の人ならば、この真心がすべてになるまで部分的に会うすべての使役と人生の中で働く神様を経験すると信じます。 皆さんの家族の中で誰かが過ちを犯すと心がずれますが、結局許します。なぜ間違ったのかと教えることはできますが、縁を切るとはしません。教会にその真心が入ってこなければなりません。キリストの中にいるなら、その真心は無駄ではありません。一緒に暮らし、一緒に喜ぶその栄光が教会の中でいっぱいになることをイエス様の名前で祝福します。 エピローグ 私たちは生きていくとき、労苦を手段として使います。成就するために苦労を使います。克服して防ぐ手段として使います。その労苦に比例して実を結ぶと成功だと思い、そうでないと怒ります。しかし、聖書は、労苦は手段ではなく、堕落の結果であり、呪いの産物であると述べています。それなら、苦労が先ではありません。エデンから追い出された間違いを繰り返してはいけません。神様のところに戻らなければなりません。十字架を通して! 一千回祭の祭祀を通じて! 神様のもとに帰って、神様がなさることを見て喜ぶ驚くべき恩恵がいっぱいになることをイエス様の名前で祝福します。 [福音祈祷新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

神に召された者に求められるもの、「絶対信仰」

ただ! 絶対!全部の福音!(12) アブラハム、ダビデのようにひたすら信仰、絶対信仰で福音を信じた3番目の人はパウロだ。だからといって、彼が資格があって福音を受けた人ではなかった。パウロは自ら言うには罪人の中に怪獣であり、福音に敵対した者であり、殺人した者であり、そして悪行する者だった。彼は十二使徒の仲間入りにもならない非常に邪悪な宗教的秘密警察だった。彼には世の権勢はあったが、イエス様の弟子としては全く似合わない人だった。しかし、彼は説明できない神の恵みを受けた者だった。 彼には復活した主が個人的に教えてくれたことがあったが、それで人々に認められなかった。そのため、彼は教会に手紙を書くたびに、自分は人によるものでもなく、人が立ててくれたものでもないと話す。今で言えば按手も受けられず、学校も通えず、教壇で認定を受けられなかったという話だ。ところが、神様は彼を呼んで十字架の秘密を啓示し、新約聖書の大部分をパウロの手紙で満たしてくださった。 パウロは出産の苦労で教会を建てた。しかし、割礼派のユダヤ人たちは自分の割礼を誇り、律法と系図を持ってパウロが建てた教会を揺さぶり続けた。パウロに対する彼らの攻撃はたった一つだった。パウロがそれだけの資格を備えていなかったということだった。 アブラハムとダビデ、そしてパウロの3人には共通点がある。ただ神様に呼ばれた者たちだという事実だ。このため、彼らには人々の認定や評判や利益や保障のためではなく、ただ呼ばれた神様が全てだった。 不利な条件の中でも、彼らにとって実際は生きている神だった。誰とも代えられない絶対的な信頼だった。驚くべき信念の根拠を持つ人々には、彼らに責任を負う組織や教団、権威、またはいかなる保証も彼らにとって信仰の条件にはならなかった。神様が彼らに要求されたのは絶対信仰だった。 神様は今日も私たちを呼ぶ。私たちはその方を絶対的な神として知って、主はキリストであり、生きている神の息子だと告白するその信仰に進まなければならない。誰でも神について行くためには、自分を否定し、毎日自分の十字架を背負ってこそ、神について行くことができる(ルカ9:23)。イエス様を選択するという言葉は、多くの中で一つを選ぶことではない。相対的に高い比重で誠意を持って従うということではない。絶対であり、ひたすらであるべきだ。アーメン. (2018年8月) <継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

[イアチムコラム] 信仰は心を取り出して神様に差し上げる行為

私たちは喜びようとしています。喜びを通じてのみ真の満足があり、愛することができる力が生まれるからです。神様に深く会うと、「はい、神様! 「正しいです」という部分があります。神様はいつも喜びで終わるようにします。愛も喜びに帰結します。真理です。 人生は喜びに対する根本的な渇きがあります。喜びに対する渇きを満たせない理由を、今日の言葉を通じて見ていきます。なぜ基本的に喜びが満たされないのかを見るでしょう。そして、その喜びを見つけさせます。 アダムとハワがエデンから追い出されました。エデンの意味が喜びです。それで喜びから追い出されたのです。人間は心から喜びたいという欲求があります。それでエデンに帰ろうと思います。ところで、今日のお話はエデンに火炎剣、火の刀を置いたそうです。では、どうやってそのエデンに入ることができるのでしょうか? イスラエルの民が神様の強権で出エジプトしました。民衆の力ではありませんでした。神様の力でなさったのです。神学で出エジプト記を救いの模型と言いますが、すべてが正しい言葉ではありません。 神様の恩恵でできたものなので、救いの模型は正しいですが、また完全な姿ではありません。 出エジプト記はイスラエルの民の知恵と能力によるものではありません。救われたのは事実です。しかし、彼らの体はエジプトを去りましたが、心はエジプトから離れることができませんでした。彼らの体はエジプトを脱出して荒野にいましたが、心は依然としてエジプトに戻ろうとしました。神様がどうして私たちをここに導いて私たちを滅ぼそうとするのか、愚痴を言いながらエジプトを夢見ました。それは救いではありません。 聖書は出エジプト記を通じて、出世間しろと言います。出世間は体の問題ではありません。心の部分です。心が世の中から脱出することは人為的な努力や能力ではなりません。心が出世間するには十字架でイエス様と一緒に死ななければなりません。出世間が実際になるには、私たちの心には十字架が必要です。 信仰の原語は「クレド」です。クレドは神様に心を捧げることです。使徒の告白です。使徒神経に出てくる「信じます」という単語がクレドです。心臓を取り出して差し上げるという意味です。心を差し上げることが信仰です。私たちは信仰で救われます。心を差し上げたからこそ救われるのです。 それなら誰でも信仰を測定することができます。心がどこに行っているのか、心に何を盛り込んでいて、何を込めようと努力しているのかを見れば、信仰があるかどうかが分かります。救いは体だけ出るのではなく、心を神に置くことです。それが信仰です。 マタイ福音書8章、マタイ福音書4章、ヌガー福音書8章を見れば、海と風を静めたイエス様が出てきます。ヨハネ福音書の6章は少し違う背景があります。イエス様が急いで弟子たちを呼び集めた後、海の向こうに行こうとおっしゃいます。おっしゃってくだされば叶います。 導きを受ける時、詩編23編のイメージで慈しみ深くて能力のある神様が先頭に立って、羊たちがついて行く導きの風景だけを思い浮かべるならば、欲に倒れるかも知りません。信仰が腐ります。導きはただイエス様についていくことです。 いつでもどこでも、どんな環境でも! その方がご主人ならそうです。 神様についていくと、狂風が吹きました。嵐が起きました。神様の導きを受けたが、人生はめちゃくちゃになったという話です。 私たちは僕であり、主は主人なのでついて行ったが、人生が不渡りになったということです。時限付きの人生になったのです。神様について行ったら人生がこじれたのです。狂風、嵐です。神様について行ったのですが、風浪が起こりました。その時にも私たちは、神様!とできるでしょうか? カギは心です。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。(マルコによる福音書/ 04章 38節) 信者が困難なことが起きた時、神様を呼ぶのは良い態度です。講壇で、人生が大変で苦しい時に生きている神様のところに行かなければならないと言いませんか? 「主よ、私の面倒を見ないで何をされているのですか? 神様が守ってくださらないと、私は立つことができません!」 信仰の告白に全く欠点がないように見えます。神様に行って神様を起こしました。熱心にしました。 「主よ、聞きなさい! 主が面倒を見なければ私たちは滅びます。明日はめちゃくちゃになります。神様!」このような信仰が信仰ではないと言ったら、どれほど荒唐無稽でしょうか? 私が不足していることは知っています。ところが、私は主の前に真心がありました。ところが、神様が私のことを全く知らないとおっしゃいました。私の信仰を全く認めてくれませんでした。幽霊が去って、治癒使役もして、数千人の前でみ言葉を宣布すれば、信者たちが悔い改めました。 それでも神様は私のことを知らないと言いました。不法を行う者たちよ、立ち去れ、言われました。神様が知らないとおっしゃると、すぐに思い浮かぶのが地獄です。存在的に地獄を感じると膝がただ折れます。考えが止まります。 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。。(マルコによる福音書/ 04章 39節) 神様がおっしゃればその通りになります。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコによる福音書/ 04章 40節) 神様はその状況を恐れる弟子たちを叱っています。家がふらついて、子どもたちがふらついて、戦争や地震が起きると心は恐れます。ところが、主は叱ります。信仰がないとおっしゃいます。 この困難な時期に礼拝いたします。心を集めるのに努めます。人生にもつれたものが多いのですが、それでも整頓して整頓して礼拝します。それなら、神様、それをちょっと知っていただけませんか? ところが、主はその困難な時に主を起こしてそのように話したことを信仰がない言います。なぜそうされたのでしょうか? 私は存在的に悟ります。 信仰とは心を取り出して神様に差し上げることです。出エジプトしたイスラエルの民の心はエジプトに行っていました。神様を起こした弟子たちの心は、神様にあるのではなく、問題解決にありました。 実際、彼らが切実に叫んだようですが、心がこもっていたのは風浪が静まることでした。 それは信仰ではないと主がおっしゃったことです。それが信仰だとすれば、私たちは自分自身の信念を測定することができます。これを測定できなければ、必ず正しい思考、誰もが良いと言うその仕事をしようとするが、実は信仰のない人生になるのです。 [福音祈祷新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

神様の手に自分を任せた絶対信仰の人「ダビデ」

ただ! 絶対!全部の福音!(11) ダビデはサウルが失敗した王国を受け継いだ。そして、狂った王の嫉妬でその王が死ぬまでずっと追跡され、血のにじむ荒野の逃亡者として生きた。牧童出身の逃亡者に年齢まで幼い、指導者の資格とはかけ離れた人だった。政治的な経験や軍人として経験がなく、国を経営できる人間的な背景、条件や資格が全くなかった人だった。 ダビデの生涯を語ることができる特徴の一つがあるとすれば、それは絶対信頼だった。 全く資格がなかった人 末の息子に生まれてあまり大事にされずに、両親と兄弟たちにもそっぽを向かれていた「大したことのない少年」、「ダビデ」。荒野で数匹の羊を飼っていたベツレヘムの牧童だった彼の人生は、ロマンチックな状況ではなかった。熊とライオンが出没する死の危険があるところに末っ子を置くのが家の雰囲気だった。彼の子供時代はベツレヘムの荒野で天地に一人だったが、憂鬱だったり悪いことに陥らなかった。自分だけを見ている子羊たちの世話をしながら、牧童として神様が彼の人生にどれほど絶対的な方なのか、詩編23編を通じて霊的な歌を美しく表現した。 主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩23:1) ダビデの人生に絶対的な一人、主 私の羊飼いであるエホバは、羊にとって「ただ」であり、「絶対」であった。 「絶対に!ただ!あの方しか! そして、その方で十分だった」 詩篇23編は、彼の信仰の告白だった。羊は自ら自分を保護したり、自ら人生を開拓する能力がない。牧童がなければ全く存在できない動物が羊だ。羊の世話をする小さな牧童として暮らしながら、ダビデは頼ることが何もない孤独な荒野で神を牧者と表現した。 詩編23編の歌を歌えるだろうか? このような歌を歌う信仰を「絶対信仰」という。 私の羊飼いの主なら十分だった ダビデは転んだ時さえ他の道を探さなかった。殴られても母親の胸に駆けつける子供のように、犯罪して倒れた後も彼がただ捕まえる神様しかいなかった。神様の許ししかなかった。 「主の手に渡る方がもっと残酷であっても、人の手に私を任せないでください。 神様、私を殴っても神様の手に私を任せます。私は神様が去ったら生きていけません。」 彼は生涯彼と共にする主の栄光を見た。神様なら十分だった。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

アブラハムの最後のテスト… イサク事件の意味

ただ! 絶対! すべての福音! (10) アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。( ローマ 4:23~25) 十字架の福音は、その方が私のために死んだという言葉を90%信じてはならず、その方の死は私のための死であり、私の死と同じだということを信じろということだ。これはこのような事実に対する確信が私にとって「ただ!絶対!全部!」にならなければならないことを意味する。ところが私たちは知識的には同意しながら生きる姿は全く十字架の死と何の関係もなく生き、依然として自身が主体になって「ただ私、私、私」、「ただ、絶対、全ては私だ」このような人生を変えていない。そのように神学の知識だけが積もり続け、体験は増え続けて悩みはするが、それは常に自分を全て出して任せた対象は「私」であり「真理」ではなかった。 アブラハムの一生で「ひたすら信仰」を除いては話すことができない。「信仰が弱くならず、絶対に信じた」と聖書は述べている。もちろん、途中で揺れる時もあった。サラも揺れ、アブラハムも揺れ、ハガルという小間使いでイスマエルを産んだりもした。だが、彼が神を信じる信仰が全てだったことを表わした最後の試験があった。アブラハムに残された信仰がどんな信仰だったのかを歴史が注目するように神様が刻んだ美しい事件記録がある。 アブラハムがイサクを捧げた事件を紹介した創世記22章は、一人の人間の内面を表現するのにこれ以上の表現がないと考えられる言葉だ。イサクはアブラハムが100歳で産んだ息子だった。約束の息子であるイサクは、自分の存在の未来がかかっていた。ところが、イサクを与えた神様が目に入れても痛くない子供を何の説明もなしに「君の愛する一人息子のイサクを私が指示する地、モーリア山で私に供え物として捧げろ」とおっしゃる。常識と経験では受け入れがたいことだった。これはすべてを超える試験だった。神様を絶対に信じて絶対に信頼する信仰でなければ、死んでも到達できない試験だった。 その時、神様が試験に応じるアブラハムの中心で全てになった信仰を見られた。子供を殺そうと刀を持つアブラハムにこのようにおっしゃった。 「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」」(創22:12) アブラハムのこの信仰がただであり、全てであり、絶対だったのだ。歴史に現れた神様が感動した場面だ。愛する一人息子を惜しまなかったアブラハムの信仰だった。 神様はアブラハムの従順に感激し、イサクを捧げたその場を聖殿の場所に決定される。 後にエルサレムの聖殿がそこに建てられる。神様の心がそのまま注がれている所。 神様が感動を受けた所。神様が自分の「全て」になって「ただ」になって「絶対」になるよう神様が呼び出した信仰の人、私たちが今日のアブラハムにならなければならない。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org