絶望の中で十字架をいだいたジョン宣教師(ヘブロン宣教大学)
– 神様をいつ出会いましたか。
たぶんびっくりすると思います。神様の摂理だと言えるしかないので…。2000年7月1日。高校3年生だった娘が私に叱られてマンションから飛び降りました。その時まで私はお母さんが寺で祈って生まれた存在であって、仏教と運命を共にして生きていました。
高校と大学の時にも仏教に熱心でした。しかし天が崩れそうな絶望を経験しながら仏教を拒否する気持ちになりました。娘が通っていた教会で葬式をしてもらったこともあって、またお母さんに隠れて教会に通っていた妻もショックが大きくて私も教会に通うようになりました。しかし教会の牧師の説教は私一人のためにだと思われました。絶望の中だったので説教のひとつひとつが私の心にしみました。そのようにして私たち夫婦は導かれました。
– その後はどうなさいましたか。
3年ほど日曜日の礼拝と聖書クラスで養育をうけました。そして2003年の秋には信仰訓練に参加しました。その集会に参加して2週目になった時に子供たちに手紙を書く時間がありました。教会の建築現場で息子を失ったある牧師の手紙を聞いてとても衝撃をうけました。私は残っている二人の娘には手紙を書いたが、死んだ娘には書いたことがなかったです。’これはなんだろう?‘と思いました。私は娘のために手紙一枚も書けないものなのに、あの牧師は死んだ息子のためにあんな手紙を書くなんて!私は何者なのか。
その時から主は働きました。次の週までも手紙を書けなかったですが、ある日片隅で祈りながら手紙を書き始めました。手紙を書いて集会が始まって賛美を流れました。‘あなたは愛されるために生まれた人’だという賛美でした。主が私に聞かせてくださるようでした。娘を失った資格のない父。そんな私に愛されるために生まれたと言ってくださるようで涙が止まりませんでした。5週間の集会が終わって証をしました。
絶望の時間
– 実在になってないというのはどんな意味ですか。
ある日は証を言ってお家に帰ってきたが、妻からうるさくいろいろ言われました。私は何か自分が変わったと思っていてお家に着いたが、そのことを聞いて娘にしたのと同じ怒りを発して足で妻を蹴りました。一時間前には主に賛美していたのに、同じ口で怒って妻を足で蹴る自分を見て驚愕しました。自分に対しての絶望感が寄せてきました。
それだけではなかったです。私は高校で英語教師として働いていましたが、主を信じてからは学校でクリスチャン教師として務まました。クラブ活動のキリスト教クラブを担当していました。そのクラブは4人から始まって100人くらいの学生たちが集まりました。クラブ活動を通して賛美祭も開きました。多くの方たちが支援してくれました。
以前は入試構造上勉強ができる学生たちのために授業をしていたが、私が絶望してみると絶望の中にいる子供たちが目に入りました。イエス様の愛をもって行ったが、学校でも自分の限界が現れました。
– 何かありましたか。
子供たちを叩かない先生だと知ると生徒たちから軽く見られます。6か月間怒らないでいましたが、二人の生徒を叱りました。その中の一人の生徒から電話をもらいました。その生徒が病院にいるとのことでした。その電話をうけて深い絶望に陥りました。私は怒りで娘を失った資格のない父なのに、その怒りで生徒に骨折をさせた資格のない先生だったのです。
主にひれ伏して祈りました。そして辞表を出そうと思いました。その時主が言いました。‘あなたは授業の前に子供たちの前で祈ることができるのか?’でした。それは私が一番嫌がることでした。クリスチャン学校でもなく公立学校でありえないことでした。しかしその次の年の学期に子供たちに伺いました。‘私はあなたたちを怒りをもってではなく、祝福したい。同意いない人は手をあげてね。’ 学期の初めだったので誰も手をあげません。それで入るクラスごとに同じことを聞いて祈り始めました。それが10年になります。
子供たちを祝福して
– 反発もあったと思いますが。。
親からの電話はありました。仏教信者だという方が抗議して校長室へ呼ばれました。無理にすると逆に主に迷惑になると思ってしばらくやめようと思いましたが、生徒たちが要請してきました。生徒たちは愛の言葉、祝福の言葉が必要でした。それでまたも始めました。しかし主がそのように導いてくださっていても、私は変わらなかったです。いろんなことを通して自分の変わらない自我を発見して苦しみました。
– .絶望の中でも福音を諦めなかった理由は何ですか。
み言葉を成し遂げる主を見たからです。ヨルダンにアウトリーチに行ったことがあります。その時にみ言葉のままに成し遂げてくださる主を生々しく経験しました。驚きました。しかし帰ってきたから時間がたつと、またもみ言葉から離れて苦しくなりました。そうなるとまた信仰訓練集会に参加しました。
2015年2月に名誉退職をして6か月の訓練集会に参加しました。私は次女から打ち切られた状態でした。結局は自分のせいです。その集会で福音の栄光を感じてキリストだけにささげる人生を得たと結論だしたが、またも時間がたつと乏しくなりました。福音は一人だけでは生きていけなかったです。
主が主人になる人生へ
– 本当に長い絶望の時間でしたね。
はい。再び宣教学校の訓練生になりました。今度こそは一つずつ確認しながら、心の中で実際に信仰への同意が起こりました。そしてヘブロン宣教大学の広告を見た時、この学校に参加したくなりました。
– 大学で英語を教えていますか。
いいえ。私に任されたのは英語ではなかったです。私はずっと英語教師をしていてそれしかできないと思っていましたが、運転手として仕えています。未来の宣教師たちのために行うことなので、感謝でうれしいです。
主の夢と希望を抱くことが恵みです。
– いま語っておられる主に会っていますか。
アーメン。毎朝黙想の中で、み言葉とお祈りの中で、人生の中で主に出会います。そして知識の同意を超えて、‘この世代の世界福音化’を望んでいます。自分だけを見つめて走ってきた自我から抜けて、神様の夢、希望を見つめるようにしてくださって本当に感謝です。自分のために祈ることも知らないで、百年の生きられない私のようなもののために天地を作ってくださった神様の夢を知ってとてもうれしいです。
– 怒る自分に対してはどんな結論を出しましたか。
怒りによって娘を失ったことより大きな代価がどこにあるでしょうか。そしてそんな私のために、主は息子を十字架にかけました。現実は変わらないです。怒るべき理由はいつもあります。しかし以前とは同じ状況になっても死んだ者のようにいるつもりです。ダビデがサウルの投げたやりに出会ってもそれを避けて自分の道を歩んだように、私もその道を歩みます。私のほうはもっとひどい人だったのです。
– 最後にお祈りの課題を教えてください。
イエス様が来られることを待ち望む新婦として生きたいです。この世代に世界福音化が鳴り遂げられることを願います。いまでも次女とは断絶されていますが、関係が回復されて一緒に礼拝をささげるようになりたいです。
[GNPNEWS]