エニシダの木の下(2)
存在的な罪人の実状が歴史の中で十分に現れたアハブの時代は、神様の特別な僕であるエリヤでも落胆させるくらいに絶望的だった。エニシダの木の下に座り込んで命を取られることを願ったエリヤ、気力を回復してから到ったホレブ山の洞窟の中でも彼は相変わらず落胆に陥っている。
“わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。(王上19:10)
罪を犯したのでもなく、間違ったのでもない、ただ神様のお召しに従順しただけなのに悪はより盛んでいくばかりで、どこを見ても神様の民は見えないで、エリヤ一人だけが残されたような状況。もう何もできることがない状況。落胆と恐怖でいっぱいなエリヤに神が来られた。そして言われる。
“行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。”(王上19:15~16)
主が背けて、振り向いてくださらなければ、私たちも寂しがって、エニシダの木の下に座り込んで、ホレブ山の洞窟の中に隠れて絶望するしかないのだ。しかし、主は無力で恐怖に襲われてビジョンもなくした一人に訪ねられて言われる。これが福音なのだ!だから、どんなにひどく寂しい時だろうが、こぼれた水みたいに自分をもうどうにもできない状況だろうが、何の希望も言えない状況だろうが、忘れてはいけないのは主が訪れてくださるという事実であるのだ。
犯罪を犯して恐ろしさと恥ずかしさで隠れていた悲惨な罪人アダム、彼が隠れていた所は醜い罪悪と暗闇の場所であり、裏切りの場所だった。しかし、そんなアダムにも主は会いに行かれた。そして、彼に尋ねられた。“アダムよ、どこにいるのか?”
復活された主が再び会いに行かれた。ティベリアス湖、そこには裏切った弟子たちが夜が明けるまで何も取れない釣りをしていた。彼らには十字架は衝撃そのものだった。衝撃の大きさのあまりに彼らは主が何回も予告された復活のメッセージをすっかり忘れてしまって、以前の生活に戻っていた。どころで主はそんな弟子に会いに行かれた。
求める事も、呼ぶ事も、期待する事もできない所でも、主は会いに行かれるのだ!神様の栄光のために創造された方が、たとえ地の果てにいるとしても見つけ出される。(イザヤ43:5~7)
ヨハネの黙示録の七つの教会は失敗と妥協で霊的に痛んで恐れていたが、金の燭台の間を歩く主は彼らの都合と置かれた状況をすべて存じていた。私たちはキリストの中にいる教会である。主ほどに‘教会’である私たちを存じている方はいない。主は必ず教会を回復させて、勝利の道に導いてくださるだろう。
私は今どこにいるのか?もしかして、いてはならない場所にいるのならば、間違っている道を歩いているのならば、離れるのだ!恐怖、ビジョンをなくした不信仰の場所から離れるのだ。
押さえつける恐怖に心を許したのか?福音を運命として受けたが信仰の場所からこっそり引いて、信仰の挑戦は諦めて、隠れて、適当に平凡な姿で洞窟の中に隠れているのか?エホバの御前に立って!そして道を取り戻すのだ!
<続く> [福音祈祷新聞]
キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。 LOGミッション代表)