“二人はまた声をあげて泣いた。 オルバはやがてしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。”(ルツ1:14)
ナオミと二人の嫁が激しく泣いている。ただこの三人だけのことなのか? 人類の歴史の中で人の嘆きが止んだ時があっただろうか? 姑と二人の嫁、彼女たちは皆結婚の経験を持っている。 幸せを夢見ていたとも言えるだろう。 幸せというのは、 人ならば誰もが持つ存在的な渇きである。 しかし、幸せは‘絶対’叶わない夢である。 もし、 叶うとしても人間というのは存在的に満ち足りない渇きを持っているので、 幸せは蜃気楼なもののようである。 やもめ三人の嘆きは彼女たちだけの嘆きではない。 神様から離れたすべての人の嘆きであるのだ。
三人のやもめは信じられない、 決して信じてはならないのを信じていた。 それは死んだ夫であった。 人は創られる時から依存的な存在であるから頼る相手を探す。 その相手は様々である。 しかし人は決して頼るものではない。 幸せは絶対人から出てくるものではない。人は人を満足させることができない。 満足というのは永遠であって、 全能な創造主である神様にだけある。
主が言われたい福音
一時ベツレヘムで偉かったナオミは、 今は折れた枝、 乾いた川と違いない。 二人の嫁も同じである。 三人のやもめに残されたのは何もない。 彼女たちの話がここで終わりであるならあまりにも悲しい。もし、 このようなドラマを見ていてこんな結末であるなら、 むしろ見ないほうがよろしかった。ところで三人のやもめのように泣き喚いている人に主は自信満々にルツの話をだ出してくださるのだ。 なぜならば主は回答がお持ちであるからだ。 私たちには破綻して、何もかもがお終わりになったその場で、主には言われたい福音がある。
夜が暗ければ暗いほど星は輝くと言ったのか? 志士時代の真ん中ででも福音は一層輝いた。泣いていた二人の嫁の中でオルバは結局自分の神のところに戻った。しかし同じモアブ人だったルツから予期せぬ告白が出て来た。
“ルツは言った。 「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを强いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。(ルツ1:16)
これが単なる人倫で、 人間の意志から出て来られる告白であるのか? いくら肯定の力、積極的な考え方を使うとしても話にならないこと。イスラエルの中でもこのような信仰は見つけられなかった志士時代、一体異邦人のルツは何を見て、何を聞いたのだろうか?
ルツの姑ナオミは目に見えるすべてをなくされて滅びた。 自分に民族に戻ったオルバも見た。しかし、オルバは目に見えるものだけを見た。 彼女の目に見えた姑はただ哀れな女に過ぎなかった。
ところでルツは目に見えるものがすべて無くなったその時に目に見えない実体を見た。たとえナオミは悲惨にすべてを無くして滅びたがエホバの信仰と約束は相変わらずだった。ナオミの信仰が全うでなくても、 真理そのものは永遠に完全である。 どこからでも見つけられない人生の道と、真理と生命が生きておられる神様の約束にある。 誤って選択したその道で、もっとひどい凶年にあって完全に失敗した女みたいに残されても、世の中の誰も持てられない神様の約束を彼女は持っていた。福音であった。
いつでも会って体験できる福音の栄光と能力と祝福、目に見えるすべてがなくなっても依然として捕らえられる目に見えない希望、命をかける福音があなたにはあるのか? 価値を持たせなくても真理は真理であるばかりだ。
(2016.4 メッセージ整理) <続く> [GNPNEWS]