[チェ·ヨナコラム] 遅すぎますか?

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音戦争13

モーセは自分の情熱に圧倒されて人を殺し、メディアンの荒野に逃げる。モーセは自分を殺そうとするバロの顔を避けて逃げたが、彼の内面で鳴った心の声は「神様の顔」を避けて逃げたのではないかと思う。エジプトの王子から人を殺した殺人者として逃げたモーセは、本当に一夜にして天国と地獄を経験した人になった。

“モーセは自分の両親や家族をどれだけ恋しがって過ごしたのだろう?”

“モーセがいかに自分がした過去の間違った行動に対して、後々後悔し胸を痛めたか”

“モーセは神様が自分を捨てたと思わなかったのだろうか”

このようにモーセは荒野で日々羊の群れをなして、平凡な遊牧民の人生を生きていくことになる。

“彼を覚えている人は誰もいない!”

“彼がかつてエジプトの王子だったことを知っている人は誰もいない!”

“彼がエジプトのあらゆる学問や行事に長けたことを知っている人は誰もいない!”

“誰も彼に興味を持っていない!”

“ところでこれはどういうことだ?”

ただ一日一日羊の群れをなして生きていた彼に、神様は40年ぶりに訪れた!

さて、モーセはそのしゅうと、ミデヤンの祭司エトロの羊の群れを飼う者となった。そして、群れを荒れ野の奥に導いて、神の山ホレブに来た。すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。(出エジプト記3:1-2)

しまった!

”神様がモーセをあまりにも遅く訪ねてきたという気がしないか?”

”神様がモーセの年齢をしばらく勘違いしたのではないだろうか?”

神様は情熱が充満し、活気があふれて使命感で充満だったモーセの40歳の時に呼ばれなかった。むしろ、ミディアンの地で義父のイドロの羊の群れを面倒見ているモーセの80歳の時に呼ばれた。神様の贈り物と召しには変わることがないので、神様は神様の時に神様の方法で神様の仕事をされる方だ。

それで私たちは望む時と方法と結果が自分の思い通りに出ない時、道を失ったり、失望と当惑に埋没したりもする。しかし、重要なのはモーセが過ぎ去った苦難の歳月ではない!モーセが犯した犯罪と隠蔽、そして逃亡者の人生を生きてきた彼の人生でもない! 本当に重要なことは、モーセを通じて神様はアブラハムとイサクとヤコブに行った、その信実な言約を成すその方の善良さと偉大さにあるのだ!自分が置かれた状況と環境がどうであれ、自分が犯した過ちと過去がどれほど暗くて汚くて醜悪であれ、それは私には問題になるが、その方の呼びかけと働きは私たちのすべての不足を包み込むのに十分だ!

”道に迷ったとしても”

”その方との初恋と声を逃がして生きていたとしても”

”使役に縛られ、祈りと御言葉の紐を緩めたとしても”

”過去の誤った血気と過ちによって自分の人生をあきらめたとしても”

”自分自身が許されず、今も悩み苦しむとしても”

”お父さんはやって来るんだ!!”

そして、言葉に出来ないほどの愛と容認で私を再び受け入れてくださる。なぜなら、私が持っている暗さと汚さと反逆さより、父親の心臓から噴き出る光と愛と容認することは、そのすべてを抱いても残ることがあるからだ。

「愛する息子よ! 娘!まだ間に合う。なぜなら、あなたに向けた私の時間割は完全だからだ!」 [福音祈祷新聞]

チェ·ヨナ宣教師|総神大神学大学院卒。 国際オーエムイスラエル所属。 CCCとYWAM礼拝の導者とリーダとして使役。著書「君が私の栄光を踏みにじった」(奎章刊、2020)に続き、最近これまで私たちが逃して生きてきた「神様の声」を渇望する気持ちで2023年11月<音戦争(伏せ出版社)>を出版した。

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