神様の約束と誓い(1)
暗くて乾いた荒野のような過程を迎える時、自分の力を頼りにして生きてきた人々にその瞬間は死に追い込む絶望の時間にならざるをえない。しかし、福音を持った人々には危機と絶望のその時こそ、生きている神様に出会える最も貴重な機会になる。
韓国教会は大きな祝福と成長で走ってきたが、内外で大きな危機に直面している。内部的に自ら霊的診断をすることもなく、教会は力を失った。外部から教会のことを心配してくれるほどだ。積もった力があり福音の能力で自ら自浄できるとすれば何を心配するだろうか?しかし、自ら自浄する能力が見えない。その上、生気が去った私たちの人生の現場は、あまりにも多くの罪悪と恥ずかしい実状でいっぱいだ。
歴史上、絶望の時、神様はご自分の僕を立てられた。まさに生きている神様が会ってくれる方法で。エスゲルがそのように神様に出会い、イザヤがそのように神様に出会った。ローマの強力な圧制の下、希望が見えなかった初代教会、狼の群れの中で食われる羊のように、バッモ島に配流された最後の使徒、ヨハネに生きている神様は直接現れて、彼に話してくださった。このように私たちの人生も神様が実際に会ってくれなければならず、神様がおっしゃってくれなければならない。
韓国教会が新しくなる最初の道は、生きている神様の言葉に出会うことだ。 今や教会は、華麗な理論と方法、私たちの関心を奪っていった数多くのものから目を覚ます時になった。それはまさに教会の真の主人であり、教会を建てた生きている神様の呼び方を記憶することだ。神様が教会をどんな存在で、何のために呼んだのかを非常に明確にしなければならない。教会は死んだ伝統や教権勢力による集団ではない。人間文明の産物である宗教ではない。教会は生きている神様の意思とその召命の中でイエス·キリストを通じて建てられた生命共同体だ。真理が生命になって現れた愛、それがまさに教会だ。
主はこう言われる。十字路に立って、眺めよ。古くからの通り道に尋ねてみよ。「幸いの道はどこにあるのか」と。その道を歩み、あなたがたの魂に安らぎを見いだせ。しかし、彼らは言った 「私たちは歩まない」と。。(:エレミヤ書6:16)
危機の前に立った時、立ち止まって神様の呼びかけに私たちの焦点が正確に合ったのか確認しなければならない。神様のお呼びを完全に理解したのか、妥協したり変質したりはしなかったのか、神様が保障してくれた心強い基礎の上に立っているのかを調べなければならない。
神様は砂の上に家を建てないようにとおっしゃった。 福音を聞いても福音を行わない者は、あたかも砂の上に家を建てる者と同じだ。立てる時は素敵でもっともらしいが、嵐などの危機に会えば、その基礎が明らかになって崩れが激しいということだ。それで確認してみなければならない。どこに立っているのか? (2018年9月)<続き> [福音祈祷新聞]
キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表)
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