私に向けられた愛が主に向けられる

Date

2024-11-11

愛すればその相手を見たくて会いたくなる。会うためにかかる代価が疲れもせず、惜しくも感じないのは、愛というエネルギーのためである。生まれ変わった後、自分自身を神様に捧げたならば、今度は愛すべき対象が私ではなく主になる。私を愛していたエネルギーが主に向けられるのである。

コリント人への手紙第一16章22節には「もし誰でも主を愛していないなら、その者は呪われるべきである。主よ、来てください」と書かれている。主を愛していないならば、必ず自己愛と世の愛に陥り、罪を愛して滅びるということである。しかし、イエスの命によって変化を経験したならば、私たちは真理以外のものを愛さなくなる。真理の中で真の自由を味わい、真理の中を歩むこと、これが私たちの魂の本性と一致する。こうして私たちの中に完全な存在の変化が起こり、私たちの価値観が変わる。この価値観の変化は地に属していた基準が天の基準に変わり、私中心の視点がイエス中心の視点に変わり、不義と偽りを好んでいた人が真理と共に喜び、自分の利益だけを求めていた者が他人の利益を求める者に変わるのである。どのような価値観を持っているかによって、私たちが喜ぶことや悲しむことは異なってくる。生きた命の信仰が私たちの価値観まで変えるとき、生きた信仰と生きた希望と生きた愛が、信仰の働きと愛の労苦と希望の忍耐が、私たちの人生を疲れさせることなく導いていくのである。

福音が私たちと教会をこのように新しくすることができる。福音に出会い、生まれ変わった命により、人生の主が「私」から「主」に変わるならば、その人は愛する対象が変わり、真理を愛する人になる。したがって信仰と信仰告白をしながらも、人生が全く従わない人は価値観が変わっていない。価値観が変わらないまま役職だけが上がり、神学の知識だけが積まれると、怪物のような教会員になるのである。

C.T.スタッドの告白のように「もしイエス・キリストが本当に生きておられる神であり、彼が私たちのような罪人のために死なれたのが事実ならば、私たちが彼のために捧げるどのような犠牲も決して大きいとは言えない。」当然のことである。このような私を救おうとご自分の唯一の御子を捧げてくださった神様の愛を、人の知恵でどう理解できるだろうか。人間の力で受け入れられるものではない。この言葉を正しく理解したならば、私たちの人生がひっくり返らないのが不思議なことである。神が私のような罪人を愛し、愛し、救う他の道がなかったので私のために十字架で死なれたという言葉ほど感動的なストーリーがどこにあるだろうか。

これがまさにキリスト教が語る福音である。その中心には十字架のその驚くべき愛がある。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことにより、神が私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのである」(ローマ5:8) アーメン。(2018年9月) <続く> [福音祈り新聞]

金容儀(巡回宣教師、LOGミッション代表)

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