審判の時代を生きる信仰 (1)
初代教会時代である紀元63年頃、ネロ皇帝はローマ市の半分を焼き払った後、その火災の原因をキリスト教徒に押し付けた。このような中傷により、当時のキリスト教徒たちはローマ市民から公敵のように憎まれる存在となった。
映画『使徒パウロ』の背景がまさにこの時期である。ローマ人たちは生きている人々に油をかけて火を放ち、円形競技場で獣に襲わせた。不道徳で残酷な刺激に染まったローマの貴族や市民たちは、幼子や男女の信徒を殺害する恐ろしい場面を見て楽しんだ。
この混乱の中で、ローマを捨てて逃げるべきか、それとも死の直前にいる信徒たちのために残るべきか、パウロは悩んだ。パウロと信徒たちは牢獄に閉じ込められていた。死に直面した恐怖と不安の中で、イザヤ書53章にある「屠られる羊」のように扱われ、死の前にさらされていた。毎日のように死の知らせが続いた。「誰がここで信仰を守り、この苦難の中で生き延びるのか。」切迫した時であった。恐怖に震えていたキリスト教徒たちは、使徒行伝を書いたルカを牢にいるパウロのもとへ送った。「このような時、イエス様はどのようになさったのか。」パウロを通して神様の言葉を聞きたかったからである。神様が許してくださるその瞬間に最も必要だったのは、一食のご飯ではなかった。一時的に苦難を免れることを願うのでもなかった。神様の言葉が最も必要だったのである。
韓国教会に危機という言葉が登場して久しい。今、私たちに必要なのは何だろうか。ヨハネの黙示録3章に出てくる初代教会七つの教会のうち、ラオデキア教会は外見は無難で洗練されているように見えたが、霊的には深刻な危機に陥っていた。ローマ時代の苛酷な状況よりもはるかに深刻な霊的危機に直面していたのである。今日の私たちにも主はラオデキア教会と同じように「あなたの目に眼薬を買って塗りなさい」とおっしゃる。また、主を心の戸外に追いやったまま「あなたの霊がどれほど枯れているか、どれほど深い病にかかっているか、どれほど希望がないかを見なさい」と警告された。状況が厳しくなるとそれを本当の危機として恐れるが、肝心の神様を恐れないのが現代教会の姿である。
神様の前に生きていた人々が危機の時に命綱のように掴んだのは、まさに神様の言葉であった。死刑執行を待ちながら投獄されているパウロに求めたのも、まさに神様の言葉であった。
韓国教会と韓国はどこへ向かっているのか。私たちの次世代はどうすればいいのか。切に祈る私たちに、他の何が慰めとなるだろうか。ただ主だけが慰めである。主だけが私たちの希望である。パウロに神様の言葉を求めた彼らのように、私たちの霊も主の言葉があれば十分である。主の言葉が結論である。
(2018年11月)<続く> [福音祈祷新聞]
キムヨンイ宣教師 | 巡回宣教師、LOGミッション代表。元巡回宣教団代表
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