ただ! 絶対! すべての福音! (10)
アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。( ローマ 4:23~25)
十字架の福音は、その方が私のために死んだという言葉を90%信じてはならず、その方の死は私のための死であり、私の死と同じだということを信じろということだ。これはこのような事実に対する確信が私にとって「ただ!絶対!全部!」にならなければならないことを意味する。ところが私たちは知識的には同意しながら生きる姿は全く十字架の死と何の関係もなく生き、依然として自身が主体になって「ただ私、私、私」、「ただ、絶対、全ては私だ」このような人生を変えていない。そのように神学の知識だけが積もり続け、体験は増え続けて悩みはするが、それは常に自分を全て出して任せた対象は「私」であり「真理」ではなかった。
アブラハムの一生で「ひたすら信仰」を除いては話すことができない。「信仰が弱くならず、絶対に信じた」と聖書は述べている。もちろん、途中で揺れる時もあった。サラも揺れ、アブラハムも揺れ、ハガルという小間使いでイスマエルを産んだりもした。だが、彼が神を信じる信仰が全てだったことを表わした最後の試験があった。アブラハムに残された信仰がどんな信仰だったのかを歴史が注目するように神様が刻んだ美しい事件記録がある。
アブラハムがイサクを捧げた事件を紹介した創世記22章は、一人の人間の内面を表現するのにこれ以上の表現がないと考えられる言葉だ。イサクはアブラハムが100歳で産んだ息子だった。約束の息子であるイサクは、自分の存在の未来がかかっていた。ところが、イサクを与えた神様が目に入れても痛くない子供を何の説明もなしに「君の愛する一人息子のイサクを私が指示する地、モーリア山で私に供え物として捧げろ」とおっしゃる。常識と経験では受け入れがたいことだった。これはすべてを超える試験だった。神様を絶対に信じて絶対に信頼する信仰でなければ、死んでも到達できない試験だった。
その時、神様が試験に応じるアブラハムの中心で全てになった信仰を見られた。子供を殺そうと刀を持つアブラハムにこのようにおっしゃった。 「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」」(創22:12)
アブラハムのこの信仰がただであり、全てであり、絶対だったのだ。歴史に現れた神様が感動した場面だ。愛する一人息子を惜しまなかったアブラハムの信仰だった。
神様はアブラハムの従順に感激し、イサクを捧げたその場を聖殿の場所に決定される。 後にエルサレムの聖殿がそこに建てられる。神様の心がそのまま注がれている所。 神様が感動を受けた所。神様が自分の「全て」になって「ただ」になって「絶対」になるよう神様が呼び出した信仰の人、私たちが今日のアブラハムにならなければならない。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞]
キム·ヨンイ
(巡回宣教師、LOGミッション代表)
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