神様の国が臨む最も大きな秘密··· 私の中にいらっしゃるキリスト

ただ! 絶対!全部の福音!(13) アブラハム、ダビデ、パウロ。彼らには生きておられる神様の御言葉が絶対基準だった。ヨシュア1章7~9節のお言葉を見れば「右にも左にもそれてはならない」、「ただあなたは私のお言葉を昼夜を問わず黙想し、そのお言葉が記録した通りに行いなさい」、「この律法の書を口から離さず、昼も夜もこれを唱え、書かれているすべてのことを守り行いなさい。」と話された。これは生きておられる神様の御言葉を真理として受け止めたら’絶対’、「ただその通りに」が態度でなければ主の言葉に接することはできないということだ。 申命記 6章5節のことだ。 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」そして”今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。” テモテへの手紙二/ 03章のことだ。終わりの日には困難な時期がやって来る。 混沌として複雑な終わりの時代の特徴は、互いに騙され合うということだ。 また絶対の真理がない。そのような相対的で人本主義的な混沌とした世代に向き合う時には、「自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。」(テモテへの手紙二/ 03章 14節)と主は言う。 神様は変わらない真理をひたすら信仰で神様の御前で真っ当な心で付いていく神様の人々を聖なる種として植える。そして、彼らをこの地に神の国を来させる神聖な切り株として立てる。この世の中を変化させる神様が残しておく人々は「ただ信仰、絶対信仰、全てになった信仰」その信仰を持った神様の人々だ。 終わりの日の混沌と暗い時代に神様がなさる非常に明らかなことがある。聖書の前の歴史と全存在を動員して、神様がおっしゃっている神様の国がこの地に臨むようにする最も偉大なことがある。それは病んだ自我を愛してただ唯一に絶対と全てをかけて「私、私、私」して滅亡する望みのない私たちの歴史を変えたことだ。 私たちを救って神の国を成す神様の最高の戦略であり、神様の最も大きな秘密は「あなたたちの中にいらっしゃるイエス·キリスト」だ(コロサイ1:27)。 福音が自分にとって実際になる以前に、人々は神様からすべてのものを供給された。それにもかかわらず、悲劇的な現実だが、彼らにとって神は全てにならなかった。依然として自分が全てになって「私、私、私」と生きていく姿だった。しかし、この粘り強い呪いを受けた運命を破り、神様の原型に戻して神様が全てになり、神様が絶対になり、神様のお言葉がただ唯一のものになる神様の人々で救われた。この地を変えることに聖なる通路になる、神様の救いの歴史に使われる神様の人々、自分の中にいらっしゃるキリストが全てになった人に回復された。 (2018年8月)<続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

アブラハムの最後のテスト… イサク事件の意味

ただ! 絶対! すべての福音! (10) アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。( ローマ 4:23~25) 十字架の福音は、その方が私のために死んだという言葉を90%信じてはならず、その方の死は私のための死であり、私の死と同じだということを信じろということだ。これはこのような事実に対する確信が私にとって「ただ!絶対!全部!」にならなければならないことを意味する。ところが私たちは知識的には同意しながら生きる姿は全く十字架の死と何の関係もなく生き、依然として自身が主体になって「ただ私、私、私」、「ただ、絶対、全ては私だ」このような人生を変えていない。そのように神学の知識だけが積もり続け、体験は増え続けて悩みはするが、それは常に自分を全て出して任せた対象は「私」であり「真理」ではなかった。 アブラハムの一生で「ひたすら信仰」を除いては話すことができない。「信仰が弱くならず、絶対に信じた」と聖書は述べている。もちろん、途中で揺れる時もあった。サラも揺れ、アブラハムも揺れ、ハガルという小間使いでイスマエルを産んだりもした。だが、彼が神を信じる信仰が全てだったことを表わした最後の試験があった。アブラハムに残された信仰がどんな信仰だったのかを歴史が注目するように神様が刻んだ美しい事件記録がある。 アブラハムがイサクを捧げた事件を紹介した創世記22章は、一人の人間の内面を表現するのにこれ以上の表現がないと考えられる言葉だ。イサクはアブラハムが100歳で産んだ息子だった。約束の息子であるイサクは、自分の存在の未来がかかっていた。ところが、イサクを与えた神様が目に入れても痛くない子供を何の説明もなしに「君の愛する一人息子のイサクを私が指示する地、モーリア山で私に供え物として捧げろ」とおっしゃる。常識と経験では受け入れがたいことだった。これはすべてを超える試験だった。神様を絶対に信じて絶対に信頼する信仰でなければ、死んでも到達できない試験だった。 その時、神様が試験に応じるアブラハムの中心で全てになった信仰を見られた。子供を殺そうと刀を持つアブラハムにこのようにおっしゃった。 「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」」(創22:12) アブラハムのこの信仰がただであり、全てであり、絶対だったのだ。歴史に現れた神様が感動した場面だ。愛する一人息子を惜しまなかったアブラハムの信仰だった。 神様はアブラハムの従順に感激し、イサクを捧げたその場を聖殿の場所に決定される。 後にエルサレムの聖殿がそこに建てられる。神様の心がそのまま注がれている所。 神様が感動を受けた所。神様が自分の「全て」になって「ただ」になって「絶対」になるよう神様が呼び出した信仰の人、私たちが今日のアブラハムにならなければならない。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

ただ信仰の人、アブラハム!

ただ!絶対! みんなの福音!(8) 聖書が注目する人々がいる。 アブラハムとダビデ、新約ではパウロだ。 まず、信仰の先祖として知られているアブラハム。彼の信仰はただの信仰ではなかった。「ただ信じる」だった。彼の生涯は信仰を抜きにしては説明できない。聖書はアブラハムの生涯を絶えずに追跡しながら彼の信仰に注目している。 聖書は旧約の結論であるハバクク書2章4節の言葉で結論を宣布している。 「神に従う人は信仰によって生きる」ロ―マ人への手紙で1章17節でもその偉大な宣言を宣布する。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる 」と書いてあるとおりです」ただ良い信仰、熱心に信じる信仰ではなく「信仰によって生きる」を、「絶対信仰」を言っているのだ。 アブラハムが信仰の先祖だと言われる時、神は彼に信仰はどのようになければならないのかを話された。神様は一人の人生を通じてただ信仰を啓示してくださる。 これは教義的に、神学的に同意するレベルではない。「私はそれを信じます。ただ信仰です」と告白するレベルで終わるのではない。神様はアブラハムの生涯全体を主が使われて、ただ信仰という言葉が何を意味するのか混沌しないように啓示してくださった。 なぜなら、ただ信仰であってこそ、私たちが義とされて、そうしてこそ救いを得るからだ。私たちが失った「ただ、絶対、全部」が実際になるように生きて居られる神様に会うことが起きなければならない! ハレルヤ! ローマの信徒への手紙第4章で、ただ信仰だったアブラハムの信仰について見てみよう。 「では、私たちがアブラハムを肉による先祖としていることについては、何と言うべきでしょう。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。」(ローマの信徒への手紙4:1~3) アブラハムが義と認められたすべての根拠は、彼の行為や彼自身になかった。徹底的に信仰によって神様の前に義とされた。彼が信じた信仰は神様が見るにはどんな信仰だったのだろうか? 「「私はあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。「あなたの子孫はこのようになる」と言われているとおりです。およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。」(ローマの信徒への手紙4:17~22) それはただ信仰だった。生きていらっしゃる神様を聖書が言った創造の主であり、全能の主よ、永遠の主として、完全に神様を神様と信じたということだ。 ひたすら信仰でだ。アーメン。(2018年8月)<つづき> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org