罪の赦しは苦行ではなく、ただ十字架の拘束だけで
ネパールの神殿ではヒンドゥー教のサドウ(Sadhu、修行者)に沢山会える。サドはヒンドゥー教信者の中の聖者で、私利私欲を捨ててヒンドゥー教の教えに従ってこの世の罪を洗い流すために一生を遂行しながら生きる。無所有を実践しながら服一着、毛布一枚、茶碗一つで一生聖地を巡礼したりする。しかし、このような苦行で罪が洗い流されるわけではない。罪の赦しはただイエス·キリストの十字架の拘束によってのみ可能である。 「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイの信徒への手紙1:14) またネパールのヒンドゥー教徒は動物を崇拝する。5日間行われるヒンドゥー教の祭典「タハル」は、初日はカラス、2日目は犬、3日目は牛を崇拝する儀式を行う。彼らは牛の尻尾を洗った水を飲んだりもするが、牛は富、財産および繁栄のヒンドゥー教女神であるラクシュミの化身と見なされるためだ。 富と繁栄は、牛のしっぽを洗った水を飲むときには来ない。これはただ主による。 「富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。」(歴代誌上 29:12) 罪の赦しのための大変な修行も、繁栄のための虚しい偶像も全て捨てて救援者であり主権者である神様に進むことを…···. [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
霊的ハンターの攻撃に勝つ力「十字架」
ただ! 絶対!全部の福音!(2) 神様も知らずに真理も知らないまま死亡の道を歩んでいた異邦人ガラディア地域内に福音伝道者を通じて叫ばれた福音が想像できない神様の能力で広がっていった。そして迫害と患乱の中で教会が生まれ始めた。到底不可能だったその地域に初めて埋もれた福音の種が聖霊の大きな権能で衝撃的に感激的に神の国の権能を示し、教会が生まれ始めた。 迫害と患乱の中で生まれたガラディア教会 異邦人出身だったガラディア信者たちは、神様の驚くべき福音を理解して衝撃と感動を受けて心が熱くなった。立てて間もない教会が情熱的に神様の前に福音の反応を見せ、急激な変化が起きた。本当に神様の能力だった。ところが不思議なことに教会が立ったら、そこに教会を散らそうとすることも同時に起きる。ユダヤ人の中で信じたとはいえ、自ら非常に正統なユダヤ人だと言う者たちが来てパウロが去っていない間に、今新しく生まれ躍動的に熱くなっているこのガラディア教会を掘り起こし始める。 ユダヤ人は自分たちの霊的な既得権を持って信じてから間もない人々のルーツを揺るがし始めた。「割礼を受けなければならない。 律法を守らなければならない。福音だけではだめだ。ただ十字架だけではだめだ。」ガラディア地域の教会は存立が難しいほど大きな衝撃と混沌に陥ることになった。 彼らに向けた混沌とさせる偽りの挑戦の中で嵐のような時間を過ごしていた教会に向かって、パウロはガラテヤの信徒への手紙で簡単だが強力な真理を宣言する。真理から外れて混ざり合い混沌とさせる偽りの教師たちに対して、霊的な狩人たちに向かって、そこに迷い込んでいる愚かなガラディア教会に向けて神様の福音を強く提示する。 偽りの挑戦の中で教会に対する強力な宣言 「しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。この基準に従って進む人々の上に、また、神のイスラエルの上に、平和と憐れみがありますように。終わりに、誰も私を煩わさないでほしい。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです。きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように、アーメン。」(ガラテヤの信徒への手紙 6:14~18)(2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師 巡回宣教師。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
福音の能力
この時代の悪行に関するすべての統計を私にくれ。可能であれば、悪を行うすべての者の名前を言ってほしい。できれば、破壊された家庭と停滞状態に陥った教会の名簿をくれ。できれば、大国が世界支配のために開発した秘密兵器のリストをくれ。これらすべてをあなたが私に与えても、私は震えたり涙を流したりしない。 「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(ヨハネの手紙一:4:4)この言葉を覚えろ。もし神様が私たちの内にいらっしゃらなければ、私たちのすべての希望は消え、我が国のすべての教会が門を閉めなければならないだろう。しかし、もし主が私たちの中にいれば、私たちのすべての愚かな行為を悔い改め、私たちのすべての肉体的なものから清さを得て、聖霊に満ちて勝利に向かって前進しよう!こうすると、地獄の門は決して教会に勝つことはできないだろう。 [福音祈祷新聞] 「神の方法で復興せよ(レオナード·レイブンヒル)」より抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
精神的混沌の時代の真っ只中で真実をしっかりつかめ
ただ! 絶対! 全部の福音! (1) 台風のような自然環境で近づく外的な困難だけでなく、私たちの内面の中にも本当に暴風のような時間を渡る時がある。私たちの生活が緩んで注意集中できない時に台風が吹き荒れると緊張もするが、一方で生きているということを感じることができてありがたい。誰もが恐怖の前に直面すれば、改めて考えてみることになる。台風に対する準備をしろと言われたら、窓にテープも貼りながら、揺れることはないか、飛ぶことはないか振り返ってみる。普段から適当にやっておいたものをもう一度点検することだ。 内面の中にも嵐のような時がある 我々の心霊も同じだ。自然災害は目に見えるものを脅かすが、本当に致命的なのは心霊の中で耐えられない激動が起きる時だ。とても大変で難しく、自分の意志が底をつく時、私たちはその時にもう一度考えることになる。 自分の心のあちこちに散らかってたものが嵐の時間を一度過ぎると交通整理ができる。信じるか信じないのか、これが頼るものかどうかも考えずに虚しいものをそんなにつかんで激しく格闘したのかを振り返ることになる。交通整理をしながらしっかり結ぶべきものは結んで捨てるべきものは捨てて、混沌していたものをもう一度整理仕立てるには危機の時間がむしろ役に立つ。 ガラディア教会も揺るがした嵐のような時があった。福音で変化されたガラディア教会は混沌の過程を経て外部の攻撃だけでなく、教会内に内部の攻撃もこっそりと入り混沌させ揺さぶった。内的·外的な暴風のようなこういう挑戦と威嚇が今私たちにも同じようにある。その時が普通の強い風だったとすれば、今は本当に台風のような複雑な時代を生きている。 ガラディア教会を揺るがした混雑して混沌とさせるいかなる挑戦も、大胆に真理の立場で拒否しなければならない。暴風の中に巻き込まれたこの霊的混沌の時代の真ん中で、神様がくださったその真理の中心、永遠に変わらない真理を堅くつかんで台風に巻き込まれてはならない。世の中の台風だけに巻き込まれないのではなく、霊的な暴風にも巻き込まれず、むしろその中心に堅く立ってこの世を救う神様の証人として立ちなさい。 精神的嵐に巻き込まれないで, しっかり立って証人として立ちなさい 嵐と台風が吹き荒れるこの混雑したこの世の真ん中で永遠に揺れない永遠の絶対真理をつかみ、福音が全部になって、生きて居られるキリストが全てになった者として立たなければならない。 ただ絶対という言葉を一番嫌うまさにこの世代の真ん中で、罪悪の嵐の中にある最後の時代の中で平凡と普遍という言葉で騙す欺瞞にだまされず、ただイエス·キリストの生命が全てになった信頼で立たなければならない。 (2018年8月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[TGCコラム] 神の贈り物、「芸術」が偶像になる時
人の余暇はその人の価値体系と心の状態を把握できる良い素材だ。現代人の大部分が任せられた色々な種類の仕事と人生の重さから来るストレスから抜け出す各々の「仮想現実」または「気分転換装置」を探す。そして音楽、小説、映画、ドラマ、ゲームのような様々な芸術ジャンルが現実逃避の世界に彼らを誘惑する。では、キリスト教徒は何をしながら余暇を過ごすべきか? 休むべきかな? ぎこちない質問だ。 余暇の内容にキリスト教徒と非キリスト教徒の区分ができないためだ。ところがキリスト教徒はこの余暇と「休息」を敏感に考えなければならない。 休みは神様が創造の時から決めておいた「宇宙的リズム」だ。神様は御自分の形通りに創られた民も、女奴隷と男奴隷、客も、さらに家畜も7日目の日に休むよう命じられた(出20:10)。十戒に含まれたこの命令は数多くの律法条項の中でも最高の、憲法と同じ綱領だ。主が制定したこの安息日には、すべての場所に火もつけてはならず(出35:3)、さらには土地も安息した。土地は7年になる年に安息し、そのように7回の安息年を過ぎた翌年、つまり50年目の年を聖別してヨベルの年として守らなければならなかった。このヨベルの年には土地が播種なく完全な休息を取らなければならず、さらに担保された土地も「解放」されて帰ってくることができた(レ25:8-13)。 神様が制定した安息日法の目的は休みであり、「奴隷生活から解放」に対する記念だった。 そしてこの「休み」は「美しさ」を伴う。神様は美しい被造物をご覧になって「極めて良かった」と言われた(創世記1:31)。 審美的にも感情的にも、その美しさに対する鑑賞と楽しさの中で「休息」を享受したという意味だ。出エジプト以後の安息日には「罪からの解放」を記念する感激と喜びの美しさが加わった。すなわち、「休み」と共に影のように「美しさ」が存在した。 そのためか、芸術の「美しさ」はこの世の苦難と圧制から抜け出す、「休息の類似機能」をする。著名なドイツ哲学者ショッフェンハウアーは美学的経験を描写する際、イクシオン(IXion)というギリシャ神話の登場人物を例に挙げた。イクシオンは存続殺人をしてヘラを強姦しようとしたが、ゼウスから地獄で絶えずに回る回転輪にぶら下がる労役刑罰を受けた。ショーペンハウアーはイクシオンのこのつらい労役刑罰を引用して「芸術は『イクシオンの止まらない車輪』にぶら下げて回る世の中の苦痛の中で安息日」と結論を下す。[1] この言葉の正確な意味は「芸術とは苦痛の世界で少しでも安息を経験させてくれる神からの贈り物」ということだ。 罪で堕落した世の中は神様を離れ、残された美しさの痕跡のかけらを合わせながら偽りの休息を享受する。その栄光の席に代わりに座る常連は断然「芸術」だ。時には崇高で卓越しており、称賛するほど美しく、「意味」というものも伝えてくれる。時には深刻なほど心の波長を起こし、心の深い中心に入れるほど心臓をときめかせる。ジョン·パイパーは「神様の最も大きな敵はその方の贈り物」と話した。[2] イエス·キリストが「言葉の種と心の畑」比喩を聞かせながら「その他いろいろな 欲望が心に入り込み,御言葉を覆いふさいで実らない」(マルコ4:19)とおっしゃったが、ここで「その他いろいろな 欲望」は悪ではなくむしろ神様の贈り物だということだ。特に芸術の美しさがそうだ安息の代わりに安息の類似機能である「麻酔剤」として使われる芸術の驚くべき機能を見てみよう。私たちは日常で(1)審美的で感情的な美しさを享受し、(2)辛い労役のような人生から解放感を感じる。 実際、現代には絶望に陥ったキリスト教徒が逃避できる芸術的装置がたくさんある。映画やドラマ、小説、音楽のようなストーリーを持ったジャンルの中に逃避する。心が沈み絶望している時、ベートーベンとラフマニノフのピアノ曲を夜通し聞いた記憶がある。深い感情に触れる旋律から慰められ、その和声の進行に想像力を広げた。すべてを忘れることができ、世の中のどんな幸福感とも比べ物にならない感情的満足感を感じた。歌詞のない美しい楽器の音はこの上なく澄んでいた。神様からの贈り物だった。主の前に遠慮のない「休み」であり「心の旅」だと信じた。数日間、その美しさに溺れて止まることもできず、眠れないほど没頭した。そして現実に戻った時、その幸せはどんな善良な実も結ばなかったことを見た。神様と深く話し合い、その方にすべての心配を任せた後と音楽で麻酔させた自分の感情の結果を比較してみた。それ以来、二度と一晩中音楽に夢中になっていない。 美しさに常に敏感で誰よりも深く享受していた習慣が「神の敵」になりうることを悟った記憶だ。そして主がくださった芸術の美しさを主の中で享受する方法、そして優先順位に主との関係を先に置く方法、芸術で真の安息を得る方法を着実に練習しなければならなかった。 絶えずに神様の席に偶像を置かせるのが人間の心の属性だ。カルバンは「心は偶像の父であり、手は偶像の母だ」と話した。[3]心に抱いたものが善良であっても、それが人間の心のどこかで神様に対抗する偶像になってしまい、必ず言葉と行動で偶像という苦い実を結ぶことになるという意味だ。例えばこうだ。キリスト教徒がある映画を鑑賞し、その映画で神様の大叙事詩を賛美することができる。その映画で神の真理を発見することができる。その映画は永遠の希望を抱かせる媒体になり得る。しかし、その恩恵の経験を取り、ある瞬間その映画に没頭するようになり、結局神様の席にその映画を代わりに座らせることもできる。霊的分別力と鋭敏さがなければ、人間の心は偽りの美しさに明け渡しやすい。 理由は何だろうか? 本当の美しさと偽りの美しさがあまりにも似ているからだ。凄絶な努力と深い言葉の黙想、休まない祈りなしには見分けがつかないほど似ている。 キリスト教徒は福音の恩恵の下にいるが、「すでにそうだがまだ」この地で目標を目指して走らなければならない。神様が許可したあらゆる美しい芸術活動が誤った優先順位を持っているならば、神様に対抗する「偶像」になるという事実を忘れないようにしよう。私たちは毎日の文化芸術鑑賞に絶えず質問しなければならない。私はその作品を通じて「創造主三位神」の創造秩序を賛美して享受しているのか?私はその音楽で「福音」を享受しているか?私はそのドラマの視聴より神様との対話をもっと喜んでいるのか?祈りより絵の鑑賞に心を奪われてはいないか?詩の美しさより御言葉の真理を愛しているのか?私は休み時間には何を見て、何を聞きながら、何を手に握っているのか? 神様は最後まで私たちを勝利に導こうと私たちに着実に安息を経験させて居られる。安息日は「すでにそうだがまだ」の神の国の証として続いている。そして「安息日」と「美しさの経験」は完全で永遠な安息を眺める終末論的希望を生む。その願いは天国の栄光と美しさをしばらく味わいながら苦痛に耐える力をもたらす楽しさと喜びで現れる。すなわち、キリスト教徒にとって美しさの経験はこの地で享受する平和と今後臨む天国を通じて来るものであり、単純に苦痛を減らしてくれる麻酔剤としての芸術ではなく、平和と安息のある美的経験を願うことだ。 目標に向かって歩かずにいつも走り回っていた使徒パウロも例外なく、この地で規則的な安息を楽しんだ。そしてその休息は罪からの解放感に感謝と最後の栄光の美しさをしばらく味わうことであり、その安息の経験を通じて彼は「現在の苦しみは, 将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは 思います。 」(ローム8:18)と宣言した。エレミヤも「馬と共に走る」主の戦士だった(エレミヤ12:5)。 だが、彼も永遠の栄光の安息を味わう「この地の安息」があったために止まらずに走った。心に刻んだ「満開のア ― モンド花の幻想」(エレミヤ1:11)が心の永遠な安息に向けた彼の印となった。ゼカリヤは聖霊の油で消えない美しい純金の燭台の幻想(ゼカリヤ4章)を、祭司が王の王冠を受ける(ゼカリヤ6章)永遠の国で享受する真の和睦の安息を心に刻んだ。 美しさの「安息」の目的を知ることは、もしかしたら人生を礼拝として捧げなければならないキリスト教徒にとって最も重要な認識の一つではないだろうか? 安息日の神学がキリスト教の核心教理の中心にあるように、毎日の人生で美しい芸術を楽しむキリスト人は(1)神様が創造した美しい世の中が神様の国でさらに輝くように繰り広げられることと(2)罪から解放されて永遠な安息を享受するという真理を記憶しなければならない。 [福音祈祷新聞] [1] [1] Arthur Schopenhauer, World as Will and Representation I, trans. E. F. J. Payne (New York: Dover Publications, 2000), 220。 [2] [2] John Piper, A […]
滞りなく流れる十字架の福音
キリストの中で完全な教会(8) 「ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマの信徒への手紙6:12,13) 天地の歴史を変えるためには人を変えなければならず、人を変えるためにはその人の中心を変えなければならない。その中心を変える道は生まれ変わる道しかなく、献身する道しかない。それを可能にしてくれるのは十字架福音だ。神様と私たちの間のすべての問題を解決し、神様の完全な知恵と神様の完全な能力が充電されたのがまさにイエス·キリストの十字架福音だ。したがって、福音を聞かせるだけで御霊がこの福音の真理を私たちの魂の中に聞かせさせ、真理が照らしてくれる道に沿って行くようにする。主はガルボリ丘の十字架で死ぬことで罪=私だったこの悲しくて不可能な運命の病んだエゴをきれいに処理してくださった。そして復活されて神様の義と律法を全て成し遂げた。この事実を信じて、信仰から信仰へと従順に進む時、奇跡を見ることになる。 したがって、イエス十字架の福音なら十分だ。教会はこの福音を命のようにつかんで叫ばなければならない。神様の永遠の栄光を慕い、天国が実際になった人々が一体となった教会になる。罪を憎み、キリストの中で兄弟になった生命で、ただ主の栄光のために教会に仕える。これこそこの世で私たちが享受する天国だ。このような教会を通じて、主は我が民族を変えることができる。何も言わなくても自然と宣教的存在になる。 ところが教会に通いながら福音を信じながらも、最も重要な救援と私の人生の主権を譲り渡した献身の分岐点がなぜこのように私たちの中に薄いのか。まさにこのすべてのことを可能にするようにされたのが十字架復活の福音だ。十字架の復活の福音が実際に直面したら、この変化が起きざるを得ない。 そのように変化した聖徒と聖職者、教会はその能力でキリストが全てを主張することができる。キリストの救いの福音が滞りなく流れていく教会を誰が阻むだろうか。聖徒の数や教会の建物や教団とは関係ない。この十字架福音が力になった聖徒と教会を通じてのみ、福音の能力が力強く流れ、私たちの周辺の人々を変え、民族の流れを変えることができる。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 神様の愛(1):何が問題なのか?
一見すると、神の愛は深刻な神学的問題とは思えない。愛についての言葉として、ヨハネの手紙一4章8節より明確な言葉はないだろう。 「神様は愛だ。」この言葉は最も確実に神様を描写することなので、多くの人々に愛されている。 人々はどれほど簡単にこう言うのか。 「神様は愛だから決して____をしない。」その言葉の本当の意味は、「私は愛が何なのか知っている。 私は自分の思い通りに神を受け入れる」だ。これは今の多くの人々が、さらには多くの教会の聖徒でさえ受け入れている巧妙な形の偶像崇拝である。 問題は神様が愛するかしないかではない。問題は人々が宣言する神様の愛が、彼らが実際に話している最初の手がかりかということだ。そうだ。神様は愛である。しかし、愛がその方のすべてだとか、愛がその方に対して私たちが知らなければならないすべてだというとんでもないミスは犯してはならない。 神様の愛と神様がどんな方なのかについて無知な人々があたかもよく知っているかのように権威を装って人々に話してきたために今の神様の愛に対する問題は非常に曖昧になり混乱するようになった。 感じより大きいものだ 今の文化で堅固な愛の定義を見つけるのは容易ではない。ほとんどの人はそれを定義せず、単に自分が感覚的に感じることを愛だと信じてしまう。しかし、世の中で流行する愛の概念はせいぜいバラダーとロマンチック映画、急速デートのようなものに過ぎない。 ジョン·マッカーサーは好色的な愛と聖書的な世間観の間に横たわっている深い谷間を悲しみながらこのように話した。 「大衆的な歌で私たちが聞く愛はほとんどいつも感じを描写する。その感じはほとんど果たせなかった欲求を表している。ほとんどの愛の歌は、愛を感情的なものに変えるだけでなく、無意識的なものに変えている。恋に落ちる。彼らは恋に落ち、自分自身をコントロールできない。 愛をコントロールできないことで特徴づけるのは格好良く見えるかもしれないが、そのような「愛」はもう少し考えてみれば利己的で非理性的な愛だということが分かるだろう。それは聖書が語る愛とは程遠い。聖書によると、愛は抑えきれない欲望ではない。むしろそれは意図的なことだ。本当に愛する人は愛する人のために思慮深く献身する。真の愛は意志的なものであって、抑えきれない感情ではない。 魅力、愛情、あるいは欲望は真の愛の要素ではない。むしろ、それらは実際に真の愛の邪魔になり得る。使徒パウロは、愛は感情や感覚的なものではなく、犠牲的で利他的なものだと話した。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、(コリントの信徒への手紙一13:4~7) コリントの信徒への手紙一13章は曖昧だったり、ただ通り過ぎることができる聖書の一節ではない。そのフレーズは、私が行ったほとんどすべての結婚式場で引用されるフレーズだ(さらには不信者の結婚式でも)。 この言葉は大きな恐れを持って深く考えなければならない言葉であるにもかかわらず、一般的には気分を良くする程度として受け入れられる。 パウロが定義した愛のリストは、つらい自己犠牲と自己否認でいっぱいだ。私たちはそのようなことに熱中しない傾向がある。私たちは何よりも自分のニーズを満たす愛に慣れている。 本当の愛は難しい。実際、私たちが率直なら、パウロが言う基準は私たちが守るにはあまりにも難しいことだ。私たちはこの地で決して高貴な天国の基準を満たすことはできない。ひたすら神だけが可能である。 神は愛だけどひたすら愛だけではない キリストは神の愛の究極の表現である(よはね3:16)。 多くの人はキリストの聖肉神が神の転換点だと考えているが、これは誤りだ。決して神様の性格が「怒り」から「愛」に転換するのではない。 神様は絶対変わらない。 「主であるわたしは変わることがない」(マラキ書3:6、ヘブライ13:8参照)。神様はいつも愛だったが、だからといって他の属性を捨てたわけではない。 神の愛が罪に対する憎しみをなくすものではない。実はその反対だ。 神様のその愛は私たちの罪によって縛られているが、それと同時に私たちの罪によってさらに大きくなる。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5:8) 神の愛が神の他の属性(人々に人気のない)に反対したりなくすと仮定するのは間違っている。D.A.Carsonは、神の属性が変わる可能性があると考える人々が教会に蔓延していると話す。 「今、大部分の人々は神様の愛を信じるのにほとんど困難がないように見える。むしろ彼らは神の公義と怒り、全能な神の非論理的な真実性を信じることにはるかに大きな困難を感じている」 さらに、ジョン·マッカーサーは神の怒りについて説教しないことは、実際に神の愛を理解できないことだと主張する。 「私たちは神の怒りに対する真実を忘れている。私たちはその方が罪を憎んでいるという事実を無視してきた。ほとんどの福音主義者は、神は愛だが、怒りの神ではないと言う。私たちは「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヒ10:31)という御言葉を忘れてしまった。 私たちは怒りの神をもう信じない。 私たちは神の義である怒りを正しく理解し、聖なる畏敬の念を回復しなければならない。私たちは神の怒りが悔い改めない罪人に下すという点を覚えなければならない。 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。あなたの矢はわたしを射抜き、御手はわたしを押さえつけています。わたしの肉にはまともなところもありません。あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません。わたしが過ちを犯したからです。(詩篇38:1~3) この真実が彼の愛に対して驚嘆せざるを得ない核心だ。したがって、私たちは神の愛を宣言する時、この真理が言っていることと同じ信念と情熱を持たなければならない。ただ神様の怒りを理解する時、神様の愛の完全な意味を正しく理解できる。それがまさにイエス·キリストの十字架のメッセージだ。 神様の愛と怒りがその方の荘厳な充満の中で一緒に現れたのがまさに十字架事件だ。 しかし皮肉なことに、神様が愛であることを信じる人々が神様の怒りについては考えていない。つまり、神様の愛が何かを本当に知っている人はほとんどいないのだ。 神様の愛は、神様と私たちの関係について聖書が語る他のすべてを覆い隠す神学的毛布ではない。神様の愛は、実際に聖書の中でも最も難しい教理の一つである。しかし、この教理は我々が耐えなければならない挑戦だ。多くの人がこれを避けようとするが、愛の教理を正しく知ることは聖書的緊張感に鮮明で調和のとれた答えを提示することだ。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
すべてのものは 光にさらされて, 明らかにされる
作品説明:モナ·ハトゥム、「異邦人の群れ(Corps Étranger)」、1995、映像設置物、ポンピドゥーセンター所蔵、フランス·パリ モナ·ハトゥム(Mona Hatoum)はレバノン生まれの英国人芸術家で、パレスチナ人の両親の間で育った。レバノン生まれだけどレバノン国籍を持たず、イスラム文化の下で成長したが、アラブの家父長制には同意できなかった。このような理由から1980年代末、彼女の初期作品はアラブ女性として尊重されなかった母親に対する憐憫が土台に敷かれている。そんなハトゥムの作品を世界舞台でデビューさせた作品が1995年の「異邦人の群れ」だ。 <異邦人の群れ>は一人がやっと入れる規模の円筒形設置物で内部に入ると、グロテスクで奇異な映像が上映されるが、まさに作家の体の内外を内視鏡で撮影した映像だ。観客は密閉された空間に入り、ハトゥムの体の外部から始まり、内部への道(消化、排便、生殖通路)に沿って彼女の体の内部をのぞき込む。これを通じて、ハトゥムは女性をそれ自体で眺めるのではなく、部分部分に分けて性的対象物に転落させた支配的で権力的な視線を批判しようとした。言い換えれば、円筒の中の映像は私たちの視線によって破られた一人の人格であり、いざ不便でなければならないのは気持ち悪い映像ではなく、歪曲されて暴力的な私たちの目線であることを指摘した。 ハトゥムの意図はこうだが、<異邦人の群れ>を見れば隠密に隠されていた罪に直面できる信仰の力を思い出す。事実、ハトゥムの身体内部を見て感じた不便さは、私たちの内面に隠された闇が明らかになる時も間違いなく訪ねてくる。直面しようとする勇気を無力化するこの恐れは「婚前性関係」の代わりに「速度違反」、「外道」の代わりに「浮気」と比喩するように、罪を縮小したりする。しかし聖書は明らかに「すべてのものは光にさらされて,明らかにされる」と教える。内面のいかなる汚れや闇、絶望があるとしても、イエス様の血で得た救いが予定されているためだ。復活の能力を信じる信仰があれば、あらわれたことを加減しない直面の力を得る。その過程で怖かった手術台が救援と復活の審判台に変わる光を経験することになる。そのために明らかになったのは何でも光だ。主は罪をうまく覆い隠す能力者ではなく、それを十分に赦す全能者だからだ。[福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。 >情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
大洪水の前, 恐竜と人間が一緒に暮らした。
恐竜の骨は人間の骨、哺乳類の骨とともに発見されている。時には石化された人間の手のような岩石層で発見されることもある。インカ石板の中では人が恐竜に乗っている姿もある。 また、恐竜の足跡と人の足跡が一緒に発見された。この問題で議論になったテキサスのグレンロスに私が直接行ってみたこともあった。 グレンロスという小さな村は、パロキシー川が流れており、一面石灰岩で覆われている。地域全体が石灰岩であり、川は石灰岩層を削って通過している。1908年にここで非常に大きな洪水が発生した。その川は1マイル(約1.6キロ)当たり17フィート(約5メートル)低くなるが、洪水で川が氾濫する頃、堤防より30フィート(約9メートル)以上水位が上がった。 そんな中、洪水が川底を掃きながら石灰岩層を削ったのだ。2フィート(約60センチ)の石灰岩が落ちた場所には新しい石灰岩層が現れ、翌年夏に川が乾くとそこから数百個の恐竜の足跡が発見された。ここは今や「州立恐竜谷公園」と呼ばれている。 人々は川に浸食されないように多くの足跡を掘り起こし、博物館に保管した。ところが、たまにはこの地域で恐竜の足跡とともに人の足跡が発見される。発見された人の足跡の中で恐竜の足跡を横切るものもある。洪水を避けるために泥水を走る時は、誰かがすでに踏んでおいた所を踏むのが論理的だろう。深い雪の中を歩いていく時のようにだ。 私たちは今、ノアが箱舟に入って雨が降り始めると、人達が最初の数十分で死んだと思う。しかし、地球上のすべての人々が死ぬのに6ヶ月程度はかかっただろう。雨は40日間降ったが、聖書は水が150日間ずっと「上がってきた」と言う。大部分の水が「地の深い泉から」、すなわち地表の中から出てきたためだ。地表の中にあった水が洪水を起こしたのだ。水が上がり始めると、人々は高い土地を求めて登ったはずだ。お互いに高い土地を取ろうと戦い始めたのだろう。 今、人々が岩盤層を掘り起こしたとき、その下の石灰岩からさらに多くの足跡が発見された。足あと一つは足の指を横切って跡がついていた。その端の粒を研究した結果、これが圧着されて薄い面が歪んでいることが分かった。これに対する多くの議論があるが、このように説明できる。 足跡は6~7フィート(約1.8~2メートル)の歩幅を持っている。毎回この程度の歩幅を持つためには非常に大きな人でなければならないだろう。この足跡発掘当時、現場にいたアリゾナ州の南バプテスト教会で副牧師をしている知人が私にこんな手紙を送った。 「ホビンド博士、私は足跡をたくさん見て育ちましたが、カール·ボウ博士と一緒に発掘作業現場にいました。私たちは恐竜の足跡の横にいる人の足跡をたどりましたが、まるでその人が恐竜と一緒に歩いているように見えました。 「ノバ」(1974年から放送されたアメリカの科学テレビシリーズ。 訳者注)も発掘する現場を撮影しようと来ており、ある進化論者はそこでボウ博士と論争し続けました。ノバは足跡や私たちの発掘はあまり撮影せず、その進化論者にインタビューしました。彼は、そこで進化論を反証するものは何も見ていないと言いました。実際、彼は私たちが作業していた足跡を眺めることさえ拒否しました」 ノバは進化論を支持していたため、進化論に反対するものはテレビで放映しなかった。ある人は「人間の足跡と恐竜の足跡が一緒にあったということは、単に人間のような足を持った恐竜がいたことを証明するだけ」と話す。奇抜な解釈方法だ。 これは進化論が研究の妨げになるもう一例だろう。 米国の動物学者エルンスト·マイヤーはこう語った。 ”創造論者たちは人間と恐竜が同時代に生きたと言った。その重大な発言が真実なら、それを発見した人たちの名前は20世紀に最も優れた発見をした人たちの一人として、時の回廊に雷のように降りてくるだろう” メディアが止めなければ、それは事実だろう。 <続く>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
スペイン、静かな風景の裏に吹く性転換の風
地中海の明るい日差しが差し込むスペイン南部の港町、マラガ。1年のうち雨の日が50日にも満たないほど日差しが豊かで、冬が暖かい都市だ。宿舎から見下ろしたここトーヨー市場は、些細な物を売買しながら旅行客の目を引いている。マラガの午後は平穏極まりない。 しかし、何事もなかったかのように穏やかなスペインの風景の裏には同性愛、性転換の風が吹き荒れている。スペインは12月22日、クリスマスを3日後に控えて16歳以上の未成年者も医師診断なしに性転換を可能にした。スペイン下院が16歳以上であれば、医学的所見がなくても誰もが法的に性別を変えられるよう、国家身分証の性別変更手続きを簡素化させる法案を通過させたのだ。これまでは性転換者が法的な性別を直すためには性別違和感を経験しているなど、複数の医師の診断が必要だったが、これからはこのような条件がすべて必要なくなった。原案通りに上院を通過すれば「転換療法」が禁止され、LGBTを狙った攻撃も処罰できる。主がくださった地中海の日差しを受けるように、創造秩序の美しさを受けて享受するスペインに回復することを願う。 「私のきょうだいたち、あなたがたの中で真理から迷い出た者を、真理へと連れ戻す人があれば、その人は、罪人を迷いの道から連れ戻し、彼の魂を死から救い、また、多くの罪を覆うことになると、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブの手紙5:19~20) [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
説明のつかない神様の贖いの御恵
キリストの中で完全な教会(6) 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」(ガラテヤ4:4~5) 神様は人としては説明できない「贖い」という方法を使った。 正義で借金を返すものの、資格のある人が代わりに借金を返させた。理解できない、話にならない方法で神様も義であり、私たちも義であるたった一つの道を用意された。これが「贖いの義」である。 自らを赦しができない私たちにキリストイエスの中にある赦しによって神様の御恵によって無報酬で義だということを得させた。この道しか他に道がなかったので御自分がすべての罪の代価を自ら払ってイエス·キリストを通じて審判を受けた。最も完璧な主のみ恵みだった。そして、分け前を残しておいた。イエスを彼の血によって信仰による和解のいけにえにされた。 私が直接罪の償いをしたわけではない。しかし、信じる私たちは誰かが私の名前と私の資格で返してくれたその功労を信仰で完全に受けてイエスに起きたことを自分に起こったことと受け止めれば良い。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死んで審判を受ける時、私の名札をつけて私になって死んだので、その方が死ぬ時、あれほど変わらなかった自分が一緒に死んだことを信仰として受け入れるのだ。それで自分を信仰で死に渡し、もう自分ではなくただ私のために死んでそして生き返られたイエス·キリストにすべての生命の主権を与え、新しい生命として受け入れなければならない。 今は私ではなく、私の中にキリストが生きる人生を生きていくようにしてさせた。ついに罪悪の呪いから抜け出し、罪と関係のない神様の水準、神様の形状を成すようにさせた。聖なる主の民で、罪から自由な者として、勝利する者として生きていかせる。 最初の創造の時は言葉でされた。しかし、私たちを救う時には神様の父親が御自分の一人しかいない息子をこの地に人として送った。律法の義を成し遂げるために女から生じさせ、律法の呪いを代わりに受けて十字架で死んで復活するまで、このすべての過程を成し遂げた。神様が世の中をこんなに愛して恐ろしい罪に売られて心の中心に神様と仇になった私たちの昔の生命を終えた。天地開闢よりもっと難しいことを成し遂げられた。 私が直接したことは何もない。 しかし、イエス·キリストが私の代わりに成し遂げたそのことを私に直接なされたと信じて信仰で参加しなければならない。イエスの死、私の死、イエスの復活、私の復活! 二度と罪が主人の役割を果たせず、二度と律法が私を罪に定めることができない。今はただキリストが私の主人になって生きていくことで、神様だけを愛し真理に従って天に属した人生を生きるようになされた。この夢見るようなものすごい福音を主が準備しておいて「ただ信じるだけしろ。」とおっしゃる。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 僕たちの感じよりもっと確実なこと(1)
私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。イエスが父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、次のような声がかかりました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙二 1:16-21) 私たちは自分が思っているよりもはるかに「感情」に影響を受けます。 普通サムギョプサルが食べたければ「肉は減らして野菜をもっと召し上がってください」という医師の勧告を無視して自分の好みが惹かれるままサムギョプサルを食べます。遅くまで起きていたいなら、次の日のことで早く起きなければならないのに寝ません。ある人についてよく知らないくせに、ただ感じによって行動しながら話したりもします。ただ瞬間の「ロマンチック」な感情によって衝動的に行動したり、時にはその瞬間の感情によって一生の同伴者を選択したりします。感情に忠実なこのような行動の結果、私たちは多くの間違いを犯し、試練を経験します。苦しみながら後悔したりもします。それから初めて自分の感情を信頼できないことを学びます。実は、そうでも学べたら幸いです。 これらの問題は、霊的な問題においても同様です。私たちは教会が私にくれる「感じ」によって教会を選択したり、聖書のどんな一節が私にどんな影響を及ぼすかによって従順可否を決定したりもします。聖書は、信じない者と頸木を共にしないように命じます。また、妻に罪を犯したときに許しを請うことを命じています。聖書は、教会が一定の規律を守り、実践すべきことについても命じます。ところが私たちは神様のこのような明確な命令より私たちの感情を上に置いて言葉に従いません。御言葉に従ったら損をすると感じるとき、私たちは従うことを拒否したりします。 私たちは私たちの心が「違う」と叫び、他の人々(さらには教会のリーダでさえ)が私たちの堕落した感情を認めてくれる時、どうやって神に従うことができるのでしょうか? これに対する答えは、神の言葉に確信を持つことです。 全宇宙万物の神様が聖書の言葉は欠点がないと証拠しています。 彼の言葉は確かで確固たるものです。 彼の言葉は私たちの感じより確実です。 ペトロ第二手紙1:16-21は堕落した人間の感情が持つ強い力ではなく、神様の御言葉の確実性に対する私たちの信頼をより強固にします。この言葉をよく理解するには、この手紙の文脈からよく理解する必要があります。ペトロの手紙の全般的な主題は「敬虔せよ」という命令だと要約できます。1章3-11節は1)神様の約束の中にある敬虔の能力と2)信仰で建てられる神聖な人柄、3)そして招きと選択にある敬虔の基礎について話します。そして続く12-15節でペトロは彼の死が差し迫ったことに言及し、その前に聖徒たちを目覚めさせ敬虔の重要性を再び想起させることが重要だと言います。ペトロはただ罪と肉的欲に縛られるだけの偽りの教師たちが自由を約束しながら教会に密かに入ってきていることを知りました」(2章)。 それで彼は、この手紙の読者たちが偽りの教師たちと彼らの教えを無視し、ただ神聖さを追求するようにするために、この手紙を記録したのです。 聖徒たちが神聖さを追求する最も主な動機はキリストの降臨です(3章)。 この手紙はもちろん、すべての新約聖書で「キリストの降臨」は神聖で義に満ちた人生を追求する最も大きな動機になります。偽りの教師たちは、審判の日に再び来る主を否定しました。それでペトロはキリストがすべての人々を審判するために再び戻ってくるという事実を確信させるために手紙を送りました。そして、その主張が真実であることを証明するために、ペトロ第二手紙は1:16-21で2つの証拠を提示します。最初の証拠は「目で直接見た証拠」であり、2番目の証拠は「権威ある文書」まさに聖書です。次回はこの2つの証拠をもっと詳しく見てみましょう。 私たちは「好きなことをしてください」、「今の幸せが大切です」と言う世の中で生きています。テレビコマーシャルを通じて、ドラマや映画を通じて、あるいは専門家の言葉を通じて、世界はそう言い続けます。しかし、多数がそう言ったからといって、それが事実であり真理であるわけではありません。私たちが追求しなければならないのは「神聖さ」です。 「敬虔」です。 言い換えると、「主に似た姿」です。それを追求する上で最終的な権威は神様の確実な御言葉であり、今の私の感情ではありません。キリスト教徒として本当に神様に似たいですか。それなら、皆さんの感情や他の誰かが違うように言っても、この事実を覚えておいてください。 神様がくださったこの言葉が私の感情よりもっと確実です。 [福音祈祷新聞] ジョージ·ピアソン | グレース·トゥ·コリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[信仰の書き込み]キリストの内にとどまり、歩む人生
私たちは神の内にとどまっているからです(1) 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙一 2:6)。 ここでおっしゃっているキリストの内にとどまる人生と、キリストのように歩む人生、この二つの祝福は決して離せないものなのです。キリストの内にとどまる人生の実として現れるのが「キリストのように(like Christ)」ということです。 「キリストの中に止まっています」という言葉は私たちにまったく見慣れないことではありません。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」(ヨハネ15:4)と命じてくれたブドウと彼の枝についての驚くべきたとえ話は、私たちにしばしば祝福された教訓と慰めとなってくれました。 わたしたちがイエスの中に居るというこの教えを完全に悟らなかったとしても,わたしたちの魂が「主よ,あなたはすべてを知っており,あなたがわたしがあなたの中に今住んでいることを存じております。」と申し上げるときに臨みに来る喜びがどんなものかを私たちはすでに味わっています。 このような切実な祈りがしばしば私たちになければならないことも、主は知っておられます。「聖なる主よ、完全で絶えずにあなたの中にとどまることができるように恵みを施してください。」 「キリストのように歩む」という二番目の言葉は,「キリストの中に住む人生」に劣らず重要です。これは驚くべき能力の約束であり、その方の中にとどまる人生が完全に力を発揮することになるのです。 わたしたちが完全に神の内に生きるために自分自身を完全にささげることになれば,その実として,神の命がわたしたちの中で力強く働かれるようになり,異面的な生活が外に現れることで,わたしたちの行為はまさに神に似ていきます。この二つは別々に考えることができない関係なのです。イエスの中にとどまるということは、いつもイエスに従うというよりも先行するものです。 しかし、主と共に同行し、主のように行おうとする切ない願いが、彼の中に住む人生の次とは言えないのです。そうしてこそ、その方との親密な連合がなされるようになります。その方の計画に従って、その方が与えてくださった恵みを使う準備ができた人に、天の主が自ら豊かな御自分の恵みを余すことなく与えてくださいます。 救い主が「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)の意味はその方と共に歩むためにあなた自身を全て捧げることこそ、その方の内に完全に居る道ということです。 多くの人がここでキリストの中にとどまる人生の失敗を経験していることを発見するでしょう。人々がキリストに従うということについて知らずで、それで追求してみようともしなかったからです。使徒ヨハネは、ここで私たちにこの二つの真理の生命的な関係と相互依存的な関係を見るようにしてくださいました。 ヨハネによる福音書で教えている最初の教訓は次のとおりです。キリストの中にとどまることを切実に望む者なら、必ず主が行なわれたそのまま本人も行わなければならないということです。ブドウの枝は、彼が属するまさにそのブドウの実を結ぶことが当然のことであることを私たち全員は知っています。ぶどうの木とその枝の命は完全に一つです。 したがって、その命が現れることもまた一致しなければなりません。主イエス様が御自分の血で私たちを拘束されて、その方の義で私たちを天の父にささげた時は、古い性格をそのままにしておき、それなりに私たちの最善を尽くして神様に仕えるように放っておいたのではありません。 決して、そうではありません!その方の中には永遠の命があり、これは天の聖なる命であるということです。そして彼の中にとどまる者は、誰もが彼の聖なる、天に属する力の中にあるのと同じ永遠の命を得ることです。 ですから,イエスの中にとどまる者は,エホバから命を絶えずに得るようになり,「主の歩むように自分も歩む」と言われた言葉はまったく奇妙なことではありません。 しかし、神様の力ある生命力は、魂の中でよく分からず、または思わず私たちにキリストのように行うことを強要しません。 これとは対照的に、主のように行われる人生は、明らかに自由な選択の結果であり、強烈な希望によって得られるものであり、鮮やかな意志を見て許してくださるという事実です。 この観点から見ると、天におられる父がイエスのこの地での生活を通して見せたいと思ったことがあれば、それは天国の生活が私たちの人間の生活の条件と環境の中に臨むとき、どのような姿になるのかをお見せてくださったことです。 これと同じ目的を持って、イエスは私たちにこの地上での御自分の人生がどのようになったのかを教えてくださいました。ですから、私たちが彼から新しい命を得て、また私たちに彼の中にとどまるように呼ばれたのは、私たちが命を得て、より豊かになるようにするためです。 主は言われておられます。新しい命を私たちに与えてくださったのです。「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、」(ヨハネ15:10)。この御言葉を通して先生である主は、この地での人生は一言でこのような人生だと要約してくださりながら、またこれを私たちのすべての行為における規範と指針とするようにとても簡単に教えてくださいます。 私たちが主の中に止まっていると言いながら主が行ったのとは異なって行うことはできません。「キリストのように」という言葉は、短いながらもすべてが暗示されており、クリスチャンの人生の祝福された法則なのです。 クリスチャンはイエス様がこの地でそうなさったように考え、話し、行なわなければなりません。イエス様がそうされたように、今私たちはそうしなければなりません。<アンドリュー・マレー(Andrew Murray)><ルッサン教会提供> [福音祈りの新聞] <著作権者ⓒ私の手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[キム·ヨンハンコラム] 貧困と富に関するイエスの教え。
<歴史的イエス論究シリーズ> 歴史的イエスは貧困を祝福とは言わなかった。彼は貧しかったが富の所有を認め、貧しくて疎外者、当時の社会的弱者である女性だけでなく、アリマタヤのヨセフやバリサイ人であるニゴデモのような有力者たちを同僚とし、財産を聖なる委託と言った。歴史的イエスは第一に、財産は賢く管理しなければならず、第二に貧しく疎外された者たちにを特典を与えなければならず、第三に、地上の蔵ではなく天国に貯蓄しなければならず、第四に財産の使用に対する終末論的審判を教えている。 I。 貧困を祝福とは言わない イエス自身は貧しかったが、物質的な貧困そのものを祝福とは思わなかった。イエスは家もなく、遊離する放浪説教家(ルカ9:58)として社会的に地位と背景のないラビだった。彼は神の国を宣布し、教え、病気を治癒する福音伝道者だった。イエス自身は貧しかった。しかしイエスは社会的に裕福な者と権力層にいる者が自分の既得権を捨てて彼に従うようにする、霊的に豊かな人だった。 福音書の著者マタイはイエスに従おうとした書記官とイエスとの対話を記録している。ある書記官がイエスのところに来て言う:「先生、どこへ行っても私は従います」(マタイ8:19)。この書記官は、これまでイエスに従った弟子集団の外に立っていた者として、社会的には尊敬される身分と安定した生活を送っていた人だった。当時は書記官という律法学者の身分だった。イエスはこの書記官に言う:「キツネも洞窟があり、空中の鳥も居場所があるが、私は頭の置き場がない」(マタイ8:20)。イエスはこの書記官に自分に従うためには居場所もなく、社会的安全網もない境遇に参加しなければならないことを教えてくれたのだ。弟子職とは世の中で金持ちになり権力を握って名誉を得ることではないとおっしゃる。このようにイエスは当時、社会で全く社会の既得権がない者だった。そしてイエスは世間の富や権力を追求することもなかった。したがってイエスは神様との人格的関係の中で内面的自由を享受し、社会的どの党派の利害関係に縛られなかった。 イエスが十字架で処刑されて世を去った時も兵隊がくじ引きして分けた彼の服以外に何も他の人々が分けるものがなかった(マタイ27:35)。福音書の著者ヨハンはより詳しく記録している:「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その 服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。」(ヨハネ19:23)。当時は処刑された人が身に着けていたものは死刑執行を担当する部隊の軍兵が分けていた。それはローマ時代の慣例だった。しかし、イエスの下着は破って分けず、くじ引きで一人が持つようにした。イエスが十字架に釘を刺された後、彼の服をくじ引きして分けたということは、人間の側面から見て、イエスが受けた最も悲惨な恥辱を表現したものだ。イエスは葬られる墓がなく、家族の墓ではなく他人の墓に葬られたのだ(マタイ27:60)。 II.富の所有を是認 イエスは無所有者であったが、富のある者を敵にしなかった。彼の友人の中には金持ちもいた。イエスを支持した人の中には、アリマタヤの金持ちのヨセフ(マタイ27:57)、ガバナウムの百人隊の長(ルカ7:2)。 ベダニ家庭(ルカ10:38)、自分の所有でイエスに仕えた女性たち(ルカ8:3)などがいた。 イエスが金持ちとラザロの比喩して教えようとする教訓は、金持ちを憎悪し、貧しい者を庇うことではない。金持ちは財産が多いため陰部に行ったのではなく、乞食ラザロは所有が少ないために楽園に行ったのではない。来世で彼らの境遇が変わったのは、この世で金持ちは悦楽の生活だけをしたが、ラザロは信仰の生活をしたためだ(ルカ16:19-22)。 ラザロが死んでその胸に抱かれた旧約のアブラハムは、その時代で裕福な人だった。イエスが金持ちの青年に「行ってあなたの所有を売って貧しい者たちに分けなさい」(ルカ18:22)とおっしゃったのは天国は無所有者が行くという意味ではない。金持ちの青年は所有が多いので「この言葉を聞いてひどく心配した」(ルカ18:23)。彼が持っている財産が神の国に入るのに障害物になりうるということを教訓にしたのだ。金持ちの青年は彼の持つ財産の欲に縛られていたのだ。 イエスは国に納める税金と神殿に納める神殿税納付を否定しなかった。イエスは持ってるのがなかったので、重大な教えを与えようとする時には他人のお金を借りた。イエスは皇帝に税金を払わなければならないのかという質問を受けて「税金を払うお金を私に見せろ」と言う。彼らが「デナリオン銀貨を持ってくる」(マタイ22:19)。 イエスはこの銀貨の形状と文がガイサのものであることを見せる。そして「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答える。 国に対しては税金を払い、神に対しては神殿税と十分の一を払わなければならないことを教える。 III.富は聖なる委託 1.財産は賢く管理しなければならない イエスは財産を賢く使うべきことを教えた。イエスは弟子たちに貴人が預けたお金に対する比喩として財産善用を教える:「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」(ルカ19:12-13)。 帰ってきた彼は自分が委託したお金で僕たちが利益を残したことを喜ぶ。 ところが、1ムナ(100銀銭)を受け取った者は利益を残さずタオルに包んだまま彼に持って来た。1ムナを受け取った者は、その理由を次のように述べた。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」(ルカ19:21)。 これに対して彼は激怒して叱る:「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。」(ルカ19:22-23)。 すべての僕は自分の能力に見合うだけの資金を委託された。各人はそれを運用して自分の才能に見合う利益を得なければならない。主人にほめられた僕は、自分たちの才能を発揮した者たちだ。ところが主人の叱責を受けた僕は全く才能を発揮しなかった。彼はお金を運用しながら予測されるリスクを回避した。それで彼は主人の怒りを受けたのだ。イエスはここで財物に対する賢明な管理、今の用語では、健全な資本主義を教えている。 2.貧しく疎外された者たちに恩恵 富は貧しく疎外された人々に利益をもたらすように使われるべきだ。福音書の著者マタイは幼い頃から戒名をよく守ったという金持ち青年を教えるイエスの言葉を記録している:「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイ19:21)。 これに対し青年は心配して退く:「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マタイ19:22)。 イエスはこれを見て弟子たちに言う:「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ19:23-24)。 ここで金持ちとは、単に財産が多いものをいうわけではない。財産の多い清富もあるからだ。アブラハム、ヨブ、アリマタヤのヨセフなどは清富と言える。しかし、心が財物欲に満ちた金持ちは天国に入るのが難しい。財産は自分の欲とうぬぼれと贅沢な消費のためにあるものではない。貧しくて貧しい隣人に対する配慮がなければならない。必要な者に対する救済と分かち合いが必要だ。この地上で彼らと分かち合うことができる時、本当に天国の蔵に貯蓄することになる。 3.天国に貯蓄 イエスは貪欲を退け、神の国に富を蓄えるように教える。イエスは、裕福な農夫の比喩(ルカ12:16-21)を弟子たちに聞かせてくれる。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。』自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16-21)。 イエスはこの比喩を通じて財物の多い金持ちが神様に感謝せず、そして自分の隣人の貧しい者たちの世話をせずに自ら自己満足と傲慢に陥ったことを指摘している。このような富の蓄積を通じた傲慢な自己満足は神様の審判を招くことになる。 イエスは「人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)と教える。人の人生の意味とは、財産と権力の豊かさにあるのではなく、貧しい隣人を救済し分かち合う心の豊かなところにある。財産の分かち合いは自分自身には厳格で節制し、貧しい隣人には豊かな態度で成り立つ。地上の所有は愚かな金持ちのように自分の物置を広げ、自ら食べて飲んで楽しむことに終わってはならない。 「神様に財産をくださったことに感謝を申し上げる」ということは、単に宗教的礼物を差し上げることに終わるのではなく、貧しく疎外された者に対する配慮と分かち合いに連結されなければならない。イエスはこの比喩を通じて財産を自分の蔵に積まず疎外された貧しい者たちと分けて使うことで富を天国の倉庫に貯蓄しろと教える。 4.財産使用に対する終末論的審判 終末論的審判でイエスは社会的に疎外された者に対して世話をしなかった責任を追及する。終末論的審判の日に社会的に疎外された者たちの世話をしない者たちに向かって責める:「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」(マタイ25:41-43)。 彼らは次のように反問する:「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」(マタイ25:44)。 これに対し王が答えた:「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25:45)。 イエスはここで御自分を終末論的王(王)と同一視していらっしゃる。 終末論的な王とは、メシア的な王権を持つ者のことをいう。審判者である王は、自分を世界的に疎外し、病気になり、飢えた者と同一視する。イエスは神の国が心が貧しく清潔な者たちの所有だと教える。財産をたくさん持っていても社会に向かって借金をしたと思いながら、その財産を社会に還元しながら貧しくて貧しい隣人と分かち合い、社会の陰にある階層に向かって使う者は清富と言える。 韓国では慶州の崔氏の富豪、今の米国のマイクロソフト社創始者ビル·ゲイツ(Bill Gates)とその夫人、「投資の鬼才」と呼ばれるウォーレン·バフェット(Warren Buffett)などはこれに属すると言える。慶州の崔氏の富豪は、自分が住む1キロ内のすべての人が春窮期を耐えられるように門の前に公益米銭を用意し、飢えた人たちが適当量米を自由に持っていくように常に米を備えておいた。ゲイツ夫妻は彼が作った慈善財団を通じてアフリカのエイズ撲滅と児童教育分野のための慈善事業に毎年寄付している。バフェット氏は極貧層のための医療保険プログラムの設定のために寄付しており、そして「財産の85%、374億ドル(約36兆ウォン)を社会に還元」することを公言した。彼らは資本主義国家である米国社会で相続制廃止に反対し、自分たちの富を社会的に還元しながら「社会的資本主義」(social capitalism)の可能性を提示したために世界的に賞賛されている。このような面で、彼らはその心が貧しい者たちだと言えるだろう。 彼らは財産に関するイエスの教えを今日実践するきれいな金持ちだと言える。 (続く) [福音祈祷新聞] キム·ヨンハン|キリスト教学術院長/シャローム·ナビ常任代表/崇実大学キリスト教学大学院設立院長 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
神様の知恵、神様の能力、十字架の福音
キリストの中で完全な教会(4) 「どうか、わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるようにし」(エペソ1:17) 神様に出会う唯一の道は霊的に目覚め、私たちの霊の目が開かれ、心霊に霊の機能が蘇ることだ。私たちの鈍くなって呪われた霊が生きて居られる神様のみ言葉を理解させて、私たちの魂に話される。福音の真理を聞く時にその事が起こる。 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24) このためにはまず信仰を通じて私たちの霊の機能が蘇らなければならない。ところで信仰はどこから生まれるのか! 粗末な哲学や宗教や人間の数多い知識の言葉を聞くからといって成り立つものではない。神の生命、真理の福音を聞く時に私たちの死んだ魂が蘇って主を見ることになる。 中世に堕落したカトリックのように十字架救援の真理を覆い、行為で救われるという誘惑に目が回る瞬間、私たちは神様の呼び掛けを離れるしかない。行為救援のような考えは、まさに教会の堕落であり、腐って座り込んだ中世の暗黒時代を作り出した教会の悲劇だった。宗教改革に従う私たちの心が緩むと、神様の呼びかけを逃す恐れがある。 イエス·キリストはすべての世界の万物を統治し、治め、万王の王、万主の主になさる。そのように復活されて昇天されて、その栄光を回復された主が、十字架の死で連合させた教会を御自分の体にさせて万物の中で万物を充満させる方の充満だという。教会は外見上、みすぼらしいし、たいしたこともなく、軟弱な素焼きのようだと言える。しかし、その中にいらっしゃるキリストは栄光と能力と祝福に満ちた方だ。イエス·キリストによって命を得た人は世の中が耐えられない。世の中をひっくり返して歴史を揺るがした人々は、個人の人柄がすごい偉人や能力のある人々ではない。素焼きの中に宝されたイエス·キリストが歴史を変えて、世の中をひっくり返す福音の能力として現れたのだ。 したがって、教会は福音で新しくなることができる。教会は驚くべき主の約束、福音の栄光と能力と祝福で現れる。 それなら、私たちを神様の形でキリストの中に充満した者として完全な者に立てる神様レベルのことを神様がどのように成し遂げるのか! 絶望的な私たちにそのことがそのまま現れる秘密は驚くべきことに私たちが注目しなかったイエス·キリストの十字架の福音にある。人々にあれほど軽蔑されて愚かに見えるイエス·キリストと十字架の福音がまさに神様の能力であり、神の知恵だ。その十字架の福音の能力がまさに最も不可能な人生を丸ごと存在的にひっくり返して変化させる。そして、そのように変化した人間たちを通じてこの世が変化する。神様の最も完璧な知恵であり、最も完璧な能力がまさに十字架復活の福音であるのだ。これが秘密だ。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
世界への神様の唯一の贈り物、福音
キリストの中で完全な教会(3) 私たちは罪の中で生きていて、毎日罪に引きずり回される。 そして結局、罪の奴隷で地獄の審判に向かわざるを得ない存在的罪人だ。 私たちがどうやって主が呼んだ聖なる神の息子の形を着てキリストの中に充満した生命を持つ聖なる神の教会になれるのか! 出発自体が基盤もイエス·キリストであり、目標である使命も神様の水準であるため、人間のいかなる努力や方法でもなれないと聖書は言う。 ”武力によらず、權力によらず、ただわが 霊によってと万軍の主は言われる”(ゼカリヤ4:6) 最も不可能なことがあるとしたら、それは自分の人生を自分勝手にはできないということだ。ルカ福音書18章に出てくる金持ちの官員は幼い頃から律法を破ったことがなく最善を尽くして暮らした。あれほど永遠の命を追求し、苦労して生きてきて、イエス様の前に出てきた時、永遠の命を得る道を教えてくださった。難しい要求でもない。二つの中から一つを選べばいい。お金か?永遠の命か? 永遠の命とは何か。神様の永遠の命の中で神様の永遠の祝福と生命を享受することだ。そんな永遠の命がお金と比較対象なのか!それでも目に見える誘惑に勝てず、永遠の命を目の前にしても捕まえられないまま、私たちの心がお金に対する愛着と情欲に引かれる。 宗教的な努力と最善を尽くしたとしても、自分の心を変わる決断ができなければ、38度休戦線を越えるより難しいのが自分の心の境界を越えることだ。福音をあんなに聞きながらも決断できなくて一生だらだらとぶら下がって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いか! 厳重に警戒を守って立っている休戦線よりさらに堅固に越えられないのがあれば、まさに自分の心だ。私たちは心で神様を離れ、敵になった。そんな私たちを振り返って神に向かわせること、それがまさに十字架福音だ。人間の救いと変化は絶対に人から生まれることはできない。これは神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能なのだ。 神様の召しを忘れてしまえば、教会は現実に追われて召された席を離れ妥協し変質するしかない。そのために、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。教会は人によって行われるものではない。神様の神的な能力なしには完全に福音どおり救われ、地獄の人間が天国の人に変わる真の変化は一人にも起こり得ない。人間のいかなる努力や方法や制度になることはできない。神だけができることだ。 神様が私たちを本当にこの世を変化させる教会であり聖徒に変化させる福音の能力。この能力が我々に臨まなければならない。その時初めて教会は真の神様に召された場所に立つことができ、この世を変えることができる。そして世の中は彼らを変えられる能力を教会を通じて得ることになる。生きている神様がこの世に向かってくださった唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師、 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org