罪の赦しは苦行ではなく、ただ十字架の拘束だけで

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ネパールの神殿ではヒンドゥー教のサドウ(Sadhu、修行者)に沢山会える。サドはヒンドゥー教信者の中の聖者で、私利私欲を捨ててヒンドゥー教の教えに従ってこの世の罪を洗い流すために一生を遂行しながら生きる。無所有を実践しながら服一着、毛布一枚、茶碗一つで一生聖地を巡礼したりする。しかし、このような苦行で罪が洗い流されるわけではない。罪の赦しはただイエス·キリストの十字架の拘束によってのみ可能である。

「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイの信徒への手紙1:14)

またネパールのヒンドゥー教徒は動物を崇拝する。5日間行われるヒンドゥー教の祭典「タハル」は、初日はカラス、2日目は犬、3日目は牛を崇拝する儀式を行う。彼らは牛の尻尾を洗った水を飲んだりもするが、牛は富、財産および繁栄のヒンドゥー教女神であるラクシュミの化身と見なされるためだ。

富と繁栄は、牛のしっぽを洗った水を飲むときには来ない。これはただ主による。

「富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。」(歴代誌上 29:12)

罪の赦しのための大変な修行も、繁栄のための虚しい偶像も全て捨てて救援者であり主権者である神様に進むことを…···. [福音祈祷新聞]

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