神の国は乞食のものである。

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神の国は乞食のものだ。 それなら本当に”貧乏な者””πωωχὸ”(プトコイ)は誰だろうか?

(1)物質的に貧しい者たちだ.

ここで、心霊が貧しい人は、実際に物質的にも貧しい人々を意味する。 この事実が重要だ。私はずいぶん前に医師たちの集まりであるヌガ会の招待を受けて箴言とイエス様の御言葉を持って「ラクダが針穴を通ることは、金持ちが神の国に入ることより簡単だ」(マルコ10:25)という聖書の教えを慎重に交わしたことがあった。 そして、実際に神の国に有利に使うよう、所有権放棄に対して強くアピールした。 その時、講義を聞いた多くの医師の中で、ある医師が私のところに来て、こう言った。“教授, 恥ずかしいですが, 私は信仰がないので, 現在その御言葉にに従うことは難しいです。”

そんな正直な告白を聞いたことがあった。実は私たち共同体は無所有で生きているが、文を書いている私も、例外ではないという気がする。 金持ちではないが、それでも金持ちだという気がする。 家があるわけでもない、個人の車があるわけでもないが、執筆している研究室に1冊に十万ウォンを超える貴重な本も多く、貴重な資料も多い。恥ずかしいが、神様の御惠のおかげで学んだ特別な知識もある。急いで研究して御霊によって解けさせて皆に分けなければならないと思うけど、心ばかりが忙しいだけだ。ルカによる福音書と並行する言葉に耳を傾ける必要がある。

“あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の國はあなたがたのものである”(6:20)

“心の乏しい人”ではない(マタイ5:3) ‘貧しい者’と言う。 “狐も穴があり、空中の鳥も住処があっても人の子は頭の置き場がない”といわれた主のことを考える時間になれば良いだろう(マタイ8:20)

(2)所有権を破棄した者たちだ。

貧しい人たちは、実はあきらめる所有もない。彼らには力がなく、世間に頼る人などいない。 しかし、何でも手にしている者は、所有権が放棄された者でなければならない。所有に執着する者であってはならない。旧約聖書が書かれたヘブライ語には「所有」という単語が存在しない。驚くべき教訓だ。世の中の物に執着しているわれわれの世俗化した心に刻むべき教訓だ。

“なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 (テモテへの手紙一6:7-8)

ダビデの所有についての告白を聞いてみよう。 “主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します。。”(詩編119:57)

実に驚くべき告白だ。 さらに、霊的に神様のお助けなしには、何の善い事を行うことはできず、自ら神様に要求される事を行う能力がないという事実を心から認める者たちである。神だけを全面的に依存する者たち、天国はこのような者たちのものであり、傲慢な者たちは天国から除外されると聖書では言っている。

(3)苦難を一杯受けた存在だ。

物質と心の貧困、苦難は、実に不可分の深い関係である。貧しい人々の心には頼るところは神様に対する自分たちの信仰しかないので、貧しい人々は必然的に神様だけに頼るしかない。そのため、彼らは実際、神様の特別な関心の対象だった。貧しさと苦難と兼備はヘブライ語で深い相関関係にある。次のヘブライ語は同じ語源を持つ単語である: “貧乏”( עָנִ י,  アニ)、”苦難”( עִ נוּי,  イヌイ)、 兼備、謙遜( עָנָו,  アナブ)

旧約の詩篇9:19、イザヤ41:17、61:1(参照、ヤコブ2:5πωωχὸ)節は貧しい者は苦難を受ける者である。苦難は人を謙遜にしていく。謙遜は自然にできるものではない。詩篇の祈りを読んでみると、世の中で捨てられた彼らの祈りはすさまじい。どれほど苦難がひどかったか、“エリ·エリラマ·アザブタニ” “わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 (詩22:3、7)自分を呪うほど、一杯蔑視と苦難を受けた(ヨブ3、エレミヤ20)。こんな者たちの祈りを神様は聞く(詩編22:25)

詩篇9:19乏しい人(所有の無い者)は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。 。

イザヤ41:17 苦しむ人(所有の無い者)、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。

イザヤ61:1 主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

詩編22:25 主は貧しい人の苦しみ(苦難)を決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。

ヤコブ2:5 神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

ここにあるヘブライ語の “אֶ בְ יוֹן” (エブヨン)、  “עֲנָוִ ים”(アナビーム)は文字的に物質のない、手に何も持っていない貧しい者たち、所有のない者たちであり、これによって心が病んだ者たちを意味する。

(4) 一言で”心霊が貧しい者”はヘラ語で”乞食”を言う。

マタイ5:3節の言葉を一言でよく理解できる聖書の一節はどんな一節だろうか。 “πωωχ́ς”(プトコス)の2節が挙げられる。

ガラテヤ 4:9
改訳:無力で頼りにならない
標準新訳: その無力で浅く幼稚な教訓
GRK: ἀσθενῆ καὶ πτωχὰ στοιχεῖα οἷς
NAS: to the weak and worthless elemental things,
KJV: to the weak and beggarly(乞食のような) elements,

ルカ16:20 ラザロというできものだらけの貧しい人が
GRK: πτωχὸ ς δέ τις
KJV: a certain beggar(乞食) named

ルカによる福音書に、ある富豪の家の正門前でラザロという人が、できものだらけの体で横になり、その富豪の食卓から落ちてくるくあずで腹を満たそうとしたところに、犬たちが来て彼のできものをなめたという話がある。

ルカは彼を指し、“貧しい人”(ナック16:20)と言う。 ルカの福音書の本文に出てくる貧しい人がヘラ語で”πωωχος”(プトコス)だ。だから心霊が貧しい者とは、一言で乞食だ。 霊と肉の乞食なのだ。 乞食は乞食の特徴がある。周りの乞食を見ると、しゃがんだ状態でまともに見ることもできず、もし誰かに何かを与えられないかと、ただひたすらカチカチという音に耳を澄まして待っている者だ。ところが、ヘラ語で乞食のクラスがある。ここで言う乞食は、かわいそうな乞食をいう。まさに乞食の中でも乞食だ。すると、正確に言えば神様の國は乞食の中の乞食のものであるのだ。

それで我々はイエスの教えに驚くしかないのだ。(マタイ 7:28, 29)
“イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである.” ここで“驚いた”で使われたヘラ語の動詞 “έ ξεπλή σσοντο” (エクセプレスソント)という単語は、まるで一発叩いて落ちてパニック状態になった(to strike with panic)という、それもそのパニック状態が瞬間的に回復したのではなく、長い間続いたというヘラ語(imperfect)を使用した。

今日、この文を読んで、このような驚きと恐れが残り続けている者は、私はどうしようと胸を打った者は、彼がまさに真の「プトコイ」であり、神の国が彼のものだ。
“ああ、神様!私は本当に金持ちです。 首に力が入るほど!持ってるものが多すぎます。 どうしよう! 私を哀れんでください! あなたの国が訪れますように!”
To be continued. (続く)
神の国は乞食のものだ! それでもまさか。 [福音祈祷新聞]

キム·ミョンホ|ヘブロン宣教大学聖書言語大学教授。 福音と祈りの基礎の上に聖書の原語研究を通じて、神の国の復興と宣教完成のための次の世代を立てる事に仕えている。

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