説明のつかない神様の贖いの御恵

キリストの中で完全な教会(6) 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」(ガラテヤ4:4~5) 神様は人としては説明できない「贖い」という方法を使った。 正義で借金を返すものの、資格のある人が代わりに借金を返させた。理解できない、話にならない方法で神様も義であり、私たちも義であるたった一つの道を用意された。これが「贖いの義」である。 自らを赦しができない私たちにキリストイエスの中にある赦しによって神様の御恵によって無報酬で義だということを得させた。この道しか他に道がなかったので御自分がすべての罪の代価を自ら払ってイエス·キリストを通じて審判を受けた。最も完璧な主のみ恵みだった。そして、分け前を残しておいた。イエスを彼の血によって信仰による和解のいけにえにされた。 私が直接罪の償いをしたわけではない。しかし、信じる私たちは誰かが私の名前と私の資格で返してくれたその功労を信仰で完全に受けてイエスに起きたことを自分に起こったことと受け止めれば良い。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死んで審判を受ける時、私の名札をつけて私になって死んだので、その方が死ぬ時、あれほど変わらなかった自分が一緒に死んだことを信仰として受け入れるのだ。それで自分を信仰で死に渡し、もう自分ではなくただ私のために死んでそして生き返られたイエス·キリストにすべての生命の主権を与え、新しい生命として受け入れなければならない。 今は私ではなく、私の中にキリストが生きる人生を生きていくようにしてさせた。ついに罪悪の呪いから抜け出し、罪と関係のない神様の水準、神様の形状を成すようにさせた。聖なる主の民で、罪から自由な者として、勝利する者として生きていかせる。 最初の創造の時は言葉でされた。しかし、私たちを救う時には神様の父親が御自分の一人しかいない息子をこの地に人として送った。律法の義を成し遂げるために女から生じさせ、律法の呪いを代わりに受けて十字架で死んで復活するまで、このすべての過程を成し遂げた。神様が世の中をこんなに愛して恐ろしい罪に売られて心の中心に神様と仇になった私たちの昔の生命を終えた。天地開闢よりもっと難しいことを成し遂げられた。 私が直接したことは何もない。 しかし、イエス·キリストが私の代わりに成し遂げたそのことを私に直接なされたと信じて信仰で参加しなければならない。イエスの死、私の死、イエスの復活、私の復活! 二度と罪が主人の役割を果たせず、二度と律法が私を罪に定めることができない。今はただキリストが私の主人になって生きていくことで、神様だけを愛し真理に従って天に属した人生を生きるようになされた。この夢見るようなものすごい福音を主が準備しておいて「ただ信じるだけしろ。」とおっしゃる。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

神の国は乞食のものである。

神の国は乞食のものだ。 それなら本当に”貧乏な者””πωωχὸ”(プトコイ)は誰だろうか? (1)物質的に貧しい者たちだ. ここで、心霊が貧しい人は、実際に物質的にも貧しい人々を意味する。 この事実が重要だ。私はずいぶん前に医師たちの集まりであるヌガ会の招待を受けて箴言とイエス様の御言葉を持って「ラクダが針穴を通ることは、金持ちが神の国に入ることより簡単だ」(マルコ10:25)という聖書の教えを慎重に交わしたことがあった。 そして、実際に神の国に有利に使うよう、所有権放棄に対して強くアピールした。 その時、講義を聞いた多くの医師の中で、ある医師が私のところに来て、こう言った。“教授, 恥ずかしいですが, 私は信仰がないので, 現在その御言葉にに従うことは難しいです。” そんな正直な告白を聞いたことがあった。実は私たち共同体は無所有で生きているが、文を書いている私も、例外ではないという気がする。 金持ちではないが、それでも金持ちだという気がする。 家があるわけでもない、個人の車があるわけでもないが、執筆している研究室に1冊に十万ウォンを超える貴重な本も多く、貴重な資料も多い。恥ずかしいが、神様の御惠のおかげで学んだ特別な知識もある。急いで研究して御霊によって解けさせて皆に分けなければならないと思うけど、心ばかりが忙しいだけだ。ルカによる福音書と並行する言葉に耳を傾ける必要がある。 “あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の國はあなたがたのものである”(6:20) “心の乏しい人”ではない(マタイ5:3) ‘貧しい者’と言う。 “狐も穴があり、空中の鳥も住処があっても人の子は頭の置き場がない”といわれた主のことを考える時間になれば良いだろう(マタイ8:20) (2)所有権を破棄した者たちだ。 貧しい人たちは、実はあきらめる所有もない。彼らには力がなく、世間に頼る人などいない。 しかし、何でも手にしている者は、所有権が放棄された者でなければならない。所有に執着する者であってはならない。旧約聖書が書かれたヘブライ語には「所有」という単語が存在しない。驚くべき教訓だ。世の中の物に執着しているわれわれの世俗化した心に刻むべき教訓だ。 “なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 (テモテへの手紙一6:7-8) ダビデの所有についての告白を聞いてみよう。 “主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します。。”(詩編119:57) 実に驚くべき告白だ。 さらに、霊的に神様のお助けなしには、何の善い事を行うことはできず、自ら神様に要求される事を行う能力がないという事実を心から認める者たちである。神だけを全面的に依存する者たち、天国はこのような者たちのものであり、傲慢な者たちは天国から除外されると聖書では言っている。 (3)苦難を一杯受けた存在だ。 物質と心の貧困、苦難は、実に不可分の深い関係である。貧しい人々の心には頼るところは神様に対する自分たちの信仰しかないので、貧しい人々は必然的に神様だけに頼るしかない。そのため、彼らは実際、神様の特別な関心の対象だった。貧しさと苦難と兼備はヘブライ語で深い相関関係にある。次のヘブライ語は同じ語源を持つ単語である: “貧乏”( עָנִ י,  アニ)、”苦難”( עִ נוּי,  イヌイ)、 兼備、謙遜( עָנָו,  アナブ) 旧約の詩篇9:19、イザヤ41:17、61:1(参照、ヤコブ2:5πωωχὸ)節は貧しい者は苦難を受ける者である。苦難は人を謙遜にしていく。謙遜は自然にできるものではない。詩篇の祈りを読んでみると、世の中で捨てられた彼らの祈りはすさまじい。どれほど苦難がひどかったか、“エリ·エリラマ·アザブタニ” “わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 (詩22:3、7)自分を呪うほど、一杯蔑視と苦難を受けた(ヨブ3、エレミヤ20)。こんな者たちの祈りを神様は聞く(詩編22:25) 詩篇9:19乏しい人(所有の無い者)は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。 。 イザヤ41:17 苦しむ人(所有の無い者)、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。 イザヤ61:1 主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 詩編22:25 主は貧しい人の苦しみ(苦難)を決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 ヤコブ2:5 神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 ここにあるヘブライ語の “אֶ בְ יוֹן” (エブヨン)、  “עֲנָוִ […]