[GTKコラム]神様の愛(6):神様の愛の緊張感

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神様の愛は複雑な教理である。

私たちはこのシリーズで神様の愛を理解するのに主要な問題–特に愛に対する感想的な見解と神様の他の属性について無視する一般的な傾向を調べた。しかし、神様の愛に対する最も深遠な神学的問題はその方の他の属性、特に正しさと激怒が調和を成しているということだ。

神様の愛は、私たちが罪を自由に犯すことができるように許容すると仮定するのは危険なことだ。神様の愛は邪悪さについて公儀と正義のある怒りが共存する愛だ。慎重に聖書を研究する人にこの共存は、おそらく神様の御言葉の中で最も緊張感を与える言葉だろう。そして神様がシナイ山でモーセに現れたときその緊張感を簡潔に宣言された。

”主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。”(出エジプト記34:6~7)

この一節が有名な聖書の節でないかもしれないが、マークデボはこの一節が聖書の神様を知る決定的に重要な一節としてこのように断言した。

“聖書の神様を理解することを望むなら、この節を理解しなければならない。これは神の民を拘束するための希望の約束だ。聖書が描写している神様はただ無慈悲に浄罪する冷酷な神様ではない。神様が確固たる意志を持って、罪を反対して問うことがひたすら神々しくて正義ためだけでなく、また、約束を誠実に守る方だからだ。歴史を通じて神様は御自分の民たちに御自分の栄光を示しことを計画して約束した。そしてそうされた。しかし、主はここでおっしゃったとおり、”決して罰せずにはおかず”としながらどのように邪悪さを許されるか?この謎に対する答えは何だろうか。”

出エジプト記34:6~7は愛が神様の唯一の属性ではないと言う。また、愛が、神様の主な属性でもない。その属性が公儀と怒りを消したり、なくして捨てがたい。神様の愛はその方の神聖の範囲内でのみ動作される。神様は”罰せない”のができない。ジョン・マッカーサーはその理由を次のように説明する。

“公儀は神様の統治の正義を説明した法律的な用語である。神様は公儀の神様だ。神様の公儀はその方の他の品格と同様に変わらない。神様はご自分の心を変えたり、道徳的基準を下げることができない。神様は絶対的に完全なためにいかなる変化も神様の完全さを変えることができない。それはまったく考えられることではない。なので神様の定義は変わらない。神様の偉大な本性がそれを要求する。

創造主として、神はその方が喜ぶあらゆる方法で全ての被造物を治める権利がある。陶工は粘土を自分が望むようにする権利がある。神様は法を制定して標準を決めてまた、これによって裁判される。神様はご自分の美しい志のためにすべてのものを創造された。その方はそうするすべての権利を持って居られる。

神様はまた、被造物がどのように機能をすべきかに対する原理を決定する絶対的な権利を持っていらっしゃる。簡単に言って、ご自分が何をするか決定する絶対的な権利を持って居られる。そして神様は完全な義で統治されたいつも最も高い真理の基準と完全な徳を守ってくださる。

ある生き物が神様の統治に対抗したり、神様の統治に対抗する反逆者になれば、その被造物はすぐに神様の審判を受ける。神様の意思に順応しない誰も神様の変わらない公儀に会うことになるだろう。”

神様は犯罪者を処罰される。出エジプト記34:6-7(憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。)の前に出ている神様の品格に関する真理を見過ごしてはならない。私たちは有罪判決を受けた者であるためそれの冷厳な結果を考えなければならない。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(ローマの信徒への手紙3:10~12、23)

聖書の証言に根拠するとき、神様は神聖な必要性によって罪を犯すすべての人たちに、神様の怒りを注いでくださらなければならないため、神様が罪を許したことで神様の愛を見せてあげられないように見えるだろう。そのような緊張感は人間の心では克服できないことだ。しかし、神様としては神様の愛と公儀の間の緊張がキリストの人格と使役を通じて、神様の栄光を表す完璧なシナリオだ。

これは正確に新約の啓示の栄光の光が最も明るく光る場所であり、神様の愛の真の深さを表すところだ。神様は単に、罪人を無罪だどしない。彼らの罪を見落としされない。

人間としてイエス・キリストは彼らの罪を永遠に贖罪するために一気に自分を捧げた。もう彼は信仰を通じてその自分の完全な義を彼らに転嫁することで彼らを抱きしめてあげている(ローマの信徒への手紙4:11)。そして、すべての真の信者たちは義の神様の前で完全に義とされる。

それはこれから起こる夢ではなく、現在の事実だ。引き出した過程ではなく、信仰を持つ瞬間に起きる即刻的な神様の御業だ。神様の聖なる怒りが穏やかになって、その愛は、キリストが開いた救援使役で完璧に成就される。したがって、その方自身が罪人たちが神様の強力な審判から脱することができる真の拠点だ。

イエス・キリストの犠牲は罪人に向けた神様の愛と彼らに対する怒りの間に横たわる緊張を解決した。その犠牲は神様の大きな愛情の深さを見せてくれながら神様の公儀に対する厳しい要求を満たした。”このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。”(ローマの信徒への手紙3:26)。

神は愛の神である。しかし、それが神様が私たちの犯罪を違った目で見るという意味ではない。そしてそれを、罪の代価を恐れる必要のない許可証を得るものと理解してはならない。

しかし、神様は変わらない愛という属性を持っていらっしゃる。そのため、私たちが当然払わなければならない怒りの刑罰の場に私たちに代わってキリストを送り、喜んで苦難を経験させたのだ。 [福音祈祷新聞]

キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト

GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。

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