天国を渇望するほど心霊が貧しいのか。

福音に対する二つの反応(2) 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隱れたことを見ておられる父が,あなたに報いてくださる(マ6:4)がある。これはユダヤ人の外見的な信仰を真の義人の信仰で教訓し教える内容だ。また、’何も心配するな’と言いながら、’空中に飛ぶ鳥を見ろ。それらは心配しなくても神様が広げてくれた青空で神様が食べさせるものを食べる。野原のユリは一日に咲いては散るが、栄光を極めたソロモンより神様が美しく着せているのに、ましてや君たちだろうか。どうして心配して何を飲むのだろうか?食べようか?着ようか?と心配しているのか?’とおっしゃる(マ6:25~31)。イエス様は何よりまず神の国と神の義を求めれば、あなたたちを創られた方が食べ物を与えないで、体を創られた方が着るものをくださるのではないかという山上報勲を与えた。 天国の例えとして知られているマタイ福音13章は、7つの比喩で神の国の真理を説明された。肉体を着て有限な時空間の制限の中で暮らす私たちには次元が違う’天国’に対する話は想像も、見当もつかないので主は比喩を使ったのだ。ところが、この比喩は聞く人の立場によって結果が天と地ほどに違う。準備ができている人の耳にはよく入り、手に取るように気付くけど、全く聞き取れない人もいる。 “この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で 理解せず、悔い改めない。わたしは 彼らをいやさない。(マ13:15) 自分で賢いと思うが、かたくなな心だから聞き取れないのだ。これは知能指数(IQ)の問題ではない。神様の国に対する霊的な真理は心で見ずに聞かなければ分からないので、従順しようとする心でなければ聞き取れない。いくらすごい能力で神学を勉強し、熱心に聖書を読むとしても、違う心で神の国の比喩に接すると心に染み込まないのでその国を享受することはできない。 “もし、わたしたちが眞理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば, 罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き盡くす激しい火とを,恐れつつ待つことだけです。モ―セの律法を破る者は、二,三人の證言に基づいて、情け容赦なく死刑に處せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。(ヘブライ10:26〜29) 衝撃と感激で受けた福音を存在の中の最も深いところ、心の中心に受けずに他の目的で受けて適当に感動し、自分に実際にならないまま暮らせば、いつかはこの福音を武器に使うことになる。福音で他人を停めて判断し批判することになるのだ。しかし、自分がその福音の中に入らないため、彼は罪を犯す場に行くしかなくて恐ろしい刑罰を受けることになる。福音を心から受けずに従順しない者が他の動機でその秘密だけを知ることがどれほど危険で恐ろしいことかを警告して下さる御言葉だ。 このように天国の比喩を聞く時に私たちの心の中心が現れるようになっている。天国を渇望して貧しい心霊として準備されている人は”心の貧しい人は幸いである。”(マ5:3)を比喩で話せればただ’アーメン’と受け取り喜びで反応するようになっている。しかし、自己中心的な人々はそうはできない。(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

福音は世間の常識では理解できない価値である

福音に対する二つの反応(1) 肉体を着て地を踏み込んで生きていく私たちの人生は、食べて、飲んで、結婚して、売買しながら目に見える人生を熱心に生きていく。ただ目の前にある現実を急いで生き抜くのに忙しい私たちにある日突然全く経験したことがない別次元の世界が現れたら、その世界は理解不可能だ。肉体を着て有限な世の中を生きていく私たちが最も理解できないことの一つが永遠の神の国だ。天国からこの地に来られた神様が聞かせてくださった無限で永遠の神様の国と永生、そして神様が治めるという言葉こそ人間が想像できない神秘的な次元の話だ。 異邦人は神様の言葉の基盤がなかったので全く聞き取れなかった。しかしユダヤ人たちはすでに奇跡と予言を通じて受ける準備ができた選んだ民族だった。神様はイスラエルを啓示の伝達者として使うために特別に選んだ。神様の言葉を先に任せながらどの民族にも許さなかった生きておられる神様を経験させてくださった。 主はこの地にいらっしゃる時、当時一番華やかで注目されたローマや中国西安ではなく、最も小さくてみすぼらしいイスラエルの地に来られた。神様はすでに約束してくださったユダヤ人たちに言葉通り肉体になって来られたイエス様を通じて次元が違う神様の国の秘密をこの歴史の中で啓示された。 神様が聞かせてくれた天国の宝のような言葉のうち、マタイ福音書5章から7章までを山上報勲という。山の上で神様が施してくださった宝物のような教訓という意味だ。神様は当時どこでも聞いたことのない驚くべきことを言う。ユダヤ人が神の民と言っても霊的な秘密をよく知らないため、神の祝福を富国強兵や太平盛大など目に見えるこの地のものに例えて、彼らの理解可能な水準で伝えた。神様に従う時は国が富強でうまくいき、不順な時は苦労する。 ‘ああ、神様に従えば福で、不順なら呪いだ!’ということを肉体でも悟り、すべての生死禍福が見えないけど生きておられる神様にあることを知らせようとされた。 すべての生死禍福が生きている主にある。 しかし、神様が来て基礎しか知らないユダヤ人たちにおっしゃった天国の福は私たちの常識を破る話だった。”心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。”(マ5:3~5)このすべての話は世間とは全く違う価値だった。 この驚くべき言葉は神様なしにこの地に住みながら目に見える人を恐れて現実だけに反応する人たちにおっしゃった言葉だ。 “祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。”(マ6:5~6)(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師) LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]ジョン·パイパー_もっと良い天のお父さん。

イエス様は’あなたにお父さんがいらっしゃる’という激励をおっしゃっています。’君に天の父がいらっしゃる’という次元を越えておっしゃっています。’あなたに完璧な父親がいて、その方は悪い方ではない’とイエス様は対比させます。神様は悪い方ではありませんが、すべての父親は悪いと。もし最高の父をもうけたなら、これから良いことがあるでしょうが、神様はその良い父より1万倍も良い父だということです。実は私は詳しく調べてみて、とても小さな違いがあると言いたい誘惑を受けます。ここで言い間違えたらダメなんですが。これを深く考えてみませんでした。良いお父さんと悪いお父さんの違いがこれくらいなら、神様と良いお父さんの差は無限です。いわばそうだということです。悪い父と希望する父の間には大きな差がありますが、その差は神様と良い父の間の差と比べてみたらとても小さいです。神様の父性に対する理解を皆さんの父に対する経験に照らして制限しないでください。皆さんのお父さんがどんなに良くても悪くても関係なくです。[福音祈祷新聞] ジョン·パイパー(JohnPiper)|ジョン·パイパーはdesiringGod.orgの創立者であり、Bethlehem College&Seminaryの総長として33年間ミネソタ州にあるBethlehem Baptist Churchの担任牧師として仕えた。代表作に’神様を喜びなさい’があり、最近著述した’私がパウロを愛する30個の理由’の他に50冊余りの本を著した。 この映像は改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[ソン·ウンシクコラム]”離婚届に印を押して一人でいたところ、突然イエス様が訪ねてきました”

初めて書く使役日記のようです。 あまりにも文を書く才能がなくて書きたくなかったが、やりたくなくても規則を立てれば従うのが共同体だと思います。悩んだ末に初めてなので、証言した方がいいと思って分けようと思います。 私が神様に会ったのは2014年8月です。 私は結婚はしたが全然結婚した人のような生活をしていませんでした。毎日夜遊びで夜明けに家に帰りました。そして性格もとても乱暴でやくざの友達も私をサイコと呼びました。両親も私の顔色をうかがうほどでした。 そのように暮らしていたある日、妻が離婚をしようと言いました。当時は別居中で私は釜山で遊んでいました。それで離婚届にハンコを押すためにソウルにある家に行きました。妻は泣いていたし、私は書類にハンコを押しました。そして部屋に入って横になりました。もう離婚もしたのでこれからちゃんと遊んでみようと、こういう考えをしているのに突然イエス様が私に訪ねてきました。今思えばお母さんの涙であげた祈りのためではないかと思います。 今もその時、その瞬間を忘れられません。一瞬でイエス様が心に信じられました。イエス様が救援者という事実と、私のために十字架で死んだということが少しの疑いもなく信じられました。私は泣いて、また泣いて、泣き続けました。朝も私は泣いていました。イエス様が大好きで狂いそうでした。次の日の朝、離婚届を受け付けに裁判所に行かなければならないのに妻は泣いている私を変に見ました。まるで’この野郎が離婚したくなくて演技するのか’と眺めて”何してるんの、早く準備して。裁判所に行こう”と言いました。私はその時、号泣しながら妻に話しました。イエス様が私のために死んだ。私は妻を抱きしめて泣き続けました。結局裁判所には行けませんでした。 私はその日からすべての中毒が完全に途絶えました。タバコ、お酒、性欲その他すべての中毒は途絶えて、何も食べられないので体重は90kgから74kgに痩せました。ひたすらイエス様を考えるだけでした。とても幸せでした。神様がくださる喜びに毎日胸が張り裂けそうでした。 毎日幻想を見て、夢を見て、幽霊も見て、私が祈ると神様が細かく答えてくれました。私が祈ると雲も動きました。そして死んで生き返ったこともありました。本当に一つ一つ話すと多すぎて、ここに全部移すことができません。 その週日から教会に通い始めました。礼拝時間ごとに恵を注いでくださって涙なしに差し上げた礼拝がなかったようです。教会では私を変に見ました。あの人は誰だから来るたびに泣いて、また賛美はあんなに大きく歌ってって、そんな姿の私を変に思うようでした。 そのように教会では適応するのに時間が必要でした。私は祈るのが大好きで、毎晩4時間から5時間ずつ祈りました。火を消して祈りましたが、祈りが終わると部屋の中が明るくなっていました。そして方言祈祷と方言讃揚も行いました。でも、教会や誰かと一緒に祈るときは、方言を使いませんでした。私の証言を読んで、ある方は神秘主義者だと思うかもしれません。私の考えでは、私は何も知らず、あまりにも無知な人間なので、神様が私にはこのようにしなければ信じないようで神秘的な体験を数え切れないほど与えてくれたのではないかと思います。 最後に私が長くはないが、今まで信仰生活をしながら感じたのは’ただイエス、ただ十字架’ということです。いくら多くの体験をしても、多くの人を直しても十字架のない福音は福音ではありません。フレイフォーユーのすべての使役者の方、同役者の方々、最後まで十字架を握って狭い門の狭い道を行くことを祈ります。 シャローム!<キム·テホ>[福音祈祷新聞] *このコラムでは、ソン·ウンシク牧師とフレイフォユ使役に仕える使役者たちの使役日記を紹介しています。 ソン·ウンシク牧師|2013年末からソウル市内のホームレスと一人暮らしの高齢者を助け祈るフレイフォーユー使役としてこの地に仕えている。 <著作権 ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

洪水前には気圧が2倍… いつもエネルギーが溢れていたはず

洪水の前は今とはずいぶん違っていたはずだ。その時は酸素量が今より多かったはず。酸素量が多ければ、体の治癒を早くする。もし気圧を2倍高めて酸素を増やせば、ヘモグロビンがいつものように酸素を受け入れるだけでなく、血漿も酸素で充満することになる。それは私たちが数百マイルを疲れずに走ることができるという意味だ。アダムとハワは車を必要としなかった。彼らはどこへでも疲れずに駆けつけることができたはずだ。 洪水で消えた気圧 実際、最近も高圧酸素で病気を治療している。テキサス州のジェシカという赤ちゃんが井戸に落ちた事件があった。18ヵ月の子どもの足が前後に開いたまま、8インチ(約20センチ)の鉄パイプの中に滑り降りた。赤ちゃんはその中で2日間閉じ込められていた。ついにパイプから出した時は、赤ちゃんの体の多くが血行不足で黒くなっていた。特に右足はゆがんでいたため、完全に黒くなってしまった。医師のうち1人は足を直ちに切り取らなければならないと言ったが、ある医師は足を切り取る前に子供を高圧酸素室に入れてみようと言った。子供は2倍圧力の酸素室に入った。2時間後にその子の足がピンクに戻った。足の小指の半分を切ることになったけど、足を守ることができた。 西ドイツでは中風患者を高圧酸素室で治療したら中風が驚くほど回復した。英国でも多発性硬化症とあらゆる種類の病気に高圧酸素室を利用したいる。インドではハンセン病を治療するのに高圧酸素が良い効果を上げた。 ある子供は高圧酸素で脳性麻痺の治療を受けている。医師らは手術中に麻酔中の人に酸素を加えると、感染件数が半分に減り、嘔吐件数も半分に減ることを発見した。ニューヨークでは高圧酸素で自閉症を治療したこともある。米国のスポーツチーム’ダラス·カウボーイ’は高圧酸素室を持っている。高圧酸素室で負傷した選手が2倍も早く治るのを発見したためだ。 オレゴンにいる私の友人も高圧酸素室を持っている。 私が訪問した時、高圧酸素室に入ってみた。友達は私に読む本を渡してドアを閉めながらこう言った。“ドアを閉めて普通より圧力を3倍高める。もう90フィート(約27メートル)下にダイビングする。” 私はその中で本を読みながら1時間の間に純酸素を3倍圧力で飲んだ。友達が私を取り出してくれながら聞いた。”気分はどう?”私はこう叫んだ。”世界中を走り回ることができそうだ。これは最高だよ!”洪水の前の全世界は気圧が2倍であって、そんなに多くの酸素があったとすれば常にエネルギーがあふれていただろう。 植物は酸素ではなく二酸化炭素を飲む。日本にいるある人が圧縮された二酸化炭素を利用してトマトを育てたら普通より早く大きくなった。トマトの木は2年生の頃に16フィート(約4.9メートル)まで伸び,約900個のトマトを実る。その後、その木はさらに伸びて40フィート(15メートル)になり、この一つの木から1万5000個のトマトが生産された。ミニトマトの木だったが、その木のトマトは野球ボールほどの大きさだった。 アイオワにいるある人は”なぜ鳥は日が昇る1時間前からさえずるのか?”という質問があった。彼は鳥のさえずりが葉細胞の気孔を開く特定周波数を出すことを発見した。葉を虫眼鏡で見ると穴があって、それが開いて二酸化炭素を入れさせる。朝、植物を起こす機能をするのだ。 そして、この周波数がクラシック音楽から多く出ることが分かった。それで彼はベートーベンとバッハ、ショパンの音楽を自分のトウモロコシ畑に流した。彼の隣人は彼が狂ったと思ったが,トウモロコシの木が15フィート(4.6メートル)に育つのを見てびっくりした。クラシック音楽をカボチャに聞かせたらカボチャの葉一つになんと5個ずつ開き、黒いクルミの木は普段より2倍も早く育った。ジャガイモは2~3倍の大きさで育ち、メロンはサッカーボールほどに育った。これを音波栽培とも呼ぶ。 [福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米ケント·ホーヴィンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホーヴィンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信頼体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

【TGCコラム】弱さ、福音に耳を傾ける機会

“アドニヤは慈悲を求めに駆けつける。 これが彼の唯一の希望だ” アドニヤ、自分自身を振り返らせる名前だ。注目する人は多くないようだが、よく見ると彼の話には私たちに与える助けがある。 ご存知のようにアドニヤはダビデの死が差し迫ると、その時を狙って自ら王になろうとした。列王記上1:5で彼はこう言う。”私が王になる”。彼は父親から王位を受け継ぐまで待てず自ら王座に上がろうとした。ダビデはこのようなアドニヤを認めなかった。ダビデはソロモンが王になることを望み、結局ソロモンを後継者にした。 このことで異母兄弟のソロモンとアドニヤはぎこちない仲になった。アドニヤのセルフ戴冠式祝賀会はソロモンが王になったという急知らせで中断され、その場にいた人達はたちは驚いてばらばらになった(王上1:49)。アドニヤは1人残され、ソロモンが”怖かった。” 彼はこれからどうするのか。 “立って行き、祭壇の角をつかんだ。”(王上1:50) 怖がっていた。誰も見ていない時、王冠を握ろうとした計略がぞっとする過ちだったことを今は知っている。王座に就いたばかりのソロモンが、民の前で自分を手本に処断することを恐れる。だから、慈悲を求めに主の所に駆けつける。祭壇の角をつかむ。 まさにここでアドニヤは私たちにとても役に立つ。 1。彼は自分の罪を見る。 彼は自分が何を犯したのか、その結果がどうなるのか苦痛に思っている。(私は彼を悔悟の模範として展示するつもりはない。自ら王座に上がった結果を彼が知ったという事実に注目すれば、役に立つということを見せようとするものだ。) 2。彼は自分の弱さを見る。彼は王の相手にならない。彼はソロモンを退けたり勝つことはできない。彼は今後の状況をコントロールすることはできない。彼は弱い。 3。彼は慈悲を求めに駆けつける。これが彼の唯一の希望だ。彼は主に駆けつけてソロモンが自分に慈悲を施すことを望まなければならない。 まさにこの地点で私たちの話につながる。私たちは皆弱さと不安を感じる。一部は私たちが犯した罪の直接結果である。他人が犯した罪のためにもある。肉体の問題のためにもある。 我々を弱める要因は沢山ある。私たちは何が私たちを弱めるのかよく知っている。 こういう時、私たちはどう反応するのか? アドニヤはよほど痛ましい姿を見せる。堂々と罰を受けるという姿勢ではない。祭壇にしがみつく。  色々な状況の中で私の弱点が明らかになり不安が押し寄せる時、私たちはどうするのか?  そういう時、僕がよくやることがある。私はそれをよく知っている。私は問題解決モードに縮こまるのが好きだ。あまりにも頻繁に心配したりもする。自分自身を哀れに思う時も多い。ある時は人のせいにする。大半は忘れる。 何を忘れる? 1。私は神様の主権を忘れる。神様はすべてを治める主権者であるため、このような状況さえも神様の目を避けることができない。実は、私が感じる不安も神様が私に許したものだ。この真実を知れば、自己憐憫は一挙に消える。  2。私は神様の善良さを忘れる。私の不満は善に対する私自身の規定が間違っているために生じるものだ。神様が善良ならば、私の人生にある私を苦しめることさえも善良だ。懲戒である時もあり(ヘブライ12)試験である時もあるが(ヤコブ1)、それがどんなことであっても私の有益のためのものであり、聖化の過程であるのだ。 3。神様の福音を忘れる。 私は不満を言いながらうめき声を吐き出す。この時、私の心情を言葉で表現できるならば、それは事実上私に対する神様の誓いと愛に疑いの言葉になるだろう。このように私は自己憐憫と心配と他人のせいで神様を恨んで事実は神様を疑う。ところが、福音のトランペットの音がこのような疑いを吹き飛ばしてしまう。その音を聞いてみろ。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緖にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ人への手紙8:32) ちゃんと聞いたか?神様は福音の中でそして福音を通じて神様の民に神様の愛と関心と心を立証された。神様が私たちを愛しているという確認や証拠が必要なのか?ここカルボリ丘の頂上にその愛を宣言する血で塗られた記念碑がある! アドニヤは安全を求めに神様に駆け込んだ。しかし、今や私たちキリスト教徒が神様の聖殿だ。神様の御霊が信じる人々の中に居られる。したがって、私たちの前にある現実は、すべての聖徒に与えた愛と関心と慈悲と安全とみ恵の現実、完全に新しい現実だ。 神様がキリストの中で私たちに近づいてきたので、逃げて隠れる必要はない。 私たちは施恩座(mercyseat)になってくださったキリストに捕まっている。 私たちはキリストの所有であり、キリストは神の所有である。 [福音祈祷新聞] “神様が善ければ、神様が私の人生に持ってきて私を苦しめることさえも善い。” エリック·レイモンド|エリック·レイモンドはボストン都心に位置するRedeemer Fellowship Churchの担任牧師である。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]ドン·ルック·アップ

” すべてを軽く扱ってしまう文化に満ちているこの世の中で、私たちはどうやって永遠の福音をきちんと伝えることができるだろうか。 ” ネットフリックスコメディー映画「ドン·ルック·アップ」(Don’tLookUp)で天文学者ランドール·ミンディ博士(レオナルド·ディカプリオ)と博士課程の学生ケイト·ディビアスキー(ジェニファー·ローレンス)は全人類を破滅に追い込む巨大彗星が地球に向かっていることを発見する。彼らは直ちにホワイトハウスに駆けつけ、ジェニ·オリアン(メリル·ストリップ)大統領にこの事実を知らせる。しかし、彼らの緊迫した警告にもかかわらず、大統領は嘲弄まじりの政治的レトリックで対応する。これにケイトは絶望しながら、もし人類がこの彗星を防ぐために努力しなければ、我々は皆死ぬことになると叫ぶ。しかし大統領は、”通り過ぎる人を捕まえて、あなたが100%死ぬと言ったら納得できるだろうか”とぶっきらぼうに答える。 事実、大統領がこのような態度を見せるのは、この事実が選挙で大統領に不利な問題になりかねないからだ。 ネットフリックス史上2番目に大きな興行を記録しながら始まった映画’ドン·ルック·アップ’は、第94回アカデミー作品賞候補にも選ばれた。 ‘ドンルックアップ’は気候変化と科学不正に対する創意的風刺で批判と賛辞を同時に受けている。政治的には重くて一方的なテーマを扱っているが、アダム·マッケイ監督が演出したこの映画は、今ソーシャルメディアと大衆文化で精神が散漫になり、本当に重要で냐深刻な問題については考えないという現代人の世相をよく見せてくれる。 映画のタイトル’ドン·ルック·アップ’は地球に向かって近づく彗星を意図的に無視しようとする人々の愚かさを皮肉った。ところが、これは今の人々の霊的無関心を示すものでもある。現代人は全く上を向いて神様のことを考えない。たとえこの映画の内容が少し粗雑で青少年観覧不可の判定を受けたが、この風刺的な映画は今の教会と牧師に教訓を与える。最近、あまりにも騒がしく複雑で散漫な文化の中で、私たちが伝えなければならない緊迫したニュースである福音をどのように人々に伝えなければならないのか。 死ぬまで楽しむのに忙しい人々 ‘ドン·ルック·アップ’で最も印象的で面白い場面は、ランとケイトが人々を笑わせようとする芸能人(ケイト·ブランチャットとタイラー·ペリー)が出る朝のショー番組’デイリーリップ’に出演する場面だ。このショーに一番先に登場する場面は、大統領のオーリアンが最高裁判長に指名した人のスキャンダルだ。その次には有名女性歌手が登場し、彼氏と仲直りする感動的な場面が演出される。 そうしてからランドルとケイトが出ることができた。彼らは残りわずかな時間内で地球が終わりに迫っている警告をしなければならなかった。彼らはこのショーの明るくて活気に満ちた雰囲気とは全く似合わない重くて暗いニュースを伝えなければならなかった。 放送中、ケイトは冗談をしながら地球に向かっている彗星の知らせをまともに受けていない司会者に絶望する。そしてすごく激怒して”私たちの言葉が難しいですか?私たちが言おうとしていることは地球全体が破壊されるということです”と叫ぶ。すると司会者のブランチャットは”ここでは悪い知らせも軽く扱う”と答える。これにケイトは叫ぶ。 “地球全体が破壊されるという知らせは、面白いといけないんです。怖くて不便でなければならない知らせです!” 結局、ケイトのこのメッセージは大衆にそれほど重要に受け止めて貰えなかった。大衆は地球に向かって近づく彗星や滅亡に関するニュースより芸能人のゴシップに多くの関心を持っていた。ランドルとケイトが叫んだ緊急かつ実存的に重要なニュースに対する大衆の無関心は、今のキリスト教徒にも多くの教訓を与える。今、このように複雑で散漫で分裂した文化の中で、キリスト教徒はどのように福音を伝えることができるだろうか。牧師と伝道者たちは今現代人たちがこの世の散漫な文化の中で無感覚になり、まったく福音を聞こうとしないことを自覚しなければならない。 それでは、私たちは何をすべきか。すべてを軽く扱ってしまう文化に満ちたこの世で、私たちはどうやって永遠の福音をきちんと伝えることができるだろうか。 メディアはメッセージだ ‘ドン·ルック·アップ’でランドルとケイトが真っ先に悟ったのは、政治やエンターテインメントという”メディア”(medium)で彼らの重要なメッセージを伝えるのは危険だという事実だ。いくら重要なメッセージだとしても、それを伝える手段が持っている特性のため、メッセージが変質して毀損される恐れがあるからだ。これは、キリスト教徒が必ず覚えなければならない事実だ。この世の文化が持っている手段と方法と形式に福音を合わせようとすると、福音が持っている超越的真理をまともに伝えることができない。我々はスーパーボウル中継放送に30秒広告を流す企業や選挙に出た政治家のようなやり方でメッセージを伝えてはならない。 福音はこの世にあるいかなるメッセージとも次元が違う。私たちはこれを必ず覚えて福音を伝えなければならない。それでは、私たちはどうやってこのメッセージを伝えなければならないのか。 いくつかのアイデアを提示してみる。 聞く人を不快にさせることを恐れてはならない。 福音は罪を暴露し、審判を叫ぶ。 聞き手に自分の罪を見つめながら悔い改めることを求める。これを楽に感じる人はほとんどいない。しかし、福音の中にあるこの不便なメッセージは福音の核心だ。 福音は治療が優先ではないことを強調しなければならない。福音の主な目的は自己満足を感じさせるものではない。キリストが成し遂げた贖いが永生をもたらすという事実を、しかし、その購いがこの生涯における自己実現や満足に直接つながらないことを、聞き手が受け入れられるように伝えなければならない。 人間は死を避けることができない存在だという事実を聞く人に優しく考えさせ、(私たちが死ぬことは100%確実なことだ)、彼らに地球での短い人生の向こうを見つめながら生きていくよう励まさなければならない。今から1000年が過ぎた後も、私たちを依然として記憶して私たちを愛する人方は永遠の神様、私たちの父だけだ。 ソーシャルメディアを使って福音を伝えるなら、人々が主に上げる政治的なメッセージや娯楽とは明確に区分する必要がある。例えば、人々はインスタグラムに投稿する際に、自分の外見や素敵な光景、人々の注目を引く広告を露出させようとする。しかし、私たちは私たちが伝えようとするメッセージ自体に忠実でなければならない。福音の影響力はこの世の影響力の持つ方式とは違っていなければならない。 遅すぎる前に ‘ドン·ルック·アップ’の最後の場面は驚くほど宗教的だ。彗星の差し迫った衝突を控え、言い換えれば地球の生命が滅絶する直前にランドルはミシガン州に戻ってくる。そして妻に自分の不倫に対する許しを請う。ランドルは妻と仲直りしてから,この映画の主要人物全員と最後の晩餐会を開く。この時は誰もテレビを見ない。携帯電話に夢中になった人もいない。彗星が近づくにつれ、彼らはあまり重要ではないことへの関心を捨て、愛する人々と共にする時間にだけ完全に集中する。 信仰の家庭で養育されたけど信仰を捨てて再び戻ったユル(ティモシー·シャラメ)が、この最後の晩餐の前で祈る。 “天にいる父、全能の主よ、傲慢な私たちがみ恵を求めます。疑い深い私たちを許してください。また、主よこの暗い時期を愛で慰め、何が迫ってきてもあなたの大胆さとして受け入れるようにしてください。アメン” ユルはこの映画で誰もが忘れていたことを覚えていた。地球の終わりが来る時、私たちには神様以外には何もないのだ。神様だけが私たちの慰めになることができる。神様以外には、私たちに絶望と死を向き合う能力と勇気を与えのができるのは何もない。 ところで、どうやって人々に死が迫る前に永遠を準備させることができるのだろうか。私たちは福音はこの世のソーシャルメディアや娯楽とは根本的に違うという事実を必ず覚えておかなければならない。そして人々に地球の生活がいつか終わるということを知らせなければならない。映画で彗星が近づいてくるというニュースは備えられる時間があったけど私たちの人生が終わる日は準備する間もなく突然訪れる可能性もあるということを知らせなければならない。そのため、いかなる場合にも忘れてはならない許しを教え、この地の暮らしとこの地の向こうの暮らしまで持続できる真の希望を宣布しなければならないのだ。 [福音祈祷新聞] “福音はこの世にあるいかなるメッセージとも次元が違う。私たちはこれを必ず覚えて福音を伝えなければならない” イスラエル·スン(IsraelSoong)|現在ウェストミンスター神学校で神学を勉強(MAR)している。 シンガポールにあるRedemptionHillで使役し、ハーバード大学ロースクールで勉強(JD)し、行政学を勉強(MPA)した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝えるために2005年にアメリカで設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。www.tgckorea.org <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

君は私の栄光そのものだよ。

"神様、私が成功したら、人々に神様が能力を与えてくださったと言います。"しかし、神様は私たちの本当の心を知っておられる。'自分'の栄光のために神様をボーナスカードと思っているということを。しかし復活の主はそんな私たちの手を握って永遠な道を見せてくださる。"君が成功してこそ私が栄光になるわけではない。君は私のの栄光そのものだよ。" "彼らは皆,わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり,完成した者。"(イザヤ書43:7)[福音祈祷新聞] 絵 イスジン <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

イエスの目には何が込められてたのだろうか?

バケツから水を浴びようと、 子どもたちが我も我もと手を伸ばす。指の間から流れ落ちる水が汚れを洗い流し、気持ちよく体と心を濡らす。微笑んで水を注いでいる少女の目には今何が込められているのだろうか。 神様は罪で汚れた人生をきれいにするために一人子であるイエスを十字架につけられた。罪のないイエスが十字架で死んで復活したことで、我々は新しい生命を得た。 イエス·キリストが流した血ですべての罪人は貞潔になった。罪人が貞潔になる瞬間、イエス·キリストの目には何が込められていたのだろうか。破壊される罪の押さえつけと爆発してしまうサタンの嘲笑と打ち砕かれる罪のくびきと…。. 称えよう!イエスが私たちを救って情潔にさせた。私たちを愛する神様を心を尽くして敬拝しよう! "この日にあなたたちを淸めるために贖いの儀式が行われ,あなたたちのすべての罪責が主の御前に淸められるからである。"(レビ記16:30) [福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

いったいイエスを信じるとは何ですか?

誰もが嬉しい知らせ、すなわち福音を聞きたい。福音を渇望する人のために多様な信仰の告白をカラシナの種宣教会が制作した伝道誌から抜粋、紹介する。 <編集者> "いった'いイエスを信じる'とは何ですか?" 教会に通っていることでしょうか? 聖書を読んで、献金することですか。 教理を正確によく知っているのですか。 善良に生きることですか? 正論のようですが、正解になるには不足しています。 イエスを信じることは、人生の主がイエスに変わるということです。これ以上自分が人生の王様の役割をしないということです。 それで自らは何もできず、自分の中の新しい生命になるイエス様が望む通りに考えて決定して従順することを意味します。つまり完全に違う人格になることです。 あなたの罪を無くすために神の息子であるイエスが十字架でそんなに無惨に死ななければならないのですか。'許してやる'って一言言ったらダメなんですか? そうです。あなたの罪は神の統治を受けたがらない神様の国に対する反逆罪だから当然地獄刑罰を受けて当然です。地獄は、神様のいないところだからです。 あなたはそれほど大きな罪を犯した記憶がないかもしれません。 しかし、神様を心に置きたくない罪は何よりも一番大きな罪であり、この罪によって状況と条件が与えられればすべての罪を犯すことが可能なのです。 依然として人生の主であることに固執しますか。王座から降りたら問題が発生しそうですか。違います。今あなたを治めようとするその方は、あなたを命がけで愛し、あなたを天下より尊く思う方です。その方はあなたのすべてを治めるのに十分な権能と知恵を持った方です。今、イエス様の統治の中にお入りください。新しい人生が繰り広げられるでしょう。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞> お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム] 根本主義(2):根本主義の登場

イエスは言われた。”わたしは道であり,眞理であり,命である。わたしを通らなければ,だれも父のもとに行くことができない。”(ヨハネ14:6) ほかのだれによっても,救いは 得られません。わたしたちが救われるべき名は,天下にこの名のほか,人間には與えられていないのです。 (使徒行傳4:12) 聖書で神様は宗教に対して寛大ではない。サタンは私たちが神様を信じない限り、何をどれほど信心深く信じようが気にしない。神様が聖書とは違うどんな姿の礼拝でも受けると言うことは、聖書の神様を否定することだ。何よりも神様が与えてくれた最初の戒名は”わたしは主,あなたの神,あなたをエジプトの國,奴隷の家から導き出した神である。あなたには,わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト20:2-3)だからだ。 聖書を信じる人なら他の宗教も事実であり得るという可能性を受け入れることができない。キリスト教を本当に真理だと信じるのなら、それだけが独占的に真理に違いない。キリストが宣言した核心的なメッセージの一つがその方だけが真理を与えるという主張で、その方の真理から外れたすべての宗教はすべて嘘だということだった。 もちろん、このような意見は現代文化の相対論的な価値とは正反対である。多元主義と多様性は絶対的な真理よりも高い美徳とされている。私たちの信仰だけが正しくて他のすべての信念は間違っていると言えなくなっている。そう主張することは後戻りする、旧式の無礼な行動と見なされている。言い換えれば、私たちは宗教的信仰を持つことができず、ただ信仰を私たち個人の好みにだけ置くことができるようになったのだ。 実際、これらの問題は目新しいものではない。教会は少なくとも世紀の変わり目からこのような問題に取り組み続けてきた。宗教的基準と信念において幅広い考え方を持とうとするこのような訴えは、常に神学的自由主義の中心にあった。本当にこのような考えは、自由的(liberal)という用語が本来意味したものと正確に一致する。今流行している'寛容'にすべきだという訴えは福音主義陣営内部からの声だ。 自由主義は100年ほど前からプロテスタントの主要教団を占め始めた。かつて聖書の真理に献身していた学校は彼らが守るために設立したその教理を攻撃し始めた。プリンストン神学校(Princeton Theological Seminary)さえも長い間正統改革主義の砦であったが、結局は時代の思潮に屈してしまった。そのためにしばらくの間、福音主義は自由主義によって完全に圧倒され、壊滅したように見えた。 自由主義者は時代遅れであり,無知,悽絶に偏狭であることを福音主義の特徴にきめた。彼らはキリスト教はあらゆる種類の信念を幅広く受けるべきだと主張した。彼らは歴史的福音主義の狭くて独占的な本質がキリストを適切に代表することはできなかったと考えた。寛容と自由主義が現代キリスト教に適していると考えたのだ。彼らの主張が人の聞かせて始めた。正しい教理は妥協と自由主義に道を開けて、教会内で何も信じないことがむしろハイレベルと考え始めた。 ところが、その後、驚くべき運動が始まった。大西洋の両方から福音主義者が根本主義(The Fundamentals)という一連の執筆と出版で連合したのである。元々12冊で出版されたこれらの文章は、根本主義(fundamentalism)と知られる運動の土台を築いた。ジェイ·グレシャム·メイチェン、ジェームズ·オー、アール·エイ·トーレイ(J. Gresham Machen, James Orr, R. A. Torrey)のような人々が先頭に立って、根本主義は自由主義、聖書の高等批評、進化論、モダニズムと戦うために正しい教理を採択した。 根本主義に関する教理的な根拠は福音主義的聖公会、ルター教、長老教、メソジスト教、バプテスト教、メノ派教、独立教および他の教団を含めるのに十分だった。彼らが”根本(fundamentals)”であると確認した案件は、彼らが必須であり、基本的で妥協できない真理と考えられる教理であった。当然、この教理は自由主義と福音主義を区別する信仰の書であった。 原理主義者はこれらが真の教会を嘘のキリスト教と区別する教理だと信じていた。 では、彼らが同意した根本主義の文章は何だったのだろうか。 最も基本的なものは聖書の権威、霊感、無誤性だった。根本主義者らは、聖書高等批評をする人々に対して、聖書が文字通り神のみ言葉であることと、歴史的にも事実的にも正確であり、信徒に完全で唯一の拘束力がある規則だと主張した。こうした原則はもちろん、他の様々な問題の主が誰かを決める重要な原則だった。もし、私たちが聖書が権威があり、間違いのない神様のみ言葉だということに同意するなら、創造事件、キリストの処女誕生、彼の肉身の復活、奇跡のような歴史的な主張を論争する正当な理由がない。我々が聖書が信仰と実行の問題で唯一の権威だと信じているのなら、宗教的な推測や教会の伝統を聖書と並ぶことできない。 キリストの神聖、三位一体教理、十字架に対するキリストの代理贖罪、復活、信仰によって義に適うとしたこと、恵みによる信仰によった救い、聖化の必須性、他の根本的な教理を歪曲したり反対するすべての信仰を拒否すること、このすべての事案が"根本"として列挙された。 要するに,初期の根本主義者は自由主義者に対抗するために、真実なキリスト教を正義するために、正しい教理を用いた。自由主義者は実質的な問題だけを主張したが,理論的な部分ではそうではなかった。彼らがよく使う自由主義的スローガンは、"キリスト教は人生であり、教理ではありません"だった。しかし、根本主義者たちは、真のキリスト教が人生のすべての方面に影響を与える教理だと正しく主張した。 そのため、できるだけ広い範囲の信念を受け入れるために"キリスト教"という名称を快く拡大しようとする人々とは違い、根本主義者たちは絶対的で妥協できない客観的な真理の核心を探そうとした。彼らは正しい教理の本文がキリスト教のすべての基礎であると主張した。彼らにとって、根本(fundamentals)を拒否したすべての宗教のブランドは偽キリスト教または非キリスト教と見なされた。 原理主義者はほとんどの教団を自由主義の侵食から取り戻すことができなかった。しかし、彼らは歴史的な聖書真理に忠実な新しい学校、新しい教団、そして新しい教会を建てることができた。これらの機関は1世紀の間、活発な成長と霊的影響力を享受したが、主要教団の教会は深刻な衰退を経験した。 アメリカが依然として聖書を信じる健全な教会を持っていることは根本主義的先祖の業績だ。もし彼らが席を立てずにキリスト教の基礎を守っていなかったら,アメリカの教会の景観は今ドイツのような国で見られる荒れ地に似ていただろう。ヨーロッパの教会は,自由主義の偽キリスト教による壊滅的な損傷から回復したことはなかった。ヨーロッパの崩壊は、私たちにメイチェンのような人々の確信と勇気がなかったら、私たちはどうなっていただろうかということを深刻に考えさせてくれる。 自由主義に対する根本主義の闘争による利益は、今日まで影響を与えているが、根本主義運動自体は決して長生きできなかった。根本主義運動は頂点に達するや否やほとんど乱れ始めた。根本主義の分裂を理解することは、我々が今の福音主義の状況を理解する上で非常に重要な点だ。次回のコラムでこの問題について考える事とする。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとするアメリカのグレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

止まった今、善良な道で行う絶好のチャンス

輝く信仰(1) 一生に一度も経験できない一つの課題で、世界中のあらゆる人が一事多難な時間を過ごしている。その一つは、コロナ事態だ。 肺炎·ウイルス菌のためにパンデミックという世界的大流行が起こった。コロナ19は、巨大な世界的な障壁となって世界中を止まらせた。 立ち止まるというのは容易なことではない。生まれながら泣き出し始めた人生が最後に息を引き取るまで自ら人生を止めることは事実不可能だ。生まれた以上、まるでランニングマシーンの上に立っているように休まず走り続けなければならない。生存競争に巻き込まれたりもする。周りからただではおかなかったりもして次から次へと押し出される。立ち止まることのできない人生、人それぞれ千差万別だ。しかし、こんな人たちが同時に立ち止まる事態が起きたのだ。 主はこう言われる。“さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道かと。その道を步み、魂に安らぎを得よ。”(エレミヤ書6:16) 息をつく暇もなく世間の風潮に押されながら、ブレーキのない自転車のように止まることを知らない人生を生きてきた。どこへ行けばいいか、誰に聞く暇もなく、今どこへ来ているかを点検してみる間もなく生きてきた人生。なぜ生きるのか、このような究極的な質問は後回しにして食べなければならず、取り残されないために絶えずに猛烈な生存競争に押されて生きてきたのが私たちの人生だった。問題は、大半がそのように押しのけられ滅びてしまうということだ。 もし立ち止まって考えてたら、自分がどこへ行っているかさえ分かっていたら、続いて行かなかっただろう。自分が誰だかを知っていたら空しい事を働いたことはなかっただろう。問題は立ち止まって一番重要な質問をしてみることができなかったこと。これこそ人類全体が滅びるしかない共通のテーマだった。その時主がおっしゃる。’止まれ!′ ′あなたの人生、うまくいっていると思うけど止まれ!′不幸にも、私たちは自分の意志で止まることができなかった。 しかし、今、強制的に止められた。この一年間の特別な意味といえばすべての人が一緒に物理的に止まってしまったことだ。忙しく目標に向かって走る時は左右を見る暇もなかったが、立ち止まってみると、ようやく見えなかった状況が見えてきた。我々にとってあれほど巨大に見え、しっかりしていた世の中の実体が丸裸になったように明らかになった。 世の中の事情が、ただ順調に進む時は、まともに進んでいるようで、その世の中以外には見えるものがなかったが、世の中が止まって見ると、私たちがそんなに信じて頼った世の中というものが、いかに虚しく信じられないものであるかを目にした。 聖書がいくら話をしても闇の中で走り、世の中の享楽と贅沢と成功に狂って走り、なんと神様よりもずっと実在のように感じられた世の中だった。しかし、そんなに信じていた先進文明の医療システム、国の力、国際関係などがウイルス一つにどれだけ力なく虚しいかがすべて明らかになった。世の中の実体が見え始めたのだ。今こそ、我々が歩んできた道に立って見て、昔の道、すなわち善良な道がどこなのかを知り、そこへ進む絶好のチャンスであるのだ。 (2021年1月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

より大罪人に託した恵みの務め

より大きな罪、より大きな恩(7) “わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない. ”(へブル人への手紙10:38) 私たちは後に退いて滅亡するような者ではありません。ただ魂を救うことに至る信仰を持った者だとおっしゃる。背水の陣を敷くという意味である。後に退く余地を考えてはならない。帰る道はない。福音の真理を信じる信仰以外は滅亡しかない。 このような強い心で帰り道を断ち切った人、帰り道のない人、その人はもう迷ったり悩んだりしない。なぜなら、一つの道しかないからだ。数多い挑戦の中で、より大きな罪人に臨んだより大きな恵みを私たちに与え、決してためらわないようにする。 私たちは必ず神の前でその栄光を手にするだろう。 驚くべきことに、パウロは言う。“わたしを 强くしてくださった、わたしたちの主キリスト · イエスに感謝しています。この 方が,わたしを 忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。”(テモテへの第一の手紙1:12) これは罪人の中の怪獣だった私にその恩恵がどれほど大きいかを知ってもらうためである。パウロは誹謗者であり暴行者であり、殺人者だった自分を神様が忠誠心をもって受ける資格がない自分に恩としてこの職分を任せてくれたと告白する。一番大きいの罪人であることを知る者に、表現できない恵みの福音の使命を託す。 イザヤ書6章には、ウジヤ 王が 死んだ 年、絶望の中で聖殿の前でうつぶせになったイザヤに、天の栄光の玉座を見せてくれる場面がある。 神様の偉大の前に立つイザヤは”災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも,わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。”と嘆く。その時、神が天使を送り、燃えている炭を持ってきて彼の唇に当てて宣言する。“見よ、これがあなたの 唇に觸れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。”大きい恩みを受けた彼に神様がおっしゃる。”誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。” (イザヤ6:8) ‘この世をこのように愛し、一人っ子を与えてくれて想像もできないこの大きな恩みの十字架の福音を誰が知って、この言葉を持って希望のない者たちに行くのか’と主が尋ねる。絶望した彼を神の恵みで清潔にする。彼は言う。’わたしがここにおります。わたしを遣わしてください’ 福音の前に立って希望のない私を救ったこの大きな恩みの前に立つ者は、主の栄光の呼びかけに答える。 “しかし,わたしが憐れみを受けたのは,キリスト · イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり,わたしがこの方を信じて永遠の 命を得ようとしている人々の手本となるためでした。”(テモテへの第一の手紙1:16) 誰がもっと大きな罪人ですか? 誰が何の望みのないあきれた罪人ですか? この感激に捕らわれた罪人の中の怪獣、福音のために一生を捧げたパウロが監獄で叫ぶ。私は罪人の中の怪獣だ。真実である。すべての人が受けるに値するこの言葉よ。キリストキリストが罪人を救うためにこの世に来てくださった。これは一人の告白ではない。すべての人類の告白でなければならない。恩みの福音だけが生きて居られる主のもとへ帰れる唯一の道だ。あきれるほどの危機と悲惨な罪の中で我々を呼んだこの福音を宣言し、忍耐と信仰をもって進もう。 (2018年5月)<終わり> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

大罪人がいるだけで適当な罪人はいない。

より大きな罪、より大きな御恩み(6) さらに大きな罪人がいるだけで、大体罪人などいない。ただ大罪人に対するより大きな御恵みがあるだけだ。だからもうその御恵によって行くその道は何も見えなくても行く道であり、自分の計算と自分の手の力で行く道ではない。 “あらゆる 惠みの源である神,すなわち,キリスト イエス を 通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった 神御自身が,しばらくの間苦しんだあなたがたを 完全な者とし, 強め,力づけ, 揺らぐことがないようにしてくださいます。”(べテロ一5:10) 神のより大きな恵みに託された人生なら喜びなさい。滅びることはできないし、失敗することはさらにない。より大きな罪人であることが明らかになればなるほど、より大きな御恵を期待することになるだろう。大きくて完全な神様の御恵みの生命に囲まれているという事実に気が付く。途方もない福音を受けていながら無視したり裏切ったりして神様も天国も審判もないように生きることよりもっと恐ろしい呪いはない。それで、決して普通の人生を生きることができない。自分を信じたり頼ったりしないで、もっと大きな罪人に与える大きな御恵を見つめなければならない。 神様が誹謗と苦痛の中で人の見せ物になり, あるいはこんな状況に置かれている人たちの仲間になれた。喜んで君たちがそのすべての困難を耐え忍ぶのは、より良い永遠があると知っているからだ(ヘブライ10:33~34)。神様は“現在の苦しみは,将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると,取るに足りないとわたしは思います。”(ローマ8:18)と言う。想像もできない天の永遠な報いがある。神様は確信を捨てるなと言われる。(ヒ10:35)。 福音の中にある最大の罪人である私が発見したより大きな御恵、この恵みの福音を決して恥ずかしがってはならない。福音は人々と諸国を生かす。私は希望なく無能であり絶望そのものである。しかし私を呼んだその御恵の福音が信頼の道に立たせ、不可能なこの道を行くようにする。失敗した話のようでつまらない話のようだが、人生を覆して本当の変化を与える福音がまさに生命になった十字架福音であるのだ。パウロは、どんなローマの権勢やヘラの哲学の前でも、この福音を恥じることがなかった。すべての信じる者に救いを与える神様の能力であるからこそ、この福音を誇るだけだった。 “神の御心を行って約束されたものを受けるためには,忍耐が 必要なのです。”(ヘブライ10:36) 私たちには忍耐が必要だ。肉体の練習だけでも大変な峠を越えるたびに、違う境地が開かれる。私たちに下さる神様の御恵みは無限であり、もっと大きな恵みがあるからこそ忍耐せよと言われる。神様のみ旨を行った後、約束したものを受け取るために神様の回答に焦点を当ててその方だけを期待するようにと言われる。苦難、疾病、苦労、無念、もどかしい心情、終わりそうもない暗いトンネル、呆れた状況と絶望の前に座り込んでいるなら覚えておいてほしい。夜が過ぎて夜明けが来るよりも明らかに、神様がいらっしゃる。(2018年5月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

アポリュミ (άπουλλι), 弟子道のクライマックス

ヘブライ語で出会う福音書(11) ルガの福音書9章23節は24節と繋がっており、24節で弟子道の最高の絶頂をなす。イエスは皆に言われた。“わたしについて来たい者は,自分を捨て、毎日自分の十字架を背負って,わたしに従いなさい。”とピリオドを打ち、新しい文章が始まるのではない。 続いて“私に従い”の後、重要なことは“自分の命を救いたいと思う 者は,それを 失うが,わたしのために命を失う者は,それを救うのである。”と述べなければならない。 ヘラ語の言葉遊び(word-play)を通じて、“自分を捨てるー十字架を背負う-主に従う-自分の命を失う”、この4つの単語が合わせて救いに至るというイエス様の言葉になる。これはヘラ語の最初のアルファベットである”アルファ”(α)で始まる3つの単語が結合して作られたが、本当に不思議で驚くべきことだ。 “ἀρνέομαι”(アルネオマイ=自分を捨てる)、“αἴρω σταυρός”(アイロス=十字架を負う)、“ἀκολουθέω”(アコロールテオ=従順して最後まで神様に従う)、弟子道の頂点である”αοποιιι”(アポールリミー命を失う)に至ることになる。 弟子道の頂点は自分をこの世で徹底的に憎み破壊し、自分に対しては何も残さないことを意味する。 この地で‘私’という病んだ自我(ego)に対して空中分解させてしまうのだ。このように4つの単語を合わせると(シグマ、Σ=合算)、”Σ́ωω”(ソゾ=救う!)、そうすることで救いが得られるということになる。 これが聖書が語る福音である。このような福音が講壇で大胆かつ当然に宣布されなければならない。 そうして初めて神様の前で私たちの魂が震えるようになる(エペソ6:19-20)。“わたしが 顧みるのは苦しむ人,靈の砕かれた人、わたしの言葉におののく人”(イザヤ66:2) 私たちは神様の御言葉を徹底的に塞いでいる自我を徹底的に憎まなければならない。福音は最も嫌悪でいやらしい自己への徹底的な憎悪を求める。 この自己嫌悪は神様の国に入るまで続けられなければならない。実際、自分を捨てる(ἀρνέομαι)というヘラ語の単語の意味は‘交際を拒否する’ということである。 真にキリストの弟子になって罪を許されて永生を得て神様の国に入ることを望むなら、これ以上自分自身と交際して付き合うことを“駄目!”と拒否しなければならない。病んだ自我と交際してそこに取り付いて得られるものは何もない。 罪である自我に対しては身震いをして、これ以上何の関係も結んではならない。決断しよう!そしていつも神様の御言葉に耳を傾け、無条件に言葉に従おう!そして、何事があっても御言葉の前にうつぶせにならなければならない。 自分を捨てるのは自分自身だけでなく家族も含まれている。そこで、主はルカの福音書9章23-24節の言葉が抽象的にならないように具体的に述べた。“自分の家族の者が敵となる…。(中略)…また, 自分の 十字架を 擔ってわたしに從わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者はそれを 失い、わたしのために 命を失う者はかえってそれを得るのである。”(マタイ10:36-39) [GNPNEWS] キム·ミョンホ教授(福音祈祷神学研究所) 筆者はイスラエルで旧約を専攻し、ヘブライ語が神様の心を込めた言語であることを悟り、現在聖書言語学校を通じて信仰の世代を築くことに全力を傾けている。

信仰の生、困難と苦難は当然の理

  より大きい罪、より大きい御恵み(5) “あなたがたは,光に照らされた後,苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを,思い出してください。”(ヘブライ人への手紙10:32) 神様は福音の光に照らされた後、苦難の大きな戦いを耐えたことを考えるように勧められた。逃れられない罪、ユダヤ指導者たちとユダヤ人が犯した、知っていながら犯した大罪よりも恐ろしい罪を福音の黄金時代に生きる我々が今犯すことができる。私たちの古い自分に属するものを依然として残し、普遍妥当に福音を道具にして福音を知る自分として武装しているのではないか。依然として最後の余地を絶たなかった私たちの態度が、もしかしたらもっと大きな罪人であるかもしれないという事実が私たちを恐ろしくさせる。 しかし、私がより大きな罪人という事実を知り、経験すればするほど、神様の御恵みが最も大きくて永遠な福音であることを分かるようになる。私たちには臨まれない御恵を施してくださって、さらにより大きい罪人であることを知る者に与えられる神様の祝福である。これからは、もっと大きな罪人が、ただ信仰だけで見つめて捕らえるべきより大きな御恵み!我々のすべての限界と不可能を超える十字架と復活の御恵みがどれほど大きいかはより大きな罪人でなければ分からない。 より大きい罪人に与えられた十字架と復活の御恵 そして、正しく福音に従い、信頼に行ったからこそ、受ける困難と苦難は当然のことだ。福音の道である真理の狭い道を歩もうとすれば、必ず苦難の戦いが起こるしかない。 まずは自分自身との戦いだ。昔の情、昔の自分の古い習慣が揺れ続けて誘惑する。自分だけを追求していた普通な人生が、今は主の信仰の旅路に従って歩こうとする時に抵抗を受けるようになる。魚一匹さえも波に逆るとすればあらゆる波に抵抗しなければならないように、世の中は私に対して決して友好的ではないのだ。イエスに従って真理に従う私たちに対して世間は私たちの味方ではない。神様はその光を受けた後、苦難の大きな戦いに耐える私たちに愚かではないと言われる。途方もない福音を受けて知っていながら、福音にそっぽを向いたまま無視して裏切れば、これより大きな罪があるはずがない。これよりもっと恐ろしい人生はどこにあるだろうか。 世の中は私に対して絶対友好的ではない 将来滅びるこの世界、我々の目に華やかで大きくて強く見えるすべてのものの中で、永遠なものは何もない。天下を覆しそうだった英雄たちも、その命を少しも延長することができなくて正確に死んで埋められた。誰もこの地に留まる者はいないし、一瞬も立ち止める時間もない。必ず通り過ぎる。時間はより早く私たちの人生の残り道を急ぐだろう。私たちが去ってきたのは将来滅びる’長滅城’だ。再び戻る道はないし残った道を最後まで進まなければならない。信仰で歩くこの道は、触って感じて感覚する道ではなく、ただ信仰で永遠の天国、永遠の神様の国に向かって進む道であることを記憶しなければならないのだ。 (2018年5月)<継続>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 : 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org