出てきたエジプト、帰れない海を渡る。
奴隷400年の年月はヘブリ民族にとって、エジプト人に劣らず、エジプト人みたいな人として作り上げた。
勿論そこははっきり顧みたくない奴隷生活の悲しみが沁みてある土地、貧しさと抑圧、恐れと悲しみ、嘆きと挫折、惨めさと憂いで、息が詰まっていた土地である。
しかし一方、そこは彼らが生れて育てられて、生きていて、愛して泣いて笑っていた土地でもあった。砂の風、荒れた野原、日差し。。。 どの物も天の下で、どの所より慣れて親しんでいた故郷が、エジプトだった。
人生は文明を作って、文明は人生を導く!
慣れた場所―ある時‘私’になってしまったその地の風俗は、海を渡るくらい自らは抜け出せない病んだ自我の鎖になって、私を縛っていた。華麗なエジプトの文明の花びらに隠された毒は、致命的な中毒性を持っていた。
無法な愚像崇拝と貪欲でからんである無節制の世俗文化(ベテロの第一の手紙4;3)、淫乱と不正と欲張りと悪の情欲と、貪欲の地に属した存在(コロサイ人への手紙3;5)に根付いた世俗的な価値の文明は、その地の新しい環境にいたって形を変えても、追い払えない根気の性質があった。
それに汚染された全てが死なないと抜け出せない酷い物である。
征服しないといけない約束の地がしっかりと立ってあった。
神様の審判が宣告されたその地には、まだ威勢をもって引かない気勢のカナアンの文明がベールに覆われたままに立っていた。
経験してない未知の環境と誘惑は、分別が難しくて好奇心を呼ぶ。その警戒も曖昧である。これに慣れてない人生の多くの領域を狙う、堕落したカナアンの文明の全方位的な攻撃をヘブリ民族が防ぐには決してやさしくない。
それなので神様はエジプトを発って、カナアンへ行くべきのイスラエルの民に、貴方は貴方たちが住んでいたエジプトの地の風俗を習わず、私が貴方たちを導くカナアンの地の風俗と法も行わず、貴方は私の命令に従って、私の法を守って、それを行いなさい(レビ記18;3-4)と命じた!
“罪を犯す者はサタンに属している”
出てきたエジプトもカナアンの文明でもない、ただ神様の民として歩むべき道があった。
過去の慣れた習慣、新しい地の慣れない誘惑と挑戦が、決して影響を及べない清い道、区別された人生が、つまりそれである。真理の巡礼者、天に属した旅人になって歩む道、隠せない混沌も要らない選択を強要される世代が近く来ていた。
清い人生、区別された道を歩む栄光の信仰の道が開いていた。
エジプトとカナアンの文明は、21世紀の着物で着替えって、淫乱のバーベルの惨めで幼稚な誘惑と脅迫で、この地を汚していた。
神様に対敵して、絶対真理を否定して、恥ずかしさで栄光を、船で神様を作った世代。淫乱、同性愛、不正、無慈悲、険しさ、真理を偽りとして変えて、順理を逆理で、清さを世俗さで、敬虔の形はあるが経験の能力は否認して、偽って欺く価値観の混沌と道徳的崩壊、宗教の堕落。霧が濃いほど、波が強いほど、もっと大胆に信仰を行っていかないといけない。
恥の泡を噴きだす海の波のように、漂う星のように、病んだ自我の貪欲によって流れていたエジプトの文明とカナアンの呪いの下に会った‘私’は、十字架でイェス様と共に死んで、イェス様と共に生きる、神様に属した民であり、清い国であり、王のような祭司長(ベテロの第一の手紙2;9)である。このような約束の地を踏んで、十字架の旗を挿して、イオンの大路を歩いて(レビ記18;4)、福音を清くする永遠の福音の世代である。
アーメン。マラナタ!
<巡回宣教団 代表>
「その日が来るまで」から転載