モーセが死んだ。出エジプトの一世代が過ぎた。野原40年の教訓は単純で明確だった。後戻りはできない。神様を信じる絶対信仰以外には生きるのも、出る道もないことだ。自分は英雄もなくて、経験もない野原の世代と共に、ヨダンをわたって約束の地に入らないといけない。
先にいった世代が恐れて退いたところ。堅固な城壁、巨人族、背水の陣を敷いているカナアンの七つの族ら。。恐れて落胆する状況の前で、ヨシュアに神様の命令があった。
落胆する状況で出された神様の命令
強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。今までの心配経験とイスラエルの貧しさと希望なしが、向こう側カナアンの堅固さが意地を揺らして、足を運べないぐらいの恐れで、首を絞めてくる。諦めて、手放して、眼をつぶしてしまいたい瞬間。
私たちの魂に火をつけて、恐れの虚像をやぶって、胸いっぱいの勇気を持って、敵陣に向けてかけていくように、勇敢なひとたちへと変える神様の真理のお声が聞こえてくる。
‘あなたの生きながらえる日の愛だ、あなたに当たることのできる者は、一人もないであろう。私がモーセとともにいたように、あなたと共におるだろう。一生あなたを見はなすことも、見捨てることもしない。(ヨシュア1:5-9)’
‘どこへいっても栄える!’
‘神様の律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうすれば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。’
詩編60:12 神様を信頼して、勇敢におこない、彼は私たちの大敵を踏んでくださるだろう!世と大敵が負えない勇敢な人。十字架の福音が造った人である。勇者の死を聞いてみよう。
‘イェス様なしには私はない’
私?イェスが全部であり、イェスなしには私はない。もっと言う言葉も、もっと飾るものも私にはない。自慢も落胆もない。説明も弁論もない。
十字架!私の栄光であり、よいことも、悪いことも私には意味ない非難も、誉も何もない。 得るのは、捨てるのも関係ない。生きるのも、死ぬのも差がない。
十字架が私の始めであり、 私の意味である。これ以上渇かない。怖くもない。葛藤もない意地をはってなにになろう。だれと、何によってもイェス様と私を離せない。
イェス、イェス一人で十分です。あの方に私の願うすべてが全部あるイェス以外に何も私には要らない。持っていって、奪ってみなさい。
揺れてみても、あざ笑ってみても、おかしな形に造って、の前でバカにして、そうすればあなたはちいさくて、割れた土器をみて、いい気になるだろう。
あなたの高慢な気分が沈むころ、割れた土器の中で、尊いイェスキリストがいらっしゃるのをみて、口をとじることができないだろう。
そうふうになっては、私にはイェス様しかないことを、またイェスさまで十分であることを、はっきりとみえるでしょう。みるでしょう。
【その日が来るまで】から転載