“私のような罪人を十字架の前に再び立たせろという使命をいただきました”

Date

2013-12-09

十字架へ導くバク・ワンオク牧師(ブチョンのサンドル教会)

福音を伝える牧師はどのように神様に出会い、その’初の愛‘を覚えて、福音の能力を感謝しているのか。毎年数千人の牧師を輩出している韓国で、牧師として教会に仕えているのはどんな意味なのか。神様の呼びかけによって教会を開拓して、福音の本質のままに生きようとして、ついには’自分の罪人としての存在‘に気付いて、聖徒たちを十字架の福音の前に立たせる’祝福の人生‘を感謝しているバク・ワンオク牧師に出会った。

-信仰の人生を話す時、幼年時代の話がなくては。。
“サンチョンポとして知られているギョンナン道、サチョン市の海の村出身です。代代に仏教とシャマニズムが混ぜてある家庭で、三兄弟の長男として生まれました。お父さんは床屋さんをしていましたが、私が7歳の時、早くなくなりました。その時、お母さんは26歳でした。”

-お母さん一人で家庭を養っていて大変だったでしょうね。
“お父さんがなくなってから、お母さんと私たち三兄弟はおじさんの家で住みました。お母さんは商売をしました。あんなこんな皮を見るたびに拾って食べていた記憶があります。お腹がすいていた時代でした。”

-長男として家庭の生計に対しての負担感を早くから持っていたと思いますが。。
“13歳から昼には仕事をして、夜には勉強する生活をしました。海で住んでいたので、船の電気装置関連の技術をならって、ひとりで船に乗って島を訪ねながら、集金する仕事をしたりもしました。早くから社会経験をしました。”

-仕事しながら勉強するのは、大変ではなかったですか。
“勉強がしたかったです。しかしそんな状況ではなかったですね。周囲でも‘勉強より技術を習わないといけない’という雰囲気でした。私が15歳の時、家族がおじさんの家から出てソウルへ引っ越ししました。その時も新聞配達、アイスクリム販売、電気屋さん職員など、どんなことでも出来ることはやりました。そのように家計のために頑張りました。”

学びに対しての物足りさで教会出席

-学びと教会は何の関係がありましたか。
“当時定期学校へ行けなかった人たちのために、多様な機関で夜学過程を運営していました。しかしある教会が夜学を運営していたのです。それでその教会に通うようになりました。昼には仕事をして、夜には教会で勉強をしました。そのように信仰生活を始めて、イェス様を信じるようになりました。私の存在の意味を悟る時間でした。そして神学を学ぶようになったのも、夜学の先生だった当時の伝道師の勧めがあったからです。”

-神学校へ行くとの決定に対して家族たちはどのように反応しましたか。
“勿論反対しました。特にお母さんとの葛藤がありました。ある日は私が昇天の祈祷会を終えて、涙ぐんで、教会の門を出ようとした時、私を待っていたお母さんが怒って言いました。‘あなたはお母さんが死んだのか。なぜ泣いているの?’と。。理解しにくかったでしょう。後には‘母子の縁を切ろう’とまで言いました。それでもお母さんに続けて福音を伝えました。ついに神様が結局、その心を変えてくださって、いままで信仰生活をよくしていらっしゃいます。”

-いま仕えている教会が初めての開拓した教会だと聞きました。
“31年前の1982年に神学校を卒業して、一旦妻の実家の居間で教会を開拓しました。聖徒は家族だけでした。2カ月後にこの近所の‘ジャンさん村’というある空間を借りて、当時油が積んであった場所を片付けして、小さな天幕をかけて、教会を始めてに至ります。”

韓国教会の回復のビジョンを持って、教会を開拓

-開拓する時、どんなビジョンを持っていましたか。
“韓国教会が真に救われる共同体としての回復が必要だと思いました。それで‘教会を変える教会になろう’というスローガンを出して、独立運動があった3月1日午後2時に開拓礼拝を捧げました。純粋な牧師になろうと努めました。‘私の物でないといけない’と思って、家を売って全部献金に捧げて、神様だけを信じて従おうと決心して始めました。”

-大変な時はありませんでしたか。
“教会に仕えている間で、生活と財政に対しての大変なことが実際に寄せ押すと、教会成長に対しての圧迫感がありました。そして私が設定した方向のままに、教会雰囲気が流れないことも葛藤の要素でした。しかしこんな葛藤が後には、韓国教会に対しての不満として出てきました。私自身がまるで正義の使徒のように、先輩たちの教会の現場と、成長を第一にする韓国教会に対しての批判と非難をよくしました。説教も旧約の預言書をもって、批判的な説教が主でした。”

-そんな状況でどのように自由を得るようになりましたが。
“しかし正直に言うと、この全ての事より、私の存在的な問題が私をもっと苦しめました。すごく悲しんで涙を流して、悔い改めても絶えない罪に対しての問題が、私を苦しめました。韓国教会の問題より、変わらない聖徒たちより、絶えない説教しているが、本当に変わらない自分のせいで絶望でした。この問題を解決してみようと、いろんな事をしました。それでも何が問題であるのかさえ分からなかったです。”

-もっと具体的に言ってもらえないでしょうか
“私はみずから表では良い牧師だと思っていました。しかし否定できない罪の問題に対しては、自由になれなかったです。それで罪の部分に対して説教する時には、決定的な部分においては言えなかったです。サタンが私の罪を知っているので、持続的な罪の定めがあって、自分の罪に縛られている絶望におかれている私の姿、それが死よりももっと怖かったです。家族を含めて、他の人たちを欺いて、他の人たちを欺いて、表面を偽装する人生を生きたのです。”

罪に縛られて、表面は偽装

-そうすると、罪は何であると定義できますか。
“罪は本質的に神様に逆らうことです。そしてその罪の内容は、自己満足、自己を崇拝して、絶えず追及する情欲と行楽に満ちていることです。教会内でも牧会成功と人気、世と同じ戦いと喧嘩と憎しみの実になって現れます。”

-そんな罪に対しての凄絶な葛藤を通して、恵みの福音に出会うようになったんですね。
“安息年を通して、私が十字架の福音の前に立っている恵みをいただきました。罪が、永遠の死が、どんなに怖いことであるか、十字架のイェス様と信仰で連合することがどんなに大きな恵みであるか気付くようになりました。”

-福音に出会った以来、実際的に変化がありましたか。
“教会で聖徒たちに、妻と子供たちに私の全ての罪を告白して謝りました。私は悔い改めが口で認めて、‘神様、知っているでしょう?ごめんなさい’と言えばそれでいいと思いました。騙されていました。十字架の前で悔い改めが何であるか、罪から離れることが何であるかを、徹底的に気付くようになりました。神様の前で悔い改めても、人の前で罪を認めず、許しを求めないならば、それは福音を無力化させるサタンの欺瞞だと知りました”

十字架の死と復活を経験

-自分の罪人である存在が現される時間を通して、特別な恵みをいただいたのですね。
“はい。罪を現される時、本当に恐れました。しかしその事件を通して、真の‘死’と‘復活’を経験しました。神様は私を再び立たせてくださって、私は本当の自由と喜びを得ました。その時、‘世と私は行くところなく、救い主の主だけが見えます’という讃美歌の告白が実在になりました。また私を圧していた、全ての暗闇と恐れがなくなりました。”

-教会の現場はどうでしたか。
“まず説教が変わりました。実際に教会の役人たちが来て、‘聖徒たちが罪の対しての説教を辛く思っていて、離れる人もいて、献金も減っている’と言ってきました。そして私に‘そんなにうれしいですか。本当に福音だけで十分ですか’と聞く聖徒もいました(笑)。それでも持続的に十字架の福音を伝えましたが、いまはすこしずつ変わる聖徒たちの姿が見えて感謝です。”

名目上の聖徒たちを再び十字架の前へ

-その十字架の福音が、人生で実在する経験をした以後、どんなビジョンをもって進めていますか。
“実は福音の前に映された私の実存を見て、‘私は牧師をする資格がない’と思いました。それで牧師を辞めようとしました。ちょうどその時、私が参加していた集会で宣教師として献身する時間がありました。教会の現場を下して、海外の宣教師として献身しようと立ったが、急に腰に激痛が走って、座りこむようになりました。まるで誰かが私を押して座らせる感じでした。そんな経験は初めてでした。”

-その事件の意味が知りたいです。
“後でその意味に気付きました。海外の宣教師ではない、今の自分にとって決して全うできない牧師として、再び呼んでくださる神様の恵みでした。ヤッポクの側でヤコブの足の骨を折らせたように、神様が私を折って、資格ない私を再び立たせて、今の教会の中で以前の私のように苦しみの中にいる、名目上のクリスチャンたちを再び十字架の福音の前に立たせろという、使命をくださったのです。これがいま私への召しです。”

-いまはどんな恵みをうけていますか。
“私はいまのこの状況がとても幸せです。主のために幸せです。問題はこの幸せを一人だけいただけないという事実です。この幸せに慣れて、楽になって、安楽して、だんだん不安になっています。溢れるほどの恵みだと思います。それで最近周辺整理を少ししよう。荷物を軽くしようと思っています。とにかく神様のためにとても幸せです。”

J.S

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