絶望の底で歌う歌

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私は暁を呼び覚ます。(1)

一番深い暗闇の中で、何も見えない、終わりそうもない絶望のトンネルの中で、すべてが終わったような恐ろしさの中で、本当に勇気のある者だけが叫ぶ獅子吼がある。"私は暁を呼び覚ます!"混沌たる暗闇と迷いの霧と恐れ、疑い、怒り、落胆を壊して主の統治を信じて勇気を出して聖なる戦争を行った神の人であるダビデの叫びだった。

彼は十代の時に神に油を注がれて王になった。神の一方的な選択であった。あまりにも急なことで、このことがあってからダビデはサウルから何回も命を取られそうになった。人のレベルで考えられるお召しではなく、神からのお召しだったので混沌であった。

イスラエルの初代の王であるサウルは謙遜して見えた。しかし、絶大な権力を味わったら本性を見せ始めた。罪人である人間の本性で一番強力な属性の中の一つが権力に対する執着である。人間は権力中心的な存在で生まれる。例外な人はいない。権力中心的な人間だから'我'がやりたい放題やって、生きるように生きる。'我'より大切なのはない。ひたすら'我、我、我'って欲張って生きて死ぬ。

かつてイスラエルの歴史の中に存在しなかった王になって、権力に酔われたらサウルの内面にあった罪が発動された。自分が浴びるべきの人気がゴリアテを倒したダビデに集中され始めた。嫉妬、妬み、不安に満ちているサウルの心をサタンが狙った。サタンに心を許したらサタンが彼を完全に奪ってしまって、悪霊に取り憑かれた王、サウルはダビデ一人を掴むために自分のすべての権限を使った。

見えない神だけが保証された生。

イスラエルの王は、神の神政を代理する特別な目的のために存在すべきだが、サウルは神を別にして自分が神のように振る舞うことに躊躇しなかった。彼は最初から無神論者であった。神を恐れなかった。神がサウルを捨てて神の心に合うダビデを立てられたが、彼は応じないでダビデを殺そうとした。神の主権に反旗をあげた。このような意味でダビデを殺そうとしたサウルの仕業は政治権力の戦いではなく神の国に反する霊的な戦争であった。

追われていたダビデの目には神の国は見えなかった。王として油を注がれたけど王と感じられる何の状況も経験できなかった。逃亡者で、隠れ者であって明日をわからない呆れ果てる人生が続けられた。ただ一つ、神に呼ばれて、急に王として油を注がれた事以外には、彼を支えてくれる何の根拠もなかった。主を抜けては何も保証されない人生だった。

文字通りに見えない神だけが彼の避けどころ、城、力であった。"主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場。わたしの神、大岩、避けどころ。わたしの盾、救いの角、砦の塔"(詩篇18:1~2)

しかし、朝に目が覚めたからといって夜まで生きている保証もない状況の中で、絶望の底で彼が歌う歌があった。"神よ、わたしの心は確かです。わたしは贊美の歌をうたいます。「わたしの譽れよ目覺めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覺まそう」(詩篇108:1~2)<続く>
[福音祈祷新聞]

キ厶ヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表)

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