教会は、真理が生命になって現れた愛である。

Date

2016年1月6日

アンテオケの奇跡(5)  

使徒行伝に出るアンテオケ教会の存在様式は、今の私たちが慣れているのとは違う様式であった。“彼らが主を禮拜し、斷食をしていると、聖靈が、”(使徒行伝 13:2)

彼らの方式は、会議して討論して決定するのではなかった。彼らは神様に白紙の小切手を捧げた。自分たちの意思は置いといて‘自分’の志を叶うための断食ではなく、‘主’を主人にした断食だった。

その時に聖霊がお話をされた。“バルナバ とサウロをわたしのために聖別して, わたしが召した任務につかせなさい。”二人はアンテオケ教会の核心人物だった。

使徒行伝は聖霊行伝とも言えるくらい、その中で起きたすべての事の主導権が神様にあった。主は何をするかも言われないまま従えと話された。今、このような順従が可能な教会はあるだろうか

アンテオケ教会の順従は自発的だった。これがアンテオケ教会を通じて現れた三番目の奇跡である。断食して祈祷したということは、その態度を決定して従うという事だった。“私たちがするものではありません。主の奇跡が必要です。召された主だけを信頼します。”このような態度と順従は聖霊の導きがなかったら不可能であるだろう。

自分の常識、自分の経験、人の意見ではなく、聖霊に従って行う者に主は奇跡を起こされる。“肉の 弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。 つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において 罪を罪として處斷されたのです。それは、肉ではなく霊に從って步むわたしたちの內に、律法の要求が滿たされるためでした。(ローマ人への手紙8:3-4)”

古い自分の生命では生まれ変わっても順従できない。しかし、十字架と復活の主に会ったイエスの生命を持った教会は聖霊によって生きる。本能ではできない順従を神様は出来ることとさせるのである。

自発的なアンテオケ教会の順従

‟肉に從って步む者は、肉に屬することを考え、霊に從って步む者は、霊に屬することを考えます。。。 肉の思いは 死であり、霊の思いは命と平和であります。神の霊があなたがたの內に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに屬していません。(ローマ人への手紙8:5-6,9)

聖霊は私たちが続けて神様を愛し、お言葉を愛するようにさせて下さる。そして、主に似たい、真理を知りたい、順従したい渇望を持たせてくださる。生まれ変わった者には、この世と自分を忘れて、ただ主だけが見える。

だから、聖霊を従って行え。ただ、一つの命令に従う。死んだものと思って、これからは自分ができるかできないのか判断しない。ヤコブに向かって怒ったエサウの心を変えたように、順従して行ったら主の御手が共にして下さるのだ。ひたすらお言葉によって、福音によって、聖霊によって生きて行こう。生きる道はこの道しかないのだ。

アンテオケ教会は、諸国に自発的に向かって行く生命力のある教会だった。第2、第3のアンテオケ教会が必要である。教会は‛真理が生命になって現れた愛’である。今も一番不可能で絶望的な所々に主の生命が広がって行く。

混乱な世間の真ん中で名目主義と世間主義で宗教的な慰めを得ている上辺だけの教会、集まって散らかれることを繰り返しているがお互いを振り返ってみない教会、今も尚金持ちは金持ちで残されて、貧乏は貧乏で残されている教会とは全然違う教会を主が建てられる。

ステファの死がユダヤの壁を壊すことであったように、あっちこっちで順従するキリスト教人を通じて、家庭と仕事場と現場で聖書を通じて、お話をしたイエスの宇宙的な教会が起きるだろう。

主はそれぞれ違う特性と力量に相応しく主の体である教会を建てていくだろう。(エペソ人への手紙4:11-16)‛私’一人はちっぽけなものだが、私がキリストの体についているから完全なものになるように、私は極小さい者であって体全体の充満に恵まれて、キリストの教会は万物の中で万物を充満させる方の充満に恵まれるのである。

この栄光に参加させて下さったのが福であるのだ。アンテオケ教会を通じて見せて下さった奇跡を、今、私たちの順従を通じて見せて下さるだろう。

主が夢見てたその教会を今私たちの中に完成させて下さい!(2015.2 メッセージ要約終わり)

[GNPNEWS]

金ヨンイ宣教師

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