福音を失ったこの時代に向けての先知者的な叫び

Date

2013年12月16日

教会とクリスチャンに与えられた一番大事な宝物、福音の本当の意味とこの時代の福音に対しての私たちの態度を冷静であるが、情熱的に扱った二つの本が最近発刊された。一冊は最近インタネットを通して大胆に福音を宣布しているポル・ワッシャ牧師の翻訳書、‘福音’(命のみ言葉社 刊)。もう一冊は韓国の福音伝播の元として有名な全韓国弟子訓練院の講師だったソ・ヒョンソン牧師(み言葉黙想宣教会代表)の、‘福音から命へ’(イレ書院 刊)である。<編集者>

福音を失ったこの時代に向けての先知者的な叫び

“神様のみ名によって家族を愛して、他の人を救うために命を捧げる人は神様を愛する人なのか”

ポル・ワッシャ牧師は、この本を通して躊躇せず言う。‘違う。いない’と聖書は本当に神様を愛して、律法が命じている通りに、神様に仕えている人もいないし、考えと言葉と行為で神様に栄光を捧げられる人もいないと所々で証言していると加えた。

すべての人は神様より自我をもっと愛する。宗教的な善行を施す理由は、神様を愛するからではなく、自我と他の人を愛するためでもない。酷い表現なのか。彼の主張を一つだけもっと上げて見よう。

人は神様がくださった自由意思で、神様の前で責任をもって生きられるのか。予想とおりに彼ははっきりと‘いない’という。人は神様を敵対する心のために、神様に対しての従順を拒否する。これが人間の全的堕落の意味である。

この言葉は全ての人が、悪を犯せる性向を持っていることを意味すると説明した。

ポル・ワッシャ牧師は、全体26章で構成されているこの本の主題中5章が、およそ20%の近い分量を、‘罪’の問題に集中している。彼がこのように強調する理由に対して、‘罪’に関しての教えがイェス・キリストの福音を構成する核心要素だからだと言っている。

加えていま福音の能力が薄れていて、世がもっと険悪になって行く理由を、彼はこの時代に人間に対しての世の考えが聖書の教えと大きく違っているからだと指摘した。

その理由も簡単明慮する。この時代は人間が根本的に善なる存在だと信じて、人間の問題が不健全な外部の影響力から来ると考えているからだという。

一体罪はどこへいったのか。罪という用語を全然使ってない。もっと適切な用語を見つかったからか。違う。‘罪’の概念自体がなくなっているからだと彼は診断する。

このような彼の主張は、ジョン・ストツ牧師も‘キリストの十字架’で同意している。罪の深刻性に直面するのを嫌がる心を持っているからだと言っている。

ストツ牧師は罪を復活するべきだと主張している。そうするとその罪に対しての責任も共に復活するからである。

ワッシャ牧師はこの本を大きく3部で構成した。1部はこの時代が失った福音を扱う。彼は世にキリスト教の書籍が沢山あるのに、自分の説教を集めて本で出さないといけない理由を見つけなかった。

しかしエレミヤ先知者のように、‘彼のみ名で言わないと、私の心が火に焼かれて骨髄に沁みて耐えられなかった’その心情で本をだしたと言う。

悲しいけど、この時代のクリスチャンたちは福音を軽く思い、福音に無知である。このように福音が縮小されて、多くの弊害が発生した。

悔い改めない人たちの心がもっと堅くなっている。また口では神様を知っていると言うが、行為では否認する世俗的な人たちの集合体として教会が転落している。

また作られた戦略で福音伝道と宣教の使命を全うしようとする。

2部は聖書が言っている福音を扱っている。福音の核心主題である神様の公儀、人間の徹底した堕落、贖いの血、真の悔い改めの本質、救いの確信の聖書的根拠などを究明している。

3部は再び福音へ。この本は所々で説教者が福音を正しく伝えることを強調している。福音をいくつかの新しい項目で縮小して、悔い改めの決定だと教える傲慢を捨てるよう、説教している。

 ‘人たちが嫌がったり、彼らの怒りを刺激しなくても、福音を伝えられるという考えを捨てるべきである。私たちはこの世と休戦を望むより、キリストに忠誠を捧げないといけないのである。

それで救われる人たちには、キリストの香りが放って命の香りを、滅んでいく人たちには死亡にいたる匂いを放ちなさい‘と文を閉める。

福音から命へ
ソ・ヒョンソプ 作 | イレ書院 | 269ページ | 12000

十字架で始まる神様の国と永遠の命

この本は著者が主の働き者として絶望の時間を経て、統合的な福音を知って行く過程とその悟りを詳しく説明している。

おかげで読者たちは、信仰の道を歩む聖徒たちが持つ渇きの実体と大安を間接的に豊かに経験することができる。

30代中半牧師としての道へ立った著者は、教会開拓と説教者としてそれなりに慣れていく途中、限界状況に会うようになった。当時の状況をこのように表現する。

‘働きが成功すればするほど、物質と名誉に対しての貪欲が大きくなりました。神様のようになろうとする願いは、私が神様になっているような錯覚へと発展しました’

著者はすべてをすぐ下しました。スガ城の女性のように、一人になってヤコブの泉へ出て行ったと告白する。夫なしの一人で出て行ったという言葉は、‘私が信仰生活をする時、やってなかった事がなかったが、まだ渇く’という嘆きでした。

神様はその時、その者に訪れてくださって永遠に渇かない泉、永遠のみ言葉を下さる。

著者はその時、神様の導きで裸の者になって、裁きの剣をうけて、その以来み言葉の前に立って、新しい恵みに気付き始めた。破滅の場で、怒りの主、裁きの主を経験したのである。

しかしその怒りと裁きは、神様のみ子、イェス・キリストが担当した。恵みの福音である。ハレルヤ!これを通して著者は重要な事実を知ったと告白する。

福音と命の真理を知ることより、この真理を願うことがもっと大事だということを。

この本は4部で構成されている。1部はこの時代の信仰の現状を点検して、私たちの実体を把握する。万物の中にとじ込まれて、歩みにくくなっている無気力なクリスチャンたちに向けての切なさが、いっぱい載っている。

全ての人生が超えないといけない、数多くの険しい谷を越えた経験がある著者の切なさが見える。

2部は福音に関しての聖書の流れを、神様の広大な救いの計画の観点から見ている。3部は福音の能力を扱っている。コリントへの第一の手紙15章3-5節のみ言葉に根拠として、キリストの死と葬られたこと、そして復活と現れの事件を、各十字架、葬り、復活そして現の福音として区分して説明している。

この十字架の福音が三つの恵みを含んでいると明かした。まず一番目はキリストの血によって、昔の人が罪の支配を受けて犯した行為的な罪の許しと清さを、二番目は昔の人が十字架でかけられて罪の勢力から抜け出して、三番目は十字架で肉親に属した自我の意思を十字架にかけることによって、聖霊による律法の要求がみたされることである。

この時著者は、墓に留まる‘葬儀の福音’が、イェス・キリストと連合をもたらすうれしいお知らせであると強調している。墓が古い命の完全な終末であるが、墓で再び生れる者には新しい命の始めを知らせる標的からである。

イェス・キリストはゴドを待って滅びて行く人生たち(サムエル ベゲト、ゴドを待って)を自分の墓へ導いて、彼らを再び新しい命として生かしてくださるとまとめた。

それで私たちは喜びをもって苦難の中で執行される、悲惨で恥ずかしい審判を神様の公儀で受け入れられるのである。

4部は‘新しい命の人生’へと招待する。永世の人生を生きる聖徒の祝福は、すべての状況の中、神様との連合にある。それで‘み言葉と黙想’を通して、神様との交わりに感謝して、この地で神様の国を楽しめると述べた。

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