“裸の栄光を経験して国々へ進み出ます.”

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K国へ派遣されるキム・クンナム牧師

すべての国々の失った魂を救う尊い使役に、共に働く人々を立たせてくださる神様のご計画は驚くほどだ。しかし、神様と共に働くためには私たちレベルの真面目さと情熱、献身では不可能だ。

私の中のすべての善と美しいと思うことが十字架の前ではしおれて、裸になった後やがて神様との美しい働きが始まる。

この密かな信仰の歩みを通じてすべての国々へ向けて本格的に働く場所を移したキム・クンナム牧師とノ・ミヨンさんに会って話を聞いて見た。

– いつから信仰生活を始めました?

“全羅南道のワンドが故郷です。クリスチャンの家庭ではない家で10人兄弟の長男として生まれました。その当時アメリカの宣教師が町のあらゆる所を歩き回りながらチョコレートと牛乳を配りながら伝道をしていました。その宣教師は私の友人の家で泊まっていましたが、その友人に伝道されて教会に行くことになりました。それが小学校4先生の時でした。”

– 当初の礼拝を覚えていますか?

“とても印象的でした。そこは私が住んでいる所から10里離れたとある町のセンターで臨時に建てられた教会でした。ある執事(教会の役員)が派遣されて説教しましたが、ルカによる福音書19章のザアカイの話でした。その話をとても面白くしてくださったので胸に刻まれました。”

– まだ幼かったのに大きな感動を受けたようですね。

“しかし、すぐには教会に行けませんでした。町の青年たちが教会に行けないように妨げられました。そのために高校2年生まで教会に行けませんでした。”このようなことを見れば、最近のイスラム教徒やヒンドゥー教などの国で改宗した家族や村の人々に腕力で信仰生活を防止することと大きく違うところないという気がします。

 町の青年たちの妨げにより教会出席ができず

– その後、どんなきっかけで教会に行くようになりましたか。

“高校2年生時、地理先生が授業時間に“皆さん、イエス様を信じてください。”と予想もしていなかった一言でした。その言葉に再び私の心に火が燃え上がりました。そして10里を歩いて教会に行きました。しかし、誰も私にお入りくださいと声をかけてくれる人がいなくて外でうろついてはそのまま家に帰ってくることを7週間続けました。”

– その後どうなりましたか?

“8週目になる主日、隙間から礼拝堂に覗き見をしていましたが、牧師先生が出ようと門を開いた時その門にぶつかって倒れました。その時ある教学学校の先生が私を自分の家に招いて、泊まるようにして、一晩中信仰の指導をしてくださいました。その時から朝の早天祈り会が始まりました。早朝に市場に出かける母と共に家を出て、真っ暗な闇の中を通いました。その時が1973年でした。”

– 学生時代に情熱のある信仰生活を過ごしましたね。

“私が高校3年生の時、‘エクスプロ74’大会がありました。大会の規模と波長は凄かったです。私もその当時聖霊を体験しました。それだけ熱心でした。女子中や女子高校はもちろんのこと、他の学校へ行ってクラスごと回りながら伝導しました。あまりの熱心に成績は落ちる一方で、結局家からは追い出されました。

それで高校3年が終るまで牧師先生の私宅で牧師先生と一緒に生活しました。今考えて見れば、どうしてそこまでできたのか…主がなさいました(笑)。”

– 牧師としての召命はどのように確定されましたか?

“エクスプロ74大会最後の日に海外宣教師になりたいと神様に約束しました。大会が終わった後、直ちに祈祷院に上り、一週間断食お祈りで今後の進路について祈りました。その時進学大学に行くという心を与えられました。”

高校時代、熱心に信仰生活をしたことで家から追い出される

– 牧会を始めた時の状況を教えてください。

“高校の頃、牧師先生と共に過ごしながら牧師を通じて沢山の恵みをいただきました。それもあって、牧師の人生を憧れるようになりました。神学校を出て伝道師にとして働きを終えた後、最初はソウルで牧会をするつもりでした。その当時出会ったある牧師の人生にチャレンジを受け、慶南(キョンナム)昌原(チャンウォン)の郊外で毎月家賃を払いながら牧会を始めました。その時が1984年12月でした。”

– 側で見ていた牧会と実際やってみた牧会の人生に差があったと思いますが。

“期待と現実には差があるものですから。はい、開拓しようとした時には夢が大きかったです。うまくいくと思いました。しかし、一人も来なかったので本当に厳しかったです。公団青年たちが教会の中心であったが、経済的にも多くの条件から貧しい青年たちが泊まっていては去って行きました。

時には家賃を支払うことができず、建物から出る状況もありました。真冬の時に墓の前で礼拝を捧げた時もありました。”

– 忍耐を要する時間だったと思いますが。

“そうでした。熱心と情熱があればうまくいくと思いました。今振り返ってみると、その誠実と熱心が私の義を積んだことでした。 10年くらい働いた頃、限界にぶつかりました。自分の熱心だけが誇りであって、教会困難に対する責任はすべて妻に任せきりでした。そうしながらますます教会の働きは厳しかったです。”

– 具体的にどのような困難がありましたか?

“一種の転換点があったりしました。主が新たに開拓することができる道を開いてくださいました。私たちにとって新たなチャンスでした。しかし、建物さえあれば人々を満たしてくださるという誤った期待に借金をして物件を借りました。完全に本質から外れた牧会を追求するようになったのです。教会をリバイバルさせようと色々な種類のセミナーに参加しました。

中年に入ってから落ち着きたい欲と野望があったのです。隠れていた私の古い姿を追求する偶像崇拝をしていました。そうしている内に渇きが極に達したのです。魂は渇いていき妻とはよく喧嘩しました。すべてが詰まって厳しかったです。”

– 困難の時に主が出会ってくださったのですね。

“十字架の福音の前で恥ずかしい自分を発見する時間を続けて持つようになりました。私は聖徒たちに恵みを与える牧師ではなく、負担を与える牧師であり、自分の義を追求していた人であることを悟りました。私は“法がなくても生ける人”、 “清くて誠実な牧師”であるという自己認識が私の自我を追求する罪であったことを知りました。”

– お話を聞いていると、御言葉を聞きながら罪を悟ることが恵みを深く味わう第一歩であることを新たに感じられます。

“はい。私は考えで犯す罪を真剣に受け止めなかったです。考えは自由だと思っていたからです。そして人生を倫理と道徳的に生きて来ました。罪の実を結ぶ機会があまりなかったです。そうしながら私の熱心と誠実さを誇りました。善の自我を続けて表しました。一見、主の話をしているようですが、結局自身の自慢になってしまいます。

私の熱心はすっかりなくなって、私の実状は頭からつま先まで提案のすべての淫乱で汚い思いでぎっしり埋まった‘罪人’でした。そんな罪人である私を我慢してくださり受け入れてくださった十字架の栄光がいかに大きいかを深く知ることになる過程がありました。裸の栄光であり、真の自由を味わえるようになったのです。”

– 悟るのが一番難しかった罪があったならどんな部分なのかお尋ねしてもよろしいですか?

“牧師としての優越感、これを悟ることが一番難しかったです。 ある宣教団体で6ヶ月間進行される訓練学校を通じて悟りました。主から任された職を身分制度のように感じて自分自身の牧会的位置を固めていこうとした罪の姿がありました。

主が6ヶ月の過程を通じてすべての聖徒は同じ天の権限の中にいて、お互い何の条件なしに仕えて仕える兄弟・姉妹であることを悟らせる時まで訓練させてくださいました。”

– これから宣教地に出かけるとお話を聞きました。

“色々な過程を通じていよいよ宣教地に出かける恵みをいただきました。マタイによる福音書4章に‘イエスがカファルナウムに行って住まれるとその地域民に光が映った’という御言葉を通じて宣教は何かをするのではなく、行って住むという事実を発見しました。

できることは何もないが、私の中に光となる主が光として照らされることを信じます。 そしてイザヤ書62章6-7節にて、主の沈黙を招いてはならない祈りの人生でその土地を仕える御言葉をいただきました。”

– 宣教地に出かける準備をしながらどんな気持ちになりましたか。

“3月1日が出発です。荷物を包みながら‘私たちは旅人だ。 巡礼者だ…この荷物も結局みな捨ててあげて来るものなのだ。 永遠なことのために永遠でないものを捨てる人生が本格的に始まったのだな’という気がしました。”

– 宣教地として出かける国について紹介をお願いします。

“その地域の国々がますます宣教の門を閉めて宗教法を強化して宣教師らを追放しています。 教会の登録がとても難しい地域です。福音の足を踏み入れられないようにするある国へ行きます。そこでただ生命を産む福音と祈りの証人がたくさん起きるように祈りをお願いしたいです。”

– その他にも祈り課題があれば話してください。

“まずは家族に対するプレッシャーがあります。同族に向けたパウロの心のように家族を残して国々に出るのが負担であることは事実です。主に委ねるほかありません。特に子供たちが福音で正しく立てられることを期待しています。

私は慶南ウイリョングンにある小さな教会に仕えてきました。牧師がいない中でも、3家族が主に喜ばれる教会として堅く立って行くように、それから、そこに国々のため祈る祈りセンターが建てられることを期待しています。”

J.S

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