“自分に対して絶望する時、十字架を眺めて新しい生命を宣言する”

Date

2013-12-09

十字架だけが唯一の希望 ヨ・ウンヨン執事

福音を信じればすぐに聖なる生活になるのだろうか?その答えは信仰の中で “はい”である。しかし、今ここに私達の生活の現場と現実の橋では”いいえ”です。このような矛盾のような話を真理になるようにする驚くべき秘密がまさにイエス•キリストの十字架の中にある。

福音に出会った後、むしろ罪に対する深刻な悩みと熾烈な信仰の戦い中で挫折するのではなく、十字架を握り続け、信仰の歩みを歩いているヨ・ウンヨン執事に会って話を聞いてみた。

 – 幼年時代の話を聞かせてください。

“家族中でお祖母さんだけがクリスチャでした。幼い頃、お祖母さんと一緒に暮らしながら教会にも行きましたが、17歳の時、自分の出生に関する裏話を知ってから長いさまよいが始まりました。”

 – その話をもう少し聞かせてもらえますか。

“省略して話をしますと、私の両親は同姓同本だったので法的に夫婦になることは出来ませんでした。母は離れて行き、私はお祖母さんの手に育てられました。”

 – 大変な時期を過ごしましたね。

“自分の置かれた状況も、環境も、生きていることも嫌でした。お祖母さんと通っていた教会も行かなくなり、いわゆる不良学生になりました。お酒とタバコは基本で、友達と悪い行いもたくさんしました。一度は遊興費を用意しようと暴力でお金を奪う所で捕まりました。その時は未成年だったので青少年保護施設で6ヶ月間収容生活をしました。そういうこともあってからは通っていた学校ももはや通うことができませんでした。”

 不良学生で6ヶ月間刑務所生活

 – 絶望と挫折の連続ですね。

“はい。ひたすらお金を稼ぐ思いでいっぱいでした。酷い貧乏が嫌でした。学歴もなく、持っているものは何もなかったので挫折と絶望が続きました。ただお酒の力を借りて虚しい心を満たそうとしていた毎日でした。希望がありませんでした。死ぬ思いでマンションの屋上に何度も上がりましたが、その度に誰かが襟首をつかむようでした。死ぬこともできなく、そのような勇気もありませんでした。すべてが放棄状態でした。”

 – 長いトンネルのような時間の中でも特に苦しかった時がありましたか?

“一番大変だった時は2003年、お祖母さんが亡くなった時でした。お祖母さんが集中治療室で“お前、イエス•キリストを信じれば生きる。”とこの一言を遺言で残して天国へ行かれました。一人残された時間が最も辛かった時だったと思います。”

 – その後の生活にどのような変化がありましたか?

“近所の教会に行き始めましたが、もどかしい心は解消されませんでした。お酒に酔ったまま教会で叫び声で祈った時もあります。そんな中、2007年に家賃が押され住んでいた家から追い出されました。持ったのはバッグ一つが全部でした。その時賃貸で伝道師の生活をしていた親戚の家に居候しながら、再び信仰生活が始まりました。”

 お祖母さんの遺言を聞いてから教会に行き始める

 – 重要な転換期を迎えましたね。

“まずは一度礼拝に出席し始め、祈りの生活も頑張ろうと努力しました。きちんと信じてみたかったです。しかし再び座り込んでしまい、失敗を重ねました。御言葉を聞いて決意をしても、無駄でした。相変わらずお酒とタバコと風俗に陥った自分の姿を見ながら、ため息だけを繰り返しました。そうするうちに恵みによって福音の前に立つ機会が与えられました。驚く衝撃でした。”

 – 具体的にどのような影響を受けましたか?

“最初は”私は本当に地獄に落ちる存在である”という事実です。私は自分の存在自体が罪の実を結ぶしかない罪の命であることを知らなかったです。罪から逃れることができると思いました。私の努力が足りなかっただけだと弁明していたのです。しかし、罪と体は一つであることを知りました。そして次に衝撃を受けたのは、十字架に死なれたイエス様と私が信仰の中でイエス様と一体であるという事実でした。私の死をイエス様の死の中で発見したのです。”

 – その後にどうなりました?

“十字架の福音の前に立ったあの日以来、一ヶ月間何も出来なかったです。説明では難しいですが、虚しさを感じるようなものでした。世の中のすべてのものから分離されたというか。それから御言葉を見て祈ることにだけ集中する生活を1年ほど過ごしたようです。”

 – 十字架福音の前に立った以後の人生について話してください。

“罪について、さらに深く悟る時間でした。信仰の訓練を受けて、祈りの生活を熱心にするなどの行為がすべて自分の正義になってしまうのです。神の義ではなく、自分の義が福音に重なっているのを見て、自分がどれだけ神様を心に留めようとしないのかを気づきました。行為に自分を表わしたくて、自分自身が信仰の主体になろうとし、唇には“主がなさいました。”と告白するものの、中には達成感が内面から上がってくるのを見て、自分でも驚きます。あ!私は本当に罪人だな!自我の存在がどれくらい恐ろしいのかすさまじく経験しています。”

 – それでも目に見える罪の実は減ったりしませんでしたか?

“率直に申し上げますと、今は罪について悟った以降から罪の実は少ないですが、以前よりももっと大変なことも事実です。罪を気づかなかった時は、状況が変われば正しい人のように生きることができると、自ら騙しながら生きて来ました。ところが今はいくら小さい罪であっても放置することができなくて、罪によって受ける苦しみは、むしろ罪を悟った後がより大きいと言えます。

 罪を悟ることが苦しかった

それでも罪を悟るだけで立ち止まることはできなかったです。十字架の前に進まないといけないです。自分自身を否定するイエス様の十字架がなければ、本当に悲惨です。毎日の生活を振り返ってみると、失望で絶望な自分の姿だけですから。しかし十字架を握り、御言葉を握り祈るとき、希望を抱くことになります。主が御言葉を通して完全な福音と勝利する教会を約束したから、再び立ち上がることができる望みがいます。”

– 日常の中で経験している福音について、もう少し具体的に聞きたいです。

“今は、配送業者でアルバイトをしています。7-8ヶ月になりました。そこにはほとんど不信者たちで近づくことは簡単ではないです。会話自体が成立されないからいじめになるしかありません。隣で聞いてみると、以前私が好んでいた話題の話をしています。同僚と一緒にご飯を食べていると”お酒やタバコも吸うような顔をしているのに、何故しないのか?”と聞かれます。そうすると私は福音伝えます。最初は‘宗教の力は大きい。’、‘宗教はマインドコントロールに有益である。’こんな話から始めて、後には教会通う人々への反発につながり、イエス様について悪口を言って、信じている人を悪口する場合が多いです。”

 – 激しい信仰の戦いに励ましを差し上げたいですね。

“ある時にはこんな事もありました。隅で聖書を読んだり祈っていると、普段はいたずらをかけたり、あざ笑うひとも、自分たちが大変なことがある時は、‘祈って欲しい’と言います。その時には希望を持って彼らのために祈っています。彼らの姿の中で昔の自分の姿を見るようで心が痛いです。ところが福音を伝える現場に潜んでいる危機はあります。早く彼らがイエス様を受け入れて、早く実を結びたいせっかちな心がそれです。そんな時には”今でも私は福音の邪魔者だ!”ということを悟ります。”

 不信者を見る時‘私の昔の人’を覚えながら祈る

– だからより一層十字架の福音が完全な措置ではないでしょうか?

“そうです。福音を伝えようとする現場でさえ、福音の最大の障害に転落することができるのがまさに私です。自分自身の罪の姿を発見することが本当に苦難と思います。これは本当に辛かったです。だからこそ、十字架だけが完全な措置ということを悟ります。罪によって死んだ昔の人の席にこれ以上留まることはできないから。毎度信仰で十字架の前に自我を死なせて、キリストとともに新しい生命に立ち上がることだけすればよいのです。”

 – 最後に祈りの課題があれば教えてください。

“現在も主が私を使っておられると信じていますが、これからもどんな使命でも直ちに従順できる信仰を与えてくださいと祈っています。それから私の家族と親戚が福音の中で堅く連合することです。また最後の日には、肉体の死を恐れないで自分を叱りながら主に大胆に進めるように祈っています。決意はするものの、それを実際に経験することは難しいです。それでも十字架の福音だけが結論であることは変わりません!”

 J.S

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