零下40℃の寒さも、福音の能力によって暖かく感じる。

Date

2015年6月6日

믿음의 길을 택한 김요단 선교사信仰の道を歩む金ヨハン宣教師

彼女は全てが無意味に思われて、憂鬱な人生を歩んでいた時に主の愛を知った。そしてみ子イエスをくださった神様に自分の人生を当然捧げると思い、宣教師として献身した。しかしその人生は平穏ではなかった。

–どのようにして宣教師として献身するようになりましたか。

私は4代目のクリスチャン家庭で生れて育てられました。しかし神様に関してはよくわかってなかったようです。大学卒業後、人生の彷徨期を歩む時、主に出会いました。私を救ってくださった神様に私の命をささげることが当然だと思いました。それで茫然と宣教師になることを決めて、宣教訓練を受け始めました。しかしすぐ宣教地へと行けなかったです。その時に結婚したからです。

–ご主人も宣教献身者でしたか。

いいえ。夫は献身とは無縁のひとでした。儒教的家で育てられて、宗家の後継ぎでした。夫が家族の中では一番始めにイエスを信じて家族に伝道をする状況でしたので、献身はただの夢のようでした。

しかし夫の心が貧しくなる事件が起こりました。共に事業をしていた人から騙されて、倒産という大きな試練がありました。目の前の現実は大変でしたが、おかしいことに私の心には喜びがありました。夫がお祈り始めました。自分の力ではどうしようもないことを告白して、主に人生を捧げることを決断しました。

私の無能は主に人生を捧げる決断の始まり

–ついに宣教の道が見えるようになりましたね。

まず倒産による借金を返すために、私は保育園を運営して、夫は宣教団体で訓練をうけました。その時が1993年でした。私も主の時を待っていて、未伝道種族に対してのみ心をいただいて夫とU国を知るようになりました。

そして夫がU国へアウトリーチを行きました。ですがそこは内戦で大変であって、宣教団体からT国へ行くのはどうかと言われました。それを主の導きだと信じました。

– T国に滞在していた期間はいかがでしたか?

挨拶程度だけを習って出発しました。それで到着以後その国の言語を学びながら家庭教会の働きから始めました。時間がたって学校で運営する韓国文化センターで働きました。

そこで韓国語の教室とパソコン教室を運営して学生たちを教えながら、韓国語辞典の必要性を感じました。夫はT国語を勉強して結局辞典を執筆することを始めました。大変な作業であって、二回ほど倒れました。しかし神様の情熱が彼を導いてくださいました。結局辞典が完成して、いまその辞典が有用に使われているのをみて主の福音が流れる通路として用いられるよう願っています。

–T国の状況は大変劣悪だと聞きましたが、そこでの生活はどうでしたか。

韓国とは違っていました。電気も、水も、ガスもよく出ませんでした。一番大変だったのはノミでした。とても苦しかったです。そこで二番目の子を出産しましたが、子供が集中的にかまれました。

 ‘このように死ぬかも’と思いました。本当の死に対して悩む時間でした。私の肉体がノミに反応するように、自分の自我も生生と生きていて反応することがとても辛かったです。福音を伝えていましたが、福音の感激はなかったです。自分さえも適用されない福音を他の人に義務的に伝えることがとても苦痛でした。その中、ある宣教師さんの一語が私の存在を回復させるカギになりました。

感激がない福音を伝えることへの限界

–どんな言葉でしたか。

たいした言葉ではなかったです。ある宣教団体が主管する訓練に‘行ってみて’と言ってくれました。急に変わったその宣教師をみたのです。どうして人がこんなにも変わることができるのか、その理由が福音であることを知りました。

彼を変えた福音ならば自分も行って訓練を受けたいと思いました。そして参加しました。福音の前で自分の存在が罪人であることがとても衝撃でした。いままで自分がなぜそのように生きていたのかがやっと分かりました。宣教地に行きましたが、人のよい評判を望んでいた自分の実状に気付きました。

福音の真理によって、主と共に十字架で死んで復活の新しい命になったと信じられました。とても幸せでした。この福音ならば十分だと思って帰って来ました。

–福音に出会ってから宣教地での生活はどうでしたか。

うまくいけそうな気がしました。しかし急にT国のビザが拒否されて離れることになりました。当時大きな国立大の教授として、分化センターの働きで、イスラム社会で認められていた登録教会を運営していた時でした。だからビザに関しては何も心配してなかったです。

私たちが積み上げていた業績が一瞬に崩れて、宣教は自分の力ではどうしようもないことであると気付きました。私たちが自慢していたのを主が整理してくださいました。振替えて見ると主の御恵みでした。

▶ T국 현지인들의 결혼 모습
T国現地人たちの結婚の姿

–その後はどうなりましたか。

幸いに出国までに少しの時間がゆるされました。荷物を整理することよりも、長い間付き合っていた人たちとわかれることが悲しかったです。一カ月間これが最後だと思って彼らに再び福音を伝えました。他の宣教師たちに全てを任せて、韓国へ帰りました。

今はその方たちがみんな離れ離れになったと聞きました。どこでどのようになっているのかが心配で胸が痛いです。

–帰って来た韓国ではどんな時間を過ごしましたか。

再び福音の前に立つ時間を持ちました。6カ月間の仲介祈祷学校での訓練をうけて、自分がどんなに宣教師としての資格がない存在であるのかが分かりました。自分の献身したい分だけを献身して、愛したいだけの分を愛していたことに気付きました。心の中で宣教師を辞めようかと思いました。

しかし神様は仲介祈祷学校で行うアウトリーチが終わるころ、T国に対する心をくださいました。T国の魂を愛する気持ちが自分からのものではなく、主からのいただいた心だと気付きました。

追放以後、新しい道へと導かれて

–そうしたらT国へと再び戻れましたか。

いいえ。主は私たちをロシアへと導いてくださいました。始めは私たちも主のご計画を知らないまま、従順しました。T国の若者は多くロシアで働いています。白人優越主義が酷くて無視される現実に苦しめながらも生計のためにはどうしようもない選択です。

しかし神様は私たちをT国の移住民たちがおおい所へ移動させてくださいました。主を賛美します。T国にいる時には移住民たちに仕える人のために沢山祈りました。しかし主は私たちのお祈りに、この様に答えてくださいました。

–神様が自ら導いてくださる過程を生々しく経験しましたね。

いまは韓国にいますが、そこで過ごした時間は夢のようでした。主のみ言葉だけをにぎりました。それが私たちのもったすべてでした。いま振り替えて見ると主だけを見上げていたその1年が、まるで主と同行した旅行のような暖かくて安全な時間でした。勿論神様は住む家と子供たちの学校を全部用意してくださいました。そして偶然近隣に引っ越ししてきた現地の牧師と交わっていて、移住民のためのお祈り会を始めるようになりました。

飛べない私をおんぶして飛んでいた神様

また20年以上働いていた宣教師たちとも連合して祈るようになりました。お祈り会は段々活性化して私たちの魂がよみがえるのを感じました。宣教社会はもっと福音によって連合して、いまT国の人たちとも一人二人交わるようになりました。神様がこのように私たちを導いてくださいました。しかし急に夫が事故にあいました。

–どんな事故でしたか。

冬の氷道で転んで二つの肩が骨折して靭帯が破裂しました。すぐ韓国に帰れず、治療することができない状況でした。結局悪化した状態で今年韓国に帰ってきて手術しました。夫は現在治療中で、聖書言語訓練学校で福音を学んでいます。

ある日夫がこんな告白をしました。‘主が二つの羽を折ったね。私は自分が鷲だと思って飛ぼうとしたのに・・今思うと鶏の羽だったね。飛べなくて音だけがうるさかったね。周囲の人たちを苦しめていてね。実は鷲の羽で飛んでいたのは神様だったんだね。’この言葉が自分のこころに深く刻まれました。苦痛でありますが、こんな告白が出来ることに感謝しています。

–最後にお祈りの課題を聞かせてください。

本当に主だけを知りたいし、愛したいです。日に日に神様は私たちに自分を知らせたがる気持ちがあることに気付きます。天国の数多い群れの中でT国の人たちが立っていることを想像すると胸がいっぱいになります。このことが成し遂げられると信じます。そして主の再び来られるその日を待ち望んでいます。それが私の希望です。[GNPNEWS]

S.Y.

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