神様の特別な所有になった人達(2)
神様に向かった愛が冷めたら愛を奪われる。詩篇51編でダビデは‘きよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくして下さい’と求めた。
神様から離れたら生きて行けないダビデの姿だった。彼は知っていた。神様に向かった愛を奪われたら全てを失してしまう事を。
“エサウはヤコブの兄ではないか、と主は言われる。しかし、私はヤコブを愛し。(マラキ書1:2)”この言葉は‘私達を愛する神様が何処に居るのか’と反問するイスラエルに向かった言葉だった。
ヤコブが存在する前に神様が彼を愛したという事は、条件的な愛ではなく、選択的な愛だった。私達もこの愛を貰った。
主は私達の条件によって愛するのではなく、選択的で一方的に愛した。罪の中から生まれた私達は条件的な愛も手に負えないのはもちろん、一方的な愛を負える能力はさらにないのだ。
私達が生まれ変わった事は神様の恵みの為である。この恵みは私達から生まれたのではない。恵みと言うのは、受けてもらう資格のない人に、唯で施す神様の一方的なプレゼントである。
神様の心から始まった一方的な愛を見ろ!“しかし、私はヤコブを愛し、エサウは憎んだ。私は彼の山を荒廃させ、彼の産業を荒れ、野のジャッカルのものにした。(マラキ書1:2~3)
ヤコブの子孫であったイスラエルは、出エジプトを通じて神様の奇跡を歴史全体で経験した。それにも関わらず、エサウの子孫であったエドム族以上に神様に逆らった。しかし、神様は彼らを愛する事と決定して、契約を結んだ。
“ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、いま、こう言われる。恐れるな、私はあなたを救ったのだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。(イザヤ書43:1)
神様に逆らって去っていく彼らに神様は一方的に愛を宣布した。“絶えずに帰って来なさいと叫んだが、反逆して去って行ったあなたは揺られて変わっても、あなたと契約を結んだ私は永遠にあなたの神様であるのだ。
私、神様、エホバの言葉は、私の口から出た言葉は、決して素戻りはしない。私は私の契約を最後まで成り尽すのだ。あなたは私のもの。あなたが偉いからではなく、私があなたを選択した。あなたが例え大きな罪を犯したとしても私はあなたを決して捨てたりしない。私は息子の血の代金を払ってでもあなたを買い取るのだ。”
アブラハムが福を受ける理由は何一つなかった。彼が特別な人だから召されたわけではない。神様が一方的に選択したのである。一方的に選択して、契約して、自ら成された。
それでも、神様のこのような一方的な愛を受けた私達は、見える状況を見ながら神様の愛を疑う。
体が痛かったり、うまく行かなかったり、仲間はずれされたり、数多い状況にけちを付けて神様の愛が疑わしい時に、私達は神様の心から始まった一方的な愛を見るべきなのだ。
ある宣教師の家庭があった。宣教と言う主題も慣れてないその時に宣教師として献身した家庭だった。長い時間祈祷して恵まれた息子が一人いた。しかし、凄まじいことにその息子をあっという間に失くす事になった。息子の死を受け止めることが出来なかった。‘なぜ、よりによって私の息子ですか?’
息が詰まるような苦痛の中で身悶えたが、なかなか神様が理解出来なかった。何も出来ない暗闇の時間を過ごしているときに、主のお言葉が内面の声で聞こえた。‘私はあなたの為に私の息子を与えた。’
息子をなくした苦痛、しかし、それを乗り越えて息子を与えた下さった神様の愛が彼には胸に沁みただろう。苦痛を裂けて勝利したキリストの愛。
誰が神様の愛を揺さぶる事が出来るだろう?誰が私達をキリストの愛から引き離すがんことが出来るだろう。どんな苦しみも、迫害の、危険も、絶望も私達の心から神様に向かった愛を引き離す事は出来ない。
[GNPNEWS]