ついに深い内面からの悔い改めのお祈りがあふれ出た。

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re_114_7_1 hands6カ月間の福音士官学校の時間を振り替える。ただ主の御恵みだったと思う。アウトリーチを準備して私のこころにはすこし負担と葛藤があった。

 ‘この人たちと連合できるのか’と思う自分に‘できない’と叫んでいた。それにアウトリーチを準備して自分の弱さが現れて、自分の存在がチームの中で心配の対象になっていた。恥かしくて悔しかった。私を弁明したい気持ちがあったが、主は全てを委ねるようにさせてくださった。

アウトリーチのS国では現地人の聖徒を対象にする福音キャンプが予定されていた。私は献身の人生に対しての講義を任された。講義案を準備して限界にぶつかった。しかし頭を抱えながら準備した講義案は意外とよい評価をもらっていて、無理なくアウトリーチを始まるようだった。

しかし現地に到着して日程がすぎていても自分の頭の中には講義に関しての思いでいっぱいだった。まず内容が足りないと思った。また自分はそうでないのに、福音の真理を宣布することが辛かった。

福音キャンプの前日。チームの仲間たちと共に講義の内容を整理しながら多くの部分をあらたに訂正した。なおさら自信がなくなって足りなさを感じた。講義ができるのかと心の片っ方では心配になっていた。

信仰の原理を使う機会として思われた。神様は真実に信仰の歩みへと導いてくださった。大きな負担感をもって講義を始めた。神様は私を含んだ私たちの姿に関係なく、現地の一人ひとりに会ってくださっていることが見えた。宣布する真理の前で皆が神様の御恵みに感激した。

そして福音が伝えられる時に主は私にも同じく聞いてくださった。‘現地の人たちに伝えた福音があなたには?’わたしもその福音に出会った。

難しく思っていた仲間たちと連合することに対して主が悟らせてくださった。アダムはどのように主と交わったのか。神様の姿に似て創造されたからである。主との交わりが可能であったのは神様の姿になることであり、これはだれとも交わりが可能になることを意味した。

しかし私はそうでなかった。仲間たちとの交わりがうまくいかないのは、主との交わりが不可能であることだと結論だした。‘神様のすがたへと回復した人生とは距離がありすぎていた私が福音士官学校を終了したからといって、それが何の意味になるだろうか’と思った。

十字架の福音が宣布される現場で、仲間の姿のせいで福音を喜べない私の実存を見た。そして私の深い内面から悔い改めのお祈りが溢れでた。

私を含めたすべての人間は存在的に罪人であり、条件と状況さえ整えれば、悪い人になれることを認めた。ただ主だけが信頼の対象であって、ひとは期待する対象も、傷をうける対象もない、愛してゆるして仕えないといけない対象であると信じられた。主の平安が臨んだ。

これ以上仲間の姿を問題にしなくなって、神様の姿へ回復した存在に見えた。神様のみ言葉を信じて、最後までそのみ言葉を見続ける時、主が自ら働く栄光を見た。

そんなにも負担だった講義と仲間たちとの交わりも主が導く恵みの時間だった。聖書が生きている神様のみ言葉として思われて、そのみ言葉に従う歩みを歩んで、み言葉をなしとげる主を最後まで信頼する信仰の決断へと私を導いてくださった。失っていた私の原型、神様の姿へと回復した自分を見つけた。私の一生の自慢はただ十字架である。

‘しかし私自身には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとする者は断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまったのである。(ガラテヤ人への手紙6:14) マラナタ、主よ![GNPNEWS]

張ギスン(インチョン教会)
70歳の近い年に総体的福音に出会ってから福音士官学校で学んだ。いつでも主のお呼びかけに従順するために現在家庭で信仰の証人として生きている。

 

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