神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネの福音書 3:16)
被造物の世に来てくださって一番過酷に死ぬ十字架でなくなったイェス様。。そこに私は見物人だった。しかしイェス様は私を許して、私を抱いてくださった。
また世で一番大きな見物だった十字架の事件で、サタンの頭を踏みにじって勝利したイェス様。しかしそのイェス様を見上げて生きるが、いつも私の心に自然と出てくる罪の本姓を、私の力では勝てないし、悔い改めても続けて罪を犯す私の姿を見せてくださった。
いまは私が生きるのではなく、ただ私の中にいるイェス様が私の心の主人にならないといけない。そのためには神様のみ心を抱かないといけない。しかし神様のみ心は、私が最善を尽くして得ることではなく、十字架で死んで神様のみ心を持ってないといけないのだ。
光と暗闇が一緒にはなれないように、十字架で死ぬ時、サタンの魂と暗闇がなくなる。一週間の間私が見物になる人生を生きて見た。
私のクラスでは、ぶさいくで太って、匂いがする子がいる。子供たちがずっと、‘三段バラ肉が通る’、‘おい、あなた、転んで行っているね。へへ’と言って、悪口をいってからかった。
私もその場にいたが、ただ見物人として立っていただけだった。しかし神様がおっしゃった。‘私ならばどのようにしたのか’と聞いているようだった。そして光の実の学校で聞いた公儀の内容が思い出した。
それで一週間私がそばで味方になって、‘太っているのは貴方のせいではない’といってあげた。そばに行ってかばったので、子供たちが‘あなた、あの子の恋人なの?’と私までからかった。
始めは泣きたかったけど、イェス様を考えると、‘これはイェスさまが十字架でなくなる時の苦痛と比べると何もない’と思われて大丈夫だった。
結局私とその子が何の反応もみせなくなると、からかったりするのはしなくなった。しかし驚くべきことが起こった。他の子供たちもその子と一緒に遊ぶようになった。
私がもしその子を助けてなかったら、その子とは遊ばないし、ずっといじめながら遊んでいたでしょう。
この驚くべきことをなさった神様に感謝します。主がなさいました。
李ウヨン(11. 小学校5)