聖書通読を通じて悟った“限りないの神の愛”

Date

2013年12月16日

最近、聖書を一読する時間を持った。今回の聖書一読を通じて味わった最も大きな恵みは、神の愛には限りがないことを実感したことだ。聖書の数66巻の中で、どの箇所も神の憐れみと慈愛が表れないところはなかった。神はまた‘あなたたちが聞かなければわたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。(エレミヤ書13:17)’とまで表現された。

この嘆きは、イスラエル民に向かったことではない。深刻に腐敗し、悪臭で元の姿を探せない私に向かった主の切ない叫びに胸を裂きながらも、疲れた体を情けなく思う自分は、神とはあまりにも遠く離れていた。

数々の御言葉を聞いている時間にも、食事の時間をオーバーしてしまうと集中力が切れ、親の思いからはじめ付き合っていた彼氏の思いをするなど、腐ったゴミのような自分だった。

このような自分の思いをはるかに超えた主は、一週間働きかけておられた。1分の間にも、数々のメッセージが語られる時と同時に、何の感動も思いもなしに目だけ聖書を追っている繰り返す時間の中でも、再び主に目を向けると直ちに恵みを注がれる経験をした。

神様に近づくことは、一歩ずつであることを経験させてくださった。

すべての国が一心で反逆して裏切って総体的に破産した時でさえ、神は変わらぬ愛で高速の歴史を書いておられたという事実にまた再び胸が痛かった。

私たちの罪の始発は破滅に向かう時ではなく、最も完璧で祝福の頂点にいた時であることを聖書のあらゆる所に書かれてあることを見て、嘆きせざるを得なかった。

列王たちもまた自分をその座に座らせてくださった神様に敵対して、偶像崇拝して、自我崇拝して時代を問わずバベルの塔を築く蛮行たち…それでも正直だった王たちも彼らの聖なる高台は取り除かなかった。

アダムから新約の預言者たちまで、神様を一度も逆らわなかった人物がいないことをみて、神様の心を少しばかり予測できた。

続けて聖書を読みながら‘たった一人だけ… たった一人だけ…’清くて罪のない人が現れることを期待した私の希望は泡となり、様の哀れみで結論を下した。

余地々で聖なる高台でいけにえを屠り、香をたいていた自分の姿は見ないで、他の人の偶像は簡単に探し出すことはここでおしまいだ。

自分の中のアナク人と七部族は、他でもなく昔の自分の自我であることについては、徹底的に闇に閉じ込めることを決断する時間だ。

衣食生活の問題で荒野に40年間訓練されたイスラエルの民。まるで自分の姿が聖書に映しだされているようだ…。

一生一度も入れなかった至聖所、主が引き裂かれて死なれたその道に、私が祭司となって至聖所に入って礼拝を捧げる感激は一生続かねばならない。

聖書の隅々にいたるまで預言者たちと起きた出来事を通じて続けて話しかけていることは‘私と共にいよう!’という主の御声でした。主だけで十分であることは事実なのだ。主だけで十分だということを聖書を通じてはっきりと仰せられた。

この蜂のように甘い御言葉がそんなに苦かったことは、私の目がタオルで隠れていたことに違いない。主を信じるのに信頼を使わざるを得なかった自分だったが、信じるほかはない御言葉で私に証拠を見させてくださった主の前に、硬い聖なる高台は取り除くことしかなかった。

主がなさった。すべての出来事がただ神様だけを愛するように、君は私のものだと、印を押されている作業を見ながら、自分を通して働きかけてくださる主を期待できた。

御言葉を見る心の畑もなく何の力もない自分に、御言葉が結論であることを知らせてくださった主を賛美します!

ク・キョンソン(福音士官学校)

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