生まれ変わる唯一の道、イエス・キリストの十字架!
神の約束と誓い (5) この言葉に注目しよう。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探すが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かに見えるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力であり、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのである。」(コリント人への第一の手紙 1:22-25) その神の力と知恵がどのように現れたのか。それは、人々が軽蔑するイエス・キリストと彼の十字架の福音によるものである。この十字架の福音こそが神の力であり、神の知恵である。最も希望のない人生が丸ごと変わり、変わった彼らを通して世界が変わること。このことが神の完全な知恵と力である十字架と復活の福音によって可能になるのである。 これは誰にでもわかる秘密ではない。十字架の福音は、伝統に慣れ親しんだユダヤ人には愚かに見え、世のことに精通した異邦人には無駄に見える。このように十字架の福音がどれほどみすぼらしく無知に見えたとしても、それを信じると言う教会でさえこれを無視している。しかし、使徒の中の使徒であり、優れた神学者であり、神の前に力強く用いられた使徒パウロは言う。 「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない。キリストによって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのである。」(ガラテヤ人への手紙 6:14) 教会の中には、華やかな神学知識や体験、力、組織など多くの必要があるが、なぜ主は愚かに見える十字架を福音の中心に置かれたのか。なぜこの無駄に見える十字架が神の知恵と力だと言われたのか。それは神が歴史を変えようとするとき、結局は人を変えなければならず、人を変えようとするとその人の中心である心を変えなければならないからである。罪によって汚染された人間が本質的に神に反逆する心から本来の神の形に戻ることは天地開闢よりも難しいことである。唯一、神の知恵とその力である十字架の福音によってそのことが可能になる。 救いと生まれ変わり。主は言われた。『多くの訓練と努力をしても生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。』生まれ変わらずに人間が存在的に変わることは不可能である。 人間は努力によって少しは改善されることがある。酒やタバコを楽しんでいた人が突然やめたり、悪口を言っていた人が優しく話したり、詐欺で他人を困らせていた人が慈善事業をすることもある。しかし、その人が罪人であるという点では一歩も逃れることはできない。 神の国は改良された罪人が行ける場所ではなく、生まれ変わった生命でなければ入ることはできない。再び生まれなければならないと言うほど、生命の存在そのものが変わらなければその場所に行くことはできない。どうやって何によって生まれ変わるのか。我々を生まれ変わらせる唯一の道はイエス・キリストの十字架にある。(2018年9月)<続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com
戻ってきた息子を取り戻した父の喜び
信仰は聞くことから生まれると聖書に記録されています。その聞かれた御言葉、信仰の先人たちが残した言葉や告白を要約、紹介します。<編集者> 放蕩息子のたとえ話の要点はただ一つです。実際、その一つで十分です。その核心は、息子が帰ってきたときに父が喜んだということです。 その喜びは単に息子に対する父の自然な愛の表現ではありません。失った息子を再び見つけたとき、父の心を満たした安堵感、感謝、言葉にできない誇らしさが混じった圧倒的な感情の表現でした。 ですから、このたとえ話で重要な点は彼が「堕落した」という事実ではなく、彼が「息子」であったという点です。父がそれほど大きく喜んだのは、その息子を失ったが再び見つけたからです。この息子は父の心に他の何ものにも比べられない貴重な存在であったため、彼が戻ってきたということはそれほど貴重な存在を再び見つけたことを意味しました。 だから父は息子が帰ってくるとき、家にただ座って彼を迎えたのではありません。息子に対する憐憫の情でいっぱいになり、まだ遠くにいるのを見て走り寄りました。彼を迎えて口づけし、召使いたちに命じて彼に最も貴重な衣を着せ、汚れた足を洗い、靴を履かせ、指に指輪をはめさせ、肥えた子牛を捕らえて宴を開き、音楽を奏でました。なぜなら、父の言葉のように「この息子は死んでいたのにまた生き返り、私が失ったのにまた見つけた」からです。 私たちは何度も繰り返して話を聞くと心が鈍くなります。主が感動を与えたいと思ってもそれを受け取ろうとしません。しかし、これが私たちの姿であっても、罪人が悔い改めて戻ってくるとき、神は放蕩息子の父が息子を迎え喜ぶように喜ばれます。この偉大なメッセージに誰が驚きと感動を覚えないでしょうか?[福音祈祷新聞] ベンジャミン・ウォーフィールド③ <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com
私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。
これは中国で実際にあった話です。 両親を失って暮らしていた二人の兄弟がいました。兄は弟を非常に愛していました。兄は評判の良い人でしたが、弟は喧嘩と賭博を繰り返す不幸な人でした。 ある日、弟が乱闘中に感情が高ぶり、ついに人を殺してしまいました。警察に追われた弟は急いで兄のもとに走り助けを求めました。兄はしばらく何かを考えた後、決然とした表情で弟の血のついた服を脱がせ、自分の服と取り替えました。 弟が兄の服を着て逃げた後、兄は現行犯として逮捕され、ついに死刑判決を受けました。一方、恐怖に駆られて逃げていた弟は遅れてこの知らせを聞きました。苦しんだ末に自首し、警察は彼をすぐに収監しました。 この事件は社会的な関心を集めて再び裁判にかけられました。陪審員たちの長い審議と討論の末、ついに裁判官は判決を下しました。「無罪を宣言します。」その理由は、弟の名前で既に法が裁きを執行したためでした。同じ事件を二度処罰することはできないという理由でした。 確かに彼は罪人でしたが、法は彼に罪を問いませんでした。誰かが彼の代わりに罪の代価を支払ったため、彼は法的に罪がないことになったのです。罪は最終的に神の法を破ることですから、救いを得るためにはこのように法的に明確に罪がないと認められなければなりません。 死刑執行前に兄が残した手紙を弟は遅れて読むことになりました。 「私はあなたの罪の服を着て、あなたの代わりに死ぬ。今やあなたは私の服を着て、私のように生きてくれ。」 「キリストと一つになるためにバプテスマを受けた者は皆、キリストを着たのです。(ガラテヤ人への手紙3:27)」 [GPNEWS]
福音は私たちの中で実際にならなければなりません。
この世には二種類の不幸者(不幸者)があります。第一の不幸者は福音を一度も聞いたことがない人です。彼らを‘不信者’と呼びます。不信者の人生はそれ自体が迷いです。 第二の不幸者は福音を聞いたにもかかわらず、福音を誤解するか、聞いた福音が自分にとって実際になっていない人です。彼らは信仰生活をする‘信者’ですが、信仰の混乱を経験します。彼らには福音が実際にならない理由を調べ、聞いた福音が実際になるように助けなければなりません。 実際(実際)とは、『事実の状況や事情』という意味で、ある『事実』に焦点を当てる時に使う言葉です。つまり、福音が実際になるとは、福音の事実がそのまま自分に現れることを言います。 私たちは神が創世前に準備された福音、救いの性質、救い主の資格、救いの方法をすべて聞きました。完全な福音を今や私たちの生活の中で実際に享受しなければなりません。 渇きを解決する実際 渇いている一人の人がいます。誰かが彼に清潔な生水を持ってきました。彼に届けられた生水はそれ自体で実際です。しかし、渇いているこの人にとってはまだ実際ではありません。 なぜなら彼がその生水を飲んでいないからです。意外にも多くの人々が生水の瓶を持ったり握ったままで渇いていると言います。渇きを解決する生水を手に握ったままで依然として渇いているということです。生水の瓶を持って飲む時に初めてその生水は彼にとって実際になります。 福音は実際です。福音を与えてくださった主はその福音が私たちにとって実際になることを望んでおられます。では、福音がなぜ私たちに実際にならないのでしょうか?その理由を聖書は次のように言います。 「その人々と同じように、私たちも福音を聞かされましたが、その言葉が彼らに役立たなかったのは、聞いた者が信仰と結びつけなかったからです(ヘブライ人への手紙4:2)」 福音はただ信仰によってのみ実際に経験し享受することができます。[GNPNEWS]
十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。
神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]
十字架は私のための贖罪の場所です
神様はイスラエルに許された犠牲は自分のために存在するものではありません。犠牲は自分のために死なないのです。犠牲はイスラエルのために存在し、イスラエルのために死にました。 救い主イエス・キリストは犠牲としてこの世界に来られました。イエス・キリストの誕生、生涯、死は自分のためではなく、まさに罪深い私たちのためです。イエス・キリストは存在する罪深い私であり、十字架で死なれました。 十字架は私のための贖罪の場所です。イエス・キリストの死は罪、すなわち私、私が罪であり、自己の死です。罪深い私が死ぬ十字架に神の小羊、イエス・キリストが犠牲となって死なれたのです。その十字架は私とイエス・キリストが共に死んだ十字架です。 断絶された神と人の関係。罪と断絶されなければ神との関係が回復されることはありません。神と和解するためには、神の方法と御心に従って進まなければなりません。神と和解するためには和解の犠牲が必要です。血の流れる犠牲を払う和解の犠牲が必要です。血の流れる犠牲を払うことなくしては神と和解することはできません。 十字架、神と和解する場所 「神は信仰によってイエスをその血による和解の犠牲として立て、それによってその義を示し、またイエスを信じる人を義とされんと思われたのである」(ローマ書 3:25-26) 罪深い者の最善の供え物、罪深い者の血、すなわち罪深い者の犠牲では神と和解することはできません。そのため罪のないイエス・キリストが私たちのための和解の犠牲となられました。イエス・キリストが十字架で流された血によって私たちはついに罪の赦しを得ました。 私たちが信仰によって和解の犠牲とされたイエス・キリストを信じることによって、私たちに神の義が与えられ、神と和解することができます。十字架の結果は神との元の関係の回復です。十字架は完全な愛と喜びの交わりの対象への回復を成し遂げました。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com
十字架がなぜ唯一の救いの方法なのでしょうか?
神の救いの方法がなぜ必ずしも十字架でなければならないのでしょうか? 十字架刑は当時ローマで最も残忍な死刑のひとつでした。 死刑判決を受けた罪人が十字架に釘付けにされ、数日にわたってゆっくりと死に至る刑罰が十字架刑です。ユダヤ人にとって、十字架に釘を刺された者は神に呪われた最も罪深い人と見なされました。 「木にかけた者は、神からの呪いを受ける者である」(申命記 21:23) 聖書は罪の代価を死として述べています。したがって、罪人は実際に死という代償を支払わなければなりません。それゆえすべての罪人は死の権威の下で自由になれないのです。 罪は必ず神の裁きを受けます。その裁きの結果は永遠の地獄です。しかし、イエス・キリストは罪人の代わりに十字架で死にました。 十字架は、サタンの権威が破壊された場所です。 したがって神の裁きは終わり、すべての罪人はすでに裁かれたのです。十字架でサタンの死の権威が破られ、イエス・キリストは復活によって勝利しました。 「わたしの言葉を聞いてまたわたしを遣わされた方を信じる者は永遠の命を持ち、審判に至らないで、死から命に移ったのである」(ヨハネの福音書 5:24) 私たちが認めようが否とうが、罪は霊的な背後勢力であるサタンに属しています。 「罪を犯す者はみな、悪魔に属する者である。悪魔は元から罪を犯した者である」(ヨハネの第一の手紙 3:8) これはすべての罪の権威がサタンにあることを意味し、罪を犯すということはサタンの権威の下にあることを意味します。私たちは罪から自由になるためには、罪の根源であるサタンの権威が破壊されなければなりません。しかし、既に創世記3章15節の神の救いの約束が十字架によって成就されました。 「神の子が現れたのは、悪魔のわざを破壊しようとされたためである」(ヨハネの第一の手紙 3:8) [GPNEWS]
「世の知恵では決して理解できない逆説、十字架!」
神の救いを約束されたユダヤ人たちはそれぞれ自分が望む救い主を心に待っていました。ローマの束縛から解放してくれる革命家、新しいイスラエルの国を建て回復させる政治家、貧しい人々に食べ物を与え世話をする社会活動家。しかし、神が用意された救い主は彼らの期待とは異なっていました。神はご自身の計画通りに救い主をこの地に送り、親しく救いを成し遂げました。唯一その方法だけが私たちを救うことができるからです。 救いを誤解する人々 「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛された。それは彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネの福音書 3:16)」 神の救いは逆説的な方法です。十字架の道は世の方法では理解できません。死が命となり、失敗が勝利となる逆説だからです。 十字架の秘密 「女の子孫はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記 3:15b)」, 「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを得るであろう。(マタイの福音書 10:39)」 救い主がかかとに攻撃を受けると同時に、蛇(サタン)の頭は砕かれます。救い主を殺すことは結果的にサタンを殺すことでした。死の力を持つサタンに打ち勝つ唯一の方法は死から生き返ることです。つまり、死が命とならなければ勝利できないのです。生きようとすれば死に、死のうとすれば生きる逆説、それゆえ十字架は秘密なのです。 世の誰もこの逆説的な神の救いの方法を知りませんでした。もしサタンがイエスの死が救いを成し遂げることだと知っていたならば、救い主であるイエスを十字架にかけることはなかったでしょう。 「この知恵は、この世の支配者たちの誰一人として知りませんでした。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけなかったでしょう。(コリントの第一の手紙 2:8)」 [GPNEWS]
「救いのためにあなたができることはありません」
救いとは何ですか? 救い(救援)は漢字で「救う」(助ける、救う、援助する)と「援」(引く、取る、掴む)で構成されています。 救いの意味は、困難や危険に陥った人を救うこと、人類を死と苦しみと罪悪から救うことなどです。また、何かから救出され解放されること、罪から自由になることをも意味します。 このように、救いは自らを救うことではありません。救いには明確な主体があり、その主体がどこからかどこかへと救い出すのです。 つまり、救いは自分の意志ではなく、他者の意志によって成し遂げられます。 救う主体がいて初めて救われることが可能です。あなたに救いが必要であることは非常に明白ですが、救われるためにあなたができることはありません。 救いは神の約束です。 神は人に救いを約束されました。救いに関する神の計画は必要に応じて突然生じたものではありません。神の心の中にある意志に従ってその救いは準備されていました。 その約束は、キリスト(救い主)を通して私たちを罪と死から救うということです。誠実な神はその約束を守られました。ご自身の子を十字架につけて罪に陥った人類を救われました。 神がすでに成し遂げた救いを受け入れませんか? [GPNEWS]
生まれ変わった人は世に打ち勝つ
「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」(ヨハネの手紙一 5:4) 生まれ変わった人は世の人々の見解を正しいかどうかの基準としない。生まれ変わった人はもはや世の方法や流行、観念、習慣に従わない。彼はもはや「人々がどう言うか?」に関心を持たない。生まれ変わった人の目には、世の人々の生活が虚しく、価値がなく、無益に感じられる。また、生まれ変わった人は世を恐れない。彼は世の人々から非難を受けても気にせず、嘲笑されても諦めず、人々よりも神に褒められることを好む。生まれ変わった人は人々の気分を害することよりも、神の怒りを招くことを恐れる。生まれ変わった人は見えない神だけを見つめ、どこへ行ってもその方に従うことを決意する。生まれ変わった人は神を喜ばせることを第一の目標とする。あなたは本当に生まれ変わった人ですか?[福音祈祷新聞] 『生まれ変わったか』(J. C. ライル)より抜粋
イエスに命を見出すと福音の力が現れる
神の約束と誓い (4) 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きに至らず、死から命へと移っているのです。」(ヨハネ 5:24) 信仰を通して私たちの霊の機能が生き返るが、その信仰はどこから生まれるのだろうか。哲学や宗教、人間の知識ではなく、真理の福音を聞くときに死んでいた魂が生き返り、主を見ることができる。 「心の目を開いてくださり、神の召しの望みが何であるか、聖徒の中で神の所有の栄光の豊かさが何であるかを知ることができますように。」(エフェソ 1:18) 教会が神の召しではなく、消費者中心、つまり教会員の罪深い欲求に急いで従うと、絶対的な神の召しから遠ざかることがある。中世に堕落したカトリック教会は、十字架の救いの真理を覆い隠し、行いによって救われると言い、多くの献金を集め、莫大な権力を享受した。これが教会の堕落であり、中世の暗黒時代を生んだ教会の悲劇だった。 改革を行ったとされる私たちの教会も油断すると召しを見失うことがある。しかし、この福音の召しの望みが何であり、聖徒の中でその所有の栄光がどれほど豊かであるかを悟ると、偽物に心を奪われていた私たちの心が目覚め、立ち返ることができる。神の永遠の愛に感動した人は、人間のつまらない愛を求めて追いかける卑劣な行いをしない。 「私たちの目を開き、召しの望みを見せてください。私たちの所有の栄光の豊かさ、福音の栄光と力、その祝福を私たちに啓示し、私たちの霊を天の香りで満たしてください。騙されて汚れた臭いのする世の中を探し回ることなく、天の香りで私たちを満たし、神のその完全な愛で私たちの魂を満たしてください。そして、主のその力の働きに従い、信じる私たちに与えられる福音の力と祝福が何であるかを悟らせてください。」このような祈りが私たちに必要だ。 全ての世の万物を統治し支配される万王の王、万主の主であるイエス・キリスト。復活し昇天されてその栄光を回復されたイエスの十字架の死と共に連なった教会は、その体であり、万物の中で万物を満たす方の満ち満ちた存在である。アーメン。 教会が貧しく見栄えがしなくても、その中におられるイエス・キリストは栄光と力と祝福に満ちた方だ。その主が偉大であるので、何もできず、学ぶこともなく、意志も弱くて使い物にならない土の器のような人であっても、その命を得た人であれば世が敵わないとヘブル書11章は言う。本当に弱くて見劣りする人がイエス・キリストを命として福音の栄光と力と祝福を見出し変えられると、世をひっくり返す福音の力が現れる。したがって、教会は福音によって新たにされ得るのだ。私たちをキリストの中で満ち満ちた者、完全な者として立ててくださる神のレベルの仕事を主がどのように成し遂げられるか。この秘密はまさにイエス・キリストの十字架の福音だ。アーメン。 (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com
[GTK コラム] キリストで十分なキリスト教(2): 心理学に染まった教会 パート1
1980年、私たちグレイス・コミュニティ教会は、一部の牧師たちが専門知識もないまま、私たちの教会の信徒であるある青年を聖書の真理で助けようとした結果、彼の自殺を助長したという名目で訴えられた。この事件は、アメリカの司法制度の歴史で初めての聖職者の背信行為の訴えだった。 この事件が長引くにつれて、メディアは教会をからかうのに夢中になった。全国放送されるある扇情的なプログラムでは、私たちの教会がその青年に自殺は天国に至る確かな方法だと教え、自殺を奨励したとまで主張した。もちろんそれは事実ではない。その青年は自殺が間違っていることを聖書を通して知っていた。私たちは彼に神の言葉の導きを受けて、神を親しく知り、彼の苦しい心を癒すことを願っている彼の中で豊かな恵みを享受するよう勧めた。残念ながら、彼は私たちの勧めを拒否し、自殺した。 この事件が提起した主要な争点の一つは、教会が苦しんでいる人々に聖書で相談する法的権利を持っているかという問題だった。多くの人々は、誰かに聖書で助言をすることは相談に対する過度に単純化されたアプローチだと主張するだろう。彼らは、聖書は普通の人を助けるのには良いかもしれないが、本当の問題を抱える人々には心理学の専門家の助けが必要だと言う。 そこで、教会のカウンセラーは深刻なうつ病と自殺衝動に苦しむ人々を精神保健の専門家に紹介する義務があるというのが、この訴訟の主張だった。このような苦痛を経験している人々に聖書で相談する試みは、結局、教会のカウンセラーに道徳的にも法的にも罪を犯すべき無責任で無知な行為だとされた。 しかし、裁判所で明らかになった真実は、メディアの注目をほとんど、または全く受けなかった。この若者が専門の精神科医の治療を受けていたという事実は証言を通して明らかにされた。青年は私たちの教会のカウンセラーから聖書的な相談を受けながら、精神科の治療も受けていた。 さらに、私たちの教会のカウンセラーは、その青年がうつ病の有機的、化学的原因を取り除くために、いくつかの医師の診察を受けるよう配慮した。彼は可能な限りの治療を受けていたが、結局自殺を選んだ。私たちは彼を助けるためにできることはすべてしたが、彼は私たちの助言を拒否し、キリストにおける十分な恵みに背を向けた。 三度にわたり私たちは勝訴し、裁判官も私たちの教会がこの青年に適切な配慮をする責任を果たしたと断定的に判断した。彼らの判断は、私たちのカウンセラーがこの青年から相談を求められた際に、法的および道徳的な責任を十分に果たしたことだった。 結局、この事件は上訴され、アメリカ連邦最高裁判所まで持ち込まれた。高等裁判所は事件の審理を拒否し、カリフォルニア州最高裁判所の判断を受け入れることにした。州最高裁判所は教会の正当性を証明した。何よりも重要なのは、この事件がすべての教会が聖書を基に相談できる憲法上の権利を確認し、世界の裁判所が教会の相談領域を侵害できないようにする法的な先例を設けた点だ。 カウンセリング事業の専門化 不幸なことに、聖書の真理によってカウンセリングを行う人々の特権は、何らかの形で危険にさらされるかもしれない。教会外の法的制約のためではなく、教会内での聖書に対する態度のためだ。裁判中、多くの「専門家」が証言した。しかし、私にとって最も驚くべきことは、キリスト教心理学者や精神科医が、聖書一冊では人々の最も深い個人的、情緒的なニーズを満たすのに十分な助けが含まれていないと証言したことだった。 彼らは実際に、世俗の法廷の前で、神の言葉は人々の霊的な問題をカウンセリングするための適切な供給源ではないと主張した。本当に恐ろしいのは、そのような「専門家」の言葉を喜んで受け入れようとする福音主義者があまりにも多いという点である。 過去数十年の間に、福音主義の心理カウンセリングセンターが雨後の筍のように増えた。ほとんどのカウンセリングセンターが聖書的なカウンセリングを提供していると主張しているが、多くは単に霊的な用語で偽装された世俗の心理学に従ってカウンセリングを行っている。 さらに悪いことに、彼らはカウンセリング事業を教会共同体内に本来あるべき場所から取り除き、クリスチャンが自分自身をカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けている。多くの牧師が自分はカウンセリングする能力がない存在だと思うように仕向けられている。ある重要な知恵の領域は聖書およびイエス・キリストとの人格的関係の外に存在し、そのような聖書外の領域から出てきた一部の概念や技法が人々の深刻な問題を解決する実際的な鍵を握っているという嘘をそのまま信じる人があまりにも多い。 真の霊的事業 真の心理学(「魂についての研究」)は、キリスト教徒だけが行うことができる。キリスト教徒だけが魂を理解し、変えるための手段を持っているからだ。心理学が登場するずっと前に、ピューリタンは人々を扱う事業を「魂の仕事」として認識していた。 聖書はすべての「魂の仕事」のための指針書であり、すべての霊的な問題の診断と処方において非常に包括的であり、信者の中にある聖霊の力を得ることで人をイエス・キリストのように変える結果をもたらす。これが聖書的な聖化の過程である。 人々が足を骨折したり、腎臓に異常があったり、虫歯ができたり、その他の身体的な病気があるときに医療的な助けを求めるのは合理的だ。アルコールや薬物に中毒していたり、学習障害があったり、レイプ、近親相姦、または深刻な暴力で精神的ショックを受けた人が傷を克服していく過程で多少の助けを得るのも賢明なことである。 根本的な原因が有機的で、そのまま放置すると危険な患者を安定させるためには薬物治療が必要な特定のタイプの情緒的疾患もあるかもしれない。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。身体的および情緒的な生活上の問題をそのように扱うことは聖化ではない! 人本主義的な心理学の特定の技法も、キリスト教徒や非キリスト教徒を問わず、人々の精神的ショックや依存現象を減らし、行動を修正するのに貢献することができる。しかし、このような問題は相対的に稀に発生する問題であり、本質的に霊的な問題に対して一般的な心理学的技法をそのように無分別に使用することを正当化するための例として使用されるべきではない。 キリスト教心理学? 今日使われているような「キリスト教心理学」という用語は、一種の矛盾を含んでいる。心理学という言葉はもはや魂を研究することを意味しない。その代わりに、この言葉は基本的に人間主義的なさまざまな療法や理論を指している。 心理学の前提とその大部分の教えは、キリスト教の真理と成功裏に結びつけることができない。さらに、心理学が教会の教えに注入されることで、行動修正と聖化の境界線が曖昧になった。 完全さに至る道は、霊的な聖化の道だ。この世の肉体的な知恵と行動主義という停滞した水たまりのために、驚くべき助言者であり命の水の泉である彼に背を向けるのは愚かである。 我らの主イエス・キリストは、あらゆる試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。しかし、すべての困難はどんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。したがって、人生のすべての困難に対する完璧な勝利は、キリストに似た者となることの結果でなければならないことを明確にする必要がある。 どんな「魂の働き手」も、すべての試練と苦難と人生の傷に完全で聖なる方法で対応された。そのようなすべての困難は、どんな人間も耐えられないほどの極度のものだった。 真のキリスト教心理学者であれば、行動修正という浅瀬で遊ぶのではなく、言葉と聖霊の深い深淵で魂の働きをするべきだ。信者がなぜ霊的な変化のための手段を持っているにもかかわらず、行動修正を選ぶべきだろうか?最も熟練したカウンセラーは、慎重に祈りながら誠実に霊的な聖化の原理を適用する、つまり他の人をイエス・キリストの形に変える人だ。 一般の心理学の理論を急いで受け入れることよりも、今日の教会にとって深刻な脅威となるものはない。それらの理論は、サタンがあたかも力強く人生を変える神からの真理であるかのように教会に植え付けたあらゆる人間的な概念にすぎない。ほとんどの心理学者は、自分たちが人々の実際の問題を解決するための秘められた知識を持っていると主張し、新しいグノーシス主義の典型を示している。自称「キリスト教カウンセリング」と称する療法を実施していると主張する心理学者もいますが、実際には聖書の節を引用しながら霊的な問題を扱うのに一般の心理学を使用している。 その結果、神の言葉を使ってカウンセリングを行う牧師、聖書学者、聖書教師および他の信者を育成する平信徒は、単純で完全に不適格なカウンセラーとして批判される。聖書読書と祈りは一般に「明白な答え」、落胆や不安と戦っている人にとっては不十分な解決策として過小評価された。聖書、聖霊、キリスト、祈り、恩恵などは、キリスト教カウンセラーがこれまで人々に提示してきた伝統的な解決策だ。しかし、今日の普通のキリスト教徒は、そのような解決策のどれもが実際に人々の苦しみを癒すことができないと信じるようになった。 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)| グレース・トゥ・コリア コラムニスト GTKコラムは、私たちの生活の中で起こるすべての出来事に対して聖書の言葉から答えを見つけようとする、アメリカのグレース・コミュニティ・チャーチのジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師および信者たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ:gpnews@kakao.com
[イアチムコラム] 神を見つめると喜びが湧き上がります
主に 望みをおく人は 新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、步いても疲れない。(イザヤ40:31) 主を待ち望むことが大切です。今日、この聖句と「視線」という賛美歌の歌詞が同じように心に響いて、涙を堪えるのに必死でした。主を待ち望めば、新しい力を得ます。神を経験すればするほど、神の驚くべき計画と摂理が完璧に感じられます。 それを知らずに生きてきたことを非常に後悔しているので、神を完全に信頼する心がさらに深まります。神がこれから行われる新しいことが期待され、驚くべきことであり、安心できます。私は1日2時間40分ほど祈りますが、ある日祈りの量が減ったときに、神に感謝しました。これまでの祈りの内容は大半が「知らないから、不安だから、心配だから」というものでした。神に上げられる祈りではなく、どん底に行く祈りでした。 今は祈りの量は減りましたが、深さが増しています。今は神に心を寄せるために祈ります。私を知っている神を信頼し、私の心を神に寄せることを決めて祈ります。「神様、心配と不安が予想されます、神様、満たしてください」と祈りましたが、実は自分のために祈っていたのです。 今は神が信じられるようになってきました。だから神に心を寄せ始めました。神を見つめ始めました。どのように待ち望み、どのように見つめるのでしょうか。十字架で一つになる道以外にはありません。 イエス様は、父なる神がなさったことだけを見て従っていきました。私もそれに倣いたいと思います。イエス様は、裏切り者ユダが自分を売ると前もって知っておられました。しかし、売られることへの渇望はありませんでした。心が実際に揺れ動くことはありませんでした。欺かれることもありませんでした。私はイエス様の祈りの力が理解できるようになってきました。その心を私にも与えてくださるよう神に祈りました。 イエス様はその出来事を見ても、心が揺れ動くことはありませんでした。むしろ、悲しみを感じ、裏切り者ユダに「お前は生まれなければよかったのに」と言われました。渇望の問題ではありません。イエス様は父なる神と心が一つになっておられました。 その神の心が与えられれば、すっきりします。天から頼もしい「後ろ盾」が降りてきます。ダビデの心が降りてきます。使徒パウロも、イエス様のように自慢屋です。使徒言行録26章で、パウロは、ユダヤ人アグリッパ王とギリシャ人フェストス総督の前で弁明します。 捕らえられて王と総督の前に引き出されたパウロは、尋問されながらも、ただイエス・キリストが救い主であること、そしてイエス様が十字架で死なれたことだけを話します。すると王と総督は、そのわずかな学問で自分を改宗させようとするのかと言うと、パウロは、自分が尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと言います。王の前で囚人が堂々と、尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと叫びます。自慢です。話が通りますか? 使徒パウロの心は、この世とまったく結びつきがなかったため、この世に何の渇望も感じていない状態だったからこそ、そのような自慢ができたのです。神と密接に結びついていて、神の美しさに夢中になっていました。天の栄光を実際に見たからこそ、総督にあのように語ったのです。「尋問されていることを除いては、すべてが私と同じであってほしい!」皆さんも私に倣っていただきたいと祝福します。渇望を感じるたびに十字架に走り、天の栄光が臨む業が何であるかを深く悟るようになりますように。イエスの御名によって祝福します。 エピローグ 渇望が起こるときは、渇望が呼び求めるものがあります。そのときは心配と腹立たしさが湧きます。しかし、神を求めるときは笑顔になります。その神秘を必ず一緒に経験しなければなりません。他のものに対する渇望を感じるときは神経を使い、エネルギーを使い、落ち着きがなくなりますが、神を見つめると喜びが湧き上がります。神を求めれば表情が変わります。だから見分けることができるのです。神を求めることを祝福します。 しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。あなたは焼き尽くすいけにえの羊を私のもとに引いて来ることもなくあなたのいけにえで私を崇めることもなかった。私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも、乳香であなたを疲れさせることもしなかった。あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなくいけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。かえって、あなたの罪で私に労苦させあなたの過ちで私を疲れさせた。(イザヤ43:22-24) イスラエルの民は神を求めました。祭りを捧げました。しかし、神は「祭りを捧げたことがない」と言われます。なぜでしょうか。 30代、40代の母親たちが集まると、塾の話をします。塾の話をしていますが、実は子供の話をしているのです。30代、40代の会社員が集まると、仮想通貨や株の話をします。仮想通貨の話をしていますが、実は金銭の話をしているのです。株の話をしていますが、金銭を呼び求めているのです。 イスラエルの民が神を呼んでいましたが、神を呼んでいたのではなく、欲求を満たそうとしていたのだと言うのです。欲求を呼び求めていたのです。それを悔い改めなければなりません。真に神の人となり、十字架に走って主と一つになる業が深く起こりますように。イエスの御名によって祝福します。 イ・アチム牧師 | 「神の御心に適うと見なされた教会」の担任牧師。次世代のために「トブ・原型学校」を運営しており、信徒たちが日常生活の中で信仰の実践を経験できるよう養育している。著書に『主が咲かせてくださるように』(トブ・ウォンヒョン出版社、2020年)、『はい、主よ。私は従順の専門家です』(トブ原型出版社、2019年)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈りの新聞。出典を明記して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com
アメリカ人、平均9つの世界観が混在する信念と行動を示す
アメリカ人 キリスト教徒の中で6%が聖書的世界観持ち 多くのアメリカ人が融合主義を受け入れ、キリスト教徒の中でわずか6%が聖書的な世界観を持っていることが明らかになった、とクリスチャンポスト(CP)が最近報じた。 アリゾナ州にあるキリスト教大学の文化研究センターが実施した2024年のアメリカ世界観調査(American Worldview Inventory 2024)リポートは、「アメリカの成人は『単一の世界観を持つ者』ではなく、本質的に『複合的な世界観を持つ者』であり、平均して9つの世界観から引き出された信念と行動が混ざり合った世界観を持っている」と明らかにした。 また、「アメリカの支配的な世界観は、アメリカ成人の92%が支配的な人生哲学として選んだ融合主義である」と紹介した。 この報告書は、「融合主義(Syncretism)について、個人が自分の満足のために生活哲学をカスタマイズして混合したものを描写するために使用される用語」と説明した。さらに、人々は現実に対して独自で個人的な理解と反応のために、自分が認識している様々な世界観に自分の感情を適切に依存する融合主義を取っていると付け加えた。 文化研究センターは、融合主義をアメリカ成人の88%が同意した2021年以降、この世界観を追求するアメリカ人の数が継続的に増加していると述べた。 報告書はまた、聖書的世界観が他の10の世界観の信念と衝突していると明らかにした。 例えば、「結婚した夫婦は永遠に一緒になることが可能である」というモルモン教の信仰は、アメリカ人の46%が受け入れていることが明らかにされた。 また、アメリカ人の46%は、「人は生まれたときに善でも悪でもなく、積み重ねられた人生の選択を通じて善または悪になる」という信念を持っており、これは道徳主義的治療論(moralistic therapeutic deism)、世俗的人本主義、アニミズムの哲学と関連している。 回答者の3分の1以上(35%)は、「正しいことと間違ったことを決定する際に、最も自分の理性と感情に依存するようになる」という世俗的人本主義、ポストモダニスト、サタニズム的な考えに同意した。 これに対して、聖書的世界観は、「結婚は地上の死で終わり、」「全人類は罪人として生まれ、私たちの罪は神によって罰されるが、悔い改めてイエス・キリストを救い主として受け入れるとき、主が与えてくださる恵みを通じて克服できる。」また、神は「すべての真理の源」とされ、「聖書を通じて人類に真理を伝えられる」と紹介された。 汎神論と精霊崇拝と関連した信念は、「人間は動物、植物、自然を支配する権利がない。私たちは彼らと調和して相互依存しながら生きるべきである」と要約され、このような思想をアメリカ人の31%が持っていた。 聖書的世界観は「人類は神の最高の創造物であり、その方はご自分が創造された他のすべてに対する支配権を人間に与えた」と教えろ。そして「動物、植物及びその他の被造物とは異なり、唯一人間だけが神の形で作られ、永遠の魂を持っている」と要約した。 多数の調査対象者が受け入れた聖書的世界観に反する他の信念には「約束されたメシアが初めて地上を訪れ、自らの民を救う」というユダヤ教の思想(28%)、「より高い力が存在するかもしれないが、実際には誰も確信していない」というポストモダニズムの概念(26%)、「成功した人生の最良の指標は良い人間であること」という道徳主義的治療論とモルモン教の信仰(24%)、「真理の基盤は科学的で検証可能な証拠にある」という世俗的人本主義の信念(23%)などがある。 これらの信仰は「イエス・キリストはメシアであり、罪を悔い改め彼を救い主として呼ぶ者は救われる」「創造自体が神の存在を証明する」という聖書的世界観の主張と矛盾する。成功の定義は「神と聖書にある神の生命原則に対する不変の従順」であり、「神以外に真理はなく、神は自らの性質と御言葉によって真理を定めた」ということだ。 「宇宙は人間が決して理解したり発見したりできないような方式で存在している」というポストモダン思想と世俗的人本主義の信念は、回答者の間で聖書的世界観に反する信念の中で10番目に最も一般的に信じられており、その調査対象者の21%がこれを固守した。聖書的世界観は神の宇宙創造が聖書に記録されていると宣言した。 聖書的世界観と関する信仰に関してじゃ多くの人々が拒否しており、これはアメリカ人の4%、キリスト教徒の6%のみが聖書的世界観を保持していると文化研究センターは報告している。文化研究センターは聖書的世界観を「聖書に照らし合わせて現実を見て、解釈し、反応する手段」と定義している。 文化研究センターは聖書、真理と道徳、信仰実践、家族と生命の価値、神、創造と歴史、人間の性質と本質、生活様式、行動と関係、目的と使命、罪、救済、神との関係に関する質問への回答に基づいて聖書的世界観を測定した。この報告書は1月2000名の成人からの回答に基づいて行われ、誤差範囲は±2ポイントである。「クリスチャンタイムズ=福音祈祷新聞」 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com
すべての状況を変化させる能力、福音!
神様の約束と誓い(3) 自分の心を自由に統制できれば、この世に悩む人がどこにいるだろうか?神様の御言葉が正しいと思って、御言葉通り従順にしようと決心したら自然にそうなれば、牧師がなぜ必要であり、牧会が何が難しいだろうか。自分の人生を自分が任意に調節することが最も不可能なことだ。 あれほど永生を追求して努力して律法を破ったことなく最善を尽くしてきた金持ちの官員に、イエス様がお金または永生から永生を得る道は二つのうち一つを選ぶことしかないと教えてくださった。神様の永遠の祝福を享受する永遠の生命がなぜお金と比較されるのか。見えない永生より一瞬享受するお金の誘惑があまりにも強いからだ。 そのため、目に見える誘惑に勝てず、永生を目の前にしても捕まえないまま、このお金に対する愛着と情欲に引かれていくのだ。 ルカによる福音書18章に出てくる金持ちの官員は、幼い頃から律法を破ったことのない模範青年だった。その上、ユダヤ人であり、母胎信仰である彼が永生と金の中でどれを選択するのが正しいことなのか区分できないだろうか。ところが、お金が永遠でないことを明らかに知りながらも結論を出せずに滅亡の道に転じるのがあきれた人間の実状だ。 十字架の福音を聞いて信仰に背を向けさえすれば、地獄から天国に運命を変えることができる。ところが、福音をそんなに聞きながらも決断できず、一生引きずって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いのか。厳重な警備網で囲まれた休戦ラインよりさらに堅固に越えられないのがまさに自分の心の境界だ。神様を離れて敵になった私たちの心を振り返って神様に向かわせることができるのは福音しかない。救いは人としてはできないが、ただ神としてはできる神の能力だ。人間の救いと変化は絶対に人から出ることができず、神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能だ。 教会が神様の召命を忘れてしまえば、現実に追われて召命の席を離れ妥協して変質せざるを得ない。したがって、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。神様の能力が私たちにあってこそ、教会は真の神様の呼びかけの場に立つことができ、世の中を変えることができる。 生きている神様がこの世の中を祝福する唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。エペソ人への手紙1章17節から23節までは福音の栄光と能力と祝福に対してこのように話す。「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 私たちの霊が死んで神様を感じる機能が消えた。私たちが霊的に目覚めて霊の目が開かれ、私たちの心霊に霊の機能が蘇る時に神様に会うことができる。聖霊と真理が私たちのこの鈍くなって呪われた霊の機能を回復させれば、生きている神様の言葉を理解することになる。それがまさにこの祈りのようになるのだ。 「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 アーメン。(2018年9月)<継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com
【TGCコラム】福音の中で信仰の対象は実際だ
約2年前、ある記者が当時オーストラリア聖公会教会の首長であったパース市の大司教に質問をしました。「イエスの墓が発見されたと仮定してみます。イエスが死から復活せず、彼らが発見した死体がイエスという信憑性が非常に高いとすれば、これがキリスト教信仰にどのような影響を及ぼすでしょうか?大司教はこのように答えたといいます。 「何の影響も及ぼしません。私は私の心の中でイエス様が復活されたと信じますから」パウロは多少異なる見解でこの問題を理解します。はるかにストレートで明確です。「キリストが生き返ったことがなければ、あなたたちの信仰も無駄になる」と17節で言います。つまり、信仰を確証する 1 つの方法は、信じる対象が事実かどうかです。 もう一度言います。とても重要なことです。これだけが唯一の方法ではありませんが、信仰を確証する一つの方法は信じる対象の事実有無にあり、ここではイエス様の復活を言います。イエス様が復活しなかったとすれば事実ではないことを信じることなので、どれほど長い間信じていたかにかかわらず、依然として虚しい信仰に過ぎません。 パウロは続けて言います。もし事実ではないのにとにかく信じるならば「すべての人の中で私たちがより一層可哀想な者である」とです。 ただかわいそうなだけだということです。その大司教に怒る必要はありません。この問題についての彼の意見はただ可哀想なだけです。私たちの世代文化で多くの人々は信仰という単語を宗教と同義語だと考えたり、多くの信仰と多くの宗教があると見たり、または個人の宗教的な選択程度と考えます。真理かどうかは関係なく、個人の主観的な宗教的選択にかかっているということです。しかし、この一節でパウロは、キリストが復活しなかったとすれば、キリストが復活したと信じるのは単に無駄になるだけだと言います。したがって、信仰の確証は信仰の対象に対する事実性と確実性にあります。ここで、その対象は歴史的な出来事であるイエス·キリストの復活を指します。聖書は、事実でないものを信じるように要求したことはありません。同じように聖書で言う信仰の成長と強化のための主要方式の一つは、真実をよく説明して弁護することです。この関係を明確にする別の方法があります。 先日、新約学科で教授招聘のためにインタビューを行いました。教授が一人足りなくて追加するためでした。私たちが面接を行ったこの人は、トリニティで学位を2つも受け、牧会経験があり、ヨーロッパで博士号を受け、他の学校の教授でした。いろんな面でとても立派な人で能力者でした。敬虔で牧会の経験があり、聖書を信じる人でした。 面接中にこんな質問をしてみました。「もしある学生がマタイ福音書やルカ福音書に記録された内容の歴史性について質問をしたら、どのように答えますか?」彼の返事は、「そうですね、私はマタイ福音書を論理的な文書で読むことで接近します。マタイ神学とルカ神学を結び付けて理解させようと思います。 もちろん、私は福音書がキリストを証拠すると信じていますが、それでもこのようにします。その学生がそのような歴史性に対する質問から脱し、マタイ福音書の論理的神学に集中するように」 私はもう少し強く押し付けましたが、彼の答えはそれ以上はありませんでした。結局、面接を受けていた2、3人の教授ができるだけ優しく彼に言いました。私たちが生きている間は、私たちの学科の教授になれないんですよと。私たちは、彼が何を言っているのか分かるように、ちょっとショックを与えようとしたのです。彼の答えは福音が歴史的なイエス様とは別のアイディアだということです。 皆さんはイエス様に対する聖書の本文と歴史的なイエス様の間を連結させなければなりません。本文がイエスについて語ることだけに焦点を合わせ、その本文がイエスについて事実を語るかどうかは関係ないとすれば、私たちの信仰の対象が事実かどうかは構わないのです。 私たちは歴史的事実であるかを尋ねる質問と戦わなければなりません。ただ避けることはできません。なぜならイエス様に対する信仰が私たちを救うのではなく、イエス様が私たちを救うことだからです。 [福音祈祷新聞] ドン·カーソン Don Carson | カナダトロントのCentral Baptist Seminaryで修士号(MDiv)と英国Cambridge Universityで博士号(PhD)を取得し、イリノイ州ディアフィールドに位置するTrinity Evangelical Divinity Schoolの新約学名誉教授として仕えた。 ティム·ケラーと共にTGCを設立し、2019年まで代表として仕えた。 The Enduring Authority of the Christian Scripturesをはじめ、数多くの本を著述した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com