神の約束と誓い (4)
「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きに至らず、死から命へと移っているのです。」(ヨハネ 5:24)
信仰を通して私たちの霊の機能が生き返るが、その信仰はどこから生まれるのだろうか。哲学や宗教、人間の知識ではなく、真理の福音を聞くときに死んでいた魂が生き返り、主を見ることができる。
「心の目を開いてくださり、神の召しの望みが何であるか、聖徒の中で神の所有の栄光の豊かさが何であるかを知ることができますように。」(エフェソ 1:18)
教会が神の召しではなく、消費者中心、つまり教会員の罪深い欲求に急いで従うと、絶対的な神の召しから遠ざかることがある。中世に堕落したカトリック教会は、十字架の救いの真理を覆い隠し、行いによって救われると言い、多くの献金を集め、莫大な権力を享受した。これが教会の堕落であり、中世の暗黒時代を生んだ教会の悲劇だった。
改革を行ったとされる私たちの教会も油断すると召しを見失うことがある。しかし、この福音の召しの望みが何であり、聖徒の中でその所有の栄光がどれほど豊かであるかを悟ると、偽物に心を奪われていた私たちの心が目覚め、立ち返ることができる。神の永遠の愛に感動した人は、人間のつまらない愛を求めて追いかける卑劣な行いをしない。
「私たちの目を開き、召しの望みを見せてください。私たちの所有の栄光の豊かさ、福音の栄光と力、その祝福を私たちに啓示し、私たちの霊を天の香りで満たしてください。騙されて汚れた臭いのする世の中を探し回ることなく、天の香りで私たちを満たし、神のその完全な愛で私たちの魂を満たしてください。そして、主のその力の働きに従い、信じる私たちに与えられる福音の力と祝福が何であるかを悟らせてください。」このような祈りが私たちに必要だ。
全ての世の万物を統治し支配される万王の王、万主の主であるイエス・キリスト。復活し昇天されてその栄光を回復されたイエスの十字架の死と共に連なった教会は、その体であり、万物の中で万物を満たす方の満ち満ちた存在である。アーメン。
教会が貧しく見栄えがしなくても、その中におられるイエス・キリストは栄光と力と祝福に満ちた方だ。その主が偉大であるので、何もできず、学ぶこともなく、意志も弱くて使い物にならない土の器のような人であっても、その命を得た人であれば世が敵わないとヘブル書11章は言う。本当に弱くて見劣りする人がイエス・キリストを命として福音の栄光と力と祝福を見出し変えられると、世をひっくり返す福音の力が現れる。したがって、教会は福音によって新たにされ得るのだ。私たちをキリストの中で満ち満ちた者、完全な者として立ててくださる神のレベルの仕事を主がどのように成し遂げられるか。この秘密はまさにイエス・キリストの十字架の福音だ。アーメン。 (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞]
キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表)
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