[GTKコラム] ヨセフのように成功するキリスト教徒?

ヨセフは聖書に出てくる人物で、兄たちの嫉妬心でミディアン商人たちに奴隷として売られたが、神様が共におられてポティファル将軍の家の管理者になった(創世記37)。ボディバル将軍妻の誘惑に屈しないと、監獄に収監されたが、彼は監獄でも看守長の信任を受け、獄中囚人を管理する管理者となった(創39)。 そして、最終的にはエジプト王であるパロの夢を解釈し、パロの信任を受けてエジプトの首相になった(創41)。7年間の豊作が過ぎ、7年間の凶作が来た時、ヨセフの兄たちも食べ物がなくてエジプトまで来て穀物を買うことになるが、この時彼らは総理になった自分たちの弟ヨセフの前にひざまずくことになる(創42)。 ヨセフの兄たちは彼が自分たちに復讐をするのではないかと心配したが、彼は兄たちを許してこのように話した。 しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5) 死んだと思ったが、生きてエジプトの首相にまでなったヨセフによって、彼の父親をはじめとするすべての家族がエジプトに来て暮らすことになり、エジプトのゴセンの地に定着することになった。 このようなヨセフを見て、多くのキリスト教徒は夢を見る。神様の意思が天のように地でもなされることを願うのではなく(マタイ6:10)、自分がヨセフのように偉大な人物になることを夢見る。ある説教者たちは、神様が共に居られたらヨセフのように成功できるとし言いながら若者たち、起業家たち、中小企業社長たちの心に希望の火種をつける。彼らは成功して家族を含めて多くの人を食べさせる人になるという大きな夢を抱けと言う。この文を書いている筆者の英語名はヨセフだ。そして、この英語の名前をつける時、彼の心にヨセフのように世の中で成功しようとする気持ちがなかったとすれば嘘だろう。 筆者がこの文で見せたいのは、まさに私たちの心に非常に巧妙に定着している欲と傲慢だ。私たちは生まれつき他人と同じような生活をしたがらない。事業をするならば小企業ではなく大企業を築きたいと思い、先生をするならばある地域の高校の先生ではなく有名なスター講師になりたがる。牧師も列外ではない。神学校の卒業生たちは、ある地域の小さな教会の信実な牧師ではなく、一時代を風靡する有名な牧師になることを望んでいる。 筆者はキリスト教徒が社会的に特に人気のある有名人になること自体を批判しているわけではない。どの時代でも、誰かは有名になり、自分の職業で非常に有能で人気のある人物になるだろう。しかし、問題は特別に社会的または経済的に成功することを目標に生きていくキリスト教徒の若者たちの心だ。私たちは世の中で社会的、経済的に最高になることを人生の目標にして生きてもいいのか?成功したヨセフのような人物を見て、私たちは大きな夢を見て、ただ一人の偉大なこの時代の偉人になることを願ってもいいのか? 真のキリスト教徒の目標 キリスト教徒が誰かを簡単に表現すると、彼は自分の罪を悔い改め、自分の罪を代わりに負って十字架で亡くなったイエス·キリストを救世主と信じ、今や自分の十字架を負ってその代価として死ぬとしても復活した主のみ言葉に従って生きていく人だ(マタイ16:24-26)。それなら、キリスト教徒の人生の目標は非常に単純だ。それは、主の言葉に従順する人生だ。 目標は旅行者の目的地と同じで、目的地は旅行者の行く方向を左右する。私たちの目標が本当に神様の意思がなされることなら、この目標は私たちが真実に(コロサイ3:9)、責任感を持って(コロサイ3:22)、情熱的に(コロサイ3:23)、勤勉に(箴言21:5)、自分に与えられた才能と機会を十分に活用して職業を得て仕事をし、福音を伝え(マタイ28:18-20)、主の中での兄弟·姉妹を愛するように(ローマ12:10)導くだろう。だから、自分が神様がくださった救いの恩恵を価値なく受けた者として、今日一日主の言葉に従って最善を尽くして生きているならば、どんなに収益があってもどれほど社会で認められるかに関係なく、すでに目標を成して生きているのだ。そして、このように生きていけば、私たちはますます経済的または社会的な結果に対する執着から自由になれる。 しかし、逆に私たちの目的が年俸10億も最も有名な俳優になることだとすれば、私たちはどんな手段と方法を動員してでもそれらを得るために慌てるのではないか?そして成功のために嘘もつき、悪い手段を使って事業をしながら「成功して献金をたくさんすればいい」と、考えて怒った良心を鎮めようとするのではないか?そんなに病気の良心を抱いて日曜日に教会に行って、無駄に涙をぬぐっては何事もなかったかのように、再び私たちの目標を達成するために罪を取り上げ、良心をバラバラに引き裂いてしまうのではないか? この時代の夢多き若者に訴える。私たちの夢は、今日キリストの言葉に従うことだ。今日、この文を読んだら、静かに自分自身を振り返ってほしい。今日、キリストの言葉に従うために全力を尽くして生きていくキリスト教徒は、毎日成功している最中だ。しかし、成功した未来の自分の姿を眺めながら全力を尽くして生きていく若者たちは、主の意思(言葉)を無視する人か、あるいは最初から生まれ変わったキリスト教徒ではないかもしれない。 1912年4月15日、タイタニック号は6回にわたる警告を無視して航海を続け、氷山にぶつかって沈没した。彼女の華やかさは一瞬にして暗い海に姿を消したのだ。私たちの人生も同じだ。今この文のような警告の言葉を聞いた時、心を謙虚にして良心の声に耳を傾けなければならない。これまで目的地を誤って設定して誤った道に進んでいたなら、今悔い改め、主に向かって正しい方向に旋回することを切に願う。 マタイによる福音書16章24-27節 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 [福音祈祷新聞] キム·イェジュン|マスターズ神学校でThMコースを修学中であり、現在米国LA近郊のグレンデールにあるグレース聖書教会で青少年使役を担当している。 GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

神様が完璧に創られた世界を人間が壊した

創世記1章30節はこう言う。”また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。” 洪水の前には地球上に住むすべてのものが植物を食べていた。パンダの歯は鋭い。見た目は肉食動物の歯のようだが、そうではない。中国にあるシカは、軍刀(刃の曲がった長い刀)歯、虎のような歯を持っている。シカも草食動物だ。フルーツコウモリ、菜食猿も鋭い歯を持っている。 創世記9章で洪水が終わった後、神様がノアと息子たちを祝福しながら生育し繁盛するよう命じた。 そして神様は「地のすべての獣が君たちを恐れ、君たちを恐れるのか」とおっしゃった。洪水の前の動物は人を怖がらなかった。しかし洪水の後、最初の変化は動物が人を怖がり始めたことだ。2番目の変化は動物を食べ始めたという事だ。 「ノア、すべての山にいる動物はあなたたちの食べ物になるだろう。これからは肉を食べてもいい」 私たちが食べるほど動物は苦しむ。神様は完全な世の中を創られたのに、人間がそれを破壊したのだ。人間がこの世に罪と死亡をもたらした。 洪水の後、動物たちは人を怖がった チャールズ·ダーウィンはこのように述べた。「私は混乱している。 無神論的に書く意図は全くなかった。しかし、この世には悲惨な事があまりにも多いようだ」 ダーウィンはなぜ神様がこの苦痛のある世の中を創られたのかとても理解できなかった。決して神様は苦痛のある世の中を創られたわけではない。しかし、チャールズ·ダーウィンは戦争と飢饉と死が私たちをより高い段階に引き上げると考えた。それはまさに今教える進化論である。「死」は進化論者の陰謀の英雄だ。しかし、聖書は神様が完璧な世の中を創られたと言っている。そんな世の中を人が壊した。 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマの信徒への手紙5:12) 神様が苦痛を創ったのではない これはアダムの過ちだ。壊れた車を持って「なぜこんな車を創ったのか」とメーカーのせいにすることはできない。メーカから出る時は完璧な姿だった。今、私たちは廃車場に住んでいる。私は地球に住むのが好きで、アメリカのノックスビルが美しいところだと思う。しかし、これはアダムとハワが見たものとは比べ物にならない。廃車場に過ぎない。しかし、神様が再び直してくださるだろう。 いつかは「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。」(イザヤ書11:6)という言葉が叶うだろう。子供がヒョウやライオンを導く姿を想像できるだろうか? 「ママ、私が見つけた大きな猫を見てください。飼ってもいいですか?」 「もちろんよ、大きな猫を裏庭に連れて行って草を食べさせなさい。」ライオンは草を食べないと抗議するでしょうけど、いつかはそうなるだろう。「獅子も牛のようにわらを食べる。」(イザヤ書11:7) カナダに住んでいるある人が自分の庭にいるクマを撮ったビデオには、クマが2時間草だけを食べていた。聖書は語る。「百歳で死ぬ人は若者とされ(イザヤ書65:20)、キリストと共に千年の間支配した。」(ヨハネの黙示録20:4)聖書で非常に信念的な節が多くないが、ここではこの世代の終わりに千年という時間が来ると記録されている。あなたが救われたなら、ここで千年住むことになる。すべてがエデンの園の状態に回復したままでだ。子供たちは恐竜のペットを個人的に持つことになるだろう。とても楽しいだろう。その後、主が新しい空と新しい土地を造られるだろう。 <続く>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

進化論に基づく薬物療法vs創造論に基づく栄養療法

英国海軍は壊血病という恐ろしい病気で100万人の兵士を失った。 そんな彼らがどうやって壊血病を治療したのだろうか?ビタミンCだ。当時はビタミンCという名称を知らなかった。しかし、ライムを食べるとその病気が起きないことが分かった。今、私たちが経験する多くの病気はビタミン不足によって引き起こされる。私たちは食べているもののために死ぬのではなく、食べていないもののために死ぬ。ビタミンBを十分に摂らないと、脚気になる。 聖書は語る。 「人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。…··· パンは人の心を支える。」(詩編104:14~15) 人々は小麦からビタミンE、レシチン、オメガ3脂肪を取り出し、白い小麦粉でパンを作れば、パンが数ヵ月間も維持されることを発見した。しかし、その後、人々が心臓麻痺と中風と循環障害などで死に始めた。簡単な公式だ。パンが白いほど人間の寿命を縮めた。白いパンが私たちを殺すのではなく、そのパンの中にない成分のためだ。神は心臓を強くするためにパンを作った。しかし、パンを作って売る人たちは、その日作ったパンの半分を棚で腐って売ることができないのがもったいなかった。それで収益を高めるためにパンを長持ちさせる方法を考案し、このような結果をもたらした。 健康に対する二つの哲学がある。一つは進化論に基づいた薬物療法だ。体は数百万年間偶然集まった化学物質に過ぎないため、病気を治療するためには化学物質をもっと入れればいいということだ。頭が痛いとき、医者はアスピリンを飲むように言う。しかし、考えてみなければならない。何が頭を痛めたのか? アスピリンが足りなくて頭が痛いのかな?私たちは原因ではなく症状を治療している。 例えば考えてみよう。高速道路を走行する時、燃料タンクに明かりが点いたら、私たちは2つを選択することができる。問題の原因を見つけて直したり、灯を消してしまったり。しかし、灯を消したらそれは愚かなことだ。灯は問題があるというサインだ。頭痛も体の問題があるというサインだ。マグネシウムやタンパク質欠乏など。しかし、最近私たちが飲んでいるほとんどすべての薬は灯を消す役割をするだけだ。問題の原因を解決するものではない。薬に無条件に反対するわけではないが、今の私たちの薬依存度は非常に高いのだ。ほとんどすべての病気は欠乏症だ。ビタミン、ミネラル、オイルなどが不足しているのだ。私たちの体は16種類のビタミンと60種類のミネラル、そして3種類のオイルが毎日必要だ。 すべての病気は欠乏症 1845年、オーストリア·ウィーンのシモワイズ医師は、病院で出産した女性の30%が死亡していることに驚いた。この医師は、医師たちが死んだ産婦を検査した後、手を洗わずに他の産婦を検査しに行くという事実を発見した。その時は微生物について知らなかったので衛生に対する概念がなかった。彼は自分のいる病院の医師たちに、死んだ死体を検査した後は必ず手を洗うべきだと主張した。すると死亡率が2%に低くなった。 3000年前、レビ記で神様がモーゼに言われた。「死んだ死体に触れた後は汚れたので、他の人に触れる前に手と体を洗うよう人々に言いなさい。」神様は科学が微生物を調べる3000年前におっしゃった。 医学に関するもう一つの哲学は創造論に基づいたものだ。これは体が神様によって設計され、神様が私たちの必要を満たす食べ物をくださったということだ。これを栄養療法という。野菜を食べて死ぬ人の割合は毎年0%だ。そして毎年3人程度がビタミンを飲んで死亡し、320人程度が非処方薬を飲んで死亡する。9000人程度が食中毒で死亡し、9万~11万人程度が正しく処方された薬を飲んで死亡する。これは誤って処方された薬を飲んだ場合を除いたものだ。ベトナム戦争で10年間死んだ数より2倍になる人々が毎年処方された薬を飲んで死んだ。 <つづき>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

大洪水の前, 恐竜と人間が一緒に暮らした。

恐竜の骨は人間の骨、哺乳類の骨とともに発見されている。時には石化された人間の手のような岩石層で発見されることもある。インカ石板の中では人が恐竜に乗っている姿もある。 また、恐竜の足跡と人の足跡が一緒に発見された。この問題で議論になったテキサスのグレンロスに私が直接行ってみたこともあった。 グレンロスという小さな村は、パロキシー川が流れており、一面石灰岩で覆われている。地域全体が石灰岩であり、川は石灰岩層を削って通過している。1908年にここで非常に大きな洪水が発生した。その川は1マイル(約1.6キロ)当たり17フィート(約5メートル)低くなるが、洪水で川が氾濫する頃、堤防より30フィート(約9メートル)以上水位が上がった。 そんな中、洪水が川底を掃きながら石灰岩層を削ったのだ。2フィート(約60センチ)の石灰岩が落ちた場所には新しい石灰岩層が現れ、翌年夏に川が乾くとそこから数百個の恐竜の足跡が発見された。ここは今や「州立恐竜谷公園」と呼ばれている。 人々は川に浸食されないように多くの足跡を掘り起こし、博物館に保管した。ところが、たまにはこの地域で恐竜の足跡とともに人の足跡が発見される。発見された人の足跡の中で恐竜の足跡を横切るものもある。洪水を避けるために泥水を走る時は、誰かがすでに踏んでおいた所を踏むのが論理的だろう。深い雪の中を歩いていく時のようにだ。 私たちは今、ノアが箱舟に入って雨が降り始めると、人達が最初の数十分で死んだと思う。しかし、地球上のすべての人々が死ぬのに6ヶ月程度はかかっただろう。雨は40日間降ったが、聖書は水が150日間ずっと「上がってきた」と言う。大部分の水が「地の深い泉から」、すなわち地表の中から出てきたためだ。地表の中にあった水が洪水を起こしたのだ。水が上がり始めると、人々は高い土地を求めて登ったはずだ。お互いに高い土地を取ろうと戦い始めたのだろう。 今、人々が岩盤層を掘り起こしたとき、その下の石灰岩からさらに多くの足跡が発見された。足あと一つは足の指を横切って跡がついていた。その端の粒を研究した結果、これが圧着されて薄い面が歪んでいることが分かった。これに対する多くの議論があるが、このように説明できる。 足跡は6~7フィート(約1.8~2メートル)の歩幅を持っている。毎回この程度の歩幅を持つためには非常に大きな人でなければならないだろう。この足跡発掘当時、現場にいたアリゾナ州の南バプテスト教会で副牧師をしている知人が私にこんな手紙を送った。 「ホビンド博士、私は足跡をたくさん見て育ちましたが、カール·ボウ博士と一緒に発掘作業現場にいました。私たちは恐竜の足跡の横にいる人の足跡をたどりましたが、まるでその人が恐竜と一緒に歩いているように見えました。 「ノバ」(1974年から放送されたアメリカの科学テレビシリーズ。 訳者注)も発掘する現場を撮影しようと来ており、ある進化論者はそこでボウ博士と論争し続けました。ノバは足跡や私たちの発掘はあまり撮影せず、その進化論者にインタビューしました。彼は、そこで進化論を反証するものは何も見ていないと言いました。実際、彼は私たちが作業していた足跡を眺めることさえ拒否しました」 ノバは進化論を支持していたため、進化論に反対するものはテレビで放映しなかった。ある人は「人間の足跡と恐竜の足跡が一緒にあったということは、単に人間のような足を持った恐竜がいたことを証明するだけ」と話す。奇抜な解釈方法だ。 これは進化論が研究の妨げになるもう一例だろう。 米国の動物学者エルンスト·マイヤーはこう語った。 ”創造論者たちは人間と恐竜が同時代に生きたと言った。その重大な発言が真実なら、それを発見した人たちの名前は20世紀に最も優れた発見をした人たちの一人として、時の回廊に雷のように降りてくるだろう” メディアが止めなければ、それは事実だろう。 <続く>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[信仰の文] 眠れない夜

「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。」 (詩77:4) 神様は愛する者に眠りを与えると言いますが、眠りを完全に享受し、夜には毎晩「私は安らかに横になって休む。」と言うならば、眠れない夜の隠された有益は決して学ぶことができないでしょう。 私たちはどうしてこんなに寝返りをしながら夜を過ごさなければならないのか分からない時があります。しかし、ここには私たちに向けられた特別で明確な何かがあります。 訳もなくそういうことではありません。 これは私の父の働きです。 「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。” 主はただ寝かせてくださらないのではありません。主は寝かせてくださらないのではなく、御業をなさっているのです。疲れた目が眠れないのは、天の父が私たちの目を閉じないようになさってるからです。すると、当然「眠っていただければ幸いです」と言うでしょう。しかし、眠れる時になるまで神様は私たちの目が閉じないようにして、手を緩めません。眠れない夜が神様の御業であることを信じれば、絶えずに眠るように祈ってた心が安らかになるでしょう。 しかし、私たちはこう言います。 「眠りを望むのではなく、本当に寝たいです」 しかし、願うものと必要なものは同じではありません。 主が私たちの必要なもののすべてを満たすと言っても、私たちのすべての考えに応じるとは言いません。主が私たちの目をつけないようにするなら、私たちに本当に必要なのは眠りではなく起きていることだと確信しなければなりません。 眠れないと焦らずに寝かせてくださらない主に先に殉服するならば、この小さなことにも主の御心に安息する、恵まれた祝福があるでしょう。今日これを完全に学べば、天の父の御心を学ぶ勉強の残りの部分を簡単にこなせるでしょう。 主は意味のないことをしません。そして、事がなければ結果もないことを覚えておきましょう。ですから、眠れない時間を最大限有益に使って、起きて活動する時のように時間を無駄にせずに祈るといいでしょう。眠れない時間は主の時間です。なぜなら、「夜も主のもの」だからです。 そんな夜、数千の考えが慌ただしく行き来するように心をほぐしておくか、静かに主の臨在を享受する恵まれた時間を求めむか、心に重荷になることはありません。むしろ主の臨在を求めることが難しくないでしょう。 キリストと天国のことを考えることが、私の愚かな心霊に満たすようにしてください。この時間は、試験する者よりも御霊にはるかに大きな権能があることを証明する良い機会です。 キリストのために御霊を求めば、御霊は必ず能力を与えてくださいます。御霊は私たちがベットで主と付き合うことを教えてくださいます。 実際、最も難しく、最もクールなことは、単に静かにしている方法を学ぶことです。御霊はこれも教えてくださいます。 御霊はイエス様がおっしゃった言葉をたくさん思い出させます。主のみ言葉を覚えて静かに黙想する時、夜は光となって私たちを囲んで照らします。 御霊は神のみ言葉を聞かせながら主の約束が成就することを示してくださいます。「目覚めればあなたに話しかける」(箴言6:22)。 そうすれば御霊は静かな時間を演奏し、天使も聞いたことのない音律で神様の耳に賛美歌を上げるでしょう。 私たちが「わが魂は夜あなたを慕い、つまり」「私は, 夜, 床についても, 私の 愛している 人を 搜していました」と言えるでしょうか? そうすれば、主は私たちの願いを叶えてくれるでしょう。 眠れない夜がまさに主の御業であることを知らなければなりません。 すると私たちは「夜なお尋ね」と言うでしょう。 私たちに来る方はエリヤに来た天使ではありません。私たちを目覚めさせるのは天使たちの主です。主は私たちが寝る時も守ります。 私たちのために死んだ主は、私たちが寝る時も私たちと共にします。文字通りであれ比喩であれ、私たちは起きても寝ても主と一緒に暮らさなければなりません。 <Frances Ridley Havergal – ルット宣教会提供>[福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供およびお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[信仰の書き込み]キリストの内にとどまり、歩む人生

私たちは神の内にとどまっているからです(1) 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙一 2:6)。 ここでおっしゃっているキリストの内にとどまる人生と、キリストのように歩む人生、この二つの祝福は決して離せないものなのです。キリストの内にとどまる人生の実として現れるのが「キリストのように(like Christ)」ということです。 「キリストの中に止まっています」という言葉は私たちにまったく見慣れないことではありません。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」(ヨハネ15:4)と命じてくれたブドウと彼の枝についての驚くべきたとえ話は、私たちにしばしば祝福された教訓と慰めとなってくれました。 わたしたちがイエスの中に居るというこの教えを完全に悟らなかったとしても,わたしたちの魂が「主よ,あなたはすべてを知っており,あなたがわたしがあなたの中に今住んでいることを存じております。」と申し上げるときに臨みに来る喜びがどんなものかを私たちはすでに味わっています。 このような切実な祈りがしばしば私たちになければならないことも、主は知っておられます。「聖なる主よ、完全で絶えずにあなたの中にとどまることができるように恵みを施してください。」 「キリストのように歩む」という二番目の言葉は,「キリストの中に住む人生」に劣らず重要です。これは驚くべき能力の約束であり、その方の中にとどまる人生が完全に力を発揮することになるのです。 わたしたちが完全に神の内に生きるために自分自身を完全にささげることになれば,その実として,神の命がわたしたちの中で力強く働かれるようになり,異面的な生活が外に現れることで,わたしたちの行為はまさに神に似ていきます。この二つは別々に考えることができない関係なのです。イエスの中にとどまるということは、いつもイエスに従うというよりも先行するものです。 しかし、主と共に同行し、主のように行おうとする切ない願いが、彼の中に住む人生の次とは言えないのです。そうしてこそ、その方との親密な連合がなされるようになります。その方の計画に従って、その方が与えてくださった恵みを使う準備ができた人に、天の主が自ら豊かな御自分の恵みを余すことなく与えてくださいます。 救い主が「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)の意味はその方と共に歩むためにあなた自身を全て捧げることこそ、その方の内に完全に居る道ということです。 多くの人がここでキリストの中にとどまる人生の失敗を経験していることを発見するでしょう。人々がキリストに従うということについて知らずで、それで追求してみようともしなかったからです。使徒ヨハネは、ここで私たちにこの二つの真理の生命的な関係と相互依存的な関係を見るようにしてくださいました。 ヨハネによる福音書で教えている最初の教訓は次のとおりです。キリストの中にとどまることを切実に望む者なら、必ず主が行なわれたそのまま本人も行わなければならないということです。ブドウの枝は、彼が属するまさにそのブドウの実を結ぶことが当然のことであることを私たち全員は知っています。ぶどうの木とその枝の命は完全に一つです。 したがって、その命が現れることもまた一致しなければなりません。主イエス様が御自分の血で私たちを拘束されて、その方の義で私たちを天の父にささげた時は、古い性格をそのままにしておき、それなりに私たちの最善を尽くして神様に仕えるように放っておいたのではありません。 決して、そうではありません!その方の中には永遠の命があり、これは天の聖なる命であるということです。そして彼の中にとどまる者は、誰もが彼の聖なる、天に属する力の中にあるのと同じ永遠の命を得ることです。 ですから,イエスの中にとどまる者は,エホバから命を絶えずに得るようになり,「主の歩むように自分も歩む」と言われた言葉はまったく奇妙なことではありません。 しかし、神様の力ある生命力は、魂の中でよく分からず、または思わず私たちにキリストのように行うことを強要しません。 これとは対照的に、主のように行われる人生は、明らかに自由な選択の結果であり、強烈な希望によって得られるものであり、鮮やかな意志を見て許してくださるという事実です。 この観点から見ると、天におられる父がイエスのこの地での生活を通して見せたいと思ったことがあれば、それは天国の生活が私たちの人間の生活の条件と環境の中に臨むとき、どのような姿になるのかをお見せてくださったことです。 これと同じ目的を持って、イエスは私たちにこの地上での御自分の人生がどのようになったのかを教えてくださいました。ですから、私たちが彼から新しい命を得て、また私たちに彼の中にとどまるように呼ばれたのは、私たちが命を得て、より豊かになるようにするためです。 主は言われておられます。新しい命を私たちに与えてくださったのです。「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、」(ヨハネ15:10)。この御言葉を通して先生である主は、この地での人生は一言でこのような人生だと要約してくださりながら、またこれを私たちのすべての行為における規範と指針とするようにとても簡単に教えてくださいます。 私たちが主の中に止まっていると言いながら主が行ったのとは異なって行うことはできません。「キリストのように」という言葉は、短いながらもすべてが暗示されており、クリスチャンの人生の祝福された法則なのです。 クリスチャンはイエス様がこの地でそうなさったように考え、話し、行なわなければなりません。イエス様がそうされたように、今私たちはそうしなければなりません。<アンドリュー・マレー(Andrew Murray)><ルッサン教会提供> [福音祈りの新聞] <著作権者ⓒ私の手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

世界への神様の唯一の贈り物、福音

キリストの中で完全な教会(3) 私たちは罪の中で生きていて、毎日罪に引きずり回される。 そして結局、罪の奴隷で地獄の審判に向かわざるを得ない存在的罪人だ。 私たちがどうやって主が呼んだ聖なる神の息子の形を着てキリストの中に充満した生命を持つ聖なる神の教会になれるのか! 出発自体が基盤もイエス·キリストであり、目標である使命も神様の水準であるため、人間のいかなる努力や方法でもなれないと聖書は言う。 ”武力によらず、權力によらず、ただわが 霊によってと万軍の主は言われる”(ゼカリヤ4:6) 最も不可能なことがあるとしたら、それは自分の人生を自分勝手にはできないということだ。ルカ福音書18章に出てくる金持ちの官員は幼い頃から律法を破ったことがなく最善を尽くして暮らした。あれほど永遠の命を追求し、苦労して生きてきて、イエス様の前に出てきた時、永遠の命を得る道を教えてくださった。難しい要求でもない。二つの中から一つを選べばいい。お金か?永遠の命か? 永遠の命とは何か。神様の永遠の命の中で神様の永遠の祝福と生命を享受することだ。そんな永遠の命がお金と比較対象なのか!それでも目に見える誘惑に勝てず、永遠の命を目の前にしても捕まえられないまま、私たちの心がお金に対する愛着と情欲に引かれる。 宗教的な努力と最善を尽くしたとしても、自分の心を変わる決断ができなければ、38度休戦線を越えるより難しいのが自分の心の境界を越えることだ。福音をあんなに聞きながらも決断できなくて一生だらだらとぶら下がって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いか! 厳重に警戒を守って立っている休戦線よりさらに堅固に越えられないのがあれば、まさに自分の心だ。私たちは心で神様を離れ、敵になった。そんな私たちを振り返って神に向かわせること、それがまさに十字架福音だ。人間の救いと変化は絶対に人から生まれることはできない。これは神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能なのだ。 神様の召しを忘れてしまえば、教会は現実に追われて召された席を離れ妥協し変質するしかない。そのために、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。教会は人によって行われるものではない。神様の神的な能力なしには完全に福音どおり救われ、地獄の人間が天国の人に変わる真の変化は一人にも起こり得ない。人間のいかなる努力や方法や制度になることはできない。神だけができることだ。 神様が私たちを本当にこの世を変化させる教会であり聖徒に変化させる福音の能力。この能力が我々に臨まなければならない。その時初めて教会は真の神様に召された場所に立つことができ、この世を変えることができる。そして世の中は彼らを変えられる能力を教会を通じて得ることになる。生きている神様がこの世に向かってくださった唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師、 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

福音の前に立つ時が来た。

福音に対する二つの反応(7) 闇が勢力を拡大し、からしの種のような光を覆い隠そうとしても、闇は絶対に光を覆うことはできない。もちろん人間の弱さやミス、罪悪は必ず整理されるようになっている。しかし、主の福音が冒涜を受けることが続けば、私は生きている限り、すべての機会を持ってこの蛮行を全世界に知らせるだろう。 500年前の宗教改革当時、聖書を持ってれば燃やして殺した。すべての信者は魂の抜けた人として扱われた。しかし、マーティン·ルーサーが宗教改革の炎を起こした時に無知で何も知らないようだった平民が爆発的に起きた。それが宗教改革となり、その実を今我々が享受している。私たちは霊的な存在なので何が正しくて何が間違っているかは知っている。今はだまされないで違うことは違うと言って福音の前に立たなければならない時が来た。このままではいけない。福音を栄えなければならない。 主は生きて居られる。神様に立ち向かって真理に反する者は決して安全ではない。良心に逆らったり、神の聖なる真理の前に正しくない態度は決して安全でも正しくもない。マーティン·ルーサーのように、私たちは主の前で叫ばなければならない。「主よ、私がここにいます。私を助けてください。私は他のところに立つことはできません。」生きて居られる神様の国がからしの種のように小さく見えて麹のようでもその国は誰も耐えられない生きている神様の威力を表すだろう。神の統治が臨む私たちの中にある天国は、聖なる国であり、誰も汚すことはできない。十字架復活、福音の能力が私たちを聖なるものに導き、勝利させ、真理で結論を出させ、「イエスならそれでいい!」を叫ばせる。この世が待ちわびている福音はただイエス! キリストの血のついた福音だ。この福音が歴史を変え、列強のすべての魂を救うだろう。ハレルヤ!我が主は生きて居られる! 私たちの教会は腐っていない!神の教会は神聖だ! 福音は光栄だ! 普遍妥当な世の中の権力や教権、流行、時流によって恐れられたまま押し流されるか、それとも一日だけを生きるとしても神様の聖なる真理の前に立つか。「主よ、福音で詐欺を働いたり偽善者にならず、福音を生命で証言する者にしてください。 私と一緒にいてください。私は真理以外のものを選ぶことはできません。」自分は果たして真理の側に立っているのか。自分はキリストの側に立っているのか。自分の利益に従わずにいつも主の国の側に立つだろうか。「御霊よ、私たちを照らして下さり、私たちが悔い改めて神様の福音に駆けて進ませてください。」(2018年6月)<終わり>【福音祈祷新聞】 キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載してご使用ください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]神様が私に天国になる時

”神様は天国に行く唯一の道では終わらない。天国が天国なのは神様がそこにいらっしゃるからだ。” 福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。 人々はしばしば人生の重要な瞬間を「神様が私の世界をひっくり返した日」と描写する。思いがけない経験と対話、または試練が自分自身と人生、人間関係、周辺世界を見る方式を根本的に変える。私の場合には大学2年生の時、神様が私が考えていた天国をひっくり返した。 私はキリスト教の家庭に生まれ、愛が溢れるキリスト教徒の両親に育った。その事件が起こった時にも大学生だった私は明らかなキリスト教徒だった。ほとんど毎日聖書を読み、祈りを抜けなかった。正統教会に熱心に出席して周りには成熟して主に似ようとするキリスト人の友人たちであふれた。甚だしくは私は高校生に福音を伝えて彼らをきりすとの弟子にする使役にまで関与していた。その頃、ある瞬間、ある事件が起きた。それを一つの文章で言えば、突然福音が全く新しい意味で、全く新しい色彩で、そして新しい強烈さと喜びで私を巻きつけた。 私を福音の中にさらに深く導くためには、神様が先に私に会わなければならなかった。その出会いは実に甘い対面であり、最も満足できる訓戒だった。私が会った文章は私を座っていたその場で身動きが取れなくしてその後も決して私を去らなかった。 キリストは神を見て吟味するより、他のことをより尊く思う罪人を許すために死ななかった。キリストがいない天国でも、いくらでも幸せになれる人は天国に入ることができないだろう。福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。(ジョン·パイパー、神様が福音だ、47)。 今の時代に向けた質問 福音は人々を神様に導く道だ。福音は私を神様に導く道だ。それは荒廃と恍惚感を同時に与える珍しい悟りだ。なんで荒廃してるのかって?福音に会う前まで私たちがどれほど間違っていたかを悟らせるためだ。恍惚感は?一度も足を踏み入れたことのない土地、一度も航海したことのない海に出会うようで、想像もできなかった素晴らしい食べ物を食べる喜びを与えるからだ。 神様は天国に行く唯一の道で終わらない。天国が天国であるのは神様がそこにいらっしゃるからだ。神様は立派な食事だ。荒々しく驚異的な海だ。畑に隠した宝であり、貴重な真珠である(マタイ13:44-46)。 ジョン·パイパーは全く忘れられない驚くべき質問で、神様自身がどれほど卓越したプレゼントなのかを強調する。 私たちの世代だけでなく、すべての世代を問わず重要な質問はこれだ。あなたが天国に行ったとしよう。病気もなく、望むすべての友人がそばにいて、毎日好きな食べ物を食べて、各種余暇活動にまた毎日目の前で繰り広げられる自然の美しさ、味わうことができるすべての肉体的快楽に人間関係の葛藤や自然災害のない天国、そこで今あなたが生きているとしよう。ところでただ一つ、キリストがそこにいなければ、それでもそこがあなたにとって天国なのか?依然としてあなたは満足できるだろうか?(ジョン·パイパー、神様は福音だ、15) あなたはどうか。 私はどうなのか?これは私にとって天国自体を揺るがした質問だった。私はキリストがいない天国でも満足できるだろうか。そうでなければ、永遠に渇望するほど天国を本当に価値のある対象にするのがキリストなら、私は今なぜこの地でその方をもっと知り、より多く享受するためにもっと努力しないのか。 誰が天国なのか。 「福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。」神様は何とおっしゃるのか。その方が御自分について、そして福音と天国について本当にそうおっしゃるのか。 使徒パウロは神様が福音の中で最も大きなプレゼントであることを知った。”しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。”(フィリピの信徒への手紙3:7-9)。 世界のすべてを凌駕する真の宝物は、その方を知ること、その方を得ること、そしてその方を持つことだ。 キリストはなぜ十字架で死んだのか。使徒ベドロは言う。 ”キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。”(ペトロの手紙一3:18)。その方は私たちがただ許され地獄の苦痛から解放されるためだけでなく、私たちが神を持つように苦難を受けて血を流しながら死んだ。 罪がもたらす最悪の結果は硫黄の火ではなく分離である(テサロニケ一1:9)。様々な理由で地獄は苦しくて惨めだろう。呪われた者たちも依然として神の臨在を経験するだろうが(黙示録14:10)、それは恩恵と喜びではなく恐ろしい怒りだ。彼らは決して神を享受することができないだろう。 しかし拘束された者たちは”私は神の祭壇へと、わが喜びなる神へと近づき、琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。”(詩編43:4)と歌う。 ”命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが、右の手には麗しさが永遠にありますように。”(詩篇16:11)。 喜びと楽しさがただその方のそばまたは周囲にだけあるのではない。何よりもその方の中に喜びがある。その方は喜びそのものだ。楽しみそのものだ。その方の居られる所が楽園だ。私たちが愛して渇望する他のすべてが消えても、その方さえいらっしゃれば、そこは楽園だ。 キリストの中で私たちは今も部分的にその方の臨在を経験する。そうだ。私たちの中に残ってある罪とその結果がその方の臨在を妨害するけど神様が私たちの喜びになる時、私たちは今も真の喜びを味わうことができる。私たちは日常で今も快楽、永遠の快楽を味わう。そのために、詩編42編のような祈りを捧げることができる。”鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。”(詩42:1-2)。 救いや許し、治癒や供給、安心や和解のためではなく、ひたすら神様を渇望する。神様がくださる善良で完全な贈り物を渇望するわけでもない。 そのすべての贈り物より遥かに優れた贈り物、まさに神様、その方を渇望する。 新しい空と新しい地で天国 天国を待って熱望する時、私たちの中の多くの人がヨハネの黙示録21:4のような約束にしがみつく。”彼らの目からすべての涙を拭いてくれるので、二度と死がなく、悲しみも泣き叫ぶことも苦痛もないだろう。以前のものが全て消えてしまったためだ。”これ以上の涙も、これ以上の死も、これ以上の悲しみと泣き叫び、苦痛もない。私たちはこのようなすべての苦痛が消えた世の中が与える甘さ、だから影が全くない世の中を想像することができない。 しかし、天国はただ悪いことがないところと定義されない。天国はすべてを満足させるあり(presence)と定義されるだろう。神様が私たちのために天国になる時、3節は4節が含んでいる貴重な約束さえも隠してしまう。 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。 … そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、(黙示録21:1,3) 罪と悲しみ、死のない世の中よりもっと良いものは何だろうか。神様と共にする世の中だ。そうだ。その方は私たちの涙を拭いてくれるだろう。そうだ。その方は私たちの傷を癒して病気を治療してくれるだろう。そうだ。その方はついにその恐ろしい敵、死をなくすだろう。そのすべての祝福が無限に大きいけど、神様を所有して神様の所有になることに比べれば、そのすべての祝福は海のそばの水たまりに過ぎないだろう。私たちが流すすべての涙を拭いてくれる神様が私たちの神様だ。すべての癌を治す神様が自分自身を私たちに、つまらない私たちにくださるだろう。墓を空けて死を転覆させることができる神様が私たちのそばで永遠に私たちを守るだろう。 神様が私のためにできるすべてのことに目がくらみ、神様その方自体が私にどんな意味なのかを忘れるミスをしないようにしよう。水たまりで遊ぶのに夢中になって広大な海を逃す愚かな人になってはならない。神様を中心に置かないいかなる天国にも満足してはならない。 [福音祈祷新聞] |マーシャル·シーガル(MarshallSegal)||マーシャル·シーガルは作家であり、desiringGod.orgの責任編集者だ。 Bethlehem College & Seminaryを卒業し、韓国語で訳された「まだ結婚していないあなたへ」の著者である。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年に米国で設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

地球の地殻プレート、’大いなる深淵の源がことごとく裂けた’洪水の時に登場。

水のカーテンは地球の上にあっただけでなく、地表の中にもあった。 詩篇24編と詩篇136編は”世界とそこに 住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。”と話す。 今海にあるほとんどの水は地表の中にあった水だった。 創造当時、約10~20インチ(約25~50センチ)程度の水が大気圏の上にあったはずだ。それは恐らく氷だったかもしれない。そしてその下に息づく空気が約10~20マイル(約16~32km)ほどあっただろう。土と岩が今も存在するこの地表面の上にあった。そして地表の中にも水があった。まさに”大いなる深淵の源がことごとく裂け”という時、地表から湧き出た水だろう(創世記7:11)。 今も地表の中には多くの水がある。そうでなければ、熱い水流が海洋底から噴出することはできない。海の下から熱い水流はどこから湧き出るべきか?それよりもっと下から出なければならない。海の下に巨大な熱水噴出口があって熱い水の一部が今も出てくるのだ。 洪水の時に開かれて割れた隙間が依然として地球に残っているだろう。それは地球を構成しているいくつかの地殻プレートを見れば分かる。そのような地殻プレートであるサンアンドレアス断層、ヘイ川断層、ニューマドリード断層、黄金断層などに行ってみれば、地殻表面に隙間があることには疑問を提起できない。地震は断層が動くときに発生する。 このように土地が分かれていることにも疑問がなく、地殻プレートが依然として動いていることにも疑問がない。問題はこのすべてのことがいつできたのかということだ。 進化論者たちはこれが数百万年間作られたというが、創造論者たちはこのすべての災いが’大いなる深淵の源がことごとく裂けた’洪水の時に始まったと考えている。洪水がこの全ての断層の根源だということだ。また、洪水の時に地表に湧き出た地中の水は今日も存在している。 洪水の前には気圧を高める氷壁があった。 最近’おそらく酸素不足が恐竜を殺しただろう。’という新しい理論が出てきた。なぜ酸素不足という言葉が出たのだろうか。1993年に開かれたシンポジウムで多くの科学者がアパトサウルスについて研究した。その時、ある人がこう言った。“皆さん、問題があります。 80フィート(約24メートル)のアパトサウルスは、馬ほどの大きさの鼻の穴を持っていました。” どうやって80フィートの動物が馬ほどの大きさの鼻の穴から十分な空気を吸うことができたのだろうか?アパトサウルスが十分な息をするには強く吸い込まなければならないから風の摩擦によって鼻の穴から火が出ただろう。結論的に彼らは息をすることができない。しかし、その恐竜たちは息を吸って生存した。恐竜の骨が全世界的に発見されたからだ。甚だしくは南極とアラスカでも発見されるほどにこの恐竜はすべての場所に住んでいた。 では、どうやって80フィートの動物が十分な空気を吸うことができたのだろうか?今はおそらく不可能だろう。しかし、洪水前には気圧を高める水や氷のカーテンがあり、それによってさらに濃い酸素があっただろう。 その証拠として石化された木のエキスであるカボチャの中から空気の鈴が発見されたりもする。空気のしずくを分析した人たちは、その中に今より50%多くの酸素があることを発見した。現在、私たちが飲む酸素は21%の濃度だが、カボチャの中の空気滴には32%の酸素が入っていた。 もし気圧が2倍で酸素が50%多いところに住んでいるなら、息をすること自体が楽しいことだろう。気圧を2倍高めて酸素を増やせばヘモグロビンが酸素を受け入れるだけでなく、血漿も酸素で充満することになる。この話は疲れずに数百マイルも走れるという意味である。アダムとハワは車が必要でなかった。彼らは望むところまで走って行くことができたはずだ。 しかし、子どもたちは教科書でこのように学ぶ。 “生命体が進化していた最初は酸素がなかったが、それは還元性大気と呼ばれる。” 申し訳ないがそれは完全に嘘だ。酸素がないところで生命体は進化どころか、存在することさえできない。 <続く>[福音祈祷新聞] 創造物語(21) 本紙は創造論の専門家である米国ケント·ホビンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者>ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

君は私の栄光そのものだよ。

"神様、私が成功したら、人々に神様が能力を与えてくださったと言います。"しかし、神様は私たちの本当の心を知っておられる。'自分'の栄光のために神様をボーナスカードと思っているということを。しかし復活の主はそんな私たちの手を握って永遠な道を見せてくださる。"君が成功してこそ私が栄光になるわけではない。君は私のの栄光そのものだよ。" "彼らは皆,わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり,完成した者。"(イザヤ書43:7)[福音祈祷新聞] 絵 イスジン <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

イエスの目には何が込められてたのだろうか?

バケツから水を浴びようと、 子どもたちが我も我もと手を伸ばす。指の間から流れ落ちる水が汚れを洗い流し、気持ちよく体と心を濡らす。微笑んで水を注いでいる少女の目には今何が込められているのだろうか。 神様は罪で汚れた人生をきれいにするために一人子であるイエスを十字架につけられた。罪のないイエスが十字架で死んで復活したことで、我々は新しい生命を得た。 イエス·キリストが流した血ですべての罪人は貞潔になった。罪人が貞潔になる瞬間、イエス·キリストの目には何が込められていたのだろうか。破壊される罪の押さえつけと爆発してしまうサタンの嘲笑と打ち砕かれる罪のくびきと…。. 称えよう!イエスが私たちを救って情潔にさせた。私たちを愛する神様を心を尽くして敬拝しよう! "この日にあなたたちを淸めるために贖いの儀式が行われ,あなたたちのすべての罪責が主の御前に淸められるからである。"(レビ記16:30) [福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

より大罪人に託した恵みの務め

より大きな罪、より大きな恩(7) “わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない. ”(へブル人への手紙10:38) 私たちは後に退いて滅亡するような者ではありません。ただ魂を救うことに至る信仰を持った者だとおっしゃる。背水の陣を敷くという意味である。後に退く余地を考えてはならない。帰る道はない。福音の真理を信じる信仰以外は滅亡しかない。 このような強い心で帰り道を断ち切った人、帰り道のない人、その人はもう迷ったり悩んだりしない。なぜなら、一つの道しかないからだ。数多い挑戦の中で、より大きな罪人に臨んだより大きな恵みを私たちに与え、決してためらわないようにする。 私たちは必ず神の前でその栄光を手にするだろう。 驚くべきことに、パウロは言う。“わたしを 强くしてくださった、わたしたちの主キリスト · イエスに感謝しています。この 方が,わたしを 忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。”(テモテへの第一の手紙1:12) これは罪人の中の怪獣だった私にその恩恵がどれほど大きいかを知ってもらうためである。パウロは誹謗者であり暴行者であり、殺人者だった自分を神様が忠誠心をもって受ける資格がない自分に恩としてこの職分を任せてくれたと告白する。一番大きいの罪人であることを知る者に、表現できない恵みの福音の使命を託す。 イザヤ書6章には、ウジヤ 王が 死んだ 年、絶望の中で聖殿の前でうつぶせになったイザヤに、天の栄光の玉座を見せてくれる場面がある。 神様の偉大の前に立つイザヤは”災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも,わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。”と嘆く。その時、神が天使を送り、燃えている炭を持ってきて彼の唇に当てて宣言する。“見よ、これがあなたの 唇に觸れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。”大きい恩みを受けた彼に神様がおっしゃる。”誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。” (イザヤ6:8) ‘この世をこのように愛し、一人っ子を与えてくれて想像もできないこの大きな恩みの十字架の福音を誰が知って、この言葉を持って希望のない者たちに行くのか’と主が尋ねる。絶望した彼を神の恵みで清潔にする。彼は言う。’わたしがここにおります。わたしを遣わしてください’ 福音の前に立って希望のない私を救ったこの大きな恩みの前に立つ者は、主の栄光の呼びかけに答える。 “しかし,わたしが憐れみを受けたのは,キリスト · イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり,わたしがこの方を信じて永遠の 命を得ようとしている人々の手本となるためでした。”(テモテへの第一の手紙1:16) 誰がもっと大きな罪人ですか? 誰が何の望みのないあきれた罪人ですか? この感激に捕らわれた罪人の中の怪獣、福音のために一生を捧げたパウロが監獄で叫ぶ。私は罪人の中の怪獣だ。真実である。すべての人が受けるに値するこの言葉よ。キリストキリストが罪人を救うためにこの世に来てくださった。これは一人の告白ではない。すべての人類の告白でなければならない。恩みの福音だけが生きて居られる主のもとへ帰れる唯一の道だ。あきれるほどの危機と悲惨な罪の中で我々を呼んだこの福音を宣言し、忍耐と信仰をもって進もう。 (2018年5月)<終わり> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

霊魂の中に植えておいた神様の形象を探す。

“あのね!一緒に遊ぼう。ここに座ってみて。私の横にくっついて。足を伸ばしてみて。足を合わせてみよう。”砂場に座って狭い肩を重ね、手も合わせて、くっ付いて座ったもので遊ぶ準備は終わり。友達の足を順番で触れながら歌を歌い、歌が終わる時にかかった友達が鬼になる。お互い似ているが、それぞれ違う形の足の指を見て笑ったりもする。友達の暖かい体温を通じて、うれしく楽しい気持ちを共有しながら幸せな1日を過ごす。 子供たちは見ただろうか。私のものと友達のものを比較しながら笑ったその足の指と、友達の体温と、明るい笑いの中にあった神様の形相を。魂の中で発見できる神様の形象がどれほど美しくて甘いものであるかを、ぜひ発見してほしい。 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27)[福音祈祷新聞] <著作権 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

アニメ’選ばれた証人’… 復活の最初の証人 マリアの視線から見たイエス

イエス映画プロジェクト製作、250の言語に翻訳計画 マグダラのマリアの目でイエスを見る短編アニメ『選ばれた証人(Chosen Witness)』がオンラインプラットフォームで人気を集めて公開してから3週間で全世界で2万人が視聴したとクリスチャンジャーナルが最近報道した。 選ばれた証人は、イエスの話を9分25秒に要約した短編アニメーションで、38カ国語で制作されて今後250国語に翻訳される予定だとジーザス·フィルム·プロジェクトが明らかにした。 常任プロデューサーのエリザベス·シェンケルは、このアニメを通じてイエスを見る3つの方法を紹介した。 まず、マリア·マグダレーナの目でイエスを見ることになるだろう。 彼女はキリストに従っただけでなく,復活の最初の証人だった。マリアはイエスに会って初めて人生の変化を経験した後、常にイエスのそばに留まった。彼女はキリストの受難の時にもイエスのそばにいた。 第二、実際にこのアニメーションはイエスの物語である。 イエスの全生涯を要約した。9分間イエスの生涯と死と復活を見ることになるだろう。もしイエスの話をしっかり見たければ、『イエス』と『マグダレナ』の映画を見ればいい。 第三、神様がキリスト復活の最初の証人としてマリアを選んだ時に戻ってい見ることが重要だ。当時マリアのような女性は社会から疎外されていた。女性は法廷で証人として認められなかった。それにもかかわらず、神様は歴史上最も重要な事件の最初の証人としてマリアを立てた。 エリザベス·シェンケルは”神様が女性の地位を高め、男性と同等の価値を持った存在にしたのだ。当時としては革命的な見方だった”と、”イエスは疎外された人を通りすぎずに彼らと共にしながら’彼らが私がここにいる理由’とおっしゃった”と説明した。 「イエス·フィルム(Jesus Film)」は1979年、映画<イエス>を製作してアメリカ250個の映画館で上映、1985年には「イエス映画プロジェクト」宣教会が創立された。 2009年現在、‘イエス映画プロジェクト’は1071ヶ国語で<イエス>映画を翻訳、423ヶ国語でオーディオイエスの話を、135ヶ国語で子供のためのイエス物語を制作した。また、映画『マグダレナ』を48ヶ国語に翻訳した。 現在、イエス映画プロジェクト宣教会は30本の短編映画を製作している。この宣教会はこれまで1500あまりの宣教会と同役し、5億人が映画を通じてイエスに従うことに決断する姿を目撃した。 クリスチャン·パースペクティブ イエス様がみずからおっしゃったことだ。“罪人を呼びに来た”(マ9:13) なぜなら、イエス様は罪人に永遠の命を与えに来たからだ。神様にかたどってで創造された人間が神から離れて罪を犯して聖なる神様と共にすることができなくなると、愛の神様は息子であるイエス·キリストをこの地に送り、十字架を通じて人類を罪から救った。それだけでなく、神様と永遠に共にする生命として回復された。この福音を聞いてイエス様の十字架の死と復活に信仰で参詣した人々だけが証人の人生を生きることになる。その最初の証人としてマリアがいたとすれば、今日まで数多くの証人がイエス·キリストの福音を信じて永遠の命に向かって進んできた。 この短いアニメーションを通じて福音が聞こえ、多くの人々がイエス·キリストを信じて証人に立てられるよう祈ろう。 [福音祈祷新聞]

世間と区別された聖なる

バーネット·ニューマンの「ハナイム(Onement) ユダヤ系米国人画家バーネット·ニューマンが1948年作<ハナイム(Onement)>を初めて発表した時、多くの学者がニューマンの描いた「帯」がどういう意味か熱い論争を繰り広げた。 筆跡もほとんどない平らな背景に明るい色の線が一つ引かれただけだった。攻撃的で激情的な作品を描いた抽象表現主義者たちはこれまで自分たちと付き合っていたニューマンがこのように単純な画面を描くや、つい裏切られたと感じた。しかしその後もニューマンは「帯」を描き続けた。そして創造、始まり、約束、アダム、イブのような’創造’にかかわるタイトルのためにニューマンの帯は’光あれ’という神様の命令を描いた抽象画で知られるようになった。 ある人はニューマンの帯は二つに分かれるという意味だといい、ある人は神様と人間の間の約束(covenant)を意味するとも言った。ある人は彼の絵で神様の前に立つ人間を見た。題目は‘一つ’と関係があったが,多くの人がニューマンの絵で’分ける’と’区別’を感じた。 しかしニューマンの帯は事実‘聖なる’と関連がある。ユダヤ人は精潔食の律法に従ったが、ヘブライ語でこれを’カシャロット’と呼ぶ。 ‘カシャロット’は,‘カルドシュ’から由来された。ここで、カドシュやカシャロットはすべて‘区別’の意味と関連がある。ローマ書でパウロは“あなたがたはこの世に倣ってはなりません。”と言ったが、この神聖な区別もカドシュを意味する。 また、神様は私たちに“あなたがたは 聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである”と‘命令’された。すなわち、世の中からの区別は神様と一つになる聖を指す。世の中に住むが区別され、神様と一つになった聖徒の人生。背景の真ん中に描かれながらも、色は区分されたニューマンの<一つ>は、まさにこのような聖徒の人生を描いたのではないだろうか。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 『著作権者ⓒ福音祈祷新聞』本誌の記事は、国々を抱いて祈る方々に使えるよう許容しています。出典「福音祈祷新聞」を明らかにして使ってください。 ご活用の方は本紙にてお知らせください。 連絡先:gnpnews@gnmedia.org

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