聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(ローマの信徒への手紙4:3)
ああ、愚かな人よ!
虚しいことを信じて自己確信によって生きている人。疑わしい所にぶら下がって不安な人のように、真の信仰ではない信仰を、まるで勲章のように自慢に思って自らを慰める者、ファリサイ派の形式的と福音ではないもの(伝統、組織、行い)に命をかけている愚かな人々では決して悟ることも、従順することもできない神様の秘密が十字架の福音なのだ。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。(ヘブライ人への手紙11:6)
その信仰!聖書が言っていて、神様から認められたアブラハムの信仰、彼が信じた神様は?(ローマの信徒への手紙4:17) 死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神であるため、彼の信仰は求めない時にも求めて信じる信仰だった。
故郷と親戚と両親の家を離れて、安定的な生活と馴染んでいることを捨てて、予測可能な未来を諦めて、一度も行ったことのない道に向かって、いつ戻って来るかも分からない旅人になった。自分からは決して出ることも、期待することも出来ない神様のレベルの約束を信じて従順することは、求められない時にも求めて信じる信仰(自分の最善ではなく、神様に基づいたこと)ではないと、始まること事態が不可能なことだった。
その信仰で!
信仰で従順の歩みを歩む間、神様の約束は見えず、限界にぶつかり、自分の絶望に直面することが多かった。混ぜられない世の中、恐ろしさと不安、一人残されたような寂しさ、避けられない周辺の脅威、絶えない緊張、世の中で生きていながら、神様から召された者として生きることが人間の力ではとても不可能ことであることが次々と現れた。
決して自分ではできない、だからただ信仰によってのみ、つまり求められない時にも求めて信じる信仰がでなければならなかった。
そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。(ローマの信徒への手紙4:19)
もう一度福音の前に!Return To the Gospel!
完全なる神様の知恵と永遠の力の秘密である十字架の道。人の知恵では決して分からない、ただ聖霊の示しで分別できる神様の栄光の福音、永遠の裁きと呪われた存在的な罪人が、尊くて義とされた神様の前に罪の対価を払わず義と認められたこと、この素晴らしいことは血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(ヨハネによる福音書1:12-13)
ただ神様だけが自らおられる方である神様のレベルの神様ご自身である必要があった。神様の恵み(神様の一方的プレゼント)に属することだ。だから、福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙1:17)
その信仰!(ローマの信徒への手紙4:23-25)アブラハムが信じた神様が認めたその信仰が(求められない時にも求めて信じる、ただ恵みを信じる信仰だけで)、この素晴らしい福音に参加し、福音を味わい、福音によって生きる唯一な道だ。十字架の能力と知恵を100%信頼し、堅く握ること、その以下の信仰とはありえない。
主の前に清く正しく、恐れないで主の前に立てる信仰!(ルカによる福音書1:73-75) 決して罪に定められることはない命を味わいながら生きる信仰(ローマの信徒への手紙8:1) 苦難をも誇りとする信仰(ローマの信徒への手紙5:3) 神の栄光にあずかる希望を誇りにする信仰(ローマの信徒への手紙5:2) 主と同じ姿に造りかえられていき、栄光から栄光への信仰!(コリント人への第二の手紙3:18) 私の内に生きておられるイエス・キリストの豊かな命で生きる信仰!(ガラテヤ人への手紙2:20)
その信仰だけが
恵みの福音を見て生きるようにする。その信仰を回復しなければならない。私の最善は、信仰の反対側にある。決してそのような信仰ではない。もうこれ以上、死んだはずの昔の自我に郷愁に浸されて「、相変わらずその中から可能性を見つけようとする虚しいことは終わらせ、ただ首を立てることが出来ない恵みに注目しよう。
そしてその信仰で進み出よう!
その信仰で神様の平和を味わおう。その信仰で神様の栄光を望みながら楽しもう。私が信じている神様は?!死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神である。アーメン
金容義宣教師コラム<巡回宣教師代表>
「その日が来るまで」から転載