信仰は希望事項ではなく神様の約束を信じる事

Date

2019年10月8日

‘肯定の力’という本で有名になったレイクウッド教会のジョエルオスティン(Joel Osteen) 牧師が最近新刊を出した。タイトルは‘自分自身の力:今日あなたたちの人生を変化させる二つの単語(The Power of I Am: Two Words That Will Change Your Life Today)’という本である。この本で彼は言葉の力、励まし、内的·外的対話において自ら否定的なことは話さないことにポーカスを置いてある。

彼が本で主張しているのはこれだ。“私は魅力的でもなく、人より賢くなくて、のろい。しところが、この三つの否定的な言葉に30~40個の肯定的な言葉を付けることが出来る。私は健康で訓練されて焦点を合わせている。

皆さんがこのような肯定的な言葉をじっと黙想したらこのような長所が皆さんに引かれてくる。こうなるために休まず種を蒔く作業をするべきだ。”しかし、彼のこのような言葉が真理に基づいた主張かどうかを質問をしてみる。

人の心を掘り返しながら生理学の基礎を築いた朱子が文人たちと学問を論じた内容を整理した朱子語類という本には精神一到何事不成という言葉が登場する。‘精神を一点に集中したら出来ないことがない’という意味だ。

どんなことがあっても自分が主体になって考えてから心を構えれば結果はついてくるという。しかし、自分の心と考えと言葉がそれほど信じてもよいものだろうか、ひたすら自分の考えと心を肯定的な方向に転換して、それに集中したらすべてが叶えるだろうか?

佛教のある坊主はこんなことを言った。“天を信じても、木を信じても、石ころを信じても信仰を持つ持たないと問い詰めるのは愚かなことです。信仰の内容は真偽をただすことができないし、ただす必要もありません。肝心なことは信仰は信じる人の人生を変化させる力があるという事実です。”この坊主の話は結局方向の無い信仰もその信仰自体がもたらす結果が必ずあるから意味があるとの話だ。

ところで聖書は信仰という概念を漠然と願う‘希望事項’だと表現しない。聖書的な信仰は揺れて崩れるものをその基としない。信仰は永遠に変わらなくて確かな実態を信じることであり、必ず叶える神様の約束を信じることである。だから信仰は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いくことであり(ローマの信徒への手紙4:18)、世に勝つ勝利になるしかない(ヨハネの手紙一5:4)
‘すべてが心構えによる’などとの話に反って聖書は人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる(エレミヤ書17:9)と宣告している。病んでいる人の心を基準にしてそれを信じて希望にするより愚かなことはないという話であるのだ。

前に述べたジョエルオスティンの主張が生理学と佛教の坊主の意見とさほど変わらなく見える。もうすでに肯定的に武装した自分に対する確信が聖書のどんな御言葉を根拠としているが疑問になるばかりだ。

神様ではなく‘自分の力’を頼りにする世の教えはうまく包装されて今も福音の前に立っている聖徒の信仰を壊そうとしている。しかし、本当の弟子は自分自身の心を信じないところか、むしろ自分自身を捨てて王の王であるキリストに従順して、その方だけに従う。

自分自身に対する完全な絶望は絶対の御恵みをもたらす。福音はより良い人としての改善を目標としない。イエスキリストと私が十字架で死んで、復活されたイエスキリストの生命になったことを信じる。これが永遠な福音である。[GNPNEWS]

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