アポルルイミ(ἀπόλλυμι), 弟子道のクライマックス

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ルカによる福音書9章23節は24節と繋がっていて、24節は弟子道の最高の絶頂を成す。“わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。”ピリオドを打って新しい文書が始まるのではない。

引続き“わたしに従いなさい。”最後に肝心なのが“自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。”と繋ぐべきである。

ヘブライ語言語遊戯を通じて“自分を捨てる―十字架を背負うー主に従う―自分の命をうしなう”この四つを合わせて救いに至るというイエス様の話になる。これはヘブライ語の最初のアルファベットである“アルファ”(α)で始まる3つの単語が結合されて出来たので本当に不思議で驚くことだ。

“ἀρνέομαι”(アルネオマイ=自分を捨てる)“αἴρω σταυρός”(アイロ スタウロス=十字架を背負う)“ἀκολουθέω”(アコロルテオ=従順して最後まで神様に従う)、弟子道の頂点である“ἀπόλλυμι”(アポルルイミ=自分の命を失う)に到ることになる。

弟子道の頂点は自分をこの世で徹底的に捨てて、破壊して、自分に対しては何も残さない事を意味する。

この世で‘自分’という病んだエゴを空中分解してしまうのだ。このように四つの単語を合わせたら(シグマ、Σ=合算)、“Σῴζω”(ソゾ=救う!)そしたら救われるというのである。これが聖書で語る福音だ。このような福音が講壇で大胆で当然に宣布しなければならない。

その時に初めて神様の御前で私達の魂がおののくのだ。(エペソ6:19~20)“わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人わたしの言葉におののく人。”(イザヤ66:2)

私達は神様の御言葉を徹底的に隔てるエゴを徹底的に憎まなければならない。福音は一番いやらしい自分のエゴに対する徹底的な憎みを要求する。

この自分憎みは神様の国に入る時まで続けていくべきの事だ。事実、自分を捨てる(ἀρνέομαι)というヘブライ語の意味は‘交際を拒む’である。

本当のキリストの弟子になって罪を赦されて永遠の命を得て神様の国に入りたいなら、もうこれ以上自分自身と交際しながら一緒に遊ぶことを“いや!”と拒否しなければならない。病んだエゴと交際してそれに組み付いて得られるのはないもない。

自分の罪なエゴについては身震いをしてこれ以上どんな関係ももたないのだ。決断せよ!そして、常に神様に御言葉に耳を向けて無条件に御言葉に従順せよ!そしてどうなるにしても御言葉の前にうつ伏すのだ。

自分を捨てる事には自分自身だけではなく家族も含まれている。そこで主はルカの福音書9章23~24節の御言葉が抽象的にならないように具体的に話された。“自分の家族の者が敵となる。。。自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るである。”(マタイ10:36~39)
[GNPNEWS]
キムミョンホ教授(福音祈祷神学研究所)

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