必ず享受すべき恵みの福音(1)
夏の海岸で海水浴を楽しむ人の中には、荒い波に身を任せて深い海の中で水泳を楽しむ人より水着を着て海とは関係なく砂浜を歩き回ってから帰る人が意外と多いことを解る。海岸に来ても海を充分に楽しまないことより気の毒なのは、信仰生活をしながらも海のような主の御恵みの中に完全に自分を委ねないまま生きる人がいるってことだ。
‘イスラエル民が神様をどう思うのか’を一番よく見せてくれる指標は聖殿に対する彼らの態度である。神様を畏れない人に聖殿は目に見える建物にすぎない。そのような態度で奉げる礼拝は反って神様を不愉快にするだけだった。神様はバビロンを使って汚れた聖殿を破壊させられた。
しかし、目に見える聖殿の破壊はイスラエルのアイデンティティを正しく立てる切っ掛けになった。まずは、自分たちが神様の御恵みを受ける資格がないという事実を悟る切っ掛けになった。そして、驚くことは主は資格のない彼等を諦められなかったことだ。そんな神様をの御心をエスゲルの聖殿幻(エスゲル45~47章)で確証して下さった。回復された聖殿の祭壇で神様の臨んだ象徴である水が再び流れ始めた。そして、その水は足首から膝、腰を超えて自分を覆うほどに流れて溢れた。主に受けた御恵みが足首くらいに満たしても感謝するのに、さらにより深い所に進んで行って自分の全部を主に委ねなさいと言われた。
資格のない私に施された生命の御恵み
激しい惠の河と海は私の力で渡ったり、抵抗するところか、逆に私を引きずって行く。そして、その惠が当たるすべてが生き返る働きが現れる。自分の力では生き返る可能性がない死海も惠の水が覆ったら生命の場所に変わる奇跡が起きるのだ。
主の潜んでいる御心の中心が惠に見えたのが十字架の復活福音だ。その福音が当たるすべてが生き返る。あなたはこの栄光の福音に参加して福音を享受しているのか?そしたら、今まで味わった栄光に満足しないでより大きくて広い神様の栄光を慕いながら休まずに深い惠の海に進んで行っているのか?主の御恵みでないと生きて行けないというところまで進んでいるのか?主に全的に私を委ねたら私が今まで楽しんできた小さな楽しみがなくなるのが怖くてもじもじしているのではないか?‘私の主、神様の広くて深い惠は(讃美302)’の告白のように惠の海が私を覆って動かせるまで一千尺を測量して信仰の歩みを一歩進んで行くのだ。<続く>[福音祈祷新聞]
キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師。 LOGミッション代表)