“命をかけて愛すると決めて従順せよ”

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永遠な愛の福音(6)

主は 十字架の上で ‘成し遂げた’と叫ばれた。私たちの呪いを終わらせた勝利の宣言であった。すべての律法を完成されて、律法のくびきを打ち砕かれた。罪を決める律法がもうないのだ。十字架によって救われた者はもはや義とされて、聖別された。

主はこのように一方的に準備された素晴らしい福音に私たちを招待して下さった。招待された私たちに必要なのは‘ただ信仰’だけだ。神様の御子であるイエス様に起きたすべての事が‘私’に起きたことであり、イエスキリストの十字架での死を自分のエゴの‛終わり’として受け止める信仰である。その信仰を持っている人は復活されたイエスの生命で生きて行くことになる。

救われた人である確かな証拠は何だろう?教理をうまく吟唱すること?存在的には神様を絶対に愛する事ができない、生まれ変わらないままで痛んだエゴの生命で生きる人は、神様すら利用する対象にしてしまう。自己満足と有益の爲の神様、自分に必要な救援者だけを探し求めるだけだ。

御霊が私たちになさった御業は確かだ。聖霊で生まれ変わった人の人生には必ず生まれ変わったことによる変化が伴うことになるのだ。主を愛する事になる。“あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。”(ベテロ第一1:8~9)主を愛する人はケチを付けない。全然理解出来ない状況、涙も出ないほどで呆然とするしかない状況の中でもケチを付けない。むしろ、言葉にできないほどの苦痛の時にはもっと神様の愛を心に刻む。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く。(ローマ8:28)神様に召されたという証拠は神様を愛することだ。預言も知識も覚悟も決心も廃されるが神様を愛する者はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える(コリント人への手紙第一13:7)

救われた者の確かな証拠、主を愛する生活

意地が弱くて、極めて普通な私にも耐えきれないほどの苦難が沢山あった。悩みと葛藤の時間の中で怖くて震えたりもした。だが、小さい種から若い芽が出てきてから光を求めて伸びるように主がいなければ生きられなかった。主が私と共にいて下さるという確信がなかったら一瞬もいられなかった。主はブドウの木であって、私はブドウの木の枝である。私が主を選んだのではなくて、主が私を選んでくださった。私を造られた主が私を知る。主を愛さなくては決して満足はない。結論は主しかいない。

アダムの怖い呪いから人類を救われた神様が私たちに下さった一番大きい賜物は神様を愛する者にすることだ。イエス様を信じてからなにか大きくもらったのがないと思う?パウロはキリストだけを得るためにキリスト以外のすべてを塵あくだと見なした。どんな成功をしたいのか?何をもっとしたいのか?自分の為の虚しいことをいつまでする気か?

無能である私がどうやって兄弟を愛して、諸国を愛するだろうか?イエスの中にいなさい!命をかけて愛する事を決定せよ!サタンにこの愛を奪われるな!主が私たちを愛されたように愛する事を決めて従順したら主の能力で、聖霊の能力で強く勧めて下さるのだ。[福音祈祷新聞]

キムヨンイ宣教師(巡回宣教師、LOGミッション代表)

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